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第1章
11.公爵邸への帰還
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公爵邸へ到着したのは夕方だった。
先触れが出ていたので、館につくとお出迎えの面々がずらりと並んでいる。
ヘルマンがそれらの挨拶を受けているのを見てから馬車を降り、ユリアはあたりを見渡した。
すると脇の方で、フェルナンドに抱かれているルイスを見つける。
「ルイス!!」
嬉しくなって走り寄る。
ルイスも降ろされて走り寄ってきた。抱き合って、久しぶりのルイスの柔らかい感触に心から安心する。
「リア、おかえり!!」
「ルイス、ただいま。お留守番できて偉かったね!」
ぎゅう、と首にしがみつくように抱きつかれ、そのまま抱え上げた。離れる様子はないのでこのまま抱っこかな。
ルイスは泣くわけでもなくただぎゅっと抱きついて、時折すりすりと首筋に顔をこすりつけてきた。
「熱烈だねえ」
フェルナンドが言うのへ、ユリアは向き直って頭を下げた。
「お世話になりました。ありがとうございます。ただいま戻りました」
「うん。無事で何よりだよ。疲れてない?」
「大丈夫です」
フェルナンドの顔を見ると帰ってきたという気がして、ほっとした。
「いい子だったよ、ルイス君。誘ってみたら来てくれたから、伯爵家の方に二泊ほどしてもらったんだけど。もううちのアイドル。妻も養子に欲しいって言ってたくらいだよ」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしませんでしたか?」
「全然だよ。好き嫌いもしないし。大人しく遊んでたよ。夜は一緒に寝たんだけど、この柔らかくて温かい子供の感触、癖になるよ。――ルイ君、また遊びにおいでね」
「――うん」
頬をつつかれて、ルイスはしがみついたまま小さく答える。
「しばらくお休みしたらいいから、ルイ君と一緒にいてあげてね」
「ありがとうございます」
「とにかく、疲れの残らないように、ゆっくり休みなさい。荷物はもう運んでるから。ほら、帰っていいよ」
ルイスが全く離れそうにないので、ユリアはお言葉に甘えて帰ることにした。
部屋についてもルイスが離れなかったので、ユリアはとりあえずそのままベッドに横になった。
帰ってくると疲労を感じていたし、何ならこのまま寝てしまおうかと思う。
「リア、ねるの?」
横になるといつもの定位置にずりずりと移動して、腕の中でルイスは体を寄せる。脇の下から頭を出し、二の腕に頭を乗せて腕枕してもらいつつ、短い手足をユリアに巻き付けるのだ。
「んー。どうしようかなあ。ご飯食べに行こうかなあ。お風呂も……ルイスどうしたい?」
「ルイね、このまま……がいい」
見下ろすと、ルイスの褐色の瞳と目が合う。
ルイスは栗色の髪に茶色の目の色をしている。光の加減によって金にも見える綺麗な瞳だ。最近特に金が勝ってきたように思う。
今では栄養が行き渡り、髪はくるくるとカールしていて、ふわふわしていて、それが顎や唇をくすぐって実はとても気持ちいい。天使の髪型、と呼んでいた。
「ルイス……泣いてるの?」
「ない!」
否定しているが、ルイスの頬は濡れている。そっと指で拭いてやってから、ユリアは額に唇を寄せた。ちゅ、とキスをして、頬ですりすり返しする。
「ルイス。寂しかった?ごめんね。いい子でいてくれたんだね」
「リア、しごと、たいせつだから。ルイはひとりで、だいじょぶ。リア、ぜったい、かえってくる」
「うん、絶対ルイスのところに帰ってくるよ。むこうでもずっとルイスの事考えてたんだよ。お仕事のところでね。――あ、お土産」
思い出して体を起こし、鞄からくまのぬいぐるみを取り出した。
「このくまさん。ルイスと同じ髪の色してるでしょ。可愛いなって思って、買っちゃった」
ルイスは目を輝かせた。片手は相変わらずユリアを掴んでいるが、もう片方の手でしっかりとくまを受け取る。
玩具は施設にもあるし、やはり将来を考えると贅沢品を買う気持ちの余裕がなかったから、ルイスに渡す玩具はこれが初めてである。
「おめめ、みどり」
「あ、そうなんだ。ルイス、いつも僕の目の色が好きって言ってくれるから。目は緑にしたんだ。――どうかな」
「すごい!くまさん、だいすき!」
泣いていたのにもうはしゃいで、少しほっとする。
やっぱりかなり我慢はしていたんだろうな。小さな体で精一杯、ユリアの仕事を応援してくれているのが伝わってくる。
「――ルイス。このままねよっか。どうしたい?」
「ねる。でも……リア、ルイがねるまで、ねちゃだめよ。おきて、いっぱいおはなししてよ」
そういってルイスはユリアの目を小さな指で開いてくる。それがおかしくて、ユリアは声を出して笑った。
仕事に疲れて寝てしまうとき、よくルイスはこうやって起きて、と目を開けにやってくるのだ。
「大丈夫だよ!全然眠たくないから。リベイアでの話、いっぱいしよっか」
「うん。おはなし。おうたも」
わかった、と言ってユリアはルイスをぬいぐるみごと抱きしめた。ふわふわの巻き毛からすごくいい香りがする。ポールマン伯爵家の石鹸だろうか。でもきっとこの香りも、明日には消えているんだろうな。
ユリアはその日、夜遅くまでルイスとベッドの上で過ごしていた。
ユリアが補佐官室に復帰したのは、帰還して三日後だった。
二日間べったりだったルイスがようやく、そろそろ施設に行きたい、と言い出し、ベン君と出かけて行ったからだ。もっと休んでもいいよと言われていたけれど、ユリアも日常の仕事が懐かしく思った。
十日間の不在の影響か少しいつもより多い仕事量を、いつも通りにヘルマンがこなしていた。
その横でまた仕事を再開して、ユリアはますます仕事に精を出した。
リベイアのように色々な領地のことを学びたかった。
そしてヘルマンとの練習も、たびたび実施された。
二、三日に一回のペースでヘルマンは仕事終わりや休憩前に声をかけてくれた。
ユリアは執務室の椅子に対面で座って、手を握ってもらう。
三十秒だった接触は徐々に伸びて、三分くらいは握っていられるようになった。
それというのも、握っている間ヘルマンが話をしてくれるからだった。
「――フェルナンドが初めてこの屋敷に来た時」
突然話し出した時は何かと思ったが、その話がまた面白くて、ユリアは触れ合ったところからの身のすくむ恐怖感か、ヘルマンの落ち着いた優しい声音か、どちらに意識を向けるのか迷い、やがてヘルマンの声に集中できるようになった。
今日もヘルマンは「やるか」とユリアに尋ねた。
ユリアは頷いて仕事の書類を脇において、居住まいを正した。
ヘルマンは引き出しから何かを取り出し、小さな容器を持ってやってきた。
「手を握るのに慣れたようだから、今日はこれを塗ってみようと思う」
ユリアはその容器を見て、少し止まった。見たことのない模様の、小さな容器だった。
「なんですか?」
「蜜蝋と、香油とを混ぜたものだ。まあ、保湿剤だな」
保湿剤。そういえば、母や姉が使っていたような気がする。
「それって、お高いんじゃ……」
「仕入れ値を言うなら、貰い物だからただだ。領地で作っているものの献上品だからな」
それにしてもかなりの高級品である。陶器の容器に入っているところからして、平民には手の出ない品に違いない。
「それは……もったいないです。僕には」
「お前の手を握るようになってから、その荒れた手が気になっていたんだ」
「えっ!――じゃあ、じ、自分で……」
「それじゃあ意味がない」
荒れた手では握り心地がさぞ悪かったことだろう。考えてもいなかったが、確かにルイスの手はすべすべでずっと握っていたくなる。自分の手を見ると、昔のように切れたりはしていないが、確かにボロボロでカサカサ。恥ずかしくなってつい手を両手で握りこんで隠すようにしてしまう。
ヘルマンはしばらく待ってくれた。
「難しそうなら、今日はもうやめても構わない」
心の準備もいるだろう、という。
確かに、ただ握るのと、塗られるのでは随分と違うと思う。
でも。
「お、お願いします」
ヘルマンが言ってくれたことは全部やってみたかった。今まで一度だって無理を言われたことはない。彼に任せておけば良いという安心感はユリアの中で十分に土台を成していた。
「気分が悪くなったら言いなさい。絶対に、無理をしないように」
「はい」
返事をして、ユリアはそろそろと両手を差し出した。
コト、と音がして容器のふたが開けられる。中身は黄色と乳白色を混ぜたような色で、ふわりと花の香りがする。落ち着く香りだった。
「これ……僕にはかなり似合わない香りになっちゃいませんか」
平民の十六歳男子がつけていていい香りじゃないんじゃないだろうか。
ヘルマンはくく、とかすかに笑った。
「香りはすぐになくなる。それに、この香りはお前によく似合っている」
ヘルマンの左手がユリアの右手を掬うように支えた。ごくり、と唾をのんで塗られるのを待つ。
右手で掬い取った保湿剤をまず右手の甲に乗せ、ヘルマンの指がゆっくりとユリアの手の甲をなぞった。その手つきがとてもやさしくて、ユリアは緊張が解けるのを感じた。最近、ヘルマンが触れても以前の様に体が震えたり寒気がしたりといったことがなくなっている。
ヘルマンの手はゆっくり手の筋をなぞり、全体に広がっていった。裏返され、手のひらにも塗り広げられる。
――こ、これは……。
ユリアは激しく動揺していた。
保湿剤を塗ると言う行為が今までの手繋ぎとあまりにも違いすぎた。
寒気どころか、顔に熱が集中するがわかる。
は、恥ずかしい。
ヘルマンの手の感触がひと撫でごとに分かる。太い指も、節も、触れ合うたびに掌のいろいろなところに触れて感じる。
ヘルマンはもう一掬いして、今度は指につけ始めた。一本ずつ、丁寧にヘルマンの手が指を包み込んで、ゆっくりと撫でる。そしてまた次の指へ――。
ユリアは顔を上げられなかった。
指を塗り終わると今度は手を絡ませるようにして、指の付け根をヘルマンの指が行き来する。
「――っふ」
くすぐったさにか、変な感覚にユリアは思わず声が漏れた。慌てて口元をおさえる。
ヘルマンの手がぴたりと止まった。
「気分が悪いか」
ユリアは真っ赤な顔で、口を押さえたまま、首を振った。
ヘルマンの手が離れていったせいで、温かさが急に失われ、その手が寂しいように思う。
「くすぐったくて……変な声が出て、恥ずかしいんです。すみません」
正直に言えばヘルマンは、そうか、とだけこたえた。
なんでもないと言えば中断されそうだったから正直に言ったものの、ただただ恥ずかしい。
「続けても、大丈夫そうか?」
「はい…」
ユリアはやっぱりヘルマンを見ることはできず、かといって手元も直視できなくて目を瞑った。
左手も同じように塗り広げられていく。目を閉じると余計感覚が鋭敏になる。
ヘルマンの手が温かく、包み込んでくれる。ユリアの手の温度も上昇していくようだった。その手が動きこすれ合うたび、心臓がうるさく鳴る。
あたりに花の香りが広がっていた。
くすぐったいのと、寒気とは違うぞわぞわとする感覚と、ユリアは混乱しながらもなんとか耐えた。
「今日はこれだけにしよう」
そう言ってヘルマンの手が離れていく。
終わり、と言われて初めて、ユリアは自分がかなり肩に力が入っていたのに気づいた。
ヘルマンを見れば手に残った保湿剤を自分の手に塗り込んで片付け始めていた。
「気分はどうだ?」
「大丈夫です。――やっぱり、その……触れられるのに慣れていないので。変な感じです」
「よく頑張ったな。今日は短時間だったから。徐々に慣れたら、もう少し塗っていこう」
恐れ多い。しかしユリアははい、とこたえた。
この練習に関しては、全面的にヘルマンの好意に甘えて任せている。
恥ずかしいなどと言ってはいられない。
確実に前進しているのは確かだ。
その日から練習は毎日になった。
回数を重ねるたびにヘルマンは少しずつ保湿剤を塗る量も、時間も増やしていった。注意深く観察されながら手首の方まで塗られている。
おかげで最近ユリアの手はかつての、とまではいかないがかなりのつやを取り戻していた。
ヘルマンはいつの間にか対面から横に座るようになり、二人はソファに並んで練習するようになった。
近くでヘルマンの息遣いまで感じる距離ははじめは少し緊張したが、やはり吐き気や不快感は一度も感じなかった。
ヘルマンが慎重に進めてくれているのがわかっているので、ユリアは毎日感謝していた。
さらにはヘルマンは保湿剤を塗った後、マッサージのようにユリアの手を強弱つけて握ったりもした。
恐れ多いやら気持ちいいやらでユリアは最近の練習はいつも顔を赤くしてしまうのだった。
先触れが出ていたので、館につくとお出迎えの面々がずらりと並んでいる。
ヘルマンがそれらの挨拶を受けているのを見てから馬車を降り、ユリアはあたりを見渡した。
すると脇の方で、フェルナンドに抱かれているルイスを見つける。
「ルイス!!」
嬉しくなって走り寄る。
ルイスも降ろされて走り寄ってきた。抱き合って、久しぶりのルイスの柔らかい感触に心から安心する。
「リア、おかえり!!」
「ルイス、ただいま。お留守番できて偉かったね!」
ぎゅう、と首にしがみつくように抱きつかれ、そのまま抱え上げた。離れる様子はないのでこのまま抱っこかな。
ルイスは泣くわけでもなくただぎゅっと抱きついて、時折すりすりと首筋に顔をこすりつけてきた。
「熱烈だねえ」
フェルナンドが言うのへ、ユリアは向き直って頭を下げた。
「お世話になりました。ありがとうございます。ただいま戻りました」
「うん。無事で何よりだよ。疲れてない?」
「大丈夫です」
フェルナンドの顔を見ると帰ってきたという気がして、ほっとした。
「いい子だったよ、ルイス君。誘ってみたら来てくれたから、伯爵家の方に二泊ほどしてもらったんだけど。もううちのアイドル。妻も養子に欲しいって言ってたくらいだよ」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしませんでしたか?」
「全然だよ。好き嫌いもしないし。大人しく遊んでたよ。夜は一緒に寝たんだけど、この柔らかくて温かい子供の感触、癖になるよ。――ルイ君、また遊びにおいでね」
「――うん」
頬をつつかれて、ルイスはしがみついたまま小さく答える。
「しばらくお休みしたらいいから、ルイ君と一緒にいてあげてね」
「ありがとうございます」
「とにかく、疲れの残らないように、ゆっくり休みなさい。荷物はもう運んでるから。ほら、帰っていいよ」
ルイスが全く離れそうにないので、ユリアはお言葉に甘えて帰ることにした。
部屋についてもルイスが離れなかったので、ユリアはとりあえずそのままベッドに横になった。
帰ってくると疲労を感じていたし、何ならこのまま寝てしまおうかと思う。
「リア、ねるの?」
横になるといつもの定位置にずりずりと移動して、腕の中でルイスは体を寄せる。脇の下から頭を出し、二の腕に頭を乗せて腕枕してもらいつつ、短い手足をユリアに巻き付けるのだ。
「んー。どうしようかなあ。ご飯食べに行こうかなあ。お風呂も……ルイスどうしたい?」
「ルイね、このまま……がいい」
見下ろすと、ルイスの褐色の瞳と目が合う。
ルイスは栗色の髪に茶色の目の色をしている。光の加減によって金にも見える綺麗な瞳だ。最近特に金が勝ってきたように思う。
今では栄養が行き渡り、髪はくるくるとカールしていて、ふわふわしていて、それが顎や唇をくすぐって実はとても気持ちいい。天使の髪型、と呼んでいた。
「ルイス……泣いてるの?」
「ない!」
否定しているが、ルイスの頬は濡れている。そっと指で拭いてやってから、ユリアは額に唇を寄せた。ちゅ、とキスをして、頬ですりすり返しする。
「ルイス。寂しかった?ごめんね。いい子でいてくれたんだね」
「リア、しごと、たいせつだから。ルイはひとりで、だいじょぶ。リア、ぜったい、かえってくる」
「うん、絶対ルイスのところに帰ってくるよ。むこうでもずっとルイスの事考えてたんだよ。お仕事のところでね。――あ、お土産」
思い出して体を起こし、鞄からくまのぬいぐるみを取り出した。
「このくまさん。ルイスと同じ髪の色してるでしょ。可愛いなって思って、買っちゃった」
ルイスは目を輝かせた。片手は相変わらずユリアを掴んでいるが、もう片方の手でしっかりとくまを受け取る。
玩具は施設にもあるし、やはり将来を考えると贅沢品を買う気持ちの余裕がなかったから、ルイスに渡す玩具はこれが初めてである。
「おめめ、みどり」
「あ、そうなんだ。ルイス、いつも僕の目の色が好きって言ってくれるから。目は緑にしたんだ。――どうかな」
「すごい!くまさん、だいすき!」
泣いていたのにもうはしゃいで、少しほっとする。
やっぱりかなり我慢はしていたんだろうな。小さな体で精一杯、ユリアの仕事を応援してくれているのが伝わってくる。
「――ルイス。このままねよっか。どうしたい?」
「ねる。でも……リア、ルイがねるまで、ねちゃだめよ。おきて、いっぱいおはなししてよ」
そういってルイスはユリアの目を小さな指で開いてくる。それがおかしくて、ユリアは声を出して笑った。
仕事に疲れて寝てしまうとき、よくルイスはこうやって起きて、と目を開けにやってくるのだ。
「大丈夫だよ!全然眠たくないから。リベイアでの話、いっぱいしよっか」
「うん。おはなし。おうたも」
わかった、と言ってユリアはルイスをぬいぐるみごと抱きしめた。ふわふわの巻き毛からすごくいい香りがする。ポールマン伯爵家の石鹸だろうか。でもきっとこの香りも、明日には消えているんだろうな。
ユリアはその日、夜遅くまでルイスとベッドの上で過ごしていた。
ユリアが補佐官室に復帰したのは、帰還して三日後だった。
二日間べったりだったルイスがようやく、そろそろ施設に行きたい、と言い出し、ベン君と出かけて行ったからだ。もっと休んでもいいよと言われていたけれど、ユリアも日常の仕事が懐かしく思った。
十日間の不在の影響か少しいつもより多い仕事量を、いつも通りにヘルマンがこなしていた。
その横でまた仕事を再開して、ユリアはますます仕事に精を出した。
リベイアのように色々な領地のことを学びたかった。
そしてヘルマンとの練習も、たびたび実施された。
二、三日に一回のペースでヘルマンは仕事終わりや休憩前に声をかけてくれた。
ユリアは執務室の椅子に対面で座って、手を握ってもらう。
三十秒だった接触は徐々に伸びて、三分くらいは握っていられるようになった。
それというのも、握っている間ヘルマンが話をしてくれるからだった。
「――フェルナンドが初めてこの屋敷に来た時」
突然話し出した時は何かと思ったが、その話がまた面白くて、ユリアは触れ合ったところからの身のすくむ恐怖感か、ヘルマンの落ち着いた優しい声音か、どちらに意識を向けるのか迷い、やがてヘルマンの声に集中できるようになった。
今日もヘルマンは「やるか」とユリアに尋ねた。
ユリアは頷いて仕事の書類を脇において、居住まいを正した。
ヘルマンは引き出しから何かを取り出し、小さな容器を持ってやってきた。
「手を握るのに慣れたようだから、今日はこれを塗ってみようと思う」
ユリアはその容器を見て、少し止まった。見たことのない模様の、小さな容器だった。
「なんですか?」
「蜜蝋と、香油とを混ぜたものだ。まあ、保湿剤だな」
保湿剤。そういえば、母や姉が使っていたような気がする。
「それって、お高いんじゃ……」
「仕入れ値を言うなら、貰い物だからただだ。領地で作っているものの献上品だからな」
それにしてもかなりの高級品である。陶器の容器に入っているところからして、平民には手の出ない品に違いない。
「それは……もったいないです。僕には」
「お前の手を握るようになってから、その荒れた手が気になっていたんだ」
「えっ!――じゃあ、じ、自分で……」
「それじゃあ意味がない」
荒れた手では握り心地がさぞ悪かったことだろう。考えてもいなかったが、確かにルイスの手はすべすべでずっと握っていたくなる。自分の手を見ると、昔のように切れたりはしていないが、確かにボロボロでカサカサ。恥ずかしくなってつい手を両手で握りこんで隠すようにしてしまう。
ヘルマンはしばらく待ってくれた。
「難しそうなら、今日はもうやめても構わない」
心の準備もいるだろう、という。
確かに、ただ握るのと、塗られるのでは随分と違うと思う。
でも。
「お、お願いします」
ヘルマンが言ってくれたことは全部やってみたかった。今まで一度だって無理を言われたことはない。彼に任せておけば良いという安心感はユリアの中で十分に土台を成していた。
「気分が悪くなったら言いなさい。絶対に、無理をしないように」
「はい」
返事をして、ユリアはそろそろと両手を差し出した。
コト、と音がして容器のふたが開けられる。中身は黄色と乳白色を混ぜたような色で、ふわりと花の香りがする。落ち着く香りだった。
「これ……僕にはかなり似合わない香りになっちゃいませんか」
平民の十六歳男子がつけていていい香りじゃないんじゃないだろうか。
ヘルマンはくく、とかすかに笑った。
「香りはすぐになくなる。それに、この香りはお前によく似合っている」
ヘルマンの左手がユリアの右手を掬うように支えた。ごくり、と唾をのんで塗られるのを待つ。
右手で掬い取った保湿剤をまず右手の甲に乗せ、ヘルマンの指がゆっくりとユリアの手の甲をなぞった。その手つきがとてもやさしくて、ユリアは緊張が解けるのを感じた。最近、ヘルマンが触れても以前の様に体が震えたり寒気がしたりといったことがなくなっている。
ヘルマンの手はゆっくり手の筋をなぞり、全体に広がっていった。裏返され、手のひらにも塗り広げられる。
――こ、これは……。
ユリアは激しく動揺していた。
保湿剤を塗ると言う行為が今までの手繋ぎとあまりにも違いすぎた。
寒気どころか、顔に熱が集中するがわかる。
は、恥ずかしい。
ヘルマンの手の感触がひと撫でごとに分かる。太い指も、節も、触れ合うたびに掌のいろいろなところに触れて感じる。
ヘルマンはもう一掬いして、今度は指につけ始めた。一本ずつ、丁寧にヘルマンの手が指を包み込んで、ゆっくりと撫でる。そしてまた次の指へ――。
ユリアは顔を上げられなかった。
指を塗り終わると今度は手を絡ませるようにして、指の付け根をヘルマンの指が行き来する。
「――っふ」
くすぐったさにか、変な感覚にユリアは思わず声が漏れた。慌てて口元をおさえる。
ヘルマンの手がぴたりと止まった。
「気分が悪いか」
ユリアは真っ赤な顔で、口を押さえたまま、首を振った。
ヘルマンの手が離れていったせいで、温かさが急に失われ、その手が寂しいように思う。
「くすぐったくて……変な声が出て、恥ずかしいんです。すみません」
正直に言えばヘルマンは、そうか、とだけこたえた。
なんでもないと言えば中断されそうだったから正直に言ったものの、ただただ恥ずかしい。
「続けても、大丈夫そうか?」
「はい…」
ユリアはやっぱりヘルマンを見ることはできず、かといって手元も直視できなくて目を瞑った。
左手も同じように塗り広げられていく。目を閉じると余計感覚が鋭敏になる。
ヘルマンの手が温かく、包み込んでくれる。ユリアの手の温度も上昇していくようだった。その手が動きこすれ合うたび、心臓がうるさく鳴る。
あたりに花の香りが広がっていた。
くすぐったいのと、寒気とは違うぞわぞわとする感覚と、ユリアは混乱しながらもなんとか耐えた。
「今日はこれだけにしよう」
そう言ってヘルマンの手が離れていく。
終わり、と言われて初めて、ユリアは自分がかなり肩に力が入っていたのに気づいた。
ヘルマンを見れば手に残った保湿剤を自分の手に塗り込んで片付け始めていた。
「気分はどうだ?」
「大丈夫です。――やっぱり、その……触れられるのに慣れていないので。変な感じです」
「よく頑張ったな。今日は短時間だったから。徐々に慣れたら、もう少し塗っていこう」
恐れ多い。しかしユリアははい、とこたえた。
この練習に関しては、全面的にヘルマンの好意に甘えて任せている。
恥ずかしいなどと言ってはいられない。
確実に前進しているのは確かだ。
その日から練習は毎日になった。
回数を重ねるたびにヘルマンは少しずつ保湿剤を塗る量も、時間も増やしていった。注意深く観察されながら手首の方まで塗られている。
おかげで最近ユリアの手はかつての、とまではいかないがかなりのつやを取り戻していた。
ヘルマンはいつの間にか対面から横に座るようになり、二人はソファに並んで練習するようになった。
近くでヘルマンの息遣いまで感じる距離ははじめは少し緊張したが、やはり吐き気や不快感は一度も感じなかった。
ヘルマンが慎重に進めてくれているのがわかっているので、ユリアは毎日感謝していた。
さらにはヘルマンは保湿剤を塗った後、マッサージのようにユリアの手を強弱つけて握ったりもした。
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