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第2章
21.しあわせ
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ヘルマンはユリアを部屋に連れてきた。
部屋に入るころにはユリアの顔の熱も引いていた。
テラスに出ると会場の灯りが少し遠くに見えた。まだまだパーティーは続きそうだ。屋敷の人員も割いているので今日は少し静かだ。
「ユリア……」
ホールを見ていたユリアを、ヘルマンがそっと抱きしめる。
「君が美しすぎて。目が離せなかった。何度手を引いて連れ出し、隠してしまいたいと思ったことが」
「ご主人様こそ……会場で一番素敵でした」
ヘルマンにこそ目が離せなかった。思い返してみてもヘルマン以外の景色をあまり覚えていないほどだった。
シャンデリアの灯りの下でのヘルマンは想像したよりずっとかっこよかった。煌びやかな衣装に囲まれているのに、ヘルマンの方がスポットライトが当たったように存在感を放っていた。
誰よりも自信に溢れ、王者の風格でそこにただ立っていた。
しかしそれはヘルマンも同じだ。
仮面をつけているというのに、揺れる髪がキラキラと照明を反射し、頼りなさげな小柄な体。細く揺れる腰。走って寄って、抱きしめ支えてやりたくなる。
「ああ、つらすぎる。ユリア。日に日に我慢が難しくなるんだ。私はそのうち、本当に君を鉄格子の中に閉じ込めてしまうかもしれない」
ヘルマンの悩ましげなため息混じりの声に、ユリアは少し驚いた。そう言われることが嫌ではないことにも。
「誰にも見せず、会わせず、君は私の手からのみ食べ、私の手の中で眠る。自由を奪い、縛ってしまいたい」
この美しい白い肌に、縄を食い込ませたらどれほど美しくなるだろうか。その苦しみに悶えながらも、ヘルマンの許しを従順に待つだろう――。
そんな想像だけで興奮する。
ヘルマンはまた深いため息をついた。
「君はどこまで許してくれるだろうか」
ユリアは不思議そうにヘルマンの瞳を覗き込んだ。
「僕は、何でもご主人様の言う通りにしたいです。ずっとそう言っているのに、なかなかご命令くださらないですね」
「それなりに……やったと思うが。足りなかったか?」
「そういう意味ではなく」
ユリアは少し恥ずかしそうに目を逸らせた。
「僕のペースに合わせてくださっているから。言うだけなら言ってくださればいいのに。そこを目標にしますから」
ヘルマンは絶句した。
真面目なのだろうか。
ユリアはヘルマンとの愛の営みも、段階があり、目標とする到達点があるかのように言う。
ヘルマンはただ必死に、己の中の支配欲を抑え込むのに苦心していると言うのに。
認識にズレがあるのは仕方がないと思うが、やはりユリアはヘルマンの内にある欲望を分かっていないようだ。
「ユリア。閉じ込めてしまいたいと言うのは比喩でも何でもなく、本当に文字通り閉じ込めると言う意味だ」
「はい。ご主人様がフェルナンド様に、寝室の横に鉄格子の部屋を作った場合の予算を聞いてきたって聞きました。フェルナンド様が冗談か本気かどっちだと思う?って」
「あれは……冗談だ」
クリスティーナとのことに苛々して、ちゃんと味方をしないフェルナンドに半分嫌がらせのつもりで仕事を増やしてやった指示だ。
「虎でも買うのかなって言ってましたよ」
「飼いたいのはこの美しい、金の鳥だ」
そう言ってヘルマンはユリアの唇に口付けた。
お互いの体温を感じ、満たされる思いで舌を絡める。
少しお酒の味がして自分まで酔うような気がしながら、ユリアはゆっくりと唇を離した。
「冗談だったんですね」
ユリアの瞳にも欲情のようなものを見て、ヘルマンは驚きにまじまじと見つめた。
「ユリア。そんな顔をしたらいけない。本当にやってしまう」
その獰猛な目と低い声に、ユリアはごくりと唾を飲んだ。
この大きな体で、捕えられ閉じ込められたら、逃げ出すことなどできない。しかし何をされるかと言う恐ろしさはなく、あるのは絶対的な安心感だった。
ヘルマンの手の上でのみ許されるあらゆることを想像して、確かに興奮する自分がいる。
ユリアはゆっくりとヘルマンに腕を回した。
「いつか……ご主人様」
ヘルマンは力強くユリアを抱きしめた。
しばらくそうしてから、ふとヘルマンが思い出したように言った。
「先程は、会場でよく言ってくれたな」
ユリアがクリスティーナに向けて言った台詞を思い出して自然と笑みがこぼれる。
「あ……すみません。言うつもりじゃ……」
「そうなのか?」
「僕、この前ご主人様が言ってくれたことが、本当に嬉しくて。何回も思い出していたから、つい」
――私には君しかいない。
そう言ってくれた。
「でも、さすがにあの場で言うことじゃないって事に途中で気づいて。変なことになってしまって……」
「言っても良かった」
「クリスティーナ様が卒倒してしまうと思います。告げるときは、ちゃんとご主人様からご説明して差し上げたほうが」
ヘルマンはため息をついた。
「理解が得られるとは思えないがな。あの人は……いつまでも私を子どもと思っている」
「そんなことはないと思います」
ユリアはヘルマンから少し離れ、しっかりとした目を向けた。
「親だから心配してしまうけど、って言っていたけど、本当に喜んでいました。自分がやったことをちゃんと受け継いで広げていってくれてるって。治政にも問題はないって安心なさっていましたし」
ヘルマンは少し驚いたような顔になった。
「まさか、母上が」
自分にはいつも「もっとこうするべき」しか言わないあの人が。
「はい。一緒に街へ視察に行った時。帰りの馬車で、本当に嬉しそうにしていました。安心したって」
「そうか……」
ヘルマンはぎゅっとユリアを抱きしめ、頭にキスを落とした。
「ありがとう。いつか……言えるといいな。私の愛する人は君しかいないと」
「そう、ですね……」
想像すると恐ろしいような気もするが。それでもヘルマンが幸せなのだとわかってくれたら嬉しい。
同性のパートナーがいることは珍しいことではないが、高位貴族で後継を残さないと宣言するのは、やはり難しい。
「だが、何より、ユリア。君が私の大切な人だと自覚していたのが嬉しい」
ユリアの頬が朱に染まった。
「ご主人様が、いつもそう言ってくださるから……」
「そうだ。君は私の唯一の人だ。それを忘れないでほしい」
「はい」
ユリアはかつて、何の価値もないものだと思っていた。金貨一枚にも及ばない存在だと。
生きていてはいけないのだと思っていた時もある。街で物乞いとして終わるのだと思った命だった。目が合ったという理由だけで殴られたり、いろんなものを投げられ傷つけられた。世界が自分を排除しようとしていると思った。
けれどヘルマンが。他でもない。ユリアの最も敬愛するヘルマンが、自分を愛していると何度も言ってくれる。
例え何かを成さなくても価値ある人間だと言ってくれた。
乾いた土に水をもらったように。少しずつ、少しずつ地が潤い、根を伸ばし、それが芽生えていった。
今、補佐官となり、まだまだ目標には遠いけれど。
「もっと立派な、一人前の補佐官になれば、クリスティーナ様や他の方々も認めてくださるでしょうか」
「そう急ぐことはない。もう少し立ち止まって、今を楽しんでもいいと思うぞ」
「それ……フェルナンド様にも言われます。旅に出ろってよく言われます」
ヘルマンとフェルナンドが同じことを言うのは珍しいのでつい笑ってしまう。ヘルマンにとっては少し心外だが、遊んだほうがいいという点については同感だ。
「あいつが君くらいの時は、もっとお気楽に遊んでいた。――フェルナンドが行きたいんだろうな、旅行が好きだから」
自分が楽しかったからユリアにも行ってごらんと言ってくれる。公爵家に来て、本当にどの人も温かい。
ユリアはホールの煌びやかな照明に目をやった。
数年前のことが今では信じられないくらいだ。
「ご主人様、僕……パーティーに出られました」
先ほどまでの喧騒を思い出し、ほっと息をついた。
最初から最後までではないけれど。
心のどこかで無理かもと思っていた。足が震えてすぐ帰ってくるんじゃないかと思っていた。
けれど。会場で、ヘルマンがずっと視線をやってくれていたから。フェルナンドが気遣ってあいさつ回りを一緒にしてくれて。リックが、肩が触れ合うのも許さないほど厳重に守ってくれて。
たくさん支援されてのことだとわかってはいるけれど。
「僕、たくさんの人に、ご挨拶できました」
言いながら涙があふれてきた。視界の光が滲んで広がる。声が掠れる。
ヘルマンは黙って聞いてくれた。
「あんなにたくさんの大人の人に囲まれて……知らない人に声をかけられたのに」
「そうだな。本当によく頑張った。今日だけじゃなくて、今日までずっと、よく頑張ってきた」
「ずっと助けてもらってばかりで……だから、早くお返ししないとって……思うんです」
誰もが受けられる恩恵ではない。たまたま幸運に恵まれただけだ。それも、一生に一度あるかないかの幸運に。
「ユリア。受けた恩を返さなくてはなどと焦る必要はない」
「そうはいきません」
ユリアはどこか悲しげな顔をした。恩を返さずに幸せにはなれないと言うように。
受け取ったものを、ただ受け入れることができないでいる。
ヘルマンはユリアを後ろから抱きしめた。あまり長くいると体が冷えてしまう。くっついていれば温かかった。
「ヒリスに、かなり前、ユリアをなぜ助けたのか聞いてみたことがある」
ヒリスは貧困街で見かけたと言っていた。王都の貧困街はそれなりに人も多い。そんな中で、なぜユリアだったのか。聞けば数日通い詰めたと言っていた。
ユリアがファルト家の生き残りと気づいたのかと思ったが、そうではなかったらしい。
「君の目が、生きたいって諦めていなかったから。あれほどつらいめにあったのに希望を捨てずに、ルイスを大切に守りながら、必死に生きようとしていた、と」
わかる気がした。
ヘルマンも初めてユリアを見た時、まずその瞳に吸い込まれるような印象を受けた。
身体は棒のようにやせ細り、ぼろぼろで見るからに栄養状態の悪い孤児とわかる。おまけにびくびくとおびえ、被食者の姿。
けれどその瞳だけは。翡翠の様な輝きを持ったまま、しっかりと見つめ返してきた。澄んだ目をしていた。
「あの頃は……生きてはいけないと言われているようでした。生きても不幸になるだけだと、どこかで思っていたんです。それでも生きたかった。ルイスを死なせたくなくて、幸せにしたかった」
「君は?」
ヘルマンはユリアの正面に立った。
痛まし気な表情でユリアの頬を撫でる。
「君が幸せでなければ意味はない」
「幸せです。この上なく」
ユリアはヘルマンに思い切り抱きついた。
「恐ろしいくらいです。何もしていないのにこんなに幸せになってしまったら、すぐに取り上げられてしまうんじゃないかと」
何にかはわからない。ただ漠然とそんな気がするだけだ。
馬鹿げているとヘルマンは言うかもしれない。
しかし、ヘルマンはしばらく黙って考えていた。
「幸せすぎて怖いというのは、わかる気がする。――きっと辛い時期があったらから余計そう感じるんだろう」
自分も空虚な気持ちを抱えたまま、人生に意味などないと生きていた時期はあったから。ユリアの比ではないが、今の幸せが、どれほど貴重で恵まれたものかわかっている。
だが、とヘルマンは続けた。
「君の幸せはこんなものじゃない」
まだ足りない。ヘルマンはそう思った。
どれほど与えて甘やかし言い聞かせてもユリアが本当の意味で安心して、これでいいのだと実感できるまでまだまだかかるのだろう。
自分の価値を見出せるようになった時よりもっと漠然と時間がかかると思った。
それでも、願わずにはいられない。
「幸せになることに代償があるなどと思うな。ただ幸せになっていいんだ。代償も理由もいらない」
どうしても伝えたかった。
ヘルマンは祈るような気持ちでユリアを抱きしめる。
「生まれてくれてありがとう。今日まで生きていてくれてありがとう。私に愛させてくれて、ありがとう」
「ご主人様……」
ユリアはヘルマンの胸に顔を擦り寄せた。
厚みのある胸板とヘルマンの香りに酔いそうな不思議な感覚を覚える。
この日を一生忘れないと思った。
そんな日がたくさんできていく。
「僕も……ご主人様。愛してくださって、ありがとうございます」
部屋に入るころにはユリアの顔の熱も引いていた。
テラスに出ると会場の灯りが少し遠くに見えた。まだまだパーティーは続きそうだ。屋敷の人員も割いているので今日は少し静かだ。
「ユリア……」
ホールを見ていたユリアを、ヘルマンがそっと抱きしめる。
「君が美しすぎて。目が離せなかった。何度手を引いて連れ出し、隠してしまいたいと思ったことが」
「ご主人様こそ……会場で一番素敵でした」
ヘルマンにこそ目が離せなかった。思い返してみてもヘルマン以外の景色をあまり覚えていないほどだった。
シャンデリアの灯りの下でのヘルマンは想像したよりずっとかっこよかった。煌びやかな衣装に囲まれているのに、ヘルマンの方がスポットライトが当たったように存在感を放っていた。
誰よりも自信に溢れ、王者の風格でそこにただ立っていた。
しかしそれはヘルマンも同じだ。
仮面をつけているというのに、揺れる髪がキラキラと照明を反射し、頼りなさげな小柄な体。細く揺れる腰。走って寄って、抱きしめ支えてやりたくなる。
「ああ、つらすぎる。ユリア。日に日に我慢が難しくなるんだ。私はそのうち、本当に君を鉄格子の中に閉じ込めてしまうかもしれない」
ヘルマンの悩ましげなため息混じりの声に、ユリアは少し驚いた。そう言われることが嫌ではないことにも。
「誰にも見せず、会わせず、君は私の手からのみ食べ、私の手の中で眠る。自由を奪い、縛ってしまいたい」
この美しい白い肌に、縄を食い込ませたらどれほど美しくなるだろうか。その苦しみに悶えながらも、ヘルマンの許しを従順に待つだろう――。
そんな想像だけで興奮する。
ヘルマンはまた深いため息をついた。
「君はどこまで許してくれるだろうか」
ユリアは不思議そうにヘルマンの瞳を覗き込んだ。
「僕は、何でもご主人様の言う通りにしたいです。ずっとそう言っているのに、なかなかご命令くださらないですね」
「それなりに……やったと思うが。足りなかったか?」
「そういう意味ではなく」
ユリアは少し恥ずかしそうに目を逸らせた。
「僕のペースに合わせてくださっているから。言うだけなら言ってくださればいいのに。そこを目標にしますから」
ヘルマンは絶句した。
真面目なのだろうか。
ユリアはヘルマンとの愛の営みも、段階があり、目標とする到達点があるかのように言う。
ヘルマンはただ必死に、己の中の支配欲を抑え込むのに苦心していると言うのに。
認識にズレがあるのは仕方がないと思うが、やはりユリアはヘルマンの内にある欲望を分かっていないようだ。
「ユリア。閉じ込めてしまいたいと言うのは比喩でも何でもなく、本当に文字通り閉じ込めると言う意味だ」
「はい。ご主人様がフェルナンド様に、寝室の横に鉄格子の部屋を作った場合の予算を聞いてきたって聞きました。フェルナンド様が冗談か本気かどっちだと思う?って」
「あれは……冗談だ」
クリスティーナとのことに苛々して、ちゃんと味方をしないフェルナンドに半分嫌がらせのつもりで仕事を増やしてやった指示だ。
「虎でも買うのかなって言ってましたよ」
「飼いたいのはこの美しい、金の鳥だ」
そう言ってヘルマンはユリアの唇に口付けた。
お互いの体温を感じ、満たされる思いで舌を絡める。
少しお酒の味がして自分まで酔うような気がしながら、ユリアはゆっくりと唇を離した。
「冗談だったんですね」
ユリアの瞳にも欲情のようなものを見て、ヘルマンは驚きにまじまじと見つめた。
「ユリア。そんな顔をしたらいけない。本当にやってしまう」
その獰猛な目と低い声に、ユリアはごくりと唾を飲んだ。
この大きな体で、捕えられ閉じ込められたら、逃げ出すことなどできない。しかし何をされるかと言う恐ろしさはなく、あるのは絶対的な安心感だった。
ヘルマンの手の上でのみ許されるあらゆることを想像して、確かに興奮する自分がいる。
ユリアはゆっくりとヘルマンに腕を回した。
「いつか……ご主人様」
ヘルマンは力強くユリアを抱きしめた。
しばらくそうしてから、ふとヘルマンが思い出したように言った。
「先程は、会場でよく言ってくれたな」
ユリアがクリスティーナに向けて言った台詞を思い出して自然と笑みがこぼれる。
「あ……すみません。言うつもりじゃ……」
「そうなのか?」
「僕、この前ご主人様が言ってくれたことが、本当に嬉しくて。何回も思い出していたから、つい」
――私には君しかいない。
そう言ってくれた。
「でも、さすがにあの場で言うことじゃないって事に途中で気づいて。変なことになってしまって……」
「言っても良かった」
「クリスティーナ様が卒倒してしまうと思います。告げるときは、ちゃんとご主人様からご説明して差し上げたほうが」
ヘルマンはため息をついた。
「理解が得られるとは思えないがな。あの人は……いつまでも私を子どもと思っている」
「そんなことはないと思います」
ユリアはヘルマンから少し離れ、しっかりとした目を向けた。
「親だから心配してしまうけど、って言っていたけど、本当に喜んでいました。自分がやったことをちゃんと受け継いで広げていってくれてるって。治政にも問題はないって安心なさっていましたし」
ヘルマンは少し驚いたような顔になった。
「まさか、母上が」
自分にはいつも「もっとこうするべき」しか言わないあの人が。
「はい。一緒に街へ視察に行った時。帰りの馬車で、本当に嬉しそうにしていました。安心したって」
「そうか……」
ヘルマンはぎゅっとユリアを抱きしめ、頭にキスを落とした。
「ありがとう。いつか……言えるといいな。私の愛する人は君しかいないと」
「そう、ですね……」
想像すると恐ろしいような気もするが。それでもヘルマンが幸せなのだとわかってくれたら嬉しい。
同性のパートナーがいることは珍しいことではないが、高位貴族で後継を残さないと宣言するのは、やはり難しい。
「だが、何より、ユリア。君が私の大切な人だと自覚していたのが嬉しい」
ユリアの頬が朱に染まった。
「ご主人様が、いつもそう言ってくださるから……」
「そうだ。君は私の唯一の人だ。それを忘れないでほしい」
「はい」
ユリアはかつて、何の価値もないものだと思っていた。金貨一枚にも及ばない存在だと。
生きていてはいけないのだと思っていた時もある。街で物乞いとして終わるのだと思った命だった。目が合ったという理由だけで殴られたり、いろんなものを投げられ傷つけられた。世界が自分を排除しようとしていると思った。
けれどヘルマンが。他でもない。ユリアの最も敬愛するヘルマンが、自分を愛していると何度も言ってくれる。
例え何かを成さなくても価値ある人間だと言ってくれた。
乾いた土に水をもらったように。少しずつ、少しずつ地が潤い、根を伸ばし、それが芽生えていった。
今、補佐官となり、まだまだ目標には遠いけれど。
「もっと立派な、一人前の補佐官になれば、クリスティーナ様や他の方々も認めてくださるでしょうか」
「そう急ぐことはない。もう少し立ち止まって、今を楽しんでもいいと思うぞ」
「それ……フェルナンド様にも言われます。旅に出ろってよく言われます」
ヘルマンとフェルナンドが同じことを言うのは珍しいのでつい笑ってしまう。ヘルマンにとっては少し心外だが、遊んだほうがいいという点については同感だ。
「あいつが君くらいの時は、もっとお気楽に遊んでいた。――フェルナンドが行きたいんだろうな、旅行が好きだから」
自分が楽しかったからユリアにも行ってごらんと言ってくれる。公爵家に来て、本当にどの人も温かい。
ユリアはホールの煌びやかな照明に目をやった。
数年前のことが今では信じられないくらいだ。
「ご主人様、僕……パーティーに出られました」
先ほどまでの喧騒を思い出し、ほっと息をついた。
最初から最後までではないけれど。
心のどこかで無理かもと思っていた。足が震えてすぐ帰ってくるんじゃないかと思っていた。
けれど。会場で、ヘルマンがずっと視線をやってくれていたから。フェルナンドが気遣ってあいさつ回りを一緒にしてくれて。リックが、肩が触れ合うのも許さないほど厳重に守ってくれて。
たくさん支援されてのことだとわかってはいるけれど。
「僕、たくさんの人に、ご挨拶できました」
言いながら涙があふれてきた。視界の光が滲んで広がる。声が掠れる。
ヘルマンは黙って聞いてくれた。
「あんなにたくさんの大人の人に囲まれて……知らない人に声をかけられたのに」
「そうだな。本当によく頑張った。今日だけじゃなくて、今日までずっと、よく頑張ってきた」
「ずっと助けてもらってばかりで……だから、早くお返ししないとって……思うんです」
誰もが受けられる恩恵ではない。たまたま幸運に恵まれただけだ。それも、一生に一度あるかないかの幸運に。
「ユリア。受けた恩を返さなくてはなどと焦る必要はない」
「そうはいきません」
ユリアはどこか悲しげな顔をした。恩を返さずに幸せにはなれないと言うように。
受け取ったものを、ただ受け入れることができないでいる。
ヘルマンはユリアを後ろから抱きしめた。あまり長くいると体が冷えてしまう。くっついていれば温かかった。
「ヒリスに、かなり前、ユリアをなぜ助けたのか聞いてみたことがある」
ヒリスは貧困街で見かけたと言っていた。王都の貧困街はそれなりに人も多い。そんな中で、なぜユリアだったのか。聞けば数日通い詰めたと言っていた。
ユリアがファルト家の生き残りと気づいたのかと思ったが、そうではなかったらしい。
「君の目が、生きたいって諦めていなかったから。あれほどつらいめにあったのに希望を捨てずに、ルイスを大切に守りながら、必死に生きようとしていた、と」
わかる気がした。
ヘルマンも初めてユリアを見た時、まずその瞳に吸い込まれるような印象を受けた。
身体は棒のようにやせ細り、ぼろぼろで見るからに栄養状態の悪い孤児とわかる。おまけにびくびくとおびえ、被食者の姿。
けれどその瞳だけは。翡翠の様な輝きを持ったまま、しっかりと見つめ返してきた。澄んだ目をしていた。
「あの頃は……生きてはいけないと言われているようでした。生きても不幸になるだけだと、どこかで思っていたんです。それでも生きたかった。ルイスを死なせたくなくて、幸せにしたかった」
「君は?」
ヘルマンはユリアの正面に立った。
痛まし気な表情でユリアの頬を撫でる。
「君が幸せでなければ意味はない」
「幸せです。この上なく」
ユリアはヘルマンに思い切り抱きついた。
「恐ろしいくらいです。何もしていないのにこんなに幸せになってしまったら、すぐに取り上げられてしまうんじゃないかと」
何にかはわからない。ただ漠然とそんな気がするだけだ。
馬鹿げているとヘルマンは言うかもしれない。
しかし、ヘルマンはしばらく黙って考えていた。
「幸せすぎて怖いというのは、わかる気がする。――きっと辛い時期があったらから余計そう感じるんだろう」
自分も空虚な気持ちを抱えたまま、人生に意味などないと生きていた時期はあったから。ユリアの比ではないが、今の幸せが、どれほど貴重で恵まれたものかわかっている。
だが、とヘルマンは続けた。
「君の幸せはこんなものじゃない」
まだ足りない。ヘルマンはそう思った。
どれほど与えて甘やかし言い聞かせてもユリアが本当の意味で安心して、これでいいのだと実感できるまでまだまだかかるのだろう。
自分の価値を見出せるようになった時よりもっと漠然と時間がかかると思った。
それでも、願わずにはいられない。
「幸せになることに代償があるなどと思うな。ただ幸せになっていいんだ。代償も理由もいらない」
どうしても伝えたかった。
ヘルマンは祈るような気持ちでユリアを抱きしめる。
「生まれてくれてありがとう。今日まで生きていてくれてありがとう。私に愛させてくれて、ありがとう」
「ご主人様……」
ユリアはヘルマンの胸に顔を擦り寄せた。
厚みのある胸板とヘルマンの香りに酔いそうな不思議な感覚を覚える。
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