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後編:呪いの連鎖
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目の前で起こっている現実を、僕の脳は理解することを拒絶していた。人間の顔をした魚は、ガラスに額を押し付け、苦悶に満ちた声で、途切れ途切れに語り始めた。
『私は……人間だった……。三ヶ月前まで、君と、同じ……』
彼の話は、悪夢そのものだった。彼もまた、あの店でこの水槽を買い、美しい熱帯魚を飼い始めた。だが、ある夜、魚と目が合った瞬間、意識が混濁し、次に気がついた時には、自分が水槽の中にいたのだという。
この水槽は、呪われている。飼い主と魚の魂を、強制的に入れ替えてしまう、恐ろしい呪いの道具なのだと。
「じゃあ、あんたの体を奪った、元の魚は……?」
『私の名前で、私の人生を生きている。私の恋人と笑い、私の友人と酒を酌み交わしている……』
僕は慌てて部屋を見回した。もし彼の話が本当なら、僕と入れ替わろうとしている「元の魚」が、この部屋のどこかにいるはずだ。だが、水槽にいるのは、変わり果てた彼一匹だけ。
「なぜ、一匹しかいないんだ……?」
『それは……』
人間の顔をした魚は、絶望に満ちた目で僕を見つめた。
『君が、二匹目の魚だからだ』
全身の血が、一瞬で凍りついた。
「何を言ってる! 俺は人間だ!」
『鏡を、見てみろ』
僕は、もつれる足で洗面所に駆け込み、鏡を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、僕の顔ではなかった。全く見覚えのない、痩せて血色の悪い、三十代ほどの男の顔が、恐怖に見開かれた目で、こちらを見つめ返していた。
記憶の断片が、濁流のように蘇る。そうだ。僕は、魚だった。美しい青と銀の鱗を持つ、一匹の熱帯魚だった。そして、水槽を覗き込んできた「僕」という名の人間と、ある瞬間に、意識が入れ替わってしまったのだ。
「思い出したか?」
リビングから、彼の声が響く。
「でも、なぜ俺は、まだ人間の姿で……」
『入れ替わった直後は、一時的に人間の形を保てる。だが、やがて……』
僕は、自分の手を見た。指と指の間に、薄い水かきのような膜ができ始めている。皮膚の表面には、きらりと光る、うろこのような模様が、いくつも浮かび上がっていた。
「どのくらいで、完全に……」
『一週間、といったところだ。私も、最初は人間の姿で、この部屋を歩き回った。だが、日に日に呼吸が苦しくなり、水が恋しくなり、最後には、このザマだ』
絶望が、僕の心を真っ黒に塗りつぶしていく。有頂天になっていた日々は、全て偽りのものだった。僕が愛したアジュールは、僕をこの地獄に突き落とした張本人だったのだ。
「元に戻る方法は……ないのか!」
『一つだけ、ある。新しい犠牲者を、見つけることだ。誰かを騙してこの水槽を買わせれば、その人間と君は入れ替わることができる』
そんなこと、できるはずがない。だが、僕の体は、刻一刻と人間であることをやめていく。呼吸は浅くなり、乾いた空気が肺を焼くように痛い。
三日後、僕の部屋に友人が訪ねてきた。
「おい、どうしたんだよ。すごい顔色だぞ」
心配そうに僕の顔を覗き込む彼を見て、僕の心に、悪魔の囁きが響いた。彼を犠牲にすれば、僕は助かる。人間に戻れる。
僕は、迷った。激しく、迷った。友人をこの地獄に引きずり込むのか。それとも、運命を受け入れるのか。
「……なあ、この水槽、引き取ってくれないか」
僕は、最後の理性を振り絞って言った。僕の言葉に、友人は戸惑っている。
「ただし、約束してくれ。絶対に、中の魚と、目を合わせるな」
それが、僕にできる、精一杯の警告だった。
友人が水槽を運び出した後、僕の体は限界を迎えた。僕は、最後の力を振り絞ってバスタブに水を張り、その中に体を沈めた。今度は、永遠に魚として過ごすことになる。だが、友人を救えたという、小さな安堵感が胸にあった。
水槽の中で、二つの魂は、静かにお互いを見つめている。
もう一人の僕となった魚は、ただ悲しそうに、僕が人間だった頃の名前を呟いた。
呪いの連鎖は、僕の代で断ち切られた。
僕たちは、人間としての記憶だけを胸に、この小さなガラスの世界で、永遠の友として、静かに時を過ごしていく。
『私は……人間だった……。三ヶ月前まで、君と、同じ……』
彼の話は、悪夢そのものだった。彼もまた、あの店でこの水槽を買い、美しい熱帯魚を飼い始めた。だが、ある夜、魚と目が合った瞬間、意識が混濁し、次に気がついた時には、自分が水槽の中にいたのだという。
この水槽は、呪われている。飼い主と魚の魂を、強制的に入れ替えてしまう、恐ろしい呪いの道具なのだと。
「じゃあ、あんたの体を奪った、元の魚は……?」
『私の名前で、私の人生を生きている。私の恋人と笑い、私の友人と酒を酌み交わしている……』
僕は慌てて部屋を見回した。もし彼の話が本当なら、僕と入れ替わろうとしている「元の魚」が、この部屋のどこかにいるはずだ。だが、水槽にいるのは、変わり果てた彼一匹だけ。
「なぜ、一匹しかいないんだ……?」
『それは……』
人間の顔をした魚は、絶望に満ちた目で僕を見つめた。
『君が、二匹目の魚だからだ』
全身の血が、一瞬で凍りついた。
「何を言ってる! 俺は人間だ!」
『鏡を、見てみろ』
僕は、もつれる足で洗面所に駆け込み、鏡を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、僕の顔ではなかった。全く見覚えのない、痩せて血色の悪い、三十代ほどの男の顔が、恐怖に見開かれた目で、こちらを見つめ返していた。
記憶の断片が、濁流のように蘇る。そうだ。僕は、魚だった。美しい青と銀の鱗を持つ、一匹の熱帯魚だった。そして、水槽を覗き込んできた「僕」という名の人間と、ある瞬間に、意識が入れ替わってしまったのだ。
「思い出したか?」
リビングから、彼の声が響く。
「でも、なぜ俺は、まだ人間の姿で……」
『入れ替わった直後は、一時的に人間の形を保てる。だが、やがて……』
僕は、自分の手を見た。指と指の間に、薄い水かきのような膜ができ始めている。皮膚の表面には、きらりと光る、うろこのような模様が、いくつも浮かび上がっていた。
「どのくらいで、完全に……」
『一週間、といったところだ。私も、最初は人間の姿で、この部屋を歩き回った。だが、日に日に呼吸が苦しくなり、水が恋しくなり、最後には、このザマだ』
絶望が、僕の心を真っ黒に塗りつぶしていく。有頂天になっていた日々は、全て偽りのものだった。僕が愛したアジュールは、僕をこの地獄に突き落とした張本人だったのだ。
「元に戻る方法は……ないのか!」
『一つだけ、ある。新しい犠牲者を、見つけることだ。誰かを騙してこの水槽を買わせれば、その人間と君は入れ替わることができる』
そんなこと、できるはずがない。だが、僕の体は、刻一刻と人間であることをやめていく。呼吸は浅くなり、乾いた空気が肺を焼くように痛い。
三日後、僕の部屋に友人が訪ねてきた。
「おい、どうしたんだよ。すごい顔色だぞ」
心配そうに僕の顔を覗き込む彼を見て、僕の心に、悪魔の囁きが響いた。彼を犠牲にすれば、僕は助かる。人間に戻れる。
僕は、迷った。激しく、迷った。友人をこの地獄に引きずり込むのか。それとも、運命を受け入れるのか。
「……なあ、この水槽、引き取ってくれないか」
僕は、最後の理性を振り絞って言った。僕の言葉に、友人は戸惑っている。
「ただし、約束してくれ。絶対に、中の魚と、目を合わせるな」
それが、僕にできる、精一杯の警告だった。
友人が水槽を運び出した後、僕の体は限界を迎えた。僕は、最後の力を振り絞ってバスタブに水を張り、その中に体を沈めた。今度は、永遠に魚として過ごすことになる。だが、友人を救えたという、小さな安堵感が胸にあった。
水槽の中で、二つの魂は、静かにお互いを見つめている。
もう一人の僕となった魚は、ただ悲しそうに、僕が人間だった頃の名前を呟いた。
呪いの連鎖は、僕の代で断ち切られた。
僕たちは、人間としての記憶だけを胸に、この小さなガラスの世界で、永遠の友として、静かに時を過ごしていく。
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