追放悪役令嬢は、絶品農業料理で辺境開拓!気づけば隣国を動かす「食の女王」になってました

緋村ルナ

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プロローグ:仮面の令嬢、偽りの日々に揺れる心

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 アストライア王国の王宮は、色鮮やかな装飾と、貴族たちの朗らかな笑い声に満ちていた。しかし、その華やかさの只中で、公爵令嬢ベアトリス・フォン・ローゼンベルクの心は、重く沈んだ鉛のように感じられていた。彼女は、王子の婚約者として、常に完璧であることを求められた。朝から晩まで、歩き方、話し方、社交ダンスの練習、淑女としての教養、そして何より、周囲の期待に応えるための「笑顔」を繕う日々。

 完璧な令嬢。それは周囲から与えられた称号であり、彼女自身が望んで手に入れたものではなかった。幼い頃から、周囲は彼女を「神童」と称えた。何を学ばせてもあっという間に習得し、その容姿も歳を重ねるごとに磨かれていった。しかし、真面目すぎるがゆえに、感情を素直に出すことが苦手だった。常に最善を尽くそうとすることで、かえって周囲に誤解を与えることもあった。感情豊かな言葉を紡ぐよりも、正確で論理的な返答を選んでしまい、それが「冷たい」と評されることも少なくなかった。

 彼女の婚約者である第一王子アルフレッド・アストライアもまた、そんな彼女の一面しか見ていなかったのかもしれない。学園時代から共に過ごしてきた。アルフレッドは正義感が強く、民を思う心を持つ王子だった。初めはベアトリスの真面目さを評価し、彼女を信頼していたように見えた。だが、彼にとってベアトリスは、完璧な婚約者ではあっても、心を許せる相手ではなかったのかもしれない。ベアトリスもまた、彼の前で本当の自分を見せることはほとんどなかった。常に、公爵令嬢、王子の婚約者としての「仮面」を被り続けていたのだ。

 その「仮面」の下には、誰にも言えない秘密が隠されていた。彼女には、この世界とは異なる場所で生きた「前世の記憶」があった。現代日本の豊かな食と、効率的な農業技術を知る記憶。この世界の貧困や非効率な農業を見るたび、胸が締め付けられる思いだった。いつか、この知識を活かして、本当に困っている人々の役に立ちたい。土に触れ、作物を育て、美味しい料理を人々に振る舞いたい。そんな幼い頃からの密かな夢を、王宮の堅苦しい日常の中で、ベアトリスは必死に心の奥底に封じ込めていた。それは、公爵令嬢である自分には決して許されない、取るに足らない夢だと思っていたからだ。

 しかし、その平穏な、けれど窮屈な日々は、ある夜会を境に、音を立てて崩れ去ることになる。王国に現れたという「聖女」の噂が囁かれ始めた頃から、アルフレッド王子の視線が、そして王宮全体の空気が、変わり始めたのをベアトリスは肌で感じていた。王宮での生活は、彼女にとってまるで精密に組まれた機械仕掛けのようだった。毎日同じ時間に起床し、同じような顔ぶれと挨拶を交わし、決められた作法に則って食事をし、公務をこなす。感情の起伏を抑え、常に完璧な笑みを浮かべ、模範たる公爵令嬢であり続けること。それが彼女の使命であり、唯一の存在意義だと思い込んでいた。

 だが、心の奥底で、ベアトリスは常に渇きを覚えていた。誰かに心から笑いかけたい、誰かと分かち合いたい、そんな当たり前の感情さえ、この場所では許されないような気がしていたのだ。前世の記憶が時折フラッシュバックするたびに、温かい食卓を囲む家族の笑顔や、泥にまみれても達成感に満ちた農作業の記憶が、現在の彼女の生活との間に深い溝を作り出していた。王宮の立派な温室で育てられた、整然と並ぶ美しい花々を見ても、彼女の心は踊らなかった。彼女が本当に触れたいのは、土の匂いを纏った生命力あふれる野菜であり、不揃いでも懸命に育つ作物だった。しかし、そんな本心は、ひっそりと彼女の心の片隅に押し込められていたのだ。

 アルフレッド王子との関係もまた、儀礼的なものに過ぎなかった。彼は彼女を尊重し、信頼してはいたが、それは「王子の婚約者」という立場に対する敬意であって、一人の女性、ベアトリス・フォン・ローゼンベルクに向けられたものではないと、彼女は薄々感じていた。学園時代も、彼の視線は常に未来の王国に向けられていた。彼の隣で歩む自分は、あくまで彼の理想とする未来の国王を支える存在であり、そこに個人の感情が入り込む余地はない。そう、自らに言い聞かせながら、ベアトリスは与えられた役割を全うしてきた。だが、その努力と献身が、間もなく脆くも崩れ去ることを、この時の彼女はまだ知る由もなかった。
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