3 / 17
第2章:雨と絶望と、懐かしい文字
しおりを挟む
王都を追われ、あてのない旅が始まって数日が過ぎた。立派な馬車も、上等なドレスも、全て取り上げられた。手元にあるのは、着の身着のままと、僅かばかりの金貨だけ。護衛もいない一人旅は、侯爵令嬢として生きてきた私にとってあまりにも過酷だった。
降りしきる冷たい雨が、容赦なく体温を奪っていく。泥濘に足を取られ、みすぼらしいローブはずぶ濡れで重い。空腹と疲労で、意識が朦朧としてきた。
もう、どれくらい歩いただろう。道の先に、小さな村の灯りが見えた。ベルフェリア、確かそんな名前の辺境の村だ。最後の力を振り絞って村の入り口にたどり着いた瞬間、私の足はもつれ、視界が暗転した。
次に目を覚ました時、私は古びた木製のベッドの上にいた。硬いが清潔な寝具の感触と、暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音。体を起こすと、簡素なワンピースに着替えさせられていた。
「おや、目が覚めたのかい」
部屋に入ってきたのは、皺の刻まれた優しい目をした老婆だった。私が倒れているところを、夫が見つけて運んでくれたのだという。老婆は温かいスープを差し出してくれた。空っぽの胃に染み渡るその優しさに、思わず涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
数日間、私は老夫婦の家で世話になった。彼らは私の素性を詮索することなく、ただ静かに回復する時間を与えてくれた。体力が戻ってきたある日、老婆が私の荷物を整理してくれていた。それは、私が倒れた時に抱きしめていた、小さな革袋だ。
「お嬢さんの大切なものだろうと思ってね。雨で濡れていたから、乾かしておいたよ」
その中に入っていた金貨と、そしてもう一つ。濡れて少しインクが滲んでしまった、一冊の小さな手帳。それは私が物心ついた時から、なぜか肌身離さず持っていたものだった。これまで一度も開いたことはなかったのに、何故か捨てられなかった。
そっとページをめくる。そこに書かれていたのは、見たこともない、不思議な文字だった。しかし、その文字を見た瞬間、私の頭に激しい痛みが走った。
――『チョコレートタルト』
――『クーベルチュールチョコレート、無塩バター、グラニュー糖、卵、薄力粉……』
知らないはずの言葉が、次々と頭の中に流れ込んでくる。蘇るのは、真っ白なコックコートを着て、大きな厨房に立つ自分の姿。甘いチョコレートの香り。オーブンから漂う、香ばしい匂い。たくさんの笑顔。
そうだ、私は――。
「私は……パティシエ……だった……?」
日本の、という国の、洋菓子職人。それが私の“前世”の姿。セシリア・マリーベル・エインズワースとして生きてきた記憶と、もう一つの人生の記憶が、濁流のように混ざり合い、そして一つになった。
手の中にあるのは、前世の私が書き溜めていたレシピノート。その一ページ目には、私の最も得意だったお菓子、「チョコレートタルト」の完璧なレシピが記されていた。
涙が、今度こそ頬を伝った。それは絶望の涙ではなかった。追放され、全てを失ったと思っていた。けれど、私は何も失ってなどいなかったのだ。この手の中には、この頭の中には、誰にも奪うことのできない“宝物”があった。
私はレシピノートを強く握りしめる。
「ありがとう、おばあさん」
私を助けてくれた老婆に、心からの感謝を告げる。
「私、ここで生きていきます。私にできることで、恩返しをさせてください」
その日を境に、悪役令嬢セシリアは死んだ。そして、一人の菓子職人、セシリアが生まれたのだ。この辺境の村、ベルフェリアで。
降りしきる冷たい雨が、容赦なく体温を奪っていく。泥濘に足を取られ、みすぼらしいローブはずぶ濡れで重い。空腹と疲労で、意識が朦朧としてきた。
もう、どれくらい歩いただろう。道の先に、小さな村の灯りが見えた。ベルフェリア、確かそんな名前の辺境の村だ。最後の力を振り絞って村の入り口にたどり着いた瞬間、私の足はもつれ、視界が暗転した。
次に目を覚ました時、私は古びた木製のベッドの上にいた。硬いが清潔な寝具の感触と、暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音。体を起こすと、簡素なワンピースに着替えさせられていた。
「おや、目が覚めたのかい」
部屋に入ってきたのは、皺の刻まれた優しい目をした老婆だった。私が倒れているところを、夫が見つけて運んでくれたのだという。老婆は温かいスープを差し出してくれた。空っぽの胃に染み渡るその優しさに、思わず涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
数日間、私は老夫婦の家で世話になった。彼らは私の素性を詮索することなく、ただ静かに回復する時間を与えてくれた。体力が戻ってきたある日、老婆が私の荷物を整理してくれていた。それは、私が倒れた時に抱きしめていた、小さな革袋だ。
「お嬢さんの大切なものだろうと思ってね。雨で濡れていたから、乾かしておいたよ」
その中に入っていた金貨と、そしてもう一つ。濡れて少しインクが滲んでしまった、一冊の小さな手帳。それは私が物心ついた時から、なぜか肌身離さず持っていたものだった。これまで一度も開いたことはなかったのに、何故か捨てられなかった。
そっとページをめくる。そこに書かれていたのは、見たこともない、不思議な文字だった。しかし、その文字を見た瞬間、私の頭に激しい痛みが走った。
――『チョコレートタルト』
――『クーベルチュールチョコレート、無塩バター、グラニュー糖、卵、薄力粉……』
知らないはずの言葉が、次々と頭の中に流れ込んでくる。蘇るのは、真っ白なコックコートを着て、大きな厨房に立つ自分の姿。甘いチョコレートの香り。オーブンから漂う、香ばしい匂い。たくさんの笑顔。
そうだ、私は――。
「私は……パティシエ……だった……?」
日本の、という国の、洋菓子職人。それが私の“前世”の姿。セシリア・マリーベル・エインズワースとして生きてきた記憶と、もう一つの人生の記憶が、濁流のように混ざり合い、そして一つになった。
手の中にあるのは、前世の私が書き溜めていたレシピノート。その一ページ目には、私の最も得意だったお菓子、「チョコレートタルト」の完璧なレシピが記されていた。
涙が、今度こそ頬を伝った。それは絶望の涙ではなかった。追放され、全てを失ったと思っていた。けれど、私は何も失ってなどいなかったのだ。この手の中には、この頭の中には、誰にも奪うことのできない“宝物”があった。
私はレシピノートを強く握りしめる。
「ありがとう、おばあさん」
私を助けてくれた老婆に、心からの感謝を告げる。
「私、ここで生きていきます。私にできることで、恩返しをさせてください」
その日を境に、悪役令嬢セシリアは死んだ。そして、一人の菓子職人、セシリアが生まれたのだ。この辺境の村、ベルフェリアで。
5
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢は廃墟農園で異世界婚活中!~離婚したら最強農業スキルで貴族たちが求婚してきますが、元夫が邪魔で困ってます~
黒崎隼人
ファンタジー
「君との婚約を破棄し、離婚を宣言する!」
皇太子である夫から突きつけられた突然の別れ。
悪役令嬢の濡れ衣を着せられ追放された先は、誰も寄りつかない最果ての荒れ地だった。
――最高の農業パラダイスじゃない!
前世の知識を活かし、リネットの農業革命が今、始まる!
美味しい作物で村を潤し、国を救い、気づけば各国の貴族から求婚の嵐!?
なのに、なぜか私を捨てたはずの元夫が、いつも邪魔ばかりしてくるんですけど!
「離婚から始まる、最高に輝く人生!」
農業スキル全開で国を救い、不器用な元夫を振り回す、痛快!逆転ラブコメディ!
追放された悪役令嬢(実は元・最強暗殺者)ですが、辺境の谷を開拓したら大陸一の楽園になったので、今更戻ってこいと言われてもお断りです
黒崎隼人
ファンタジー
元・凄腕暗殺者の私、悪役令嬢イザベラに転生しました。待つのは断罪からの破滅エンド?……上等じゃない。むしろ面倒な王宮から解放される大チャンス!
婚約破棄の慰謝料に、誰もが見捨てた極寒の辺境『忘れられた谷』をせしめて、いざ悠々自適なスローライフへ!
前世の暗殺スキルと現代知識をフル活用し、不毛の地を理想郷へと大改革。特製ポーションに絶品保存食、魔獣素材の最強武具――気づけば、谷は大陸屈指の豊かさを誇る独立領に大変貌!?
そんな私の元に現れたのは、後悔と執着に濡れた元婚約者の王太子、私を密かに慕っていた騎士団長、そして「君ごとこの領地をいただく」と宣言する冷徹なはずの溺愛皇帝陛下!?
いえ、求めているのは平穏な毎日なので、求婚も国の再建依頼も全部お断りします。これは、面倒事を華麗に排除して、最高の楽園を築き上げる、元・暗殺者な悪役令嬢の物語。静かで徹底的な「ざまぁ」を添えて、お見せしましょう。
婚約破棄で追放された悪役令嬢、前世の便利屋スキルで辺境開拓はじめました~王太子が後悔してももう遅い。私は私のやり方で幸せになります~
黒崎隼人
ファンタジー
名門公爵令嬢クラリスは、王太子の身勝手な断罪により“悪役令嬢”の濡れ衣を着せられ、すべてを失い辺境へ追放された。
――だが、彼女は絶望しなかった。
なぜなら彼女には、前世で「何でも屋」として培った万能スキルと不屈の心があったから!
「王妃にはなれなかったけど、便利屋にはなれるわ」
これは、一人の追放令嬢が、その手腕ひとつで人々の信頼を勝ち取り、仲間と出会い、やがて国さえも動かしていく、痛快で心温まる逆転お仕事ファンタジー。
さあ、便利屋クラリスの最初の依頼は、一体なんだろうか?
転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話
タマ マコト
ファンタジー
前世の記憶を持って貴族令嬢として生きるセレフィーナは、感情を見せない“冷たい令嬢”として王都で誤解されていた。
王太子クラウスとの婚約も役割として受け入れていたが、舞踏会の夜、正義を掲げたクラウスの婚約破棄宣言によって彼女は一方的に切り捨てられる。
王都のクラウスに対する拍手と聖女マリアへの祝福に包まれる中、何も求めなかった彼女の沈黙が、王都という冷酷な世界の歪みを静かに揺らし始め、追放先の辺境での運命が動き出す。
辺境追放された「植物魔導師」の領地開拓 ~枯れ果てた死の大地は、俺の魔力で聖域(楽園)へと変貌する~
リーフレット
ファンタジー
「植物魔法? ああ、農作業にしか使えないあの地味な魔法か」
帝国騎士団の専属魔導師だったアルトは、無能な二世皇太子レオンによって、一方的に追放を言い渡された。
アルトがどれほど魔導植物を駆使し、帝国の食糧難を裏から支えていたかを知らぬまま、彼は「戦闘に役立たない役立たず」という烙印を押されたのだ。
帝国を出て行き着いた先は、魔物が跋扈し、草一本生えないと言われる最果ての荒野。
死を待つだけの地。しかし、アルトは絶望するどころか、晴れやかな顔で笑っていた。
「やっと、気兼ねなく『植物』を愛でられる。……よし、ここを世界一の庭(楽園)にしよう」
「お前は用済みだ」役立たずの【地図製作者】と追放されたので、覚醒したチートスキルで最高の仲間と伝説のパーティーを結成することにした
黒崎隼人
ファンタジー
「お前はもう用済みだ」――役立たずの【地図製作者(マッパー)】として所属パーティーから無一文で追放された青年、レイン。死を覚悟した未開の地で、彼のスキルは【絶対領域把握(ワールド・マッピング)】へと覚醒する。
地形、魔物、隠された宝、そのすべてを瞬時に地図化し好きな場所へ転移する。それは世界そのものを掌に収めるに等しいチートスキルだった。
魔力制御が苦手な銀髪のエルフ美少女、誇りを失った獣人の凄腕鍛冶師。才能を活かせずにいた仲間たちと出会った時、レインの地図は彼らの未来を照らし出す最強のコンパスとなる。
これは、役立たずと罵られた一人の青年が最高の仲間と共に自らの居場所を見つけ、やがて伝説へと成り上がっていく冒険譚。
「さて、どこへ行こうか。俺たちの地図は、まだ真っ白だ」
偽りの呪いで追放された聖女です。辺境で薬屋を開いたら、国一番の不運な王子様に拾われ「幸運の女神」と溺愛されています
黒崎隼人
ファンタジー
「君に触れると、不幸が起きるんだ」――偽りの呪いをかけられ、聖女の座を追われた少女、ルナ。
彼女は正体を隠し、辺境のミモザ村で薬師として静かな暮らしを始める。
ようやく手に入れた穏やかな日々。
しかし、そんな彼女の前に現れたのは、「王国一の不運王子」リオネスだった。
彼が歩けば嵐が起き、彼が触れば物が壊れる。
そんな王子が、なぜか彼女の薬草店の前で派手に転倒し、大怪我を負ってしまう。
「私の呪いのせいです!」と青ざめるルナに、王子は笑った。
「いつものことだから、君のせいじゃないよ」
これは、自分を不幸だと思い込む元聖女と、天性の不運をものともしない王子の、勘違いから始まる癒やしと幸運の物語。
二人が出会う時、本当の奇跡が目を覚ます。
心温まるスローライフ・ラブファンタジー、ここに開幕。
「役立たず」と捨てられた仮面聖女、隣国の冷徹皇帝に拾われて真の力が目醒める〜今さら戻ってこいと言われても溺愛されすぎて忙しいので無理です
まさき
恋愛
「役立たずの偽聖女め、その不気味な仮面ごと消えてしまえ!」
十年もの間、仮面で素顔を隠し、身代わり聖女として国を支えてきたリゼット。
しかし、異母妹が聖女として目醒めたことで、婚約者の第一王子から婚約破棄と国外追放を言い渡されてしまう。
捨てられた先は、凶悪な魔獣が跋扈する『死の森』。
死を覚悟したリゼットだったが、仮面の下の本音は違った。
(……あー、やっとあのブラック職場からおさらばですわ! さっさと滅びればいいんですわ、あんな国!)
清々した気持ちで毒を吐くリゼットの前に現れたのは、隣国の冷徹皇帝・ガイウス。
彼はリゼットの仮面の下に隠された「強大すぎる魔力」と、表の顔とは裏腹な「苛烈な本性」を瞬時に見抜き、強引に連れ去ってしまう。
「気に入った。貴様は今日から、私のものだ」
バルディア帝国へと連行されたリゼットを待っていたのは、冷徹なはずの皇帝からの、逃げ場のない過保護な溺愛だった……。
一方、真の聖女(リゼット)を失った王国は、守護の結界が崩壊し絶体絶命の危機に陥る。
「戻ってきてくれ」と泣きつく王子たちに対し、皇帝の腕の中に収まったリゼットは、極上のスイーツを頬張りながら優雅に言い放つ。
「お断りいたしますわ。私、今とっても忙しい(溺愛されている)んですもの」
仮面の下で毒を吐くリアリスト聖女と、彼女を離さない執着皇帝の、大逆転溺愛ファンタジーが開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる