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第3章:寡黙な元騎士と、小さな奇跡
枯れ谷での生活は、想像を絶する困難の連続だった。まずは館の掃除だ。ドレスの裾をまくり、頭に布を巻き、来る日も来る日も埃と格闘した。水を汲みに、遠くの濁った泉まで何度も往復した。公爵令嬢として生きてきた私の手は、すぐに豆だらけになり、爪は泥で真っ黒になった。
そんなある夜のこと。備蓄の食料も心もとなくなり、館の周辺で食べられるものはないかと探していると、背後の茂みからガサリと大きな物音がした。振り返ると、そこには涎を垂らし、赤く目を光らせた猪型の魔物が立っていた。鋭い牙が、月明かりに鈍く光る。
「……っ!」
悲鳴も出なかった。腰が抜け、その場にへたり込む。ああ、こんなところで、魔物に喰われて死ぬのか。あまりにあっけない、惨めな最期だ。
魔物が私に向かって突進してくる。ぎゅっと目を閉じた、その時。
「――そこまでだ」
低く、けれど芯の通った声が響き、銀色の閃光が走った。次に目を開けた時、魔物は首から血を吹き出して倒れ、その傍らには一人の男が立っていた。
黒い髪に、黒い瞳。無骨だが鍛え抜かれた体躯に、古びた剣を手にしている。彼は私を一瞥すると、興味なさそうに魔物の亡骸を片付け始めた。
「あ、あの……助けていただき、ありがとうございます」
「……夜中に一人で出歩くな。ここは魔物が出る」
「はい……存じております。ですが、食料が……」
「……」
男は何も言わず、ただ黙々と作業を続ける。気まずい沈黙が流れた。この谷に、私以外の人間がいたことに驚いた。
「この村に、お住まいの方ですか?」
「村というほどのものじゃない。俺はカイ。それだけだ」
カイと名乗った男は、それ以上何も語ろうとしなかった。彼は魔物を手際よく解体すると、一番上等な肉の塊を無言で私に差し出した。
「え? こ、これは……」
「食料だろう。持っていけ」
「ですが、助けていただいた上に、このようなものまで……」
「礼はいらん。その代わり、さっさと王都に帰る算段でも考えろ。貴族のお嬢様が、こんな場所で生きていけるわけがない」
カイの目は、冷ややかに私を見据えていた。彼はおそらく、私の素性を察しているのだろう。その言葉に、カチンと来た。私の中の「悪役令嬢」のプライドが、久しぶりに顔を出す。
「お心遣いは痛み入りますが、ご心配には及びませんわ。私は、ここで生きていくと決めたのですから」
「……好きにしろ」
カイは呆れたようにため息をつくと、残りの肉を担いで闇に消えていった。
彼の冷たい態度は悔しかったけれど、同時に、彼の言葉は私の心に火をつけた。見ていなさい。貴族令嬢だからって、すぐに音を上げるなんて思わないで。
翌日から、私は畑作りに取り掛かった。館の裏手に、比較的日当たりの良い場所を見つけたのだ。鍬などないから、手頃な木の枝と石で地面を耕す。硬い大地は、爪が剥がれそうになるほど力を入れても、なかなか掘り起こせない。泥と汗にまみれ、何度も心が折れそうになった。
そんな時、私を支えてくれたのは、やはり「大地の声」だった。
『もう少し右側がいい。そこは、地下に岩がある』
『深く耕しすぎなくていい。この土は、優しい刺激を求めている』
土の声に導かれるまま、私は来る日も来る日も畑を耕し続けた。カイが時々、遠巻きに私の様子を眺めているのに気づいたが、私は気にせず作業に没頭した。彼の視線が、冷ややかなものから、次第に困惑の色を帯びていくのを感じながら。
そして、種を蒔いてから一週間が経ったある朝。
私は、自分の目を疑った。ひび割れた黒い土の間から、小さな、本当に小さな双葉が顔を出していたのだ。
それは、アカデミーの植物学の授業で見た、トマトの芽だった。この呪われた谷では決して育たないはずの、太陽を好む植物。
「……芽が、出た……」
震える指で、そっと双葉に触れる。か細いけれど、確かな生命力。涙が、ぽろぽろと頬を伝って土に落ちた。断罪された時とは違う、温かい涙だった。
私の努力が、この土地に通じた。小さな奇跡が、今、この手の中で生まれたのだ。
遠くの木陰で、カイが息を呑む気配がした。
そんなある夜のこと。備蓄の食料も心もとなくなり、館の周辺で食べられるものはないかと探していると、背後の茂みからガサリと大きな物音がした。振り返ると、そこには涎を垂らし、赤く目を光らせた猪型の魔物が立っていた。鋭い牙が、月明かりに鈍く光る。
「……っ!」
悲鳴も出なかった。腰が抜け、その場にへたり込む。ああ、こんなところで、魔物に喰われて死ぬのか。あまりにあっけない、惨めな最期だ。
魔物が私に向かって突進してくる。ぎゅっと目を閉じた、その時。
「――そこまでだ」
低く、けれど芯の通った声が響き、銀色の閃光が走った。次に目を開けた時、魔物は首から血を吹き出して倒れ、その傍らには一人の男が立っていた。
黒い髪に、黒い瞳。無骨だが鍛え抜かれた体躯に、古びた剣を手にしている。彼は私を一瞥すると、興味なさそうに魔物の亡骸を片付け始めた。
「あ、あの……助けていただき、ありがとうございます」
「……夜中に一人で出歩くな。ここは魔物が出る」
「はい……存じております。ですが、食料が……」
「……」
男は何も言わず、ただ黙々と作業を続ける。気まずい沈黙が流れた。この谷に、私以外の人間がいたことに驚いた。
「この村に、お住まいの方ですか?」
「村というほどのものじゃない。俺はカイ。それだけだ」
カイと名乗った男は、それ以上何も語ろうとしなかった。彼は魔物を手際よく解体すると、一番上等な肉の塊を無言で私に差し出した。
「え? こ、これは……」
「食料だろう。持っていけ」
「ですが、助けていただいた上に、このようなものまで……」
「礼はいらん。その代わり、さっさと王都に帰る算段でも考えろ。貴族のお嬢様が、こんな場所で生きていけるわけがない」
カイの目は、冷ややかに私を見据えていた。彼はおそらく、私の素性を察しているのだろう。その言葉に、カチンと来た。私の中の「悪役令嬢」のプライドが、久しぶりに顔を出す。
「お心遣いは痛み入りますが、ご心配には及びませんわ。私は、ここで生きていくと決めたのですから」
「……好きにしろ」
カイは呆れたようにため息をつくと、残りの肉を担いで闇に消えていった。
彼の冷たい態度は悔しかったけれど、同時に、彼の言葉は私の心に火をつけた。見ていなさい。貴族令嬢だからって、すぐに音を上げるなんて思わないで。
翌日から、私は畑作りに取り掛かった。館の裏手に、比較的日当たりの良い場所を見つけたのだ。鍬などないから、手頃な木の枝と石で地面を耕す。硬い大地は、爪が剥がれそうになるほど力を入れても、なかなか掘り起こせない。泥と汗にまみれ、何度も心が折れそうになった。
そんな時、私を支えてくれたのは、やはり「大地の声」だった。
『もう少し右側がいい。そこは、地下に岩がある』
『深く耕しすぎなくていい。この土は、優しい刺激を求めている』
土の声に導かれるまま、私は来る日も来る日も畑を耕し続けた。カイが時々、遠巻きに私の様子を眺めているのに気づいたが、私は気にせず作業に没頭した。彼の視線が、冷ややかなものから、次第に困惑の色を帯びていくのを感じながら。
そして、種を蒔いてから一週間が経ったある朝。
私は、自分の目を疑った。ひび割れた黒い土の間から、小さな、本当に小さな双葉が顔を出していたのだ。
それは、アカデミーの植物学の授業で見た、トマトの芽だった。この呪われた谷では決して育たないはずの、太陽を好む植物。
「……芽が、出た……」
震える指で、そっと双葉に触れる。か細いけれど、確かな生命力。涙が、ぽろぽろと頬を伝って土に落ちた。断罪された時とは違う、温かい涙だった。
私の努力が、この土地に通じた。小さな奇跡が、今、この手の中で生まれたのだ。
遠くの木陰で、カイが息を呑む気配がした。
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