石鹸箱のうら

おきたワールド

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本編

裏切り

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早起きの蝉が家の近くの樹で、孤軍奮闘といった風に鳴き叫ぶ。
自室の窓から吹きこむ夏の熱気を肺一杯に吸って、スマホに流れる映像を一時停止させる。
おれは畳の上で扇風機の風に吹かれながら眠っているヱリカを見つめた。
一切の感情を削ぎ落とした彫像のような顔は随分と神秘的で、おれはヱリカのこの寝顔を見るのが特別好きだった。
ヱリカはがしゃどくろ柄の振袖を着たまま、胎児のように身体を丸めて、呼吸も停止させたように夢中に身を委ねる。
眠っている彼女は無表情で、どこかけだるげで、それなのに美しくて、誰にも侵食されない。
媚びもせずに笑いもせずに、ただそこにいるだけで圧倒的な存在感をもっていた。

おれは例えばこの少女が人を誑かす妖魔の類であっても、その正体がこれほどまでに妖艶な存在であるなら、寧ろ歓喜して魅せられることを望むのだろう。
すう、すう、と一定のリズムを微かに繰り返していた寝息が少し乱れたかと思うと、彼女はゆったりと瞼を上げた。
目が合うと、ヱリカは弱々しく微笑む。
嬉しそうにも見えないし、申し訳なさそうにもしていない。
何を考えているのかまるでわからなくて、何も考えていないようにも見えた。
「西鬼くん、わたしのことをずっと見てたの?」
「おはようございます。ヱリカ」
「ふぁ……おはよう、ねー」

ヱリカは似ているようだな、と思った。
似たようなことが、昔あって、でも普段は忘れている。
それは、とおれは考えて、おそらくそうだ、あの記憶だと気がついて驚いてしまう。
どの辺りがどのようにどうして似ているのかはわからないけれども、何故か似ていることだけは確信めいていた。
おれにはいつもそれぐらいのことしか分らなくて、それ以上のことは分からなくてもさして気にならない質だ。
ただ、あの記憶を誰かに聞いて欲しかった。
おれは目の前の少女に語りかける。
「ねえ。ヱリカ。聞いて。おれは、一度だけ、誘拐されかけたことがあるんです」

日を浴びた畳に寝転んだまま、静かにおれを見上げるヱリカの視線は、どこか傷ついているようにも見えた。
彼女の心痛がおれにわかるはずもないので、そう見えたのはおれの願望が投影されただけなのかもしれないが。
「あくまで未遂なんですけどね。その人はママの元恋人で、おれを黒い車で待ち伏せして、小学校帰りのおれを車に連れ込むと二駅先の街まで連れて行ったんです。知らないデパートまで連れられて、保護者が居なきゃ見れないような映画を見て、ゲーセンに行ってゾンビを撃ちまくるゲームをして、ハンバーガーを食べさせて貰ったりしました。あの女は、おれを使えばママが自分と会話してくれると勘違いしていて……根は優しい人なんだと思います。少なくとも子供を誘拐したら親は焦るだろうと考えていたくらいには他人の善性を信じている」

生温い風が吹いて、汗で湿った頬を撫でる。
「あの女は何かに怯えるように言ったんですよ。大丈夫、傷つけたいわけじゃないの、酷いことは絶対にしないから、って……実際にあの女はおれを害するようなことはしなくて、ママに何度電話をかけても繋がらないことに気がつくと、おれのことを最寄りの公園まで送って帰っちゃったんですよね。それで、おれが家に帰るとママはリビングに居て、おれに言ったんです。ドライブは楽しかった?アンタ私にどっか連れてけってうるさかったから困ってたのよ、ママの代わりに遊んでくれる人がいて良かったわね、あの子には電話で言っておくから。って……」
蝉はあちこちで大合唱を繰り広げていた。
話していると、当時の感情が押し寄せてくる。

「言っておくって一体なんなんだろうって思います。心配してくれないんですか?どうしてそんなに他人事なんですか?って……あの女とはあれ以降会いませんでしたが、確かにママよりもあの女の方がずっと酷いことはしなかった、おれを傷つけることは一瞬だって無かったんです。なんでしょうね、それからですかね。人や動物を傷つけるような動画ばかり見るようになったの。でも、ワクワクするし、落ち着くんですよね」
ヱリカは永遠に少女のようだけど、いつまでも満たされないと嘆いているような潤んだ瞳をおれに向けた。
蜃気楼めいている白く透けた桜の花びらにも似たうつくしい顔立ち。

おれは彼女を楽しませようとして、スマホの音量を最大値まで上げて一時停止していた動画の続きを再生した。
中身は検索禁止ワードでヒットしたスナッフフィルムだ。
ホームレスの老人の顔を少年がハンマーで殴り陥没させて、アイスピックで腹や顔、眼球を執拗に何度も刺す、ハンマーで頭部を何度も殴打される。
老人は赤く濡れた風船のような腹部を揺らし呻いて、少年たちは無邪気な笑い声を上げながらカメラを向けていた。
おれはヱリカの隣に座って、画面の中で実在する人間が簡単に死ぬ姿を眺めている。
初めて動画を見た時は心臓がドキドキしたものだけど、何度も見るうちに慣れてしまった。
これならば、一昨日のようにヱリカと山で動物を殺した方がずっと心臓がドキドキして夢中になれる。

「ねえ。ヱリカ、」
おれの方を向いた彼女は、照れたようにほんのり目尻を赤く染めて緩やかに微笑んだ。
「わたしはさ、本当はたった一日でも西鬼くんと離れて生きていられないのかもしれないね」
そう言うと、ふわりと唇を重ねた。
ヱリカの長い睫毛が、おれの頬を軽く引っ掻く。
甘露が滴る、猛毒の味だ。
彼女の肉体が致死量の毒であると頭では分かっていながらも、極上の甘さだと認識した口付けは一度味わったら忘れられない悦楽だった。
反射的にガシッと彼女の両肩に手を置く。
ヱリカの舌は小さくて、粘液みたいだった。
薄い皮膜で覆われて溶けたゼリーのように、ぶつっと歯を立てたら破れてしまいそう。

何度も、求めて、結んだ。
熱くてぽってりとした舌を口内に差し込まれて、舌を絡められ、弄ばれる。
思わず、鼻を鳴らしてしまう。
すでに思考回路は弛緩して、悦楽とも虚脱ともつかない。
甘美な中毒性を孕んだ熱さが、全身を麻痺させていく。
腰の辺りがずくりと重くなって、下着がキツくなるのを感じた。
ヱリカ鈴を鳴らすように透明な声で囁く。
「ずっと、悲しくて、痛いね」
夏の暑さと、薫り来る彼女の春の匂いが入り乱れて、脳味噌がぐちゃぐちゃに掻き乱される。
血塗れになる老人のうめき声に、血のあぶくの溢れる音、無邪気な少年たちの声が蝉の声の合間に聞こえた。
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