あやかし生花店の仮店主

渡波みずき

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スナック紫苑とワスレナグサ

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 フローリスト井上は、閉店してはいるものの、売りに出されているわけではない。立地のよさもあって、買い手はあまた付くだろうが、ゆり子は売らずに留学した。戻ったら、また同じ場所で店を再開する気なのだ。

 塾のたびにその店構えを見かけていたのに、いつのまにか店が開いていたことには、とんと気づかなかった。
 麻衣はあらためて店の外観に目をやった。白地にピンクの飾り文字で書かれた看板からは乙女ちっくな印象を受ける。すこし時代がかった装飾だ。シャッターも古びて、ペンキがはげ、表面に錆が浮いている。いかにもガタが来ている風情である。

 そして、そのシャッターは半分開いていた。腰高よりも少し低い。男や麻衣ならしゃがまなければ入れないけれど、ことりならきっと、腰をかがめるだけで入れる。そんな高さだ。

「ことり、いるかい? お客様がいらしているよ」
 男が店の前に膝をつき、奥へ声をかける。まるで、茂みに隠れたネコでも探すような風情だ。麻衣も膝頭に手をついてかがんでいると、店の奥から物音が聞こえた。

 シャッターのむこうに見えたのは、エナメルの黒い靴だった。レースのついた白い靴下、スカートの裾のフリルがのぞき、最後にふんわりと編まれた栗色のお下げが見えてくる。
「麻衣ちゃん?」
 シャッターをくぐって出てきたことりは、こちらを見て、大きな目を見開いた。麻衣は照れながらもひらりと手をあげた。

「元気そうだね」
「ええ、麻衣ちゃんも相変わらずの無頓着ね。まさか、その格好で出かけるつもり?」
 挨拶より先に服装について指摘を受け、麻衣は、あははと頭をかいた。

 ことりは母譲りの容姿を生かして、いつもかわいらしく装っている。強気でおしゃまな口調も相まって、小生意気でかわいらしい。
 ことりは胸を張り、両手を腰にあてた。
「そのTシャツ、黒いのに洗濯ネットにも入れずに洗ったわね! 白いほこりがいっぱいついてるじゃないの。デニムもかかとの裾がほつれてるわ。いくらダメージ加工だからって、レディが着る服じゃなくってよ!」

 あえて言い訳をするならば、Tシャツを勝手に洗濯機に放りこんで洗ったのは母だ。しかし、その後の手入れをしなかったのは自分だし、ジーンズのほつれについては、まったくもって気がついていなかった。
「休日の庭いじりじゃないんだから、もう少し気を遣わなきゃ!」

 こてんぱんに麻衣をたたきのめして、ふと麻衣の隣で苦笑していた男に気づき、ことりは眉を寄せた。
佳介けいすけ、もしかして紫苑さんに行ったの?」
 なじるような声音だった。取りなそうとして、麻衣はあわててあいだに入る。
「お花を届けてもらったの」
「お花を?」
 さらに怪訝そうな顔をしたことりに、佳介と呼ばれた男はえへらっと笑った。
「先日、こちらで絹江さんにばったりとお会いしまして、なりゆきで」

 店のシャッターを開け、ことりが帰るのを待っていたところに母が通りがかった。つい、店を開けたと話してしまったと弁明する彼に、ことりは呆れたようにためいきをついた。
「……いいわ。ママには内緒にしてあげる」
 この発言に、えっ? と驚いたのは麻衣だ。この男は、正式に店を任されたわけではないというのか。
「それで、お代は?」
「帳簿を見て、いつもの額をいただいてまいりましたよ、このとおり──」
 そう言って、懐に手を入れた佳介は、にこやかな笑顔のまま、はてと首をかしげる。袖口を探り、帯のなかをぐるりと一周。

「むむむ、無い無い。ああ! どうやらカウンターに置き忘れてきたらしいですねえ」
「置き忘れてきたらしいですねえ、じゃないでしょう!」
 口真似までして叱りつけ、ことりはめまいをこらえるかのように額に手を当てる。

「どこまでぽやぽやしてたら気が済むのよ、まったく。わかったわ、わたしが取りに行ってくる。行きましょ、麻衣ちゃん」
「ええ? でもね、ことりちゃん。あたし、これから塾が」
「何時からどこで?」
 強い口調で問われて、麻衣は蚊の鳴くような小さな声で答えた。
「五時から、鎌倉で」
「よかった。じゃあ、じゅうぶん間に合うわね?」
 にっこりと微笑んで、ことりは麻衣の手を取った。

「さ、戻りましょ。そうだわ、ついでにお洋服も見立ててあげる。そんな格好じゃ、恥ずかしいもの」
「でも……」
 麻衣が示したわずかな拒否に、ことりはかわいらしく首をかしげる。
「あら、お礼はコクリコのクレープで結構よ」
 ことりは言いだしたら頑として聞かない。そういうところも母親によく似ている。あのひとも、周囲の猛反対を押し切って留学してしまった。

 ぱっと見はたおやかでかわいらしくて守ってあげたい気持ちにさせる一方で、一本芯の通った振る舞いがひとを強く惹きつける。それでも、横暴さはない。どこまでも女性的だ。
 身近なお手本があれば、こんなに小さなうちからだって、ちゃんと『レディ』になれるのだ。そう思うと、がさつで大雑把な母が少し恨めしかった。
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