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スナック紫苑とワスレナグサ
五
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今夜も、スナック紫苑の客の入りは悪くないらしい。近づいていくにつれ、大音量のカラオケがもれ聞こえてくる。
この家に勝手口はない。麻衣は表のドアを押しあけ、スナックの店内に滑りこんだ。
オレンジ色のあかりがあたたかい。まだ早い時間だ。店内にいる客は片手の指で数えられるほどだった。
「おかえり」
母の声が短く飛ぶ。こちらを見ることもしない。かわりにカウンターにむかっていたなじみの客がふりむいた。
「おかえり、麻衣ちゃん」
「ただいま。佐々木さん、お酒ばっかりじゃなくて、おつまみも食べてね。そう毎晩毎晩じゃあ、からだ壊しちゃうよ!」
手元を見て、愛想よく声をかけ、カウンターに入る。冷蔵庫から作っておいたおにぎりを取り出すと、母が小鉢に肉じゃがをよそって手渡してくれた。
二階にあがり、ちゃぶ台で夕食を摂る。ここから午前三時くらいまでは、とてもではないが、階下がうるさくて勉強はできない。終始、だれかが歌っているし、母の笑い声はよくとおる。
十時ごろに床について、目が覚めたのは、早朝四時半だった。隣を見るも、敷いておいた母の布団に、主の姿はない。
さすがに、もう客はだれも残っていまい。店のほうは静かだ。麻衣は深く息を吐くと、髪を手櫛でととのえた。寝間着のまま、忍び足で階段をおりる。
今日の母は、ウィスキーグラスを握りしめ、カウンター席で潰れていた。晩酌をしたらしい。ロックで飲んだのか、グラスの底に小麦色が沈み、透明な上澄みが浮いている。
──水割りにしろって言ってるのに。
麻衣は母に近寄り、グラスから指を引きはがした。寝ぼけた母に肩を貸し、担ぎあげるようにして、階段をのぼる。
「麻衣、いつもありがと」
耳元で礼を言われた。麻衣は黙って母のからだを抱えなおして、一段一段を踏みしめる。二階の寝室に着いたとたん、母は酔いのまわったようすで、着替えもせずに床に膝をつき、ぱたりと伏せてしまう。
布団からはみ出している母に掛け布団をかけてやり、自分も二度寝をしようと床に入る。
「麻衣」
呼ばれて、寝言だと思い、麻衣は返事もせずに寝返りを打った。あくびをして、薄目を開く。すると、母と目が合った。
母はへらりと笑う。
「母さんね、結婚しまぁす」
「……はぁあっ?」
飛び起きた麻衣をよそに、母は満面に笑みをうかべて、すぴーっと心地よさそうな寝息を立てはじめた。熟睡しているらしく、揺さぶっても何をしても、起きる気配すらない。
「どういうことだよ、もう!」
爆弾発言にも程がある。それからたっぷり三時間。二度寝もできずに悶々としたまま、麻衣はぐっすりと眠る母を置いて、学校にむかう羽目となった。
ひさしぶりの通常授業は、予想以上にハードだった。寝不足も影響しているかもしれない。昼休みになっても、弁当を広げる気にもならない。
机にうつぶせて考えるのは、母の結婚のことばかりだった。
両親が不倫もしくは内縁と呼ばれる関係だったことを、麻衣は長いあいだ知らなかった。
父も母も非常に仲がよく、ひとりっ子の麻衣をとてもかわいがってくれた。当然、両親は結婚しているものだと思いこんでいた。
だが、ある朝、出かけていった父は、そのまま家には帰ってこなかった。麻衣がことりと同じ八つのころだ。母は心配のあまり店もあけられず、一晩じゅう、父の帰りを待った。そして、翌朝どこかに電話をかけ、その電話口で静かに泣いた。
仕事先で倒れ、そのまま亡くなったのだと言う。麻衣が父の死と、両親の関係性を知ったのは、小学六年生のときだ。
──なんで、いまさら結婚なんて。
目を閉じたまま、顔を横にむけると、机の前にだれかが立った。のぞきこまれたような気配に、パッとまぶたをあげる。
かがんでいた人影が身を起こす。逆光で顔が見えない。大柄な男子生徒だ。短めに刈った黒髪に、浅黒い肌。十月だと言うのに白い半袖ポロシャツ姿で。
目が慣れてきて、麻衣は緊張を解いた。
「ああ、なんだ。林か」
「『なんだ』はねえだろ、ひでえなあ」
喉の奥で笑い、林は手に提げている袋を掲げてみせた。購買のパンを買ってきたらしい。
「三橋、昼飯ねえの? 分けてやろうか?」
「だいじょうぶ。食欲なかっただけだから」
弁当包みを取りだして、机に置くと、林はマジメな表情で麻衣の顔を見つめた。
「無理すんなよ? 体調悪いんなら、早退しちまえばいいじゃん」
「平気だってば。お気遣い痛み入ります」
──なんだろ、今日は妙にからむなあ。
さらりと流してから、麻衣は思いだして、林に軽く微笑んだ。
「昨日はありがとね。すごく助かった」
近藤の件をさして言ったつもりだったが、林は不思議と照れたような表情になった。
「別に」
そっけない返答に、首をかしげる。
いつも昼休みをいっしょに過ごす女子グループは、中庭か屋上にでも出てしまったらしい。連絡するのもおっくうで、麻衣はその場で弁当箱を開く。そうしてから、いまだにたたずむ林をうろんな表情で見上げた。
「……林。あんた、まさかあたしの弁当を狙ってんの? ターゲットは何だ、ミートボールか、卵焼きか?」
ふざけつつ、ミートボールをひとつ食べる。黙りこむ彼に、しかたないなあと、もうひとつを箸でつまんでさしだした。
「ほら、林、あげるからかがみなさい」
もう、自分が口をつけた箸だ。ほんとうに食べさせる気はない。途中でひょーいと奪い返す予定だ。いつもの彼なら、そのあたりのふんいきはわかっているはずだった。
それなのに。
林は長身をすっとかがめた。あぐ、器用に口でミートボールをくわえ、くちびるについたたれを親指でぬぐって、それまで舐める。
そのしぐさに、見とれてしまった。
麻衣がぽかんとしたことに気づいているのか、いないのか。林は感想をのべる。
「おい、三橋。うまいけど、これ、つくねじゃね?」
「──バレたか。実は鶏挽肉で作りました」
「手作り! すげえ」
もっとくれ、そっちもくれ。ひとがいないのをよいことに麻衣の前の席に陣取って、林は最終的には麻衣の弁当を食べはじめる。トレードだと言って、麻衣の机には購買のツナマヨサンドイッチが載せられた。パンのほうが、弁当よりは幾分食べやすかった。
「三橋さ、明後日、俺の試合見に来ない?」
「……弁当付きで?」
「重箱弁当付きで。いや、マジで。今週、交流試合があるんだ。俺と近藤が一年のなかでふたりだけ、メンバーに選ばれててさ。先輩たちと違って、応援してくれる女子もいないし、枯れ木も山の賑わいというか」
最後のワンフレーズにこぶしで殴りかかることで返答した麻衣に、林はふざけきった調子で頭を押さえた。やりとりにあきれたのか、むこうのほうから、近藤の野次が飛んだ。
「林! ひとをパシっといて何、さっきから延々、じゃれあってんだよッ」
ことばの途中で、近藤は何かをふりかぶる。飛んできたものは、小気味良い音を立てて林のてのひらにおさまった。
「サンキュ!」
近藤に礼を言い、林は席を立つ。
「ごちそうさん。これ、やるわ」
椅子を戻しながら言って、麻衣の机のうえに手のなかのものを置いた。
紙パックのいちごミルクだ。好物だが、林もこれが好きなのだろうか。麻衣は上目遣いに林を見た。
「あたし、テニスのルールわかんないよ?」
「いいんだよ。見てりゃなんとなくわかる。知りたきゃ、今度教えてやる」
試合の日時と場所を簡潔に伝えて、彼はきびすを返す。近藤たちに合流する背を見送り、麻衣はいちごミルクに手を伸ばす。冷たい紙パックにほんのりと残ったぬくもりに、胸がざわざわしていた。
この家に勝手口はない。麻衣は表のドアを押しあけ、スナックの店内に滑りこんだ。
オレンジ色のあかりがあたたかい。まだ早い時間だ。店内にいる客は片手の指で数えられるほどだった。
「おかえり」
母の声が短く飛ぶ。こちらを見ることもしない。かわりにカウンターにむかっていたなじみの客がふりむいた。
「おかえり、麻衣ちゃん」
「ただいま。佐々木さん、お酒ばっかりじゃなくて、おつまみも食べてね。そう毎晩毎晩じゃあ、からだ壊しちゃうよ!」
手元を見て、愛想よく声をかけ、カウンターに入る。冷蔵庫から作っておいたおにぎりを取り出すと、母が小鉢に肉じゃがをよそって手渡してくれた。
二階にあがり、ちゃぶ台で夕食を摂る。ここから午前三時くらいまでは、とてもではないが、階下がうるさくて勉強はできない。終始、だれかが歌っているし、母の笑い声はよくとおる。
十時ごろに床について、目が覚めたのは、早朝四時半だった。隣を見るも、敷いておいた母の布団に、主の姿はない。
さすがに、もう客はだれも残っていまい。店のほうは静かだ。麻衣は深く息を吐くと、髪を手櫛でととのえた。寝間着のまま、忍び足で階段をおりる。
今日の母は、ウィスキーグラスを握りしめ、カウンター席で潰れていた。晩酌をしたらしい。ロックで飲んだのか、グラスの底に小麦色が沈み、透明な上澄みが浮いている。
──水割りにしろって言ってるのに。
麻衣は母に近寄り、グラスから指を引きはがした。寝ぼけた母に肩を貸し、担ぎあげるようにして、階段をのぼる。
「麻衣、いつもありがと」
耳元で礼を言われた。麻衣は黙って母のからだを抱えなおして、一段一段を踏みしめる。二階の寝室に着いたとたん、母は酔いのまわったようすで、着替えもせずに床に膝をつき、ぱたりと伏せてしまう。
布団からはみ出している母に掛け布団をかけてやり、自分も二度寝をしようと床に入る。
「麻衣」
呼ばれて、寝言だと思い、麻衣は返事もせずに寝返りを打った。あくびをして、薄目を開く。すると、母と目が合った。
母はへらりと笑う。
「母さんね、結婚しまぁす」
「……はぁあっ?」
飛び起きた麻衣をよそに、母は満面に笑みをうかべて、すぴーっと心地よさそうな寝息を立てはじめた。熟睡しているらしく、揺さぶっても何をしても、起きる気配すらない。
「どういうことだよ、もう!」
爆弾発言にも程がある。それからたっぷり三時間。二度寝もできずに悶々としたまま、麻衣はぐっすりと眠る母を置いて、学校にむかう羽目となった。
ひさしぶりの通常授業は、予想以上にハードだった。寝不足も影響しているかもしれない。昼休みになっても、弁当を広げる気にもならない。
机にうつぶせて考えるのは、母の結婚のことばかりだった。
両親が不倫もしくは内縁と呼ばれる関係だったことを、麻衣は長いあいだ知らなかった。
父も母も非常に仲がよく、ひとりっ子の麻衣をとてもかわいがってくれた。当然、両親は結婚しているものだと思いこんでいた。
だが、ある朝、出かけていった父は、そのまま家には帰ってこなかった。麻衣がことりと同じ八つのころだ。母は心配のあまり店もあけられず、一晩じゅう、父の帰りを待った。そして、翌朝どこかに電話をかけ、その電話口で静かに泣いた。
仕事先で倒れ、そのまま亡くなったのだと言う。麻衣が父の死と、両親の関係性を知ったのは、小学六年生のときだ。
──なんで、いまさら結婚なんて。
目を閉じたまま、顔を横にむけると、机の前にだれかが立った。のぞきこまれたような気配に、パッとまぶたをあげる。
かがんでいた人影が身を起こす。逆光で顔が見えない。大柄な男子生徒だ。短めに刈った黒髪に、浅黒い肌。十月だと言うのに白い半袖ポロシャツ姿で。
目が慣れてきて、麻衣は緊張を解いた。
「ああ、なんだ。林か」
「『なんだ』はねえだろ、ひでえなあ」
喉の奥で笑い、林は手に提げている袋を掲げてみせた。購買のパンを買ってきたらしい。
「三橋、昼飯ねえの? 分けてやろうか?」
「だいじょうぶ。食欲なかっただけだから」
弁当包みを取りだして、机に置くと、林はマジメな表情で麻衣の顔を見つめた。
「無理すんなよ? 体調悪いんなら、早退しちまえばいいじゃん」
「平気だってば。お気遣い痛み入ります」
──なんだろ、今日は妙にからむなあ。
さらりと流してから、麻衣は思いだして、林に軽く微笑んだ。
「昨日はありがとね。すごく助かった」
近藤の件をさして言ったつもりだったが、林は不思議と照れたような表情になった。
「別に」
そっけない返答に、首をかしげる。
いつも昼休みをいっしょに過ごす女子グループは、中庭か屋上にでも出てしまったらしい。連絡するのもおっくうで、麻衣はその場で弁当箱を開く。そうしてから、いまだにたたずむ林をうろんな表情で見上げた。
「……林。あんた、まさかあたしの弁当を狙ってんの? ターゲットは何だ、ミートボールか、卵焼きか?」
ふざけつつ、ミートボールをひとつ食べる。黙りこむ彼に、しかたないなあと、もうひとつを箸でつまんでさしだした。
「ほら、林、あげるからかがみなさい」
もう、自分が口をつけた箸だ。ほんとうに食べさせる気はない。途中でひょーいと奪い返す予定だ。いつもの彼なら、そのあたりのふんいきはわかっているはずだった。
それなのに。
林は長身をすっとかがめた。あぐ、器用に口でミートボールをくわえ、くちびるについたたれを親指でぬぐって、それまで舐める。
そのしぐさに、見とれてしまった。
麻衣がぽかんとしたことに気づいているのか、いないのか。林は感想をのべる。
「おい、三橋。うまいけど、これ、つくねじゃね?」
「──バレたか。実は鶏挽肉で作りました」
「手作り! すげえ」
もっとくれ、そっちもくれ。ひとがいないのをよいことに麻衣の前の席に陣取って、林は最終的には麻衣の弁当を食べはじめる。トレードだと言って、麻衣の机には購買のツナマヨサンドイッチが載せられた。パンのほうが、弁当よりは幾分食べやすかった。
「三橋さ、明後日、俺の試合見に来ない?」
「……弁当付きで?」
「重箱弁当付きで。いや、マジで。今週、交流試合があるんだ。俺と近藤が一年のなかでふたりだけ、メンバーに選ばれててさ。先輩たちと違って、応援してくれる女子もいないし、枯れ木も山の賑わいというか」
最後のワンフレーズにこぶしで殴りかかることで返答した麻衣に、林はふざけきった調子で頭を押さえた。やりとりにあきれたのか、むこうのほうから、近藤の野次が飛んだ。
「林! ひとをパシっといて何、さっきから延々、じゃれあってんだよッ」
ことばの途中で、近藤は何かをふりかぶる。飛んできたものは、小気味良い音を立てて林のてのひらにおさまった。
「サンキュ!」
近藤に礼を言い、林は席を立つ。
「ごちそうさん。これ、やるわ」
椅子を戻しながら言って、麻衣の机のうえに手のなかのものを置いた。
紙パックのいちごミルクだ。好物だが、林もこれが好きなのだろうか。麻衣は上目遣いに林を見た。
「あたし、テニスのルールわかんないよ?」
「いいんだよ。見てりゃなんとなくわかる。知りたきゃ、今度教えてやる」
試合の日時と場所を簡潔に伝えて、彼はきびすを返す。近藤たちに合流する背を見送り、麻衣はいちごミルクに手を伸ばす。冷たい紙パックにほんのりと残ったぬくもりに、胸がざわざわしていた。
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