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スナック紫苑とワスレナグサ
八
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スナックのドアを開けると、ベルの音だけが麻衣を出迎えた。まだ、開店時間前のせいか、カウンター以外に電灯は点いていない。
キッチンで鍋に向かいながら、母はおざなりに麻衣に声をかけ、麻衣は麻衣で、カウンター越しに料理のできばえを評定する。というのが、塾のない日のいつものやりとりだが、今日の麻衣は違った。
「ただいま」
短く帰宅の挨拶だけして、二階に直行する。母の声は階段を半ばまで上ったころに追いかけてきた。
自室にカバンを置き、制服を脱ぎ始めたところで、ノックもなしにドアが開いた。
麻衣は嘆息し、ふりかえる。
「何?」
母はこちらの態度にムッとしたようだったが、構わず着替えを続ける。
「今週の日曜日、ランチに行かない? 結婚相手、麻衣に紹介したいのよ」
「悪いけど、その日は先約がある」
嘘ではない。林たちのテニスの試合の日だ。
にべもなく断って、カバンの中身を片付けているうちに母は店に降りていったが、その残念そうな後ろ姿にちくりと痛むものがないでもなかった。
林に誘われたのは、別に公式試合でもない。他校との交流試合の観戦なんて、この先、いくらでも機会があるだろう。
でも、これは麻衣のせめてもの抵抗だった。
──あたしだけは、忘れないから。
胸の中で呼びかける相手は、顔立ちも曖昧にしか思い出せない。それでも、存在は、声は、忘れられない。
父は料理が好きなひとだった。いま店で出している家庭料理も、父が提案したメニューばかりだ。麻衣はよく、父と肉じゃがを作ったものだ。
日曜日の朝、父とふたりでこっそりと起きて、店の調理場を使う。かつおぶしと昆布でだしをとり、たまねぎを櫛切りにする。使う芋は崩れにくいメークイン。豚こまをさらに細く小さく刻む。飾りの絹さやはさっと色鮮やかに湯がく。しらたきをちりちりになるまで炒ってから、油を加え、具材を合わせて炒める。煮始めると、薄暗い店じゅうに甘いだしのにおいが広がる。窓からさしこむ白い日に、部屋のなかの空気がきらきらする。鍋からのぼる湯気がうねりながらひかる。そして、そのむこうに父が笑っている。母が麻衣たちの立てた音で起きてくる。
気づけば、立ち尽くしたまま泣いていた。
麻衣は服の袖でぐいっと顔をぬぐうと、メモ用紙に日曜日の弁当について思いつくままに書き記した。
おにぎり、主菜がふたつ、副菜がふたつに彩り野菜。おにぎりの具は何にしよう。いや、まずは主菜だ。ひとつは無難にだし巻き卵、もうひとつはボリューミーな揚げ物がいい。
あと、作る量も重要だ。男子は大食らいだし、二人前では足りない。五人前も用意すれば間に合うだろうか。
書き留めながら、脳内に揚げ物メニューを羅列する。唐揚げ、エビフライ、とんかつ、とり天。やはり、ここも無難に唐揚げか。
では、鶏もも肉を買わねばとメモしようとして、手が止まった。
先日、小町通りで林たちに出会ったとき、彼らは唐揚げ屋に行く途中だったはずだ。林はあのとき、何の唐揚げが好きだと言っていただろう。
記憶を辿り、麻衣はペンを走らせる。
弁当を要求されたが、別に中身を林の好物にしてやる必要はない。そんなことは、すっかりと頭から消しとんでいた。
カレー粉の瓶を開けると、甘い香りが鼻の奥を刺激した。スプーンで一さじ掬い、ビニール袋のなかの肉にふりかける。もみこんで下味をつけるにも、鶏の手羽先はその形のせいで、少々扱いづらい。
ガスコンロのうえで、ひじきの煮物が泡立ち、煮汁がなくなりかけている。煮物の鍋を火から下ろし、かわりに揚げ鍋を出して、麻衣は手を洗い、作業台を改めて整理する。
小松菜と干しえびの和え物に、だしまき卵、おにぎりの具にと焼いた甘塩鮭と、種を抜いた梅干し。彩りは、唐揚げにそえるミニトマトとレタスにまかせるつもりだ。
炊飯器の表示は残り五分。ボウルと大皿、海苔、小皿に塩と水をそれぞれ用意して、鮭を一口大にほぐしにかかる。
重箱の下段におにぎりをつめたころには、揚げ鍋の油が温まってきていた。バットに片栗粉と小麦粉を半々にふるい入れ、手羽先のつけ汁を切りながら粉をまぶしていく。
揚げ物は、特に神経を使う。生もダメなら、焦がすのも論外。そのうえ、周囲に油が跳ねて汚れるし、手元も危ない。
それでもなんとか上手に仕上がり、すべてを詰め終えた弁当は、ひどく重たくなった。林の他に何人が料理をつまむかわからない。店の割り箸を十膳ほどとり、輪ゴムでくくって、風呂敷包みの端っこへ滑りこませる。カウンターの端へ包みを置いて、麻衣は足音に気遣いながら、二階へと着替えに戻った。
金曜日や土曜日は客の入りがいい。母はまだ寝入っている。先日のことりの見立てを参考にしたコーディネートをいくつか見比べて、ひとつを身にまとう。姿見でささっと髪をととのえ、バレッタをつける。
──帽子、買おうかな。
それもまた、ことりを店に引き連れていく必要があるかもしれないが。
「行ってくるね」
母の寝顔にささやいて、重箱を手に、麻衣は店を出た。
キッチンで鍋に向かいながら、母はおざなりに麻衣に声をかけ、麻衣は麻衣で、カウンター越しに料理のできばえを評定する。というのが、塾のない日のいつものやりとりだが、今日の麻衣は違った。
「ただいま」
短く帰宅の挨拶だけして、二階に直行する。母の声は階段を半ばまで上ったころに追いかけてきた。
自室にカバンを置き、制服を脱ぎ始めたところで、ノックもなしにドアが開いた。
麻衣は嘆息し、ふりかえる。
「何?」
母はこちらの態度にムッとしたようだったが、構わず着替えを続ける。
「今週の日曜日、ランチに行かない? 結婚相手、麻衣に紹介したいのよ」
「悪いけど、その日は先約がある」
嘘ではない。林たちのテニスの試合の日だ。
にべもなく断って、カバンの中身を片付けているうちに母は店に降りていったが、その残念そうな後ろ姿にちくりと痛むものがないでもなかった。
林に誘われたのは、別に公式試合でもない。他校との交流試合の観戦なんて、この先、いくらでも機会があるだろう。
でも、これは麻衣のせめてもの抵抗だった。
──あたしだけは、忘れないから。
胸の中で呼びかける相手は、顔立ちも曖昧にしか思い出せない。それでも、存在は、声は、忘れられない。
父は料理が好きなひとだった。いま店で出している家庭料理も、父が提案したメニューばかりだ。麻衣はよく、父と肉じゃがを作ったものだ。
日曜日の朝、父とふたりでこっそりと起きて、店の調理場を使う。かつおぶしと昆布でだしをとり、たまねぎを櫛切りにする。使う芋は崩れにくいメークイン。豚こまをさらに細く小さく刻む。飾りの絹さやはさっと色鮮やかに湯がく。しらたきをちりちりになるまで炒ってから、油を加え、具材を合わせて炒める。煮始めると、薄暗い店じゅうに甘いだしのにおいが広がる。窓からさしこむ白い日に、部屋のなかの空気がきらきらする。鍋からのぼる湯気がうねりながらひかる。そして、そのむこうに父が笑っている。母が麻衣たちの立てた音で起きてくる。
気づけば、立ち尽くしたまま泣いていた。
麻衣は服の袖でぐいっと顔をぬぐうと、メモ用紙に日曜日の弁当について思いつくままに書き記した。
おにぎり、主菜がふたつ、副菜がふたつに彩り野菜。おにぎりの具は何にしよう。いや、まずは主菜だ。ひとつは無難にだし巻き卵、もうひとつはボリューミーな揚げ物がいい。
あと、作る量も重要だ。男子は大食らいだし、二人前では足りない。五人前も用意すれば間に合うだろうか。
書き留めながら、脳内に揚げ物メニューを羅列する。唐揚げ、エビフライ、とんかつ、とり天。やはり、ここも無難に唐揚げか。
では、鶏もも肉を買わねばとメモしようとして、手が止まった。
先日、小町通りで林たちに出会ったとき、彼らは唐揚げ屋に行く途中だったはずだ。林はあのとき、何の唐揚げが好きだと言っていただろう。
記憶を辿り、麻衣はペンを走らせる。
弁当を要求されたが、別に中身を林の好物にしてやる必要はない。そんなことは、すっかりと頭から消しとんでいた。
カレー粉の瓶を開けると、甘い香りが鼻の奥を刺激した。スプーンで一さじ掬い、ビニール袋のなかの肉にふりかける。もみこんで下味をつけるにも、鶏の手羽先はその形のせいで、少々扱いづらい。
ガスコンロのうえで、ひじきの煮物が泡立ち、煮汁がなくなりかけている。煮物の鍋を火から下ろし、かわりに揚げ鍋を出して、麻衣は手を洗い、作業台を改めて整理する。
小松菜と干しえびの和え物に、だしまき卵、おにぎりの具にと焼いた甘塩鮭と、種を抜いた梅干し。彩りは、唐揚げにそえるミニトマトとレタスにまかせるつもりだ。
炊飯器の表示は残り五分。ボウルと大皿、海苔、小皿に塩と水をそれぞれ用意して、鮭を一口大にほぐしにかかる。
重箱の下段におにぎりをつめたころには、揚げ鍋の油が温まってきていた。バットに片栗粉と小麦粉を半々にふるい入れ、手羽先のつけ汁を切りながら粉をまぶしていく。
揚げ物は、特に神経を使う。生もダメなら、焦がすのも論外。そのうえ、周囲に油が跳ねて汚れるし、手元も危ない。
それでもなんとか上手に仕上がり、すべてを詰め終えた弁当は、ひどく重たくなった。林の他に何人が料理をつまむかわからない。店の割り箸を十膳ほどとり、輪ゴムでくくって、風呂敷包みの端っこへ滑りこませる。カウンターの端へ包みを置いて、麻衣は足音に気遣いながら、二階へと着替えに戻った。
金曜日や土曜日は客の入りがいい。母はまだ寝入っている。先日のことりの見立てを参考にしたコーディネートをいくつか見比べて、ひとつを身にまとう。姿見でささっと髪をととのえ、バレッタをつける。
──帽子、買おうかな。
それもまた、ことりを店に引き連れていく必要があるかもしれないが。
「行ってくるね」
母の寝顔にささやいて、重箱を手に、麻衣は店を出た。
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