あやかし生花店の仮店主

渡波みずき

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スナック紫苑とワスレナグサ

十四

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 校舎の壁面に背をつけて、ちらりと角のむこうを見やる。林の姿はない。麻衣は安全を確認すると、校門を目指して一目散に駆ける。

 授業のあいまの休み時間はどうにかこうにか切り抜け、昼休みもいつもの弁当グループに守ってもらって、麻衣は一日じゅう林から逃げ続けていた。
 それは、林が一方的に麻衣を責め立てたことへの抗議の姿勢だったが、林は林で諦めればよいものを、どこまでも追ってくるあたり、完全に意地になっているらしかった。

 校門の外へ出れば、あとは自宅まですぐだ。テニス部の活動はない日だが、林が十分ほど前に自転車で下校していったのは確認した。
 ──だいじょうぶそう、だよね。
 油断して一歩、外へと踏みだしたとたんのことだった。前方の電信柱のむこうから人影がのぞいた。自転車にまたがり、ハンドルに伏せるようによりかかった姿勢で、相手はこちらを見ている。

 林だ。反射的に奥歯をかみしめた麻衣に、林はあきれたような顔をする。自転車のスタンドを立て、近寄ってくる。逃げようとするよりも早く、手が伸びた。
「逃げるのもいいかげんにしろ」
「悪い、急いでるから、また今度」
 じゃ! 片手をあげて走りだそうとした腕を再度つかまれて、今度は前につんのめった。

「何すんだ、離せ!」
 大きく腕を振りまわすのをものともせず、林は残った片手とからだとで自転車を支え、スタンドをあげた。器用に方向転換すると、麻衣を引きずって歩きだす。
「おい、自分で歩けよ! おまえ、急いでるんだろーが」
 自転車を押してずんずんと進む林に、小走りについていかざるを得なくなって、もつれそうになる足を必死に前に出す。
「林! ね、転ぶっ。もっとゆっくり!」
 息を弾ませて懇願して、やっと歩調が緩んだ。麻衣はこの機に乗じて林の手をふりはらおうと試みた。林は無言で、暴れる麻衣の右手に無理やり自転車のハンドルを握らせ、自分の手をかぶせて固定する。

 ぬくもりに、肌が粟立った。
「は、林ッ! 頼むから勘弁してよ、離してってば!」
 顔だけではなく、からだじゅうが熱くなる。恥ずかしくてどうしようもなくなって、林を見上げる。麻衣と目が合うと、林はすっとさりげなく目をそらした。
「──さんざん待たせたんだ。言えよ。どうして嘘なんかついたんだ」
 問われてとっさに口をついて出たのは、なんとも無難な答えだった。

「制服着てくの、忘れたから」
「……それっぽっちのことで、わざわざ作った弁当持って帰ったのか?」
 嘘ではない。だが、真実でもない。理由は、それだけではなかった。そのことを、口にした麻衣がいちばんよく理解している。

 うまくごまかしきれずに黙っていると、林は質問の矛先をかえた。
「何つくった?」
「ひじきの煮物、小松菜の和え物、手羽先の唐揚げ、だしまき卵。あと、おにぎり」
「具は?」
「鮭と梅干し」
「ばあちゃんの弁当みたいだな」
 破顔した林をにらむと、彼は笑いぶくみのまま、首を横に振った。

「違う違う、誤解だ。懐かしいんだ。小学校の運動会のときとかピクニックのときとか、よくばあちゃんがそんな感じの弁当持って来てくれてたな、って」
「何が違うの、古くさいってことでしょ。おんなじことじゃん!」
「だから違うって。……母親の弁当は冷凍食品とスーパーの総菜の詰め合わせだったけど、ばあちゃんのはぜんぶ手作りだったから」
 同じ鶏の唐揚げでも、手羽先の唐揚げって、あんまり冷凍食品には見かけないだろ?

 林は笑みを深め、目尻にしわをよせる。
「食わせてくれりゃよかったのに」
 心底そう思っているのが見てとれる。麻衣はぽつりとつぶやいた。
「見た目もかわいくないし、地味な弁当って、恥ずかしいもんかと思ってた」
「弁当の見た目って、そんなに大事か?」
「だって! 他の子がクッキー持ってきてるの見たら、……ああいうの、女の子らしいな、かわいいなって」
 思いつくままにしゃべったせいで、尻すぼみになった。麻衣自身、何を言っているのかわからなくなってくる。

「女子が! そうだよ、試合を観戦する女子がいないからって誘われたし、あんなにいっぱいいれば、あたしがいなくても別にいいかなと思うじゃん?」
 これが結論か? 悩みながらも着地点を見つけたつもりで力説したら、林は重ねていた手を離し、前をむいたまま、顎をしゃくった。
「前に行けよ。送るから、道案内してくれ」
 流れを無視して横柄に言われて、かちんと来ながら、自転車の前へ出る。麻衣の背にむかって、声が届く。

「近藤だよ。あいつがクラスの女子に手当たり次第に声をかけてたんだ」
 解放された手の甲に、涼しい風があたった。そのせいで、かえって体温を思いだしてしまう。離れて歩くいまも、林のいるうしろはあたたかく感じる。
「三橋。俺は、おまえしか誘ってない」
 自転車の車輪がカラカラと鳴る。ほかには、ふたりの足音と、自分の息づかいしか聞こえなくなる。

「そりゃ、弁当はひとつでじゅうぶんだもんねえ」
 茶化さずにはいられなかった。林の声がすかさず響く。
「俺はッ、三橋の作った弁当が食いたかったんだよ!」
 足がとまる。かえりみようとした麻衣を、林があわてたようすで止めた。
「──頼む。いまこっちむくな」
 もう遅い。見えてしまっていた。

「あー……くそ、カッコ悪ぃ。弁当弁当って、どんだけ色気ない会話だよ」
 片手で顔を覆ってぼやく。指のあいだからのぞく肌を見て、麻衣は思わず笑ってしまう。
「林、顔真っ赤」
「わざわざ言うな、わかってる!」
 麻衣の横をすり抜けて、林はちょっと怒ったように先を急ぐ。「そこ、右!」背中に声をかけて、小走りについていく。

 道のむこう、スナック紫苑の前には、母の姿があった。看板を出して延長コードを地面に這わせる。電灯がついて、青紫に白抜きの筆文字が夕暮れ時に浮かびあがった。
 母が動きまわると、黒いロングワンピースがゆれる。まだ四十路に届かない母には、裾が長すぎる。あれは、もっと年輩の女性にこそ似合う慎ましさだ。

「あれ、ウチの母」
「……きれいなひとだな」
「惚れんなよ?」
 言って、麻衣は歩みをとめた。

「ここまででいいよ。母に見つかったら、なにかと面倒だ」
 家にむかいかけ、思い立って、麻衣は半身ふりかえった。
「林!」
 おさえた呼びかけに、林はむこう向きに自転車にまたがったまま、麻衣と同じように身をひねる。
「あんたの試合、すごかった。テニスって、かっこいいね。また、次も呼んでよ」
「──おう」
 照れたように鼻の下を人さし指でこすって、林は自転車をこぎ出す。

 ──テニスがかっこいいだって。あたしも、素直じゃないなあ。
 前にむきなおり、麻衣は声をもらした。
「……あ。」
 店の戸口によりかかり、にやついた笑みを両手で半分隠して、母がこちらを見ていた。
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