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二 ハーブカフェ・カルペディエムへようこそ(下)
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カウンターのなかに踏みいる。先程の席からは死角になる位置で、オーブンがオレンジの光を湛えている。のぞきこむと、タルト型が見えた。まだ香ばしいかおりも立たない頃合い。焼きはじめなのだ。
店主はどこに消えたのだろう。
あらためてあたりを見回していると、足元に風の流れを感じた。ふりかえると、戸棚の脇の目立たない位置に引き戸があった。
手をかけてみると、音もなく滑って戸のむこうがわが現れる。木の暖かみ溢れる店内装飾とはうってかわって、無機質なコンクリート打ちっ放しの壁がある。電灯までが素っ気ない蛍光灯だった。
ナースサンダルのつまさきにひんやりとした空気が触れた。そのまま、冷気は足元から這いのぼってくるような心地がした。わたしは迷いながら、奥をのぞきこんだ。戸の内側は階段で、右手は地下へ繋がっている。先は直角に折れ曲がっているため見えないが、ひとの気配は薄かった。
「あの、すみません……」
呼びかける声はあまりに控えめだった。応答はやはりない。だれもいないのだ。そう思いながらも、むくむくとわきあがってくる好奇心を抑えきれずに、わたしは一歩、コンクリートの上に足を踏みだした。
階段を下りきると、そこには六畳ほどの空間があった。思っていたよりも狭い。壁一面にアルミラックが設置され、棚には所狭しと瓶が並んでいる。中身は植物のようだった。それぞれ、人名らしきラベルが貼られている。
キープボトル、みたいな? ハーブティのためのハーブなのだろうか。どの花も、まるで標本のように鮮やかな彩りを保っている。
わたしはつい手を伸ばし、瓶にふれた。手に取ろうとしたときだ。ふっと、手元に影が差した。
「だめだよ、どれも大切なものなんだから」
真横から声をかけられ、わたしはとびあがるほど驚いた。いつのまにそこにいたのだろうか。店主が少し険しい顔をして、わたしの隣で腰に手をあてていた。
「せっかくからだを温めたんだから、こんなところで冷やしちゃダメだよ。僕も、これを置いたらすぐに上がるから」
気づかなかったが、続き間があったらしい。店主はそちらで作業をしていたようだった。手にしている瓶には青紫の花が入っている。
「それ、ラベンダーですか?」
指さすと、店主はくすりと笑った。
「これはセージ。魔除けや薬に使うことの多いハーブだね。香りもぜんぜん違うんだよ」
言いながら、瓶のラベルを愛しそうに撫で、そっと目線の高さの棚に置く。わたしはつい、そのしぐさを目で追った。
「売りものですか?」
問われて、店主は一瞬ためらうそぶりを見せた後、違うよ、と短く答えた。
「ここにあるのは、どれもお預かりしているものだから、商品ってワケじゃあないんだ」
さあ、上にあがろう。寒いでしょう。
彼はわたしの背に手をあてて、追いたてる。もう少し花々を見ていたいと思ったけれど、逆らえずに押されるがまま、店に舞い戻った。
店内は、オーブンレンジの熱で温かかった。バターの香ばしく甘いかおりに食欲をそそられる。きゅるるとはしたなくもお腹が鳴ってしまって、店主は今度こそ声をたてて笑った。
「タルトはあげられないけど、サンドイッチくらいなら、すぐ作れるよ? 僕もいっしょに食べるからさ」
「──いいんですか?」
「もちろん。ちょっと待ってて」
店主は今度はカウンターを出て、店の奥の観葉植物をどかすと、階段を上がっていった。間をおかず、材料を持って戻ってくる。
「二階もあるんですね」
「うん、居住スペース。ほんとうは、従業員の休憩室程度のものなんだろうけど、ひとりなら、その程度でも困らないから」
手早く野菜を洗い、刻む。彼の手元を見つめていると、ふいに話しかけられた。
「このあと、どうするの。家までのタクシー代くらいなら貸すけど」
何から伝えればいいのかわからなくて、くちびるは動かなかった。
怪訝そうに顔をあげた彼の視線に耐えきれず、わたしはうつむいた。沈黙が痛かった。
しばらく静寂が続いたあと、彼の包丁がサンドイッチを切る音が響いた。ことりと、カウンターのうえに皿を置いて、彼はわたしをふりむいた。
「じゃあ、きみのことはユキちゃんって呼ぶよ」
「はいっ?」
声が裏返る。彼はおかしそうに笑って、自分は立ったままサンドイッチにかじりついた。
「ハイジじゃないよ、ヤマトのほう。髪、きれいな栗色のロングヘアでしょ。スレンダーだし」
「ちょっと名前負けですよ、それ」
なにしろ、森雪は大美女と言われるほど、おきれいな女性キャラクタだ。苦笑いすると、彼は小首をかしげてみせた。
「そういうもんかなあ? 僕のことは樹って呼んで」
「樹さん?」
「樹くん」
訂正された。樹くんはサンドイッチの最後のひとかけを口に放りこみ、もぐもぐしながら上を指さした。
「二階に住めば? 鍵がかかる個室もあるし。帰りたくなったら、出ていけばいい。ちょうど、人手が足りないと思ってたところだし、うちで働いてよ」
今度は、わたしがぽかんとする番だった。
「……い、いいの?」
つられてタメ口を聞いたわたしに、樹くんはからりと笑った。
「いいよ。この店、結構繁盛してるから、忙しいとは思うけど、ユキちゃんひとりくらいなら養える」
さらりと格好いいことを言ってのけて、樹くんは目を細めた。食べなよ、と、皿を示され、わたしはカウンターの外に回って、またあの高いスツールによじのぼる。
「いただきます」
手を合わせてから口にしたサンドイッチはほんとうに美味しかった。薄切りのきゅうりとミニトマト、スライスハムにほんのりとタマネギみたいな風味。これは何? と聞いたら、返ってきたのはハーブの名前だった。
「チャイブだよ。ポテトサラダとかオムレツに入れても美味しいから、今度作るね」
お料理上手な樹くんのそばにいたら、名前を思いだす前にからだがふっくらしてしまいそうだ。わたしは真夜中に罪悪感のある夜食をいただきながら、これから訪れる美味しい日々を妄想して、少しだけ、不安がまぎれていくのを感じていた。
店主はどこに消えたのだろう。
あらためてあたりを見回していると、足元に風の流れを感じた。ふりかえると、戸棚の脇の目立たない位置に引き戸があった。
手をかけてみると、音もなく滑って戸のむこうがわが現れる。木の暖かみ溢れる店内装飾とはうってかわって、無機質なコンクリート打ちっ放しの壁がある。電灯までが素っ気ない蛍光灯だった。
ナースサンダルのつまさきにひんやりとした空気が触れた。そのまま、冷気は足元から這いのぼってくるような心地がした。わたしは迷いながら、奥をのぞきこんだ。戸の内側は階段で、右手は地下へ繋がっている。先は直角に折れ曲がっているため見えないが、ひとの気配は薄かった。
「あの、すみません……」
呼びかける声はあまりに控えめだった。応答はやはりない。だれもいないのだ。そう思いながらも、むくむくとわきあがってくる好奇心を抑えきれずに、わたしは一歩、コンクリートの上に足を踏みだした。
階段を下りきると、そこには六畳ほどの空間があった。思っていたよりも狭い。壁一面にアルミラックが設置され、棚には所狭しと瓶が並んでいる。中身は植物のようだった。それぞれ、人名らしきラベルが貼られている。
キープボトル、みたいな? ハーブティのためのハーブなのだろうか。どの花も、まるで標本のように鮮やかな彩りを保っている。
わたしはつい手を伸ばし、瓶にふれた。手に取ろうとしたときだ。ふっと、手元に影が差した。
「だめだよ、どれも大切なものなんだから」
真横から声をかけられ、わたしはとびあがるほど驚いた。いつのまにそこにいたのだろうか。店主が少し険しい顔をして、わたしの隣で腰に手をあてていた。
「せっかくからだを温めたんだから、こんなところで冷やしちゃダメだよ。僕も、これを置いたらすぐに上がるから」
気づかなかったが、続き間があったらしい。店主はそちらで作業をしていたようだった。手にしている瓶には青紫の花が入っている。
「それ、ラベンダーですか?」
指さすと、店主はくすりと笑った。
「これはセージ。魔除けや薬に使うことの多いハーブだね。香りもぜんぜん違うんだよ」
言いながら、瓶のラベルを愛しそうに撫で、そっと目線の高さの棚に置く。わたしはつい、そのしぐさを目で追った。
「売りものですか?」
問われて、店主は一瞬ためらうそぶりを見せた後、違うよ、と短く答えた。
「ここにあるのは、どれもお預かりしているものだから、商品ってワケじゃあないんだ」
さあ、上にあがろう。寒いでしょう。
彼はわたしの背に手をあてて、追いたてる。もう少し花々を見ていたいと思ったけれど、逆らえずに押されるがまま、店に舞い戻った。
店内は、オーブンレンジの熱で温かかった。バターの香ばしく甘いかおりに食欲をそそられる。きゅるるとはしたなくもお腹が鳴ってしまって、店主は今度こそ声をたてて笑った。
「タルトはあげられないけど、サンドイッチくらいなら、すぐ作れるよ? 僕もいっしょに食べるからさ」
「──いいんですか?」
「もちろん。ちょっと待ってて」
店主は今度はカウンターを出て、店の奥の観葉植物をどかすと、階段を上がっていった。間をおかず、材料を持って戻ってくる。
「二階もあるんですね」
「うん、居住スペース。ほんとうは、従業員の休憩室程度のものなんだろうけど、ひとりなら、その程度でも困らないから」
手早く野菜を洗い、刻む。彼の手元を見つめていると、ふいに話しかけられた。
「このあと、どうするの。家までのタクシー代くらいなら貸すけど」
何から伝えればいいのかわからなくて、くちびるは動かなかった。
怪訝そうに顔をあげた彼の視線に耐えきれず、わたしはうつむいた。沈黙が痛かった。
しばらく静寂が続いたあと、彼の包丁がサンドイッチを切る音が響いた。ことりと、カウンターのうえに皿を置いて、彼はわたしをふりむいた。
「じゃあ、きみのことはユキちゃんって呼ぶよ」
「はいっ?」
声が裏返る。彼はおかしそうに笑って、自分は立ったままサンドイッチにかじりついた。
「ハイジじゃないよ、ヤマトのほう。髪、きれいな栗色のロングヘアでしょ。スレンダーだし」
「ちょっと名前負けですよ、それ」
なにしろ、森雪は大美女と言われるほど、おきれいな女性キャラクタだ。苦笑いすると、彼は小首をかしげてみせた。
「そういうもんかなあ? 僕のことは樹って呼んで」
「樹さん?」
「樹くん」
訂正された。樹くんはサンドイッチの最後のひとかけを口に放りこみ、もぐもぐしながら上を指さした。
「二階に住めば? 鍵がかかる個室もあるし。帰りたくなったら、出ていけばいい。ちょうど、人手が足りないと思ってたところだし、うちで働いてよ」
今度は、わたしがぽかんとする番だった。
「……い、いいの?」
つられてタメ口を聞いたわたしに、樹くんはからりと笑った。
「いいよ。この店、結構繁盛してるから、忙しいとは思うけど、ユキちゃんひとりくらいなら養える」
さらりと格好いいことを言ってのけて、樹くんは目を細めた。食べなよ、と、皿を示され、わたしはカウンターの外に回って、またあの高いスツールによじのぼる。
「いただきます」
手を合わせてから口にしたサンドイッチはほんとうに美味しかった。薄切りのきゅうりとミニトマト、スライスハムにほんのりとタマネギみたいな風味。これは何? と聞いたら、返ってきたのはハーブの名前だった。
「チャイブだよ。ポテトサラダとかオムレツに入れても美味しいから、今度作るね」
お料理上手な樹くんのそばにいたら、名前を思いだす前にからだがふっくらしてしまいそうだ。わたしは真夜中に罪悪感のある夜食をいただきながら、これから訪れる美味しい日々を妄想して、少しだけ、不安がまぎれていくのを感じていた。
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