上 下
11 / 12

十 小さなお客さま(中)

しおりを挟む
「──樹くん、どうするの。商店街では遊べないでしょ? でも、わたし、このへんの地理、ぜんぜんだよ?」

 こそっと声をかけたら、樹くんはにへらっと何にも考えてなさそうな顔で笑った。

「だいじょうぶ! もう少ししたら、僕も行けるから」
「よかったぁ、それなら安心」

 ほっと胸をなで下ろし、ちひろちゃんのようすを伺う。おなかは満たされたようだけれど、ご機嫌の顔つきではない。もう少ししたらと、樹くんは言ったけど、彼が出かけるということは、店を一度閉めるということだ。お客さんのはけるのは、いつになるかしら。首をかしげていると、彼はピッと外を指さした。

「お茶会セットの終了をお知らせして、ドアの札も『準備中』にしてきてくれる?」
「……そうでした!」

 思わず敬礼して、大慌てで外に飛び出す。あぶないあぶない、はけるどころか、新たなお客さんが入ってきてしまうところだった。
 店の前での作業を終え、店内を見回す。残るは、あと二組。どちらも女性二名ずつだ。樹くんに促されて、エプロンを外し、二階からふたりぶんのコートを取ってくると、どんな魔法がかかったのか、二組ともレジの前に並んで会計を待っていた。

「ちひろちゃん、公園に行こう」

 樹くんが差しだした手を、ちひろちゃんはじっと見つめたけれど、取ることはなかった。彼は気にするふうもなく、店の外の黒板に『15:00 OPEN』と手書きして、駅の方角へ商店街を歩きだす。そのうしろを、ちひろちゃんはトコトコとついていく。
 高架の線路沿いを行くと、交差点のむこうに緑が見えた。滑り台のついたカラフルな遊具があって、すでに一組の親子が遊んでいる。横断歩道を渡って、公園の敷地に入ると、ちひろちゃんは何も言わずに遊具にむかって突進していった。

 母親が気づいて、こちらを振りかえる。目が合って挨拶を交わし、おいくつですか? と問われる。そういえば、知らない。わたしの戸惑いをカバーするのは、やっぱり樹くんだった。

「ちひろちゃん、何歳ですかって。言える?」

 遊具のはしごに取りついていたちひろちゃんがこちらへ首をむける。母親も笑顔のまま、彼女の返答を待ってくれる。そうか、そうやって本人に話題を振ってしまえばいいのか! 感心していると、ちひろちゃんは、むーんと難しい表情で自分の片手を見下ろし、ぱっとてのひらを開いてみせた。

「ちひろ、五歳!」
「そっか、五歳かー! じゃあ、うちのお兄ちゃんとおんなじだ。年長さん?」
「ううん、年中さん。黄色バッジだよ!」
「へえ、黄色バッジなんだね。──こうた! しょうた! ちひろちゃん、こうたといっしょで年中さんだって。順番こで、なかよく遊んでね!」

 声かけに、先に遊具で遊んでいた兄弟が口々に「はーい!」と返事するのを見て、世の中のおかあさんって、対子どもの社交スキルまで持っているのかと、びっくりする。いまのわたしには自分の母親の記憶はないけれども、こうして驚くからにはたぶん、自分自身の人生のなかでは、あんまり目にしたことがなかった光景なのだろう。
 ぼんやりとした疎外感をおぼえていると、樹くんがわたしの手を取った。そんなふうに触れられることはあまりないから、ドキリとする。

「冷えてるね。あっちのベンチに座ろう。ひなたのほうが温かいよ、きっと」
 
 兄弟のおかあさんが微笑ましそうな顔でこちらを見て、すぐに子どもたちのほうへ視線を戻す。あ、なんか勘違いされてるなと思ったけど、口には出せない。樹くんに引っ張られるようにしてベンチに連れて行かれて、小春日和の日差しを浴びながら、ちひろちゃんのほうを見やる。
 繋がれたままの樹くんの手は、わたしと同じくらい冷たかった。

「──警察署に、何の用事があるんでしょうね」
「さあ? でも、かならず迎えには来てくれるひとたちだろうから、心配は要らないよ」
「なんで、そんなことがわかるの?」

 『かならず』なんて、強いことばを使うのだ。ぜったいの自信があるのだろうが、わたしには、どうしてそこまで言い切れるのか、まったくわからない。せめて、根拠を知りたいと、樹くんを見ると、彼はいつもより近い距離から、じっとわたしの目を見据えた。

「僕には子どもはいないけど、ウチの店に置きざりにする気なら、子どもがお茶を飲めるかどうか、そのお茶がどんなものでできているのかなんて、気にしないと思うから、かな。黙って置いていけばいいのに、事前にトイレの世話をして、店員の説明をじっくりと聞いて、店にもきちんと断りを入れるひとは、信じてみたくなるでしょ?」
「たとえ、のっぴきならない事情があったとしても、初めて来たお店にいきなり預けるなんて、おかしいとは思わないの? 知り合いのところに預ければいいじゃない! 信頼できる知り合いがいなくても、お金を払えば、一時保育やベビーシッターを利用できるはずだもの」
「あのね、ユキちゃん。僕は、名前も素性もわからない君を住み込みで雇うような人間だってことを忘れてない?」

 そのとおりだった。完全に言い負かされたわたしは、話の接ぎ穂を失い、樹くんの視線から逃れるように目をそらす。くすくすと意地悪く笑って、樹くんは繋いだ手を引き寄せ、ぽんと自分の膝のうえに乗せた。

「ひとを信じるのに、理由は要らないよ。僕は別に、会ったばかりの相手を信頼しているワケじゃないんだ。自分の直感を信じているだけ。だれかを知るのには、とても時間がかかるから」

 ざくり、と、こころに切り込まれたような心地になった。わたしのことは信頼していない。そう言われたような気がして、動けなくなる。樹くんはフッと微笑み、ちひろちゃんのほうに目を転じる。ちょうど、公園の入口から遊具にむかって歩いてくる男性の姿が視界に入る。

「あ! パパ!」

 兄弟のひとりが声をあげた。滑り台を下りて、駆けだしていく。母親がふりかえる。それを見ていて、そうかと、どこか合点がいった。なるほど、あの母親はもともと社交的な性格なのかもしれないけれど、それに加えて夫を待っていたから、公園に入ってくる気配に敏感だったのだ。目が合ってしまえば、わたしたちに声をかけざるを得なかったのだろう。

 母親が父親の目元に手をやる。何かをつまむしぐさに、父親は自分の顔や肩口を気にするように、バサバサと手で払った。理容室にでも行っていたのかしら。さっきまで、あれほど楽しそうに遊んでいた兄弟はすでに、父親の手を奪いあうようにして、両側にすがりついている。公園を出ていく流れのなかで、母親がこちらへと会釈する。作り笑顔で会釈を返しながら、わたしは、そんなありふれた家族のやりとりを遊具のうえから見送るちひろちゃんの表情に、胸が痛んだ。

「……行こうか」

 誘われなくても、そうするつもりだった。近づいていくと、ちひろちゃんは滑り台に座ったまま、背中をまるめていた。

「僕たちは大人だから、滑り台はできないけど、お砂遊びや鬼ごっこなら、いっしょにできるよ」
「ちひろちゃん、あっちにたんぽぽが咲いてる!」

 口々に誘いをかけてみて、ちひろちゃんの気をそらそうと試みる。結果的に成功したのは、わたしのことばのほうだった。

「──ちひろ、お花でゆびわつくれるよ」
「指輪? ほんとう?」
「うん。つくってあげようか?」
「やったあ、作ってくれるの? うれしい!」

 子ども相手のノリがわからないぞ! 戸惑いながら、思いっきりはしゃいでみたが、どうやらこのくらいで良いらしい。ちひろちゃんは得意そうになって、たんぽぽの花畑に突進していく。それを大股に追いかけていた樹くんは、ちひろちゃんの摘んだたんぽぽを中腰になって観察し、目を細めた。

「セイヨウタンポポだね。さっき飲んだお茶に入っていたのは、この花の葉っぱだよ」
「そうなのっ? じゃあ、今度おままごとで飲んでみる」
「ダメだよ、ちひろちゃん。おままごとではお湯が使えないでしょ。おなか壊しちゃうよ」

 樹くんまでしゃがみこんで、真剣なおしゃべりをはじめるのを、つい、ちょっと引いたところから眺めてしまう。日差しのしたで見る樹くんの髪色は明るくて、金髪にしか見えない。眉毛もまつげも似たような色合いだから、地の色なんだろうなあ。こうしていると、造作と年齢不詳さのせいで、天使みたいだ。きれいだなあと見とれていると、彼は近づいてこないわたしを、ひょいひょいと手招きする。

「できた! あげる!」

 どうだ、すごいだろと言わんばかりの調子で、ちひろちゃんはわたしの左手を取り、人差し指にたんぽぽの指輪をはめる。思わず、手の指を広げるようにして、目の前にかざす。ちょっと結び目が緩いせいでぐらつく指輪の向きを直して、ありがとうと笑ってみせると、ちひろちゃんはくすぐったそうにして、次の花を探しはじめる。

「僕もできたよ、試作品第一号」

 樹くんが声をあげ、たんぽぽ製の指輪をわたしの指にスッと通した。さすがに大人だ。樹くんのほうがよくできている。つくりに見入っていると、樹くんはいたずらっぽい口調で言った。

「あれ? ユキちゃん、こういうのって慣れてるほう?」
「……え?」

 言われて初めて、樹くんのくれた指輪が薬指にあることに気づいて、ぶわっと一気に照れが回った。

「な、慣れてませんっ! もう! からかわないでよ!」

 ──樹くんは、自分がイケメンだということをもっと自覚すべきです!
 顔が熱い。両手で頬を押さえるわたしをよそに、彼は朗らかな笑い声を立てる。
 ちひろちゃんと楽しそうにおしゃべりしながら花畑にしゃがみこむ彼の姿は、冬の昼下がりの光景にしてはあまりにまばゆくて、そのあとふたりの遊びに加わるのには、非常に勇気が要った。
しおりを挟む

処理中です...