『青』の作り手 失恋女子と見習い藍師

渡波みずき

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一 はじまりの足音

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 非常階段を上るうちに、パンプスのなかで足が滑るようになった。二月中旬の肌寒いころとはいえ、五階ぶんもあがってくれば、汗をかくのもしかたがない。頬も上気しているらしく、コンクリート打ちっぱなしの階段室に満ちるひんやりとした空気は、かえって心地がよかった。

 A4サイズの革カバンの持ち手がスーツの左肩に食いこむ。生命保険のパンフレット類や、顧客ごとの資料をぎっしりと詰め込んだカバンのほかに、今日はバレンタインデーのノベルティ入りの小さな紙袋を右手に提げている。中身は単なるチロルチョコとメッセージカードをラッピングした程度のものだが、数があれば、それなりにかさばる。

 営業回りにエレベータを使わないのは、深見千草ちぐさの信条だ。自分がエレベータを呼べば、訪問先の社員の業務に差し支えることがある。元はと言えば、新人のときに教育係だった先輩の受け売りだ。営業成績のよい先輩は、ことあるごとに言っていた。「お客様のリソースを使うなんて、とんでもない!」と。

 ──もっとも、エレベータくらいは、先輩だって使っていたけれども。

 今日の訪問先、東洋海産は、地上八階建て。都心の高層ビル群になれている千草にとって、このぐらいは扱いやすい部類に入る。六階までたどり着いて、分厚い防火扉のノブを引いて、ぐんっと後ろに体重をかける。小柄な千草には少々重いが、がんばれば開く、はずだった。

 防火扉が、内側から勢いよく開かなければ。

 扉にからだが弾き飛ばされて、後ろにふっとぶ。右手から紙袋が離れ、左肩からもカバンが抜けた。足元が空を踏む。

「ひゃ」

 まるで、すべてがスローモーションになったみたいだった。

 顔をのぞかせた大柄な男の口元が、驚愕に大きく開くのが見えた。片手に持ったスマートフォン。ああ、お昼休みに私用の電話がかかってきて、階段室に出ようとしたのね。そんな些末なことまで、しっかりと見てとれた。

 男の両手が伸びる。千草の右手首を掴み、反対の手で腰を支えられる。だが、一歩間に合わなかった。滑り落ちた膝をしたたか階段に打ち付けて、思わず呻く。

 動きが止まる。男の背後で防火扉が大きな音を立てて閉まった。千草は遭遇した出来事の衝撃に顔を上げることもできず、目の前に落ちたスマートフォンをただ見つめた。通話相手の表示に、『上板町役場』と書かれているのが目に入り、思いがけず目にした故郷の地名に、胸が跳ねる。

「すみませんでした。だいじょうぶですか」

 低い声に我に返り、仰向くと、キスできそうな間近から、男がこちらを気遣わしげに見おろしていた。そのことにもドキリとしたが、彼の手を借り、どうにか体勢を立てなおす。男はスマホを拾いあげると、かけなおす旨を短く述べ、改めてこちらをむいた。

 朴訥とした感じの男だ。千草と、年齢はそう離れていないだろう。二十代後半と見えた。黒髪のスポーツ刈りはさわやかだが、意思の強そうな目元や太い眉のせいか、真面目さが際だっている。

「ほんとうに申し訳ないです、歩けますか?」

 問われて、千草はなんとか営業スマイルを立て直して、きっぱりとうなずいた。

「はい、だいじょうぶです。お電話をお邪魔してしまいまして、こちらこそ申し訳ありませんでした。助けていただきまして、ほんとうにありがとうございます」

 太眉の男は戸惑ったような表情で、こちらを見ている。千草はそれを無視して、階段に散らばったノベルティを手早くかき集めた。

 さいわい、打ち付けた膝にも血はにじんでいない。あとで打ち身になるかもしれないが、ストッキングも伝線していなかった。よかった、次に支障が出なくて……。

 考えながらノベルティを拾っていると、先程の太眉がまだそこにいることに気づいた。彼は踊り場に落ちた紙袋を手に、呆けたように千草を見おろしていた。

「あ! 申し訳ないです、拾っていただきまして、ありがとうございます!」

 作業途中だが、慌てて階段を駆け戻り、太眉に両手をさしのべる。彼は我に返ったようすで千草に紙袋の持ち手を渡しながら、自分の右手の手首をちょんちょんと示した。

「それ、いま俺がやっちゃいましたか」

 一瞬なんのことかわからなかったが、すぐに了解する。右手にはめていたバングルがずれ、赤紫色の傷が覗いていた。

「これ、子どものころの傷なんです。ご心配には及びません」

 バングルの位置を戻すと、重ねて非礼を詫びた千草に、彼はさっと名刺を差しだした。

「品質管理部の松葉まつばと申します。もし、あとになって、どこか痛みが生じたら、必ずご連絡ください」
「松葉さま、ですね。ご丁寧にありがとうございます。申し遅れました。わたくし、サンサン生命保険営業担当の深見ふかみと申します」

 名刺入りのノベルティを手渡し、重ねて非礼を詫びると、千草はさっと会話を切り上げ、心配そうな松葉の視線を振り切るように、六階の防火扉を今度こそ開いた。

 暖房の効いた廊下に入ると、からだじゅうから汗が噴き出そうになった。上着を脱ぎたいが、こめかみの汗をハンカチで押さえるに留める。

 目当ての部署は、すぐそこだ。千草はカウンターの手前で立ち止まり、フロアの奥に座る若手の男性社員に声をかける。

「神田さん! こんにちは、お休みのところ、申し訳ありません」
「あ! 深見さんだぁ!」

 神田は千草を認めると、すかさず弁当に蓋をして席を立った。明るめの茶色に染められた髪は長めで、頭のかたちのよい丸みを強調する。背は高く、スタイルがいいし、派手な顔立ちだから、小走りにやってくる姿すらサマになる。そのくせ、本人の態度は子犬のようだから、かわいさも満点。ちょっとおバカな気配もあるが、いわゆる愛されキャラだ。

 ──イケメンは得だなあ。バカっぽくても、容姿でお釣りがくるんだもん。

 内心の侮蔑をおくびにも出さずに会釈して、千草はにこやかに資料を示す。先日、聞き取った状況を踏まえて、神田のために用意したものだ。

「通院医療費の給付にご不安があるとのことでしたので、いくつか神田さんにぴったりのプランを設定してみたんです。もし、お時間があれば、詳しくご説明しますけど、お食事中ですよね。どうしましょうか?」
「……あー。じゃあ、資料だけもらって見ておきます。次のときに声かけてもらえます?」

 にへらっと小首を傾げながら笑い返されて、千草は手応えのなさを感じ、あっさりと引き下がる。

「わかりました。こちら、ささやかではありますが、バレンタインデーのチョコレートです。よろしければ、召し上がってください」

 ノベルティを見ると、神田はうれしそうに目尻にしわをよせた。

「わあっ、チロルチョコだぁ! 二個も入ってる! ありがとうございますっ」

 大袈裟すぎるリアクションにも嫌みがないのは、才能だ。千草は微笑みを貼り付けたまま挨拶をして、ほかの社員にも声をかける。

 八年前、千草が保険外交員をはじめたころは、セキュリティやプライバシーにうるさい会社は少なかった。総務部や受付に一声かければ、どこへだって入っていって営業できたものだったが、いまでは建物に入るにも許可が必要で、滞在時間も立ち寄り先も細かく申告させられることが増えた。

 数人の顔見知りの顧客に声をかけ終わり、腕時計に目を走らせる。昼休みのうちに回ってしまわなければ、捕まらなくなる。次のフロアはひとつ下だ。

 階段室に戻るのは、ためらわれた。松葉がまだいるかもしれないと思うと、気まずい。悩んだが、思い切って開いた防火扉のむこうにはもう、彼の姿は見当たらなかった。
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