『青』の作り手 失恋女子と見習い藍師

渡波みずき

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三 カレが見ているわたし

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 手首の古傷を撫でる感触で、目が覚める。涼真は、千草が起きたことに気づくようすもない。ひたすらに傷を辿る指は冷たく乾いている。

 右手首の内側に残る赤紫色の傷は、まるでためらい傷のようだ。ふだんは太めのバングルで隠しているが、別にだれに見られても気にはならない。相手が気にするから積極的に見せてまわらないだけだ。

 そんな傷跡に、初めて夜をともにした日からずっと、涼真は執着している。口に出しては言ってこないけれど、きれいに治してほしいのかもしれない。

 レーザー治療でも受ければ治るだろうか。だが、そもそも、この傷の成り立ちを千草はよく覚えていなかった。切り傷であれば、血がたくさん出たろうし、何針か縫ったはずだ。火傷だとしたら、どうしててのひらは無事だったのだろう。

 寝起きの頭でぼんやりと考え、千草は首をよじり、ベッドに腰掛けていまだに傷を撫で続けている涼真を見上げた。

「来週の金曜日、予定はある?」

 ほんとうは、このひとことだけで察してほしかったが、遠回しな問いかけに涼真は答えなかった。

「あ、起きた? 朝食、できてるよ」

 トーストとサラダ、オニオンコンソメスープにハムエッグ。涼真の作る朝食は、いつも同じメニューだ。せいぜいジャムやドレッシングの味が変わるくらいで、この五年間、代わり映えがしない。それでも、千草のためにと作ってくれるだけ、涼真は気が利くほうだと思う。

「うれしい。食べる」

 ふたりで寝室を出て、千草が顔を洗ってもどると、ダイニングテーブルにはドリップコーヒーを淹れる涼真の姿があった。千草は椅子の背に手をかけ、ことばを探す。

「来週、誕生日なんだけど、金曜日は空いてる?」

 せいいっぱいのアピールにもかかわらず、涼真の反応は薄かった。手元のコーヒーの蒸らし時間に気を取られているらしく、時計の秒針を睨みながら、口元だけ微笑む。

「どっか行きたいところある? 行きたい店が決まってるなら、予約しといて」
「……わかった」

 そっけないようすに不満を抱えたまま、椅子にすとんと腰をおろす。目の前に置かれた皿には、いつもと違う料理が彩りもうつくしく乗っていた。千草はたったいま口からこぼれかけた文句も忘れて、目を見開き、感嘆の声を漏らしていた。

「すごい! 何コレ、おしゃれ!」
「エッグベネディクトって言うんだって。ちょっと前に流行ってたらしいよ」

 ふふんと、得意げにする涼真を手放しで褒めちぎって、千草はスマホをたぐり寄せる。

「写真撮っていい?」
「良いけど、個人情報映んないように気をつけて」
「わかってるって。わたし、SNSもやってないから、どこかにアップもしないし」

 スマホを傾け、角度を変えて何枚か写真を撮り、満足していると、涼真は写真の構図に配慮しながら、淹れたばかりのコーヒーを千草のほうに差しだした。

 涼真と出会ったのは、五年前、営業部の研修のときだ。各店の営業担当が集まる会場で、たまたま隣に座ったのが彼だ。最初は、都会生まれの恵まれたイケメンという印象だった。お互いの立場は、ぜんぜん違う。彼は総合職の新入社員だった。直接、顧客から契約を取ってくるのが千草たち保険外交員の仕事で、彼は外交員の取ってきた契約の管理を行うのが仕事だ。

 涼真は大学新卒で、千草はひとつ年上だった。立場は違えど、年齢が近いせいか、話題が噛みあった。下心がなかったかと言われれば、嘘になる。彼当人でなくても、彼の同期を紹介してもらえれば、大企業の正社員の恋人ができる。将来安泰だと思った。友人としてつきあううちに、本社での新人研修を終えた涼真が千草のいる店舗に着任して、急速に仲が深まった。

 涼真は交際を会社に知られるのを嫌がったが、千草も同じ意見だった。社内恋愛が禁じられているわけではないものの、交際関係が公になったカップルは、それぞれ別の課に異動させられるのが暗黙の了解だ。けれども、それは総合職や一般職同士の交際についてのことなので、雇用形態こそ正社員でも、個人事業主扱いの保険外交員である千草は、彼らよりも立場が弱い。何か理由をこじつけられて解雇される可能性も、大いにあった。

 少しでも長く涼真と同じ課にいるためには、そして、彼と万が一にも別れたあとにも仕事を続けるためには、秘密にしたほうが都合がよかった。優しげで造作の整った涼真は、年齢問わず女性社員に受けがよい。『涼真くん』のファンに、自分が交際相手だと知られて因縁をつけられるのも避けたかった。

 涼真のお手製エッグベネディクトは、見栄え重視かと思いきや、非常に美味しかった。千草も過去にポーチドエッグを作ったことはあるけれど、初めてのときは失敗した記憶がある。鍋の湯に渦を作っておいても、酢を入れてみても、湯のなかで白身をきれいに丸めるのは難しかった。

 失敗談を明かしながら料理の腕前を称えると、涼真は照れたように笑った。

「実は、ここしばらく、毎朝ポーチドエッグ食べてた。千草、こういうの喜ぶだろうと思ってさ。オランデーズソースも、結構分離しやすくて大変だったんだよ?」

 自分のために練習までしてくれたのかと思うと、感動モノだったが、彼のいう『千草』は、まるで別のひとのような気がした。だって涼真は、千草の誕生日すら覚えていなくて、教えられてなお、レストランの予約すらしてくれるつもりがないのに?

 食後のコーヒーを受け取って、ソファに移動すると、涼真は、昨日千草があげたバレンタインギフトの箱を手に追いかけてきた。高級店のチョコレートは、買うのも食べるのも気後れする。そんなチョコレートをお茶請けにつまんで、涼真はもぐもぐしながらテレビのリモコンをピッと鳴らす。

 ──そんなふうに食べるチョコじゃないと思うんだけど。一粒五百円以上もするんだよ?

 でも、そう感じるのは、千草自身が物慣れないせいだろうか。都会育ちの涼真には、これが当たり前なのかもしれない。

 土曜日の朝のニュース番組は、悲惨な事件事故さえ起こらなければ、とても退屈で微笑ましい。どこぞの動物園のカピバラのかわいらしいしぐさに、平日に報道済みのスポーツニュースの総集編、芸能関連の話題と、穏やかな雰囲気で続いていく。

 あくびをかみ殺し、コーヒーをすすっていると、隣に座っていた涼真が、何かを思い出したように立ち上がった。

「そういえば、このあいだ、ハンカチ忘れてったでしょ?」

 コーヒーカップを手にしたまま寝室へ入り、きっちりと折りたたまれたハンカチを持って戻ってくる。さしだされたそれを、千草は足元にカップを置き、両手で受け取った。

「ありがとう、探してたの」
「それが藍染め? 千草の実家って、藍染めやってるんだったよね」
「ううん、藍染めは叔母さんだけだよ。うちは、すくもっていう藍染めのための染料を作ってるの」
「へえ、スクモ? なんか、マリモみたいな語感だね」

 千草はお愛想で笑い、スマホをささっと操作する。

「これ、叔母さんの新作なんだ。叔母さんはね、藍染め作家してるんだよ、……ほら、こんな感じのを作ってるの」

 以前にいっしょに撮った写真のなかで、トルソーに飾られた藍染めのトップスと千草とに挟まれ、叔母はニッカと歯を見せて笑う。自分で振った話題のくせに、千草のスマホの画面を一瞥だけして、涼真は眉根を寄せた。

「このひとが叔母さん? 指先真っ青じゃん。病気?」
「違うよ、藍で染まってるだけ」
「ふぅん。素手じゃなくて、ゴム手袋して作業すればいいのにね。手ぇ青かったら、どんだけ着飾ったって、台無しじゃん」
「──そうだね」

 千草は相槌を返して、席を立った。ハンカチをカバンに戻してきて、床に置いたままだったコーヒーカップを手に取り、再度ソファへ腰をおろす。

 テレビはいつの間にか、ニュースから情報番組に変わり、グルメ特集が流れはじめる。

「わあ、うまそう!」

 隣の千草に話しかけるでもない涼真のひとりごとに、とっさにことばが出なかった。

 食後のコーヒーを飲み終え、涼真の家をあとにする。駅までの道のりは、静かだった。ゴミを漁るカラスだけが歩きまわる繁華街を通り抜けて、バスどおりを走る車の音を遠く聞く。

 千草は、ふらふらと力なく歩きながら、空を見た。こんな静けさが東京にもあることを知ったとき、この雑多なものが入り混じる灰色の町のことも、好きになれる気がした。でも、いまでは、都会の静寂が故郷のものとは違うと、身に染みている。

 故郷の静けさは、見渡すかぎりにだれもいない、しんと冷えた無音だ。この町のように寝静まっているだけで、ひしひしと人の気配を感じる静けさは、かくれんぼでもしているみたいで、息が詰まる。

 信号で立ち止まり、来週の誕生日をどの店で迎えようかと、スマホをいじる。これは、なんだか違う気がすると訴えるこころから、目をそらし、耳を塞ぐ。

 サプライズなんて、端から期待していない。プレゼントだって要らない。いつかふたりで行ったことのあるおいしい料理の店を予約しておいてくれたら、それ以上何も望まない。大事なのは、自発的に千草を祝う気持ちがあるかどうかだ。

 もやもやした気持ちをうまく消化しきれないでいるうちに、駅にたどり着いた。定期券を探すバッグのなかで、ビニールの小さな手提げ袋が手に触れた。

 涼真に贈った高級チョコレートの袋だ。それを見てようやく、バレンタインチョコの感想さえ聞きそびれていたことに気がついた。
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