『青』の作り手 失恋女子と見習い藍師

渡波みずき

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五 さしのべられた手

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 涙が頬を伝い落ちる。痛いのは、膝ではなかった。千草はしゃくりあげ、ぎゅっと握った両手のこぶしを胸に抱いた。通行人がぎょっとしたようすで、こちらを避けていく。手すりを掴んで立ち上がると、ストッキングが破れているのが目に入った。両膝やふくらはぎの内側はすりむけて、血がにじんでいる。

 こんなに盛大に転んだのは、いつが最後だったろうか。自分に呆れて、よろよろと駅のトイレにむかう。手洗い場の鏡の前に立つと、きれいにまとめたはずの髪はほつれ、涙で化粧のくずれた老けた女が映っていた。

 今日で千草は二十九歳になった。東京では『まだ』と言われるけれど、故郷では『もう』と言われる年齢だ。いいかげん、進退を見極めたい気持ちは、ずっと胸にくすぶっていた。

 プロポーズされることまでは期待していなかったが、甘い雰囲気のまま、今夜一晩を過ごしたかった。だれよりも大切に扱われたかった。それがそんなにも大それた希望だとは、思っていなかったのに。

 どうして、こうなってしまったのだろう。松葉に気づいてしまったせい? 神田のせい? 涼真に口を挟ませてしまったせい? 自問自答して、千草は小さく首を振り、洗面ボウルに手をついた。

 顧客相手に自分たちの関係を隠す必要なんて、どこにもなかった。それなのに、恋人同士のディナーのあとで、仕事モードを纏うことを、あの場の空気が、涼真が求めていた。

 涼真は、千草の恋人だと名乗るより、名刺を出し、仕事上の関係性を口にした。そのことを、あとでひとことも謝らなかった。そんな態度がどれだけ千草を傷つけるかも、理解してはくれないのだ。

 俯いた目から落ちた涙は、洗面ボウルのなかを滑って排水溝へ消えていく。その行き先を見つめていると、暗い気持ちばかりが湧き上がってくる。囚われまいと身じろぎすると、膝から下の傷が疼いた。

 ハンドバッグのなかには、スマホと財布、ハンカチと口紅くらいしか入っていない。こんな広範囲の傷を覆えるような絆創膏は、自宅にだってないだろう。千草はしかたなしにハンカチを広げた。先日、涼真に返してもらった叔母の新作だが、背に腹は代えられない。

 ひんやりとした布の感触と、擦れる痛みとを覚えながら、ひと思いに縛る。藍色のハンカチはひどく目立つが、どうせ傷口を晒していたって視線を集める点では変わらない。

 少し足を引きずりながらトイレを出て、改札口へと歩いていると、間抜けな声が近くで響いた。

「あれえ、深見さん? 今日、よく会いますね!」
「……そうですね」

 ニコニコする神田とは裏腹に、隣にいる松葉は千草の顔をじっと見つめ、それから、足元のハンカチや破れたストッキングに視線を走らせる。

「──神田。タクシー捕まえてこい」
「えっ、なんで? もう駅にいるのに?」
「いいから。おまえのことも送ってやる。さっきのホテルの下なら、付け待ちのタクシーの一台ぐらいいるだろう」

 追い立てられた神田は、わけがわからないようすではあるが、指示に従って小走りに階段を駆け戻っていく。松葉は自分のコートを肩から滑らせると、さっと千草の腰元に巻き付けた。そして、間髪いれずに強引に横抱きにされる。

「え、ちょっと! やめて」

 泡を食って暴れた千草を、松葉は静かに制す。

「服の裾が乱れますよ」

 動きをぴたりと止めて、おとなしくすると、松葉は歩きはじめる。重さも感じさせない悠然とした足取りには、安心感があった。

「あの、松葉さん……」
「その怪我じゃ、大変でしょう。それに、この寒空に半袖なんて、ありえない。コートはどこに忘れてきたんですか?」

 答えに窮した千草に、感じるものがあったのだろう。松葉はそれ以上は問わなかった。

「タクシーで送ります。住所を知られたくなければ、せめて、最寄りのどこかまで送らせてください」
「そんなによくしていただく理由がありません」

 本音が口からほとばしった。何か、裏の意図があるのではないかと、疑うような調子になってしまって、自分でも慌てる。言い訳するより先に、松葉は険しかった顔をやわらげ、ほんの少し、照れたように顔をそむけた。

「たとえば、俺のことを覚えていてくださったお礼、ではダメですか。神田を覚えているならまだしも、深見さんは、最初に俺に気づいて会釈してくださったでしょう」
「おことばですが。松葉さんだって、かなりインパクトのある外見だと思いますけど」

 太い眉と、キリリとした目元。背は高く、からだつきもがっしりとしていて、スポーツマン体型だ。柔道や空手の経験者ですか? と、問いかけたくなる気配もある。

「そんなこと、はじめて言われましたよ」

 喉の奥で笑い、松葉は両腕に千草を抱え、息も切らさず階段をあがった。地上へ出ると、風が吹き付けた。けれど、さきほどとは違った。からだに巻き付けられたコートと、背にあたる松葉の体温が、千草を寒さから守っている。

「逆に、わたしを覚えていただいていたことのほうが、びっくりです」

 今日の千草は、先日階段室で出会ったときとは、装いが異なる。フェミニンなひらひらとしたドレスや、髪型やメイクのせいで、別人とまではいかなくても、印象はだいぶ変わっているはずだ。

「それは、忘れられるワケがない」
「えっ……?」

 どういう意味だ。ドキッとして、松葉の横顔を見上げ、そのあまりの近さにいたたまれなくなる。視線は交わらない。だが、彼は、うっすらと微笑んでいた。

 ホテルの出入り口には、ポーターと交渉している神田の姿が見えた。そちらに大股に近づいていきながら、松葉はもう一度、つぶやくように言った。

「忘れられるワケがないんですよ」

 発言の真意を問う前に、神田の交渉が終わった。助手席に座らされ、車が走り出すと、後席に座ったふたりに話題を振るのは難しくなった。

 自宅のあるマンションの前で降車し、ふたりを乗せたタクシーが角を曲がるのを見送ってもまだ、千草は松葉のことばの意味が引っかかってしかたがなかった。



 家に戻り、入浴や傷の手当てを終えると、一気に疲れが押し寄せた。改めて確認した傷口は思いのほか深く、しばらくは痕が残りそうだった。

 このまま眠ったら忘れてしまうからと、ハンカチについた血を手洗いし、ハンドバッグの中身をいつもの通勤カバンに移し替える。そういえば、予定外に涼真に食事代をつきつけてきたから、生活費が足りないかもしれない。財布を開いて中身を確認し、不要なレシート類は抜き取る。そのなかに紛れるように入っていた一枚の名刺が、床に落ちた。

 松葉の名刺だ。仕事を介した関係でないからと、名刺入れではなく財布に入れたのだ。すっかりと忘れていた。

 ──あ、せっかくだし、お礼伝えなきゃ。

 書かれているメールアドレスは、社用のものだ。名刺に記載された携帯電話番号は本人のものだろう。だが、直接電話をかけるのは、ためらわれた。

『深見です。今日はありがとうございました。後日、お礼をさせてください』

 携帯電話番号宛てに文面を考え抜いたショートメッセージを送ると、五分ほどして、返信があった。

『お気になさらず。足は平気ですか』
『はい、平気です。松葉さんのおかげで助かりました』
『とんでもない。土日でゆっくりからだを休めてください』

 行間のない短いやりとりを続ける。千草は、松葉の意味深長なことばの意味を問いたくなったが、お礼の流れで言うことではないなと思い直した。

 涼真からは、何の連絡もなかった。電話の一本でもあればと思ったが、そう思いどおりにいくものではないだろう。

 連絡のかわりに、涼真に持たせたきりだったコートと、誕生日プレゼントらしき小箱が宅配便で届いたのは、日曜日の夕方だった。
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