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七 忘れられない理由
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神田との約束は今週中。別に月曜日ではなかったが、千草の事情が再訪を許さなくなるかもしれない。東洋海産にむかったのは、午前中の早い時間帯だった。
涼真に会いたくない一心で、出社してすぐ、職場を飛び出してきた。顔を合わせたとき、何か言いたげだったから、もしかしたらと、その後に幾度かスマホを確認したけれど、いまのところ、連絡は一件も入っていない。
非常階段を上っていると、上階から話し声が響いてくる。男性の低い声。どうやら、電話中らしい。
またか。先日の松葉との事故を思い起こし、どうしたものかと考えたが、会話の内容こそ聞きとれないものの、下の階に引き返すには近づきすぎている。
踊り場を越えて顔をあげると、電話の主も、千草の足音にふりかえったところだった。
偶然が三度続けば、それはもう、偶然ではないのではないか。思いながら、一段ずつ踏みしめる。
松葉だった。眉を上げ、驚いたようすを見せた彼の脇を、会釈とともに通り過ぎようとしたが、彼は引き止めるように、千草が開こうとした防火扉をさっと押さえた。
ほどなくして通話を終え、親しげに微笑む松葉を見ていると、むげにはできなかった。何しろ、恩を受けているのはこちらばかりなのだ。
「こんにちは。先日は、お世話になりました」
「その後、いかがです?」
「おかげさまで、もう痛みはありません。ちょっと、見た目がアレなので、しばらくスカートは履けませんけど」
パンツスーツの生地をつまんで、肩をすくめながら笑ってみせると、松葉は笑みを深める。そうすると、ぐっとふんいきがやわらかく、優しげになる。
「よかった。ご自宅にお送りするのではなくて、整形外科を探すべきだったかと、後悔していたんです」
「いえいえ、そんなたいそうな怪我じゃありませんから。血は出てましたけど、ほんのかすり傷ですよ。ご心配をおかけいたしました」
真摯な態度に、営業スマイルではなく、こころから笑みがこぼれた。松葉は親切にも防火扉を開け、千草を中へうながしてくれる。恐縮しながら通り抜けると、頭上から低い声が降ってきた。
「これから、神田のところですか?」
「はい。そのつもりですが……」
振り仰ぎながら頷くと、松葉は神田のいる部署のほうに視線を向ける。
「あいつ、たぶん、いま自席には居ませんよ」
スマホを胸ポケットにしまい、腕時計をちらりと見て、松葉は千草を見下ろす。
「人事と面談しているはずです。俺たち、今年度末で辞めるので」
「えっ? 松葉さんも、ごいっしょに? おふたりとも転職なさるんですか」
もしかして、友人同士で新たに起業でもするのだろうか。それならば、ここ数回の神田への商品説明は完全に無駄だ。しかし、もしも起業ならば、別の保険商品を勧めることもできる。
頭のなかで、そろばんをはじいていると、松葉はゆったりと首をかしげ、ことばに迷うように短く唸った。
「転職、と、言っていいものかどうか。──地方へ行くんです。地域おこし協力隊員になって」
「そうなんですか!」
『地域おこし協力隊員』と聞いても、よくわからなかったが、起業でも転職でもなく、東京に留まることもないというのであれば、保険外交員の出る幕はなさそうだ。
──すてきなひとだけど、もう、仕事でも会えないのか。
さみしくなったが、幾度か助けてもらっていても、松葉と個人的に親しいとまでは言えない。千草はどうにか微笑んで、せめてしっかりと最後のあいさつをと、顔をあげた。だが、松葉が自分を見つめる視線に気づいて、ありきたりなことばは口にできなくなる。
「ご存じないと思いますが、俺は、名刺をいただくよりも前から、あなたを知っていました。何度も、見かけたことがあったから」
「──!」
素直に驚きが顔に出てしまった。松葉は目を細め、目尻にしわを作るように笑った。
「退職の関係で、電話に出ることが多かったもので。非常階段を一階から上ってくる足音がしたら、さすがに気にもなりますよ」
営業まわりのときにエレベータを使わないというポリシーは、これまでだれにも悟られたことがない。汗をかきやすい夏場でさえ、だ。松葉と初めて会ったのが階段室だったとはいえ、千草が一階から階段を使っていることなんて、知らないと思っていた。
「バレていたなんて、知りませんでした」
「健康維持のためですか?」
「いいえ。新人のときについてくれたトレーナーが、信念を持ったひとだったんです。『お客様に物をいただいてどうするんだ!』って、叱るタイプの。それで、反発心からつい、エレベータすら使わないでやってやろうって、思いまして」
ぷ、と、吹き出す音を聞いて、千草は目をあげる。松葉はこぶしを口元にあて、すみませんと謝りながらも、笑ったことを隠しもしない。
「深見さん、変わってるって言われません?」
「どういう意味ですか?」
勤務中なのも忘れてむくれた千草に、松葉は親しみのこもった口調で応える。
「印象に残りやすいって意味ですよ。ヘンなところ真面目で、ひたむきで、感じがいい」
それは、松葉のことでは?
思いながらも、こころの奥では納得する。あの金曜日の『忘れられるはずがない』という松葉のことばは、そういう意味合いだったのか。もっと、ひとめぼれとか、昔の片思いの相手だったとか、ドラマティックなことばかり思い描いてしまっていただけに、落胆する気持ちが抑えられない。
「これが最後かもしれないと思ったら、前から知っていたと伝えておきたくなりまして。ちょっと、唐突でしたね」
松葉は照れくさそうにして、千草の訪問があったことは神田に伝言してくれると言い、あっさりと立ち去っていく。
その大きな背を見送っていると、寂寥感ばかり募って、しかたなかった。
涼真に会いたくない一心で、出社してすぐ、職場を飛び出してきた。顔を合わせたとき、何か言いたげだったから、もしかしたらと、その後に幾度かスマホを確認したけれど、いまのところ、連絡は一件も入っていない。
非常階段を上っていると、上階から話し声が響いてくる。男性の低い声。どうやら、電話中らしい。
またか。先日の松葉との事故を思い起こし、どうしたものかと考えたが、会話の内容こそ聞きとれないものの、下の階に引き返すには近づきすぎている。
踊り場を越えて顔をあげると、電話の主も、千草の足音にふりかえったところだった。
偶然が三度続けば、それはもう、偶然ではないのではないか。思いながら、一段ずつ踏みしめる。
松葉だった。眉を上げ、驚いたようすを見せた彼の脇を、会釈とともに通り過ぎようとしたが、彼は引き止めるように、千草が開こうとした防火扉をさっと押さえた。
ほどなくして通話を終え、親しげに微笑む松葉を見ていると、むげにはできなかった。何しろ、恩を受けているのはこちらばかりなのだ。
「こんにちは。先日は、お世話になりました」
「その後、いかがです?」
「おかげさまで、もう痛みはありません。ちょっと、見た目がアレなので、しばらくスカートは履けませんけど」
パンツスーツの生地をつまんで、肩をすくめながら笑ってみせると、松葉は笑みを深める。そうすると、ぐっとふんいきがやわらかく、優しげになる。
「よかった。ご自宅にお送りするのではなくて、整形外科を探すべきだったかと、後悔していたんです」
「いえいえ、そんなたいそうな怪我じゃありませんから。血は出てましたけど、ほんのかすり傷ですよ。ご心配をおかけいたしました」
真摯な態度に、営業スマイルではなく、こころから笑みがこぼれた。松葉は親切にも防火扉を開け、千草を中へうながしてくれる。恐縮しながら通り抜けると、頭上から低い声が降ってきた。
「これから、神田のところですか?」
「はい。そのつもりですが……」
振り仰ぎながら頷くと、松葉は神田のいる部署のほうに視線を向ける。
「あいつ、たぶん、いま自席には居ませんよ」
スマホを胸ポケットにしまい、腕時計をちらりと見て、松葉は千草を見下ろす。
「人事と面談しているはずです。俺たち、今年度末で辞めるので」
「えっ? 松葉さんも、ごいっしょに? おふたりとも転職なさるんですか」
もしかして、友人同士で新たに起業でもするのだろうか。それならば、ここ数回の神田への商品説明は完全に無駄だ。しかし、もしも起業ならば、別の保険商品を勧めることもできる。
頭のなかで、そろばんをはじいていると、松葉はゆったりと首をかしげ、ことばに迷うように短く唸った。
「転職、と、言っていいものかどうか。──地方へ行くんです。地域おこし協力隊員になって」
「そうなんですか!」
『地域おこし協力隊員』と聞いても、よくわからなかったが、起業でも転職でもなく、東京に留まることもないというのであれば、保険外交員の出る幕はなさそうだ。
──すてきなひとだけど、もう、仕事でも会えないのか。
さみしくなったが、幾度か助けてもらっていても、松葉と個人的に親しいとまでは言えない。千草はどうにか微笑んで、せめてしっかりと最後のあいさつをと、顔をあげた。だが、松葉が自分を見つめる視線に気づいて、ありきたりなことばは口にできなくなる。
「ご存じないと思いますが、俺は、名刺をいただくよりも前から、あなたを知っていました。何度も、見かけたことがあったから」
「──!」
素直に驚きが顔に出てしまった。松葉は目を細め、目尻にしわを作るように笑った。
「退職の関係で、電話に出ることが多かったもので。非常階段を一階から上ってくる足音がしたら、さすがに気にもなりますよ」
営業まわりのときにエレベータを使わないというポリシーは、これまでだれにも悟られたことがない。汗をかきやすい夏場でさえ、だ。松葉と初めて会ったのが階段室だったとはいえ、千草が一階から階段を使っていることなんて、知らないと思っていた。
「バレていたなんて、知りませんでした」
「健康維持のためですか?」
「いいえ。新人のときについてくれたトレーナーが、信念を持ったひとだったんです。『お客様に物をいただいてどうするんだ!』って、叱るタイプの。それで、反発心からつい、エレベータすら使わないでやってやろうって、思いまして」
ぷ、と、吹き出す音を聞いて、千草は目をあげる。松葉はこぶしを口元にあて、すみませんと謝りながらも、笑ったことを隠しもしない。
「深見さん、変わってるって言われません?」
「どういう意味ですか?」
勤務中なのも忘れてむくれた千草に、松葉は親しみのこもった口調で応える。
「印象に残りやすいって意味ですよ。ヘンなところ真面目で、ひたむきで、感じがいい」
それは、松葉のことでは?
思いながらも、こころの奥では納得する。あの金曜日の『忘れられるはずがない』という松葉のことばは、そういう意味合いだったのか。もっと、ひとめぼれとか、昔の片思いの相手だったとか、ドラマティックなことばかり思い描いてしまっていただけに、落胆する気持ちが抑えられない。
「これが最後かもしれないと思ったら、前から知っていたと伝えておきたくなりまして。ちょっと、唐突でしたね」
松葉は照れくさそうにして、千草の訪問があったことは神田に伝言してくれると言い、あっさりと立ち去っていく。
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