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破れた絵
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お迎えの時間になると、保育園の駐車場は混み合う。私は時計とにらめっこをしながら、駐車スペースが空くのをじりじりと待った。
午後五時五十五分。うちは、六時までの保育の申込みをしている。七時までは延長保育してもらえるものの、六時を一分でも過ぎれば、子どもひとりにつき二百円の延長保育料を取られる。年少組の娘と乳児クラスの息子のふたりで、延長一回ごとに四百円。月に一度だけならば少額でも、度重なれば、懐が痛む。
ようやく車を駐め、保育室に走り込んだのは、六時一分前のことだった。本来であれば、保育士と「さようなら」の挨拶を交わすまでは保育時間に含まれてしまうのだが、娘の担任は、朗らかに笑った。
「ぎりぎりセーフですね、鈴木原さん」
「結実花ちゃん、悠人くん、お迎えだよ!」
他の保育士たちが支度を調えさせてくれるあいだに、担任は申し訳なさそうな顔をして、話を切り出した。
「すみません、お母さん。結実花ちゃんなんですけど、今日持って帰るはずだった遠足のお絵かき作品、破れてしまったんです」
「はぁ……」
気の抜けた返事になってしまった。担任が先を続けようとするのを遮って、結実花は丸められたピンクの色画用紙を見せびらかそうとする。
「遠沢先生がね、壊れちゃったの貼ってくれた! ピンク可愛いでしょ?」
「ホントだ、可愛いね。よかったね。結実花、ピンク好きだものね」
破れた画用紙を貼り合わせ、色画用紙を裏から貼って補強したようだ。
状況はわかった。かえって喜んでいるなら、いいではないか。いまはとにかく、早く帰宅しなければ。八時ごろまでに入浴と夕食を済ませなければ、この子らは電池が切れたように寝てしまうのだから。
それに、この女は何を考えているのかわからなくて、薄気味が悪い。あまり、長話をしたい相手ではない。
私は話を終わらせるように、ふたりに挨拶をさせると、保育室を後にした。
リビングの壁のコルクボードに一時的に飾った絵を見て、仕事から帰宅した夫は開口一番、「破れてるけど」とのたまった。
確かに真っ二つだ。まんなかに描かれた結実花らしき人物のうえに、袈裟懸けにされたように線が入ってしまっている。
私も、帰宅してから改めて見てみて驚いたが、特段触れないようにしていたのに、夫にはそうしたデリカシーはかけらもない。案の定、食事中だった結実花はしょんぼりして、スプーンを置いた。
「だって、愛梨ちゃんが壊しちゃったんだもん。結実花じゃないよ」
「愛梨ちゃんも、わざとじゃなかったんでしょう?」
取りなすように声をかけると、結実花はゆっくりと首を横に振った。
「結実花の絵が上手だねって、みんなが言って、褒めてくれて、そしたら愛梨ちゃんが、愛梨ちゃんのほうがうまいって怒ったの」
そういえば、『愛梨』という子の名前には、覚えがある。以前、結実花の気に入りの服に絵の具をべたりとつけてよこしたのは、この名前の子だった。
「先生は、愛梨ちゃんが破ったって知ってるの? 愛梨ちゃんには、きちんと謝ってもらえた?」
私の問いに、結実花は首を傾げた。目は皿のうえのハンバーグに注がれている。こんな話は終わりにして、早く続きを食べたいのだ。
娘本人にしてみれば、たいしたことのない事件でも、親としては気になる。夫の食事を用意しながら、釈然としない顔をした夫に声をかける。
「やっぱり、あの担任だからかしら」
「お義母さんも言ってただろ。もう、関係ないって」
「先生は、全部見てたよ」
割り込んできた結実花のことばに、どきりとする。わからないと思って話していたが、やはり四つにもなると、大人の会話でも理解できる部分が出てくる。
気をつけなければと、私は夫と目を見交わして口を閉ざした。
午後五時五十五分。うちは、六時までの保育の申込みをしている。七時までは延長保育してもらえるものの、六時を一分でも過ぎれば、子どもひとりにつき二百円の延長保育料を取られる。年少組の娘と乳児クラスの息子のふたりで、延長一回ごとに四百円。月に一度だけならば少額でも、度重なれば、懐が痛む。
ようやく車を駐め、保育室に走り込んだのは、六時一分前のことだった。本来であれば、保育士と「さようなら」の挨拶を交わすまでは保育時間に含まれてしまうのだが、娘の担任は、朗らかに笑った。
「ぎりぎりセーフですね、鈴木原さん」
「結実花ちゃん、悠人くん、お迎えだよ!」
他の保育士たちが支度を調えさせてくれるあいだに、担任は申し訳なさそうな顔をして、話を切り出した。
「すみません、お母さん。結実花ちゃんなんですけど、今日持って帰るはずだった遠足のお絵かき作品、破れてしまったんです」
「はぁ……」
気の抜けた返事になってしまった。担任が先を続けようとするのを遮って、結実花は丸められたピンクの色画用紙を見せびらかそうとする。
「遠沢先生がね、壊れちゃったの貼ってくれた! ピンク可愛いでしょ?」
「ホントだ、可愛いね。よかったね。結実花、ピンク好きだものね」
破れた画用紙を貼り合わせ、色画用紙を裏から貼って補強したようだ。
状況はわかった。かえって喜んでいるなら、いいではないか。いまはとにかく、早く帰宅しなければ。八時ごろまでに入浴と夕食を済ませなければ、この子らは電池が切れたように寝てしまうのだから。
それに、この女は何を考えているのかわからなくて、薄気味が悪い。あまり、長話をしたい相手ではない。
私は話を終わらせるように、ふたりに挨拶をさせると、保育室を後にした。
リビングの壁のコルクボードに一時的に飾った絵を見て、仕事から帰宅した夫は開口一番、「破れてるけど」とのたまった。
確かに真っ二つだ。まんなかに描かれた結実花らしき人物のうえに、袈裟懸けにされたように線が入ってしまっている。
私も、帰宅してから改めて見てみて驚いたが、特段触れないようにしていたのに、夫にはそうしたデリカシーはかけらもない。案の定、食事中だった結実花はしょんぼりして、スプーンを置いた。
「だって、愛梨ちゃんが壊しちゃったんだもん。結実花じゃないよ」
「愛梨ちゃんも、わざとじゃなかったんでしょう?」
取りなすように声をかけると、結実花はゆっくりと首を横に振った。
「結実花の絵が上手だねって、みんなが言って、褒めてくれて、そしたら愛梨ちゃんが、愛梨ちゃんのほうがうまいって怒ったの」
そういえば、『愛梨』という子の名前には、覚えがある。以前、結実花の気に入りの服に絵の具をべたりとつけてよこしたのは、この名前の子だった。
「先生は、愛梨ちゃんが破ったって知ってるの? 愛梨ちゃんには、きちんと謝ってもらえた?」
私の問いに、結実花は首を傾げた。目は皿のうえのハンバーグに注がれている。こんな話は終わりにして、早く続きを食べたいのだ。
娘本人にしてみれば、たいしたことのない事件でも、親としては気になる。夫の食事を用意しながら、釈然としない顔をした夫に声をかける。
「やっぱり、あの担任だからかしら」
「お義母さんも言ってただろ。もう、関係ないって」
「先生は、全部見てたよ」
割り込んできた結実花のことばに、どきりとする。わからないと思って話していたが、やはり四つにもなると、大人の会話でも理解できる部分が出てくる。
気をつけなければと、私は夫と目を見交わして口を閉ざした。
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