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「いいでしょう。結実花ちゃんをここへよこしてください」
内藤の読む次の絵本を楽しみにしていた結実花は、佐開のそばにきて不満そうだったが、彼がほかの絵本を読んでやると言うやいなや、嬉々として近くに座りこんでしまった。
佐開の持つ包丁が気になってしかたがないが、遠沢はなんでもないような顔をしている。
「ほら、鈴木原さん、時間勝負ですよ。一気に手分けして行かなきゃいけませんから、保管場所と手順をよく覚えてください」
私を入り口近くに招いて、遠沢は保育用のエプロンのポケットから、メモ帳とペンを取り出す。
「調理室はこういう配置になっていて、」
配置図をざっと描き、役割を決める。私はパンを運び、遠沢は牛乳を運びつつ、冷蔵庫内に、夕食に使えそうな食材があるか、ざっと確認する。
口頭で言いながら、遠沢はメモ帳の下のほうにさらさらと文章を書く。びりっと破って、私に持たせて、遠沢は佐開をふりかえった。
「取りに行ってきます」
「二分以内です。一分経ったら、声をかけさせます」
結実花に読んでやっていた絵本を中断して、佐開は腕時計に目を落とす。同じように、私は押しつけられたメモに目を向けながら、早足に保育室を出た。
『事務室の電話の横、壁に通報ボタン、赤色』
遠沢のメモには、そのような指示が書かれていた。なるほど、指示を口に出さずにおくには筆談しかないが、メモで指示を飛ばすにしても、調理室の構造を知らない『私』という役者が不可欠であったのか。
事務室と調理室はほぼ隣り合っている。私たちは二手に分かれ、それぞれの作業に邁進した。何しろ、二分しかない。
事務室は、四畳半ほどのスペースの中央に長机が二つ、壁際に事務机がいくつか並んでいる。狭苦しい通路を横歩きして、電話にたどり着く。電話の横の壁には、白い箱のような機械が据え付けられていて、『通報』と書かれた赤い丸ボタンがついていた。
私はためらいなく通報ボタンを押したが、押し込んだ感触こそあるものの、こちらがわには何の反応もない。
不安を覚えながら事務室を離れ、調理室に合流する。遠沢の用意したパンの袋を抱え、何事もなかったかのような顔をして、私たちは保育室に戻った。
おやつを食べた子どもたちは、それぞれ好き勝手におもちゃで遊んでいる。この場に包丁を手にした佐開さえいなければ、まったく平穏な日常の風景に見えた。
電話が鳴る。遠くの、たぶん事務室でいちばんに鳴り、数コール遅れて、保育室の電話が着電を知らせる。相手はだれだろう。何も知らない保護者か、それとも園長か。
園長はまだ横浜から戻らない。悠人やほかの乳児クラスの子どもたちは、どこで過ごしているのだろう、あの通報ボタンは、ちゃんと作動していたのだろうか。
もう何度目かになる心配をしていると、待ちわびたサイレンの音が遠くから近づいてくるのが聞こえた。
「パトカーだ!」
男の子が興奮気味に叫んで立ち上がる。つられたように、何人もが我先にと窓に近寄っていき、カーテンのすそから頭を入れて、つま先立ちで外を見ようとする。
「すごい! 何台もあるよ!」
その声で、佐開は私を見た。
「カーテンを、開けてもらえますか」
命じられるがままにカーテンを一部開けると、外は思っていたよりも明るかった。
保育園の正門の外に、セダン型のパトロールカーが二台、ワゴン型が一台止まっている。そのむこうには、大勢の見物人。近所の住人だけでなく、すでにお迎え時間の過ぎた保護者も混じっているだろう。見慣れた顔がいくつもあった。
佐開は見せつけるように包丁をかざしながら窓に近寄った。声にならない悲鳴が見物人のほうから聞こえたような気がする。みんな、不安げに口を薄くひらいて、こちらの動向を見守っている。
拡声器を持った警察官が、投降を促す。だが、佐開は応えない。待ちわびた園長の姿がどこにもないからだ。
「なぜ、警察が?」
佐開は私と遠沢とを見やる。疑われているのを承知で、私は肩をすくめてみせた。
「最初の非常ベルの段階で、二階の乳児クラスは脱出していたんです。通報されていて、当然でしょう?」
「矛盾しますね。あなたは、僕に通報を勧めていました。当然に通報されるとは、思っていなかったはずです」
佐開は、私ではなく、遠沢を真正面から見据えた。
「なぜ、邪魔だてするのですか」
「ここはわたしの職場ですし、たとえ学年が違えども、園児はみんな教え子です。なんとしても守ろうとするのは、それこそ当然でしょう」
一歩も引かない構えの遠沢をよそに、佐開は近くで外を見ていた小柄な男の子の襟首をつかんだ。
「言ったでしょう。警察を呼べば、子どもを手にかけると……!」
パトカーに浮かれて佐開のまわりにいた子どもたちは、きゃあきゃあ言いながら、蜘蛛の子を散らすように逃げる。暴れる男の子を片腕に抱きかかえ、佐開は包丁を持った腕をふりあげる。
そのときだった。
内藤の読む次の絵本を楽しみにしていた結実花は、佐開のそばにきて不満そうだったが、彼がほかの絵本を読んでやると言うやいなや、嬉々として近くに座りこんでしまった。
佐開の持つ包丁が気になってしかたがないが、遠沢はなんでもないような顔をしている。
「ほら、鈴木原さん、時間勝負ですよ。一気に手分けして行かなきゃいけませんから、保管場所と手順をよく覚えてください」
私を入り口近くに招いて、遠沢は保育用のエプロンのポケットから、メモ帳とペンを取り出す。
「調理室はこういう配置になっていて、」
配置図をざっと描き、役割を決める。私はパンを運び、遠沢は牛乳を運びつつ、冷蔵庫内に、夕食に使えそうな食材があるか、ざっと確認する。
口頭で言いながら、遠沢はメモ帳の下のほうにさらさらと文章を書く。びりっと破って、私に持たせて、遠沢は佐開をふりかえった。
「取りに行ってきます」
「二分以内です。一分経ったら、声をかけさせます」
結実花に読んでやっていた絵本を中断して、佐開は腕時計に目を落とす。同じように、私は押しつけられたメモに目を向けながら、早足に保育室を出た。
『事務室の電話の横、壁に通報ボタン、赤色』
遠沢のメモには、そのような指示が書かれていた。なるほど、指示を口に出さずにおくには筆談しかないが、メモで指示を飛ばすにしても、調理室の構造を知らない『私』という役者が不可欠であったのか。
事務室と調理室はほぼ隣り合っている。私たちは二手に分かれ、それぞれの作業に邁進した。何しろ、二分しかない。
事務室は、四畳半ほどのスペースの中央に長机が二つ、壁際に事務机がいくつか並んでいる。狭苦しい通路を横歩きして、電話にたどり着く。電話の横の壁には、白い箱のような機械が据え付けられていて、『通報』と書かれた赤い丸ボタンがついていた。
私はためらいなく通報ボタンを押したが、押し込んだ感触こそあるものの、こちらがわには何の反応もない。
不安を覚えながら事務室を離れ、調理室に合流する。遠沢の用意したパンの袋を抱え、何事もなかったかのような顔をして、私たちは保育室に戻った。
おやつを食べた子どもたちは、それぞれ好き勝手におもちゃで遊んでいる。この場に包丁を手にした佐開さえいなければ、まったく平穏な日常の風景に見えた。
電話が鳴る。遠くの、たぶん事務室でいちばんに鳴り、数コール遅れて、保育室の電話が着電を知らせる。相手はだれだろう。何も知らない保護者か、それとも園長か。
園長はまだ横浜から戻らない。悠人やほかの乳児クラスの子どもたちは、どこで過ごしているのだろう、あの通報ボタンは、ちゃんと作動していたのだろうか。
もう何度目かになる心配をしていると、待ちわびたサイレンの音が遠くから近づいてくるのが聞こえた。
「パトカーだ!」
男の子が興奮気味に叫んで立ち上がる。つられたように、何人もが我先にと窓に近寄っていき、カーテンのすそから頭を入れて、つま先立ちで外を見ようとする。
「すごい! 何台もあるよ!」
その声で、佐開は私を見た。
「カーテンを、開けてもらえますか」
命じられるがままにカーテンを一部開けると、外は思っていたよりも明るかった。
保育園の正門の外に、セダン型のパトロールカーが二台、ワゴン型が一台止まっている。そのむこうには、大勢の見物人。近所の住人だけでなく、すでにお迎え時間の過ぎた保護者も混じっているだろう。見慣れた顔がいくつもあった。
佐開は見せつけるように包丁をかざしながら窓に近寄った。声にならない悲鳴が見物人のほうから聞こえたような気がする。みんな、不安げに口を薄くひらいて、こちらの動向を見守っている。
拡声器を持った警察官が、投降を促す。だが、佐開は応えない。待ちわびた園長の姿がどこにもないからだ。
「なぜ、警察が?」
佐開は私と遠沢とを見やる。疑われているのを承知で、私は肩をすくめてみせた。
「最初の非常ベルの段階で、二階の乳児クラスは脱出していたんです。通報されていて、当然でしょう?」
「矛盾しますね。あなたは、僕に通報を勧めていました。当然に通報されるとは、思っていなかったはずです」
佐開は、私ではなく、遠沢を真正面から見据えた。
「なぜ、邪魔だてするのですか」
「ここはわたしの職場ですし、たとえ学年が違えども、園児はみんな教え子です。なんとしても守ろうとするのは、それこそ当然でしょう」
一歩も引かない構えの遠沢をよそに、佐開は近くで外を見ていた小柄な男の子の襟首をつかんだ。
「言ったでしょう。警察を呼べば、子どもを手にかけると……!」
パトカーに浮かれて佐開のまわりにいた子どもたちは、きゃあきゃあ言いながら、蜘蛛の子を散らすように逃げる。暴れる男の子を片腕に抱きかかえ、佐開は包丁を持った腕をふりあげる。
そのときだった。
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