『あなたの悩みに、そっと味付けを』

KAORUwithAI

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第1話 ほうれん草のお浸し

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 オフィス街から十分ほど歩いたところに、夜になるとぽつんと灯る小さな居酒屋がある。
 店の名は「癒庵(ゆあん)」。人通りの多い通りから一本外れた路地裏にひっそりと佇み、通りすがりの人が気付かずに通り過ぎてしまうような控えめな店構えだ。
 暖簾は深い藍色で、柔らかな電球色の光を受けて優しく揺れ、木製の表札には手彫りの二文字──癒庵──が落ち着いた筆致で刻まれている。

 店主・佐伯誠一は、開店直後の静かな時間が好きだった。
 カウンターを布巾で拭き、包丁を手に取り、その日の気温や湿度、仕込みの具合を確かめながら、まだ訪れぬ客のために鼻歌まじりで準備をする。この店を始めてもうすぐ十年。今でも、店の灯りをともす瞬間は胸の奥が少し温かくなる。

 「ああ……今日も、始まったな」

 そう小さく呟いたとき、木の扉が遠慮がちに開いた。

 「……すみません、やってますか?」

 スーツ姿の男性が、控えめに暖簾の隙間から顔をのぞかせていた。
 30代前半ほどだろうか。ワイシャツの襟はわずかにくたびれ、ネクタイも少しだけ歪んでいる。顔には、長い一日を終えた人特有の疲労が浮かんでいる。

 「ええ、どうぞ。お好きな席へ」

 佐伯が微笑むと、男はほっとしたようにカウンターの端に腰を下ろした。
 店内は木目の温かさが残る落ち着いた雰囲気で、静かなピアノ曲が流れている。客が一人でも空間が持つ柔らかさが損なわれないよう、佐伯が工夫しているのだ。

 「ビール、お願いします」

 「はいよ」

 キン、と心地よい音を立てながら、冷えたジョッキに黄金色の液体が注がれ、細かな泡がゆっくりと盛り上がっていく。
 男はそれを受け取ると、ひと息にごくりと飲んだ。その瞬間、肩がわずかに緩むのを佐伯は見逃さなかった。

 「今日は、ずいぶんお疲れのようですね」

 「え……あ、まあ……はい」

 聞かれると思っていなかったのだろう。男は戸惑い、視線をジョッキに落とした。
 佐伯はそれ以上は聞かない。ただ静かに、カウンター越しの距離を保ったまま、男の言葉を待つ。

 やがて、沈黙が一杯のビールを半分ほど減らしたころ、男はぽつりと口を開いた。

 「……部下に怒られたんですよ。僕が、言い方キツいって」

 「ほうほう」

 「たしかに言い方が悪かったんですけど……僕だって焦ってたんですよ。締め切りが迫ってて、みんなピリピリしてて……」

 男は言葉を探すように、視線を泳がせる。

 「……でも本当は、怒りたかったわけじゃないんです。ちゃんと伝えたかっただけ、なんですけどね」

 ビールの泡が弾ける音ばかりが、静かな店内に響いた。

 佐伯は、ゆっくりと首を縦に振る。

 「うん。なるほど。……それは、大変でしたね」

 否定も肯定もしない。ただ、寄り添う。
 それが佐伯のやり方だった。

 すると、男はようやく肩の力を少し抜き、苦笑いのような、けれどどこか悲しい表情を浮かべた。

 その表情を見届けた後、佐伯は「ちょっとだけ、お待ちください」と告げて厨房へ向かった。

 火は使わない。
 静かに湯がいたほうれん草を冷水に落として色を整え、ゆっくり水気を切る。
 削りたての鰹節をほんのり落とし、優しい出汁にくぐらせる。
 余計なものは何も足さない。
 その人が今いちばん必要としている、落ち着きと安らぎだけを皿に乗せる。それが、“心寄せ料理”だ。

 やがて、鮮やかな緑が陶器の皿に静かに盛られた。

 佐伯はカウンターに戻ると、男の前にそっと皿を差し出した。

 「……あれ? これ、頼んでないですよ?」

 男は驚いたように目を瞬かせる。

 佐伯は軽く頭を下げ、穏やかな声で言った。

 「ええ、サービスです。
 今日は、ちょっと“落ち着く味”が必要そうでしたので」

 男は数秒黙り、箸を取った。一口。
 その瞬間、張り詰めていた表情がふっとほどけた。

 「……優しい味だなぁ。なんか、胸が静かになります」

 「ほうれん草はね、茹ですぎると苦くなる。でも、ちょうどよく絞ると優しくなるんですよ」

 佐伯は淡く笑う。

 「言葉も同じでね。強すぎると相手に刺さるけど……ちょうどよく絞ると、ちゃんと届くんです」

 男は箸を止め、しばらく皿を見つめていた。
 そして、気恥ずかしいように笑い、小さく息をつく。

 「……なんか、すみません。愚痴なんて」

 「愚痴は、人の心を軽くするためにあるんですよ」

 男はゆっくりと、ほうれん草のお浸しを食べ進めた。
 ひと口ごとに、張り詰めていたものが解けていくようだった。

 やがて食べ終わり、会計を済ませた男は、扉に向かう前にふと振り返った。

 「また……来ても、いいですか?」

 佐伯は穏やかに頷く。

 「もちろん。いつでもどうぞ」

 男は深々と頭を下げ、夜風の中へ消えていった。

 扉が閉まり、再び静寂が訪れる。

 佐伯はカウンターを布巾で拭き、片付けをしながらふっと小さく息を吐いた。
 今日も誰かの心に寄り添うことができた。
 けれど、自分の胸の奥に沈んでいる悩みだけは、誰にも話すことができずにいる。

 「……さて、片付けるか」

 独り言のように呟き、佐伯は棚に皿を戻す。
 癒庵の小さな灯りは、静かな路地にぽつんと灯り続けていた。
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