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第15話 チキン南蛮
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街の喧騒がゆるやかに薄れていく頃、
癒庵(ゆあん)の小さな灯りがふわりと路地裏を照らした。
店の中には出汁と油の香りがやわらかく満ち、外より数度ほど温かい空気が漂っている。
佐伯はカウンターの内側で、鶏肉に下味をつけていた。
軽く叩いて厚みを均一にし、塩胡椒と少しの酒で揉み込み、
小麦粉を薄くまとわせ、溶き卵にくぐらせていく。
「よし……」
油の温度を確かめ、菜箸を入れると細かな気泡が立ち、ちょうど良い加減。
別鍋では甘酢がふつふつと沸き、酸味と甘みが調和している。
タルタルソースはすでに完成しており、ゆで卵の黄色がやわらかく覗いていた。
この三段階が揃って初めて、あの“やさしい料理”になる。
そのとき──
カラ……と、控えめに暖簾が揺れた。
「……生、お願いします……」
入ってきたのは20代半ばほどの女性だった。
エプロンの跡がくっきりと残っており、髪もどこか乱れている。
目元には疲れの色が深く、何かを堪えた表情だった。
「いらっしゃい。どうぞ」
佐伯がビールを出すと、彼女は震える手でグラスを持ち、
ひと口飲んだ途端に、はぁ、と息を押し出した。
「……お客さんに……怒鳴られちゃって……」
ぽつり、とこぼれた言葉には、張りつめた糸が切れたような弱さがあった。
佐伯は急かさず、ただ聞く構えで静かに立っていた。
「私……飲食店で働いてるんですけど……
今日、忙しくて……テンパっちゃって……」
俯いたまま、彼女は続ける。
「オーダー間違えて……
“だからお前みたいなのはダメなんだ”って……
言われちゃって……
はは……向いてないのかな、私……」
笑おうとしても、口元が震えている。
「私、不器用だし……
仕事遅いし……
迷惑かけてばっかりで……
頑張ってるつもりなんですけど……
誰にも伝わらなくて……」
グラスを握る指は、細くて、頼りなげだった。
佐伯はその姿に、美咲の影を重ねていた。
──ダメだと言われるたび、美咲は少しずつ笑えなくなっていった。
“私なんか……”と呟いていたあの夜も、
俺は気づけなかった。
胸の奥に鈍い痛みが走る。
「……少し待っててください」
佐伯はそう言って立ち上がり、厨房へ戻った。
鶏肉を油へ落とすと──
じゅわっ! と勢いよく飛び散る音が店に響いた。
油の熱で衣が膨らみ、表面がカリカリに変わっていく。
強く揚がった衣。
荒々しい熱。
──人も同じだ。
傷つくと、心が“揚がる”。
外側だけが固くなってしまう。
続いて、甘酢へ。
揚がったチキンを甘酢にくぐらせると、じゅわっと音を立てて染み込んでいく。
酸味は、疲れを落とす。
甘みは、心をほどく。
そして最後にタルタル。
優しく、包む。
卵の甘さと旨みが、すべてを受け止める。
佐伯は皿に盛り、熱々のままカウンターへ戻った。
「どうぞ」
目の前に置かれた料理を見て、女性──坂井は驚く。
「え……これ……頼んでませんよ?」
佐伯は柔らかい声で言った。
「ええ、サービスです。
チキン南蛮は、三段階でおいしくなる料理なんです」
坂井は瞬きを繰り返す。
佐伯は続けた。
「まず、“揚げ”でカリッと固くなる。
でもそのあと、甘酢で心がほどけて……
最後にタルタルが全部包み込む。
強く揚がった分だけ、優しさが沁みるんですよ」
坂井は、小さく息を呑んだ。
「……人も……同じなんですか?」
佐伯は微笑んで頷いた。
「ええ。
強く揚がってしまった日ほど、
包んでくれるものが必要なんです」
坂井は箸を取り、チキン南蛮をそっと口に運んだ。
衣のサクッとした音。
揚げ油の香り。
つづいて甘酢の酸味が疲れを洗い流し、
最後にタルタルの甘みがやさしく舌を包む。
その瞬間──
坂井の目から涙がぽろり、とこぼれた。
「……こんな……
こんな味があるんだ……」
声が震え、胸を押さえながら続ける。
「なんか……認めてもらえた気がする……
“これでもいいよ”って……
“あなたのままでいいよ”って……
そんなふうに……言われた気がしました……」
佐伯はただ頷き、表情を変えなかった。
しかし胸の奥で、美咲が涙を浮かべた夜を思い出していた。
しばらくして坂井はグラスの水を飲み、
顔を上げて言った。
「……明日、もう一回だけ頑張ってみます。
次間違えても……ちゃんと謝って……
ちゃんと向き合って……
私、やり直したい」
佐伯は微笑んだ。
「ええ。
ゆっくりでいいんですよ」
坂井は会計を済ませ、深々と頭を下げて外へ出ていく。
彼女の背中には、ほんの少しだけ光が戻っていた。
一人残された店内。
佐伯はカウンターを拭きながら、油の匂いの残る厨房を見やった。
「……美咲……
お前にも……最後のタルタルをかけてやれたらな……」
その呟きは小さく、湯気とともに店の灯へ溶けていった。
癒庵(ゆあん)の小さな灯りがふわりと路地裏を照らした。
店の中には出汁と油の香りがやわらかく満ち、外より数度ほど温かい空気が漂っている。
佐伯はカウンターの内側で、鶏肉に下味をつけていた。
軽く叩いて厚みを均一にし、塩胡椒と少しの酒で揉み込み、
小麦粉を薄くまとわせ、溶き卵にくぐらせていく。
「よし……」
油の温度を確かめ、菜箸を入れると細かな気泡が立ち、ちょうど良い加減。
別鍋では甘酢がふつふつと沸き、酸味と甘みが調和している。
タルタルソースはすでに完成しており、ゆで卵の黄色がやわらかく覗いていた。
この三段階が揃って初めて、あの“やさしい料理”になる。
そのとき──
カラ……と、控えめに暖簾が揺れた。
「……生、お願いします……」
入ってきたのは20代半ばほどの女性だった。
エプロンの跡がくっきりと残っており、髪もどこか乱れている。
目元には疲れの色が深く、何かを堪えた表情だった。
「いらっしゃい。どうぞ」
佐伯がビールを出すと、彼女は震える手でグラスを持ち、
ひと口飲んだ途端に、はぁ、と息を押し出した。
「……お客さんに……怒鳴られちゃって……」
ぽつり、とこぼれた言葉には、張りつめた糸が切れたような弱さがあった。
佐伯は急かさず、ただ聞く構えで静かに立っていた。
「私……飲食店で働いてるんですけど……
今日、忙しくて……テンパっちゃって……」
俯いたまま、彼女は続ける。
「オーダー間違えて……
“だからお前みたいなのはダメなんだ”って……
言われちゃって……
はは……向いてないのかな、私……」
笑おうとしても、口元が震えている。
「私、不器用だし……
仕事遅いし……
迷惑かけてばっかりで……
頑張ってるつもりなんですけど……
誰にも伝わらなくて……」
グラスを握る指は、細くて、頼りなげだった。
佐伯はその姿に、美咲の影を重ねていた。
──ダメだと言われるたび、美咲は少しずつ笑えなくなっていった。
“私なんか……”と呟いていたあの夜も、
俺は気づけなかった。
胸の奥に鈍い痛みが走る。
「……少し待っててください」
佐伯はそう言って立ち上がり、厨房へ戻った。
鶏肉を油へ落とすと──
じゅわっ! と勢いよく飛び散る音が店に響いた。
油の熱で衣が膨らみ、表面がカリカリに変わっていく。
強く揚がった衣。
荒々しい熱。
──人も同じだ。
傷つくと、心が“揚がる”。
外側だけが固くなってしまう。
続いて、甘酢へ。
揚がったチキンを甘酢にくぐらせると、じゅわっと音を立てて染み込んでいく。
酸味は、疲れを落とす。
甘みは、心をほどく。
そして最後にタルタル。
優しく、包む。
卵の甘さと旨みが、すべてを受け止める。
佐伯は皿に盛り、熱々のままカウンターへ戻った。
「どうぞ」
目の前に置かれた料理を見て、女性──坂井は驚く。
「え……これ……頼んでませんよ?」
佐伯は柔らかい声で言った。
「ええ、サービスです。
チキン南蛮は、三段階でおいしくなる料理なんです」
坂井は瞬きを繰り返す。
佐伯は続けた。
「まず、“揚げ”でカリッと固くなる。
でもそのあと、甘酢で心がほどけて……
最後にタルタルが全部包み込む。
強く揚がった分だけ、優しさが沁みるんですよ」
坂井は、小さく息を呑んだ。
「……人も……同じなんですか?」
佐伯は微笑んで頷いた。
「ええ。
強く揚がってしまった日ほど、
包んでくれるものが必要なんです」
坂井は箸を取り、チキン南蛮をそっと口に運んだ。
衣のサクッとした音。
揚げ油の香り。
つづいて甘酢の酸味が疲れを洗い流し、
最後にタルタルの甘みがやさしく舌を包む。
その瞬間──
坂井の目から涙がぽろり、とこぼれた。
「……こんな……
こんな味があるんだ……」
声が震え、胸を押さえながら続ける。
「なんか……認めてもらえた気がする……
“これでもいいよ”って……
“あなたのままでいいよ”って……
そんなふうに……言われた気がしました……」
佐伯はただ頷き、表情を変えなかった。
しかし胸の奥で、美咲が涙を浮かべた夜を思い出していた。
しばらくして坂井はグラスの水を飲み、
顔を上げて言った。
「……明日、もう一回だけ頑張ってみます。
次間違えても……ちゃんと謝って……
ちゃんと向き合って……
私、やり直したい」
佐伯は微笑んだ。
「ええ。
ゆっくりでいいんですよ」
坂井は会計を済ませ、深々と頭を下げて外へ出ていく。
彼女の背中には、ほんの少しだけ光が戻っていた。
一人残された店内。
佐伯はカウンターを拭きながら、油の匂いの残る厨房を見やった。
「……美咲……
お前にも……最後のタルタルをかけてやれたらな……」
その呟きは小さく、湯気とともに店の灯へ溶けていった。
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