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第32話 ちくわの磯辺揚げ
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冬の夜気はさらに冷え込み、路地裏は人通りもまばらになっていた。
癒庵(ゆあん)の窓から洩れる柔らかな明かりだけが、
暗い道にぽつりと浮かび上がり、まるで小さな灯台のようだった。
店の中には、まだ油を温める前の静寂が漂っている。
佐伯誠一は、青のりと小麦粉を混ぜた衣を
ステンレスのボウルの中でゆっくりとかき混ぜていた。
白い粉の中に淡い緑が広がり、
それはまるで“変化”の象徴のようにも見えた。
(衣をまとえば、中身が同じでも姿が変わる……か)
ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かぶ。
昨日の翔太の言葉──
「未来は食べてみなきゃ分からない」──
その余韻が、まだ心に残っていた。
そしてもう一つ、
佐伯の胸をざわつかせるものがあった。
相沢が告げた一言。
──美咲が、来るかもしれません。
思い出すだけで少し胸が痛む。
変わったのか、変わっていないのか。
今の彼女に会うことを想像すると、
胃の奥がじんわり熱くなった。
◆
そこへ、店の常連が入ってきた。
「大将、今日もSNS、すごいことになってるぞ」
彼が見せてきたスマホには、癒庵の外観、
カウンター越しの佐伯の後ろ姿、
さらには揚げ物の写真までアップされていた。
「“悩みに合わせて料理を出す店”だってさ。
なんか評判になってるらしいぞ。
ほら、これも大将の写真じゃない?」
佐伯は苦笑した。
「……困ったもんですね。
写真は許可してないんですけど」
常連は笑っているが、
佐伯の心はどこか落ち着かなかった。
(美咲も……これを見て俺を思い出したんだろうか)
そう思うだけで、胸の奥がざわつく。
変わったのは自分だけなのか、
変わっていないのは美咲なのか。
考えるほどに分からなくなっていく。
◆
そんな時だった。
暖簾が揺れ、スーツ姿の男性が入ってきた。
「こんばんは……」
40代半ばだろうか。
見知った顔だった。常連ではないが、何度か来ている客──井上だ。
「いらっしゃい。どうぞお好きな席に」
井上は重そうに腰を下ろし、
注文を言う前に、深いため息をついた。
「ビール……お願いします」
グラスを出すと、井上は一気に飲み干し、
ぽつりとつぶやいた。
「……大将。俺、異動になりました」
千切れた声だった。
「異動、ですか」
井上は苦笑した。
「20年も同じ部署でやってきて……
今さら新しいことなんか、できる気がしませんよ。
若い連中が多い部署らしくてね。
ついていける自信がないんです」
グラスを握る手はわずかに震えていた。
佐伯は「なるほど」と頷き、
厨房へ向かった。
◆
ちくわを斜めに切り分け、
淡い緑の衣をまとわせる。
生のちくわは、正直に言えばただの練り物だ。
だが、衣をまとい、油に入るだけで
まるで別の料理のように姿を変える。
(人も同じかもしれん……)
油にちくわを入れると、
「じゅわっ」と軽やかな音が響き、
青のりの香りがふわりと立ち上ってくる。
変化の音だ。
躍るように浮かび上がるちくわを箸で返すと、
衣は黄金色に染まり、青のりが鮮やかに浮かび上がる。
皿に盛りつけ、
井上の前へそっと置いた。
「どうぞ」
井上は驚いた顔で皿を見た。
「え? 俺、頼んでませんよ?」
佐伯は穏やかに微笑んだ。
「ええ。サービスです。」
◆
井上は箸を持ったまま戸惑っている。
佐伯は静かに続けた。
「ちくわって、本当はごく普通の食べ物です。
でも、衣ひとつまとえば……
こうして別物のように変わる」
井上は眉を上げた。
「……変わる、か」
「ええ。
変化というのは……怖いもんです。
でも、変わった先には、
“変わらないままでは見えなかった景色”がある」
井上は言葉を失ったように皿を見つめ、
やがて一つ、ちくわを口へ運んだ。
サクッ。
軽い音がして、青のりの香りが鼻へ抜ける。
ちくわの柔らかい旨みが広がり、
後からじんわりと塩気がやってくる。
「……うまい……」
井上は思わず漏らした。
「変わった味だが、悪くない……
いや……いいな、これ」
佐伯は静かに頷いた。
「変わったように見えるけど、
中身は同じ“ちくわ”ですからね。
ただ、衣が違うだけで印象が変わるんです」
井上はしばらく黙り、そしてぽつりと呟いた。
「……俺も、衣が変わるだけ、かもしれませんね」
その言葉には、
ほんの少しだけ前を向く力が宿っていた。
◆
井上は帰り際、
店の入り口で振り返った。
「大将……
俺……異動、受けてみますよ。
変わるのも……悪くなさそうだ」
佐伯は微笑んだ。
「ええ。
きっと、良い景色が見えますよ」
暖簾をくぐる井上の背中は、
来店時より確かに軽くなっていた。
◆
店に一人残った佐伯は、
揚げ物の余熱がこもる厨房でしばらく立ち尽くした。
(変わる……か)
青のりをまぶした衣を指でなぞりながら、
胸の奥に渦巻く思いに向き合う。
──美咲。
変わってしまったのは自分なのか、
変われなかったのは美咲なのか。
それとも両方なのか。
考えても答えは出ない。
ただ、井上の言葉だけが静かに響く。
──“衣が変わるだけ”かもしれない。
(俺は……あの頃と、どう違うんだろうな)
磯辺揚げの残り香がゆっくりと店に広がる中、
佐伯は未来へ続く小さな変化を
ひとつ、胸の奥で受け止めていた。
癒庵(ゆあん)の窓から洩れる柔らかな明かりだけが、
暗い道にぽつりと浮かび上がり、まるで小さな灯台のようだった。
店の中には、まだ油を温める前の静寂が漂っている。
佐伯誠一は、青のりと小麦粉を混ぜた衣を
ステンレスのボウルの中でゆっくりとかき混ぜていた。
白い粉の中に淡い緑が広がり、
それはまるで“変化”の象徴のようにも見えた。
(衣をまとえば、中身が同じでも姿が変わる……か)
ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かぶ。
昨日の翔太の言葉──
「未来は食べてみなきゃ分からない」──
その余韻が、まだ心に残っていた。
そしてもう一つ、
佐伯の胸をざわつかせるものがあった。
相沢が告げた一言。
──美咲が、来るかもしれません。
思い出すだけで少し胸が痛む。
変わったのか、変わっていないのか。
今の彼女に会うことを想像すると、
胃の奥がじんわり熱くなった。
◆
そこへ、店の常連が入ってきた。
「大将、今日もSNS、すごいことになってるぞ」
彼が見せてきたスマホには、癒庵の外観、
カウンター越しの佐伯の後ろ姿、
さらには揚げ物の写真までアップされていた。
「“悩みに合わせて料理を出す店”だってさ。
なんか評判になってるらしいぞ。
ほら、これも大将の写真じゃない?」
佐伯は苦笑した。
「……困ったもんですね。
写真は許可してないんですけど」
常連は笑っているが、
佐伯の心はどこか落ち着かなかった。
(美咲も……これを見て俺を思い出したんだろうか)
そう思うだけで、胸の奥がざわつく。
変わったのは自分だけなのか、
変わっていないのは美咲なのか。
考えるほどに分からなくなっていく。
◆
そんな時だった。
暖簾が揺れ、スーツ姿の男性が入ってきた。
「こんばんは……」
40代半ばだろうか。
見知った顔だった。常連ではないが、何度か来ている客──井上だ。
「いらっしゃい。どうぞお好きな席に」
井上は重そうに腰を下ろし、
注文を言う前に、深いため息をついた。
「ビール……お願いします」
グラスを出すと、井上は一気に飲み干し、
ぽつりとつぶやいた。
「……大将。俺、異動になりました」
千切れた声だった。
「異動、ですか」
井上は苦笑した。
「20年も同じ部署でやってきて……
今さら新しいことなんか、できる気がしませんよ。
若い連中が多い部署らしくてね。
ついていける自信がないんです」
グラスを握る手はわずかに震えていた。
佐伯は「なるほど」と頷き、
厨房へ向かった。
◆
ちくわを斜めに切り分け、
淡い緑の衣をまとわせる。
生のちくわは、正直に言えばただの練り物だ。
だが、衣をまとい、油に入るだけで
まるで別の料理のように姿を変える。
(人も同じかもしれん……)
油にちくわを入れると、
「じゅわっ」と軽やかな音が響き、
青のりの香りがふわりと立ち上ってくる。
変化の音だ。
躍るように浮かび上がるちくわを箸で返すと、
衣は黄金色に染まり、青のりが鮮やかに浮かび上がる。
皿に盛りつけ、
井上の前へそっと置いた。
「どうぞ」
井上は驚いた顔で皿を見た。
「え? 俺、頼んでませんよ?」
佐伯は穏やかに微笑んだ。
「ええ。サービスです。」
◆
井上は箸を持ったまま戸惑っている。
佐伯は静かに続けた。
「ちくわって、本当はごく普通の食べ物です。
でも、衣ひとつまとえば……
こうして別物のように変わる」
井上は眉を上げた。
「……変わる、か」
「ええ。
変化というのは……怖いもんです。
でも、変わった先には、
“変わらないままでは見えなかった景色”がある」
井上は言葉を失ったように皿を見つめ、
やがて一つ、ちくわを口へ運んだ。
サクッ。
軽い音がして、青のりの香りが鼻へ抜ける。
ちくわの柔らかい旨みが広がり、
後からじんわりと塩気がやってくる。
「……うまい……」
井上は思わず漏らした。
「変わった味だが、悪くない……
いや……いいな、これ」
佐伯は静かに頷いた。
「変わったように見えるけど、
中身は同じ“ちくわ”ですからね。
ただ、衣が違うだけで印象が変わるんです」
井上はしばらく黙り、そしてぽつりと呟いた。
「……俺も、衣が変わるだけ、かもしれませんね」
その言葉には、
ほんの少しだけ前を向く力が宿っていた。
◆
井上は帰り際、
店の入り口で振り返った。
「大将……
俺……異動、受けてみますよ。
変わるのも……悪くなさそうだ」
佐伯は微笑んだ。
「ええ。
きっと、良い景色が見えますよ」
暖簾をくぐる井上の背中は、
来店時より確かに軽くなっていた。
◆
店に一人残った佐伯は、
揚げ物の余熱がこもる厨房でしばらく立ち尽くした。
(変わる……か)
青のりをまぶした衣を指でなぞりながら、
胸の奥に渦巻く思いに向き合う。
──美咲。
変わってしまったのは自分なのか、
変われなかったのは美咲なのか。
それとも両方なのか。
考えても答えは出ない。
ただ、井上の言葉だけが静かに響く。
──“衣が変わるだけ”かもしれない。
(俺は……あの頃と、どう違うんだろうな)
磯辺揚げの残り香がゆっくりと店に広がる中、
佐伯は未来へ続く小さな変化を
ひとつ、胸の奥で受け止めていた。
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