『あなたの悩みに、そっと味付けを』

KAORUwithAI

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第32話 ちくわの磯辺揚げ

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 冬の夜気はさらに冷え込み、路地裏は人通りもまばらになっていた。
 癒庵(ゆあん)の窓から洩れる柔らかな明かりだけが、
 暗い道にぽつりと浮かび上がり、まるで小さな灯台のようだった。

 店の中には、まだ油を温める前の静寂が漂っている。
 佐伯誠一は、青のりと小麦粉を混ぜた衣を
 ステンレスのボウルの中でゆっくりとかき混ぜていた。

 白い粉の中に淡い緑が広がり、
 それはまるで“変化”の象徴のようにも見えた。

 (衣をまとえば、中身が同じでも姿が変わる……か)

 ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かぶ。

 昨日の翔太の言葉──
 「未来は食べてみなきゃ分からない」──
 その余韻が、まだ心に残っていた。

 そしてもう一つ、
 佐伯の胸をざわつかせるものがあった。

 相沢が告げた一言。

 ──美咲が、来るかもしれません。

 思い出すだけで少し胸が痛む。
 変わったのか、変わっていないのか。
 今の彼女に会うことを想像すると、
 胃の奥がじんわり熱くなった。

 



 そこへ、店の常連が入ってきた。

 「大将、今日もSNS、すごいことになってるぞ」

 彼が見せてきたスマホには、癒庵の外観、
 カウンター越しの佐伯の後ろ姿、
 さらには揚げ物の写真までアップされていた。

 「“悩みに合わせて料理を出す店”だってさ。
   なんか評判になってるらしいぞ。
   ほら、これも大将の写真じゃない?」

 佐伯は苦笑した。

 「……困ったもんですね。
   写真は許可してないんですけど」

 常連は笑っているが、
 佐伯の心はどこか落ち着かなかった。

 (美咲も……これを見て俺を思い出したんだろうか)

 そう思うだけで、胸の奥がざわつく。
 変わったのは自分だけなのか、
 変わっていないのは美咲なのか。
 考えるほどに分からなくなっていく。

 



 そんな時だった。
 暖簾が揺れ、スーツ姿の男性が入ってきた。

 「こんばんは……」

 40代半ばだろうか。
 見知った顔だった。常連ではないが、何度か来ている客──井上だ。

 「いらっしゃい。どうぞお好きな席に」

 井上は重そうに腰を下ろし、
 注文を言う前に、深いため息をついた。

 「ビール……お願いします」

 グラスを出すと、井上は一気に飲み干し、
 ぽつりとつぶやいた。

 「……大将。俺、異動になりました」

 千切れた声だった。

 「異動、ですか」

 井上は苦笑した。

 「20年も同じ部署でやってきて……
   今さら新しいことなんか、できる気がしませんよ。
   若い連中が多い部署らしくてね。
   ついていける自信がないんです」

 グラスを握る手はわずかに震えていた。

 佐伯は「なるほど」と頷き、
 厨房へ向かった。

 



 ちくわを斜めに切り分け、
 淡い緑の衣をまとわせる。

 生のちくわは、正直に言えばただの練り物だ。
 だが、衣をまとい、油に入るだけで
 まるで別の料理のように姿を変える。

 (人も同じかもしれん……)

 油にちくわを入れると、
 「じゅわっ」と軽やかな音が響き、
 青のりの香りがふわりと立ち上ってくる。

 変化の音だ。

 躍るように浮かび上がるちくわを箸で返すと、
 衣は黄金色に染まり、青のりが鮮やかに浮かび上がる。

 皿に盛りつけ、
 井上の前へそっと置いた。

 「どうぞ」

 井上は驚いた顔で皿を見た。

 「え? 俺、頼んでませんよ?」

 佐伯は穏やかに微笑んだ。

 「ええ。サービスです。」

 



 井上は箸を持ったまま戸惑っている。
 佐伯は静かに続けた。

 「ちくわって、本当はごく普通の食べ物です。
   でも、衣ひとつまとえば……
   こうして別物のように変わる」

 井上は眉を上げた。

 「……変わる、か」

 「ええ。
   変化というのは……怖いもんです。
   でも、変わった先には、
   “変わらないままでは見えなかった景色”がある」

 井上は言葉を失ったように皿を見つめ、
 やがて一つ、ちくわを口へ運んだ。

 サクッ。

 軽い音がして、青のりの香りが鼻へ抜ける。
 ちくわの柔らかい旨みが広がり、
 後からじんわりと塩気がやってくる。

 「……うまい……」

 井上は思わず漏らした。

 「変わった味だが、悪くない……
   いや……いいな、これ」

 佐伯は静かに頷いた。

 「変わったように見えるけど、
   中身は同じ“ちくわ”ですからね。
   ただ、衣が違うだけで印象が変わるんです」

 井上はしばらく黙り、そしてぽつりと呟いた。

 「……俺も、衣が変わるだけ、かもしれませんね」

 その言葉には、
 ほんの少しだけ前を向く力が宿っていた。

 



 井上は帰り際、
 店の入り口で振り返った。

 「大将……
   俺……異動、受けてみますよ。
   変わるのも……悪くなさそうだ」

 佐伯は微笑んだ。

 「ええ。
   きっと、良い景色が見えますよ」

 暖簾をくぐる井上の背中は、
 来店時より確かに軽くなっていた。

 



 店に一人残った佐伯は、
 揚げ物の余熱がこもる厨房でしばらく立ち尽くした。

 (変わる……か)

 青のりをまぶした衣を指でなぞりながら、
 胸の奥に渦巻く思いに向き合う。

 ──美咲。

 変わってしまったのは自分なのか、
 変われなかったのは美咲なのか。
 それとも両方なのか。

 考えても答えは出ない。

 ただ、井上の言葉だけが静かに響く。

 ──“衣が変わるだけ”かもしれない。

 (俺は……あの頃と、どう違うんだろうな)

 磯辺揚げの残り香がゆっくりと店に広がる中、
 佐伯は未来へ続く小さな変化を
 ひとつ、胸の奥で受け止めていた。
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