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相棒は若旦那
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時は遡ること江戸時代。
江戸の頃、定町廻り同心と言えば粋な男と相場が決まっていた。
だが同心、渡辺菊之助はどうにもその枠から外れてしまう男だった。何が残念かと言えば、顔は役者顔負けの二枚目なのである。
しかし、何故か着物に負ける。粋な着こなしが出来ぬ男だった。着流し姿だって悪くない、上等だし生地だけ見たら何とも目を引く良き物だ。だが菊之助が腕を通した途端、やたら張り切ってしまった田舎侍になってしまうのだった。
これを八丁堀界隈では七不思議の一つに加えるべきだと常々言われていた。着物に怨みを抱いた霊でもついておるのだと、まことしやかに囁かれてもいた。
粋な着物を台無しにするというのはある意味目立つ。
この菊之助、口は悪いが人柄は悪くない。齢三十、最近貫禄も備わって、これでなかなか頼り甲斐のある同心だと慕われていた。
二枚目なのに悲しいかな衣を羽織ると三枚目。それがまた、何とも親しみを感じると町の者たちからも評判は上々。
だから、町を歩けば人は皆、気安く声を掛けてくるのだった。
「あらあら八丁堀の旦那、今日のお召し物は浅黄裏よりひどい」
「うるさい、これは越後屋で仕立てたばかりの流行り物、この裏を見てみろ、格子柄だぜぃ」
「渡辺様、そろそろ見える頃だと思っとりましたよ。なんせ、今日も目立ちます故、瓦版のように皆口々に『渡辺様がやって来た』と……」
「だからか、行く先々、茶の準備がえらく整っておるわ」
こんな調子で、着物について弄られることも厭わず、町が今日も平穏無事であることを確認していた。
そんなわけで日本橋一番の大店、越後屋の暖簾をくぐった時も主が直々待ち構えていた。
「そろそろ来られると思っておりました。さあさあ、どうぞ」
「ああ、上がるのはあれだからよ……」
「ええ、中庭の縁側がよろしいのですよね。どうぞ、どうぞ」
菊之助より二十くらい歳のいった越後屋の主が手をさしのべ、ひしめき合う客に会釈をしながら菊之助を先導していく。
大店の主人であるのに腰が低いのは、さすが客商売。店が繁盛しているのも頷ける。店の者たちも菊之助を見れば、話の最中ならば目だけで、荷を運んでいるなら会釈を忘れない。なかなかに躾が行き届いていて、この先も安泰であろうと菊之助は主の後ろを着いていく。
賑わう店を抜け、立派な倉を有する中庭に行くと、それは見事な柿の木があり、たわわに実をつけていた。色合いも旨そうな橙色になっていて、おもわず「おお」と感嘆の声が漏れた。
「少し早いですが奥方様に持っていかれますか?」
同じ木を見上げてにこやかに越後屋が言う。
「ああ、おもわず声が出たが、店の者たちの楽しみを奪うわけにはいかんから」
「しかし……」
越後屋が本当に要らないのかと迷っているのが感じ取れたので、菊之助は照れ臭そうに頬を掻いた。
「うちにもあるのだ。二本ほど。しかし、ここのがあまりに立派なのでついな。この実を貰うより、手入れの仕方を教えて貰いたい」
なるほど。と、頷くと木の世話をしているのはどこどこの植木屋であるから、紹介すると請け負った。
縁側に辿り着くと、今日は若旦那がお相手すると言って大旦那は席を外し、待っていたのか若旦那はするりと顔を出した。揃って腰を下ろすと、直ぐさまお茶が運ばれてきた。きっと少し前から頃合いを見計らっていたのだろうという素早さであった。
麗らかな秋の陽気を楽しみながら出された茶と、噂話で穏やかな時を過ごしていた。店の方からは客や店者たちの声が届いて、程よい喧騒が心地よい。
風は少々冷たく、日当たりのいい縁側ではそれが返って気持ちよかった。
そこへ、たたたたっと軽い足取りで中庭に入って来た人が居たので、二人はそろってそちらへと顔を向ける。
「おお? 亀吉か、どうした」
真っ先に汗ばんだ初老の男に声を掛けたのは菊之助。
それに次いで越後屋が「亀吉親分さん、いらっしゃいませ。どうぞどうぞ、お掛けくださいまし。おおい、誰か居ないか」と、縁側を勧めてから屋敷の奥に声を掛けた。ぴょこっと顔を覗かせた若い女中にお茶を。と指示を出すと、女は頭を下げて奥へと消えていった。
「道々、旦那を探して歩いてきたら、皆が口々に越後屋に行ったというからすぐに見つかりやした」
「探さなくても、もうすぐ屋敷に戻るのに、せっかちだねぇ」
「いやいや、ちょいと気になる話を小耳に挟んだものですからね、早めに耳に入れておこうと思ったんですよ」
「ほおら、せっかちじゃないか」
二人は軽妙なやり取りをし、越後屋の若旦那はそれをにこにこしたまま聞いていた。
そこへ先ほどの女中がお茶を持って現れて、新しい湯呑を銘々に配ると、温《ぬる》くなったものを盆にのせて戻っていった。
女中が下がったのを機会に「宜しければお二人でお話しなすってください。私は店におりますんで」と若旦那が気を利かせて立ち上がる。
「すまんな」
謝る菊之助に商売人らしい柔らかな笑みを返して、若旦那は店へと行ってしまった。
「全く、若旦那に気を使わせてどうする」
ため息交じりに菊之助が言うと、出されたお茶をずずずっと啜って亀吉がすまし顔でやり過ごす。
この亀吉、巷では亀吉親分と言われる菊之助の御用聞き(岡っ引き)であった。
元々は大工であったが、腰を痛めたのを機に大工からは退いて御用聞き一本で生計を立てている。
とはいえ、それだけじゃさすがに懐が寂しいので、家で古女房がせっせと小間物屋を営んでいるのだが。
「旦那の話が長げぇから、越後屋さんだって立つ頃合いを見計らっていたんでしょうよ。渡りに船だとさぞ喜んだってぇ話です」
「んな訳あるかよ」
あるんですよ、それが。と、またずずずっと茶を啜る。
「それは置いておいて、ちょいとお待ちを」
そう言いながら持っていた湯呑を置いて、懐に手を差し入れて何かの包みを取り出した。紙に包まれたそれを掌でゆっくりと開帳すると、中から赤いころんとした艶やかな飴玉が出て来た。
「旦那、これを知ってますかい?」
「ああん? 飴玉だろ?」
「へい、そうなんですが……。ただの飴ではございませんよ。『梅ぼ志飴』です」
菊之助は三粒ほどの赤色の飴玉をまじまじと見つめた。そう言われると、色合いといい大きさといい、梅干しのようであった。
「しかしなんだ……飴なのに梅干しかぁ? 甘ぇのに酸っぱいのかよ」
菊之助の反応に、亀吉がにんまりをするから、菊之助が気持ち悪いものを見たように顔を曇らせた。
「おめえの笑い方はなんだ……。気持ち悪りぃ」
「いやぁ、旦那が思った通りの事を言うんでね。なんて言うか、以心伝心と言うんですかね? うちの女房よりも旦那の方が分かり易くていいですわ」
そう言いながら一粒摘まんで菊之助に差し出した。菊之助はなんだか分からないが、それを受け取った。
「ま、食べてくだせい。それが一番早いんで」
「いや、俺は梅干しは嫌いじゃないがよ、甘いものは甘く、酸っぱいものは酸っぱく、はっきりしてないのは嫌なんだが……」
「そう言わず」
強引に包みを突き出され、仕方なし菊之助は指で摘まんだ小さなそれを嫌そうに眺めてから、えいっと口の中へ放り込んだ。からころと、口の中で歯にぶつかって音がする。菊之助は明後日の方向を見たまま、飴を口の中で転がし続けていた。
口の中で飴を転がしながら「甘ぇな」と感想を述べた。うんうんと頷いた亀吉は「甘いんですよ。飴ですから」と答える。数回瞬きをした後に、菊之助は飴をがりがりと噛み砕きだす。もぐもぐ、がりがりと。
「梅干しはどこへいった」
ごくんと飲み干した後、開口一番それを言う。そこでまたにんまりと亀吉がしたのを見て、嫌そうな顔をする。
「飴ですからね、梅干しなんざ入っちゃおりませんよ」
「おめぇ、騙したのか」
「騙すなんて人聞き悪い。私はこれでも御用聞きをやっておるのに」
「俺に雇われている御用聞きだろ? いつでも暇をくれてやるぞ」
不機嫌に菊之助が言うと、焦りもせずにまたまたぁと亀吉が返す。
亀吉は身を屈め菊之助のお茶を取り上げると、それを菊之助へと渡す。甘い飴を一気に食べたものだから、確かに茶を飲みたいと思っていたと素直に菊之助は茶を受け取った。二人の間にずずずっと茶を啜り上げる音が響いて、亀吉はそれを一旦待ってから事の次第を話し出した。
「なぜこの飴を持って来たかというと、ちょいと怪しげな話を聞いたからなんです」
「また強盗の類か? やれやれ……」
先回りして天を仰ぐ菊之助を亀吉は完全に無視して話しを進める。
「まずこの飴は西河岸町にある『榮太樓』の物」
「ああ、あのきんつばの」
「名代金鍔《なだいきんつば》。『年季増しても食べたい物は土手のきんつば さつま芋』の、あのきんつばの店です」
「んで、それがどうしたよ?」
亀吉曰く、貸本屋をしている松一が騙されたと亀吉を捕まえてぼやいたのだと言うのだ。
「貸本屋って言うのは結構数が居ますから、ちょいとばっかり頭をひねってお得意さんに何かお礼でもして客の心を掴もうと考えたらしいのです。そんな風に考えておったら、たまたまいつも出入りしている吉原で変わったものを聞いた」
そこまで黙って聞いていた菊之助が縁側に包み事置かれた梅ぼ志飴を見下ろした。
「飴なのに酸っぱい名を持った……これか」
亀吉もそれを見下ろして、頷く。
「江戸っ子はとにかく新しいものに目がないんで、これは良いと思って榮太樓まで赴いた。そうして飴を手に入れたまでは良かった。試しに一個食べてみようと思って口に入れたら、舐めても舐めても一向に酸っぱくなんてならねぇってんで首を傾げた。翌日、もう一度店に足を運んで店者にちょいと文句をつけた」
「『おいおい、梅ぼ志飴とか言って、酸っぱくねぇじゃねえか』ってか」
「その通り。しかし、店の者は柔らかく笑ってこう返す『ええ、その通りでございます。見た目が梅干しに似ていると言われてそう名付けただけで、甘い飴でございますから』」
そこまで話すと亀吉は喉が渇いたのか、残りのお茶を啜りふぅと一息ついた。
菊之助は顎をぽりぽりと掻いた。
「おめぇ、そんな話をするためにわざわざ俺を探し回ってここに来たって言うのかい?」
半ば呆れつつ、せっかちでいけねぇと首を振った。
「まさか、話にはまだ続きがありますんですよ。松一は取り敢えずそれを持って商いに出た。本を担いでお得意様の吉原遊郭へと行ったんです。そして、梅ぼ志飴の話をした禿が居る『大野屋』に真っ先に行ってみたんだそうです」
そこで菊之助が話に興味を持ったように顔を上げた。明らかに先ほどと目の色が違う。
「大野屋! 今、噂の梅野が居る所じゃねぇか。そりゃ、艶っぽくていい女なんだとか。一度で良いからその口で……」
「旦那、ここは越後屋でございます。あんまりそう言う話をされると、どこで聞かれてるか分かりやせんよ? 噂って言うのはあっという間に広まっちまうんだから」
嬉々として遊女の噂をしだした菊之助に亀吉が窘め、真顔で言われた菊之助は黙るしかなかった。またやる気を失った菊之助が指をくいくいと動かして、いいから先を話せと促した。
「その禿、実は噂の梅野に世話になってる子供だったらしく」
「梅野!」
「逐一、反応せんでください。話が進まないじゃねぇですか」
菊之助が叱られた子供のように口を噤むと、亀吉が言うことをしっかり聞いた子供を確認するように菊之助に頷いて見せた。
「とにかく、松一は本の荷を下ろした。そうしたら、禿に呼ばれた梅野が顔を出した……」
「よし、分かった。俺も明日から貸本屋になるぞ」
「いいと言うまで口を開かんでくださいよ。どこまで話したか分からんくなります」
ぶつぶつ文句を言う亀吉にさすがにやり過ぎたと再び口をつぐむ。
「松一が言うにはかなり大年増に見えたらしいですぜ? それなのに、やたら唇が艶々であれで吸い付かれたら精も根も……」
「お前こそ、真面目に話す気はあるのかい?」
ごほんっと咳払いをした亀吉が仕切り直して話を戻す。色に釣られてちゃ、仕事は勤まらないなどと己を正して。
「とにかく、禿に呼ばれた梅野は若い上客を伴って出てきたらしいですわ。朝早かったんで男は帰るついでとかなんとかで、一緒に下まで降りてきただけだと言ったんだとか。んで、まぁ梅野が本を選ぶために足を止めたから男もそうした」
そこまできて、置いておいた梅ぼ志飴を指差す。
「『おいおい、先日言ってた梅ぼ志飴。ただの甘いだけの飴じゃねえか』と禿に文句をつけた。すると本を手にしていた梅野がさっと顔をあげて言ったんだそうです。『何を言いますやら。梅ぼ志飴はそりゃあ酸っぱい飴ですよ』と」
菊之助は眉根を寄せて腕を組む。
「酸っぱくねぇよな」
「ええ、酸っぱくねぇです。松一も食べたから直ぐ様『いやいや、酸っぱくなんてありやせんよ』と言ったそうなんです」
だよなぁ。と、亀吉の話に菊之助は同意する。
「そしたら梅野が自分の横に立つ男を指して『こちら、榮太楼の若旦那さんなのよ』」
ほぉお。と、菊之助が唸る。
「その若旦那『ああ、梅ぼ志飴は酸っぱいよ。ちょいと変わっておるから売れてるんだ。それを酸っぱくないなんて触れ回らんで貰いたい』って言ったらしいですぜ」
菊之助はその亀吉の言葉に素直に驚いて見せた。
「はぁ? 酸っぱくねぇだろ。ちょいともう一粒食わせろな」
頷く亀吉を待たずに菊之助は赤い飴を取り上げて口に入れたと思ったら、直ぐにばりばりと噛み出した。追随して、亀吉もまた、残った一粒を口に入れた。大の男が揃って飴玉をがりがりぼりぼり。穏やかな秋の庭にしばし獣が食事をしているような音が鳴り響く。庭で寛いでいた雀が驚いて飛んで行くほどだった。そうして先に食べきった菊之助がうんと一つ声を出す。
「酸っぱくねぇ」
「酸っぱくねぇです」
菊之助の湯呑みにほんの少し茶があるのを見つけた亀吉が、勝手に湯呑みを取り上げさっさと中身を飲み干した。
「おまっ、それは俺のだろ」
「話してると喉が渇くんで」
「だからって勝手に飲むなよ、無礼者」
そこへ様子を見に来たと思われる越後屋の若旦那が顔を出し、二人が茶の事で揉めているのをまぁまぁと止めに入った。
「おい、誰かお茶を運んできなさい」
座敷の奥に声を張ると「はぁい、旦那様」と返事が返ってきた。そして、若旦那もまた話の輪に入るべくその場に座り込んだ。
「すまねぇな。そろそろ引き上げるよ。しかしなんだ、用意してもらった茶を飲まないのも悪いから、それは頂いてから行こう」
「旦那は茶が欲しいだけじゃないか」
「うるせぇよ、お前が飲んじまうから……」
「まぁまぁ、ゆっくりしていってくださいまし。うちとしては同心様とその御用聞きの親分さんが居てくれたら、安心ですんで」
にこにこと相変わらず穏やかな笑みを絶やさぬ若旦那に菊之助は問うてみる。
「なぁ、若旦那は榮太楼の梅ぼ志飴を食ったことがあるかい?」
返事が気になったようで、亀吉もまじまじと穏やかな笑みを見つめる。二人にじろじろ見られ、やや苦笑しながらもはっきり答える。
「ええ、ございますとも。美味でございます。しかしやはり私はきんつばの方が好きですね。飴は女子供が喜ぶものですし」
「味はどうでい? 飴らしからぬなにかを感じやしなかったかい?」
まだ若旦那が話しているのを遮って、肝心なそれを菊之助は問わずにはいられない。そんな菊之助に嫌な顔一つせずに若旦那は答える。
「ええ、とても上品な甘みでございました。なんでも有平糖を使うことで……」
「やっぱり甘い!」
亀吉もまた耐えきれずに話の腰を折って割り込んだ。
「梅ぼ志飴って名前は見た目からきているのは、皆知っておりますゆえ」
ゆったりと若旦那が言って返すと、うーんと菊之助が唸った。
「しかし、榮太楼の若旦那が違うと言ったとさ。おかしな話じゃねぇか。越後屋、榮太楼の若旦那は店に出だして日が浅いのかい?」
それを聞いた越後屋の若旦那がさもおかしそうに目尻を下げた。
「まさか、あちらさんは若旦那とは呼ばれておりましても、それは大旦那さんがまだまだお元気で店に出ているからでございます。年の頃は……たぶん渡邊様くらい。商いには十分精通したお方です」
亀吉がやっと運ばれてきた湯呑みをお盆から下ろすのを手伝い、そして自分の茶を早々に口に運ぶ。
亀吉の淹れたての茶を美味しそうに啜る姿は、巻物に描かれた仙人のようだと菊之助は密かに思っていた。貧相な見た目なのに貫禄がある不思議さに、ついつい菊之助はみいってしまうのだった。
「しかし、松一は若旦那を若いと言っておりやしたよ。あ、松一とは貸本屋をやっておる者なんですがね」
茶を啜る合間に言いたいことを言い、再び湯呑みに口をつける。
菊之助は顎を擦り、それでも足りないと自らの耳たぶを引っ張って考え込むと、早々に結論を出す。
「ま、難しいことはねぇ、若旦那と名乗る奴が偽者なんだろうよ。だから飴の事も分からねぇ、歳も本物と違うんだな」
「左様でございますね、きっと。時にどこの誰がそんな事を?」
菊之助の言葉を受けて、越後屋の旦那が不思議がる。だから、事の次第を話してやった。そうして聞き終わった若旦那が確信を込めて言う。
「吉原での話ならさもありなん。見栄もありましょう」
「まぁ、その辺が落ちどころな気ぃがします。私だって御用聞きには胸を張っておりやすがね、まぁ嘘が露呈することがないなら……同心だと言ってみたいような」
「馬鹿だな、亀吉。同心は良くねぇよ。俺なら越後屋の若旦那と言うぞ」
そこで越後屋が笑いを漏らして二人に返す。
「そのように仰って頂くのはありがたい話ではございますが、うちもなんやかんや、しがらみだらけでございます。他人様のものはよく見えるのでございましょう」
亀吉は苦笑する越後屋を見て、案外……と、真面目な顔で話し出す。
「その見栄っ張りは適した人間に化けたんでしょうよ。榮太楼は繁盛店だ。しかし、越後屋程は大きくなねぇしな、同心だなんて嘘でも言っちまえば、楼主がわざわざ顔を出すであろうから……顔を見たらさすがにばれるだろうし、ばれなくても二度とは顔を出せねぇもんな」
確かになぁと、菊之助もそれには同調した。
「越後屋の若旦那ならよ、顔も相当割れてるしな。榮太楼には数回行ってるが……きんつばしか覚えとらんし」
亀吉は食い意地の張った同心にやれやれと呆れた顔をした。そして今度も一番始めに茶を飲み干してしまった。だから、すくっと立ち上がり秋空を見上げて陽の位置を確認する。
「まだ早いんで、ちょいと松一の所に行ってきやす。梅ぼ志飴は甘いんだって話と、その若旦那は偽者だって言いに」
越後屋も同じように立ち上がると「外までおくりましょう。菊之助様は少々お待ちくださいませ」と頭を下げる。
忘れかけていた茶を取り「これを飲まなきゃ帰れん」と答え、二人を見送った。越後屋が姿を消してから「袖の下も貰わな帰れんし」と呟いて。
静かに茶を啜りながら目の前の立派な柿の木を羨ましげに眺めていた。穏やかな景色を眺めながら、この時菊之助はこれで一件落着だろうと踏んでいたのだが、話はそうは簡単には終わらなかったのである。
江戸の頃、定町廻り同心と言えば粋な男と相場が決まっていた。
だが同心、渡辺菊之助はどうにもその枠から外れてしまう男だった。何が残念かと言えば、顔は役者顔負けの二枚目なのである。
しかし、何故か着物に負ける。粋な着こなしが出来ぬ男だった。着流し姿だって悪くない、上等だし生地だけ見たら何とも目を引く良き物だ。だが菊之助が腕を通した途端、やたら張り切ってしまった田舎侍になってしまうのだった。
これを八丁堀界隈では七不思議の一つに加えるべきだと常々言われていた。着物に怨みを抱いた霊でもついておるのだと、まことしやかに囁かれてもいた。
粋な着物を台無しにするというのはある意味目立つ。
この菊之助、口は悪いが人柄は悪くない。齢三十、最近貫禄も備わって、これでなかなか頼り甲斐のある同心だと慕われていた。
二枚目なのに悲しいかな衣を羽織ると三枚目。それがまた、何とも親しみを感じると町の者たちからも評判は上々。
だから、町を歩けば人は皆、気安く声を掛けてくるのだった。
「あらあら八丁堀の旦那、今日のお召し物は浅黄裏よりひどい」
「うるさい、これは越後屋で仕立てたばかりの流行り物、この裏を見てみろ、格子柄だぜぃ」
「渡辺様、そろそろ見える頃だと思っとりましたよ。なんせ、今日も目立ちます故、瓦版のように皆口々に『渡辺様がやって来た』と……」
「だからか、行く先々、茶の準備がえらく整っておるわ」
こんな調子で、着物について弄られることも厭わず、町が今日も平穏無事であることを確認していた。
そんなわけで日本橋一番の大店、越後屋の暖簾をくぐった時も主が直々待ち構えていた。
「そろそろ来られると思っておりました。さあさあ、どうぞ」
「ああ、上がるのはあれだからよ……」
「ええ、中庭の縁側がよろしいのですよね。どうぞ、どうぞ」
菊之助より二十くらい歳のいった越後屋の主が手をさしのべ、ひしめき合う客に会釈をしながら菊之助を先導していく。
大店の主人であるのに腰が低いのは、さすが客商売。店が繁盛しているのも頷ける。店の者たちも菊之助を見れば、話の最中ならば目だけで、荷を運んでいるなら会釈を忘れない。なかなかに躾が行き届いていて、この先も安泰であろうと菊之助は主の後ろを着いていく。
賑わう店を抜け、立派な倉を有する中庭に行くと、それは見事な柿の木があり、たわわに実をつけていた。色合いも旨そうな橙色になっていて、おもわず「おお」と感嘆の声が漏れた。
「少し早いですが奥方様に持っていかれますか?」
同じ木を見上げてにこやかに越後屋が言う。
「ああ、おもわず声が出たが、店の者たちの楽しみを奪うわけにはいかんから」
「しかし……」
越後屋が本当に要らないのかと迷っているのが感じ取れたので、菊之助は照れ臭そうに頬を掻いた。
「うちにもあるのだ。二本ほど。しかし、ここのがあまりに立派なのでついな。この実を貰うより、手入れの仕方を教えて貰いたい」
なるほど。と、頷くと木の世話をしているのはどこどこの植木屋であるから、紹介すると請け負った。
縁側に辿り着くと、今日は若旦那がお相手すると言って大旦那は席を外し、待っていたのか若旦那はするりと顔を出した。揃って腰を下ろすと、直ぐさまお茶が運ばれてきた。きっと少し前から頃合いを見計らっていたのだろうという素早さであった。
麗らかな秋の陽気を楽しみながら出された茶と、噂話で穏やかな時を過ごしていた。店の方からは客や店者たちの声が届いて、程よい喧騒が心地よい。
風は少々冷たく、日当たりのいい縁側ではそれが返って気持ちよかった。
そこへ、たたたたっと軽い足取りで中庭に入って来た人が居たので、二人はそろってそちらへと顔を向ける。
「おお? 亀吉か、どうした」
真っ先に汗ばんだ初老の男に声を掛けたのは菊之助。
それに次いで越後屋が「亀吉親分さん、いらっしゃいませ。どうぞどうぞ、お掛けくださいまし。おおい、誰か居ないか」と、縁側を勧めてから屋敷の奥に声を掛けた。ぴょこっと顔を覗かせた若い女中にお茶を。と指示を出すと、女は頭を下げて奥へと消えていった。
「道々、旦那を探して歩いてきたら、皆が口々に越後屋に行ったというからすぐに見つかりやした」
「探さなくても、もうすぐ屋敷に戻るのに、せっかちだねぇ」
「いやいや、ちょいと気になる話を小耳に挟んだものですからね、早めに耳に入れておこうと思ったんですよ」
「ほおら、せっかちじゃないか」
二人は軽妙なやり取りをし、越後屋の若旦那はそれをにこにこしたまま聞いていた。
そこへ先ほどの女中がお茶を持って現れて、新しい湯呑を銘々に配ると、温《ぬる》くなったものを盆にのせて戻っていった。
女中が下がったのを機会に「宜しければお二人でお話しなすってください。私は店におりますんで」と若旦那が気を利かせて立ち上がる。
「すまんな」
謝る菊之助に商売人らしい柔らかな笑みを返して、若旦那は店へと行ってしまった。
「全く、若旦那に気を使わせてどうする」
ため息交じりに菊之助が言うと、出されたお茶をずずずっと啜って亀吉がすまし顔でやり過ごす。
この亀吉、巷では亀吉親分と言われる菊之助の御用聞き(岡っ引き)であった。
元々は大工であったが、腰を痛めたのを機に大工からは退いて御用聞き一本で生計を立てている。
とはいえ、それだけじゃさすがに懐が寂しいので、家で古女房がせっせと小間物屋を営んでいるのだが。
「旦那の話が長げぇから、越後屋さんだって立つ頃合いを見計らっていたんでしょうよ。渡りに船だとさぞ喜んだってぇ話です」
「んな訳あるかよ」
あるんですよ、それが。と、またずずずっと茶を啜る。
「それは置いておいて、ちょいとお待ちを」
そう言いながら持っていた湯呑を置いて、懐に手を差し入れて何かの包みを取り出した。紙に包まれたそれを掌でゆっくりと開帳すると、中から赤いころんとした艶やかな飴玉が出て来た。
「旦那、これを知ってますかい?」
「ああん? 飴玉だろ?」
「へい、そうなんですが……。ただの飴ではございませんよ。『梅ぼ志飴』です」
菊之助は三粒ほどの赤色の飴玉をまじまじと見つめた。そう言われると、色合いといい大きさといい、梅干しのようであった。
「しかしなんだ……飴なのに梅干しかぁ? 甘ぇのに酸っぱいのかよ」
菊之助の反応に、亀吉がにんまりをするから、菊之助が気持ち悪いものを見たように顔を曇らせた。
「おめえの笑い方はなんだ……。気持ち悪りぃ」
「いやぁ、旦那が思った通りの事を言うんでね。なんて言うか、以心伝心と言うんですかね? うちの女房よりも旦那の方が分かり易くていいですわ」
そう言いながら一粒摘まんで菊之助に差し出した。菊之助はなんだか分からないが、それを受け取った。
「ま、食べてくだせい。それが一番早いんで」
「いや、俺は梅干しは嫌いじゃないがよ、甘いものは甘く、酸っぱいものは酸っぱく、はっきりしてないのは嫌なんだが……」
「そう言わず」
強引に包みを突き出され、仕方なし菊之助は指で摘まんだ小さなそれを嫌そうに眺めてから、えいっと口の中へ放り込んだ。からころと、口の中で歯にぶつかって音がする。菊之助は明後日の方向を見たまま、飴を口の中で転がし続けていた。
口の中で飴を転がしながら「甘ぇな」と感想を述べた。うんうんと頷いた亀吉は「甘いんですよ。飴ですから」と答える。数回瞬きをした後に、菊之助は飴をがりがりと噛み砕きだす。もぐもぐ、がりがりと。
「梅干しはどこへいった」
ごくんと飲み干した後、開口一番それを言う。そこでまたにんまりと亀吉がしたのを見て、嫌そうな顔をする。
「飴ですからね、梅干しなんざ入っちゃおりませんよ」
「おめぇ、騙したのか」
「騙すなんて人聞き悪い。私はこれでも御用聞きをやっておるのに」
「俺に雇われている御用聞きだろ? いつでも暇をくれてやるぞ」
不機嫌に菊之助が言うと、焦りもせずにまたまたぁと亀吉が返す。
亀吉は身を屈め菊之助のお茶を取り上げると、それを菊之助へと渡す。甘い飴を一気に食べたものだから、確かに茶を飲みたいと思っていたと素直に菊之助は茶を受け取った。二人の間にずずずっと茶を啜り上げる音が響いて、亀吉はそれを一旦待ってから事の次第を話し出した。
「なぜこの飴を持って来たかというと、ちょいと怪しげな話を聞いたからなんです」
「また強盗の類か? やれやれ……」
先回りして天を仰ぐ菊之助を亀吉は完全に無視して話しを進める。
「まずこの飴は西河岸町にある『榮太樓』の物」
「ああ、あのきんつばの」
「名代金鍔《なだいきんつば》。『年季増しても食べたい物は土手のきんつば さつま芋』の、あのきんつばの店です」
「んで、それがどうしたよ?」
亀吉曰く、貸本屋をしている松一が騙されたと亀吉を捕まえてぼやいたのだと言うのだ。
「貸本屋って言うのは結構数が居ますから、ちょいとばっかり頭をひねってお得意さんに何かお礼でもして客の心を掴もうと考えたらしいのです。そんな風に考えておったら、たまたまいつも出入りしている吉原で変わったものを聞いた」
そこまで黙って聞いていた菊之助が縁側に包み事置かれた梅ぼ志飴を見下ろした。
「飴なのに酸っぱい名を持った……これか」
亀吉もそれを見下ろして、頷く。
「江戸っ子はとにかく新しいものに目がないんで、これは良いと思って榮太樓まで赴いた。そうして飴を手に入れたまでは良かった。試しに一個食べてみようと思って口に入れたら、舐めても舐めても一向に酸っぱくなんてならねぇってんで首を傾げた。翌日、もう一度店に足を運んで店者にちょいと文句をつけた」
「『おいおい、梅ぼ志飴とか言って、酸っぱくねぇじゃねえか』ってか」
「その通り。しかし、店の者は柔らかく笑ってこう返す『ええ、その通りでございます。見た目が梅干しに似ていると言われてそう名付けただけで、甘い飴でございますから』」
そこまで話すと亀吉は喉が渇いたのか、残りのお茶を啜りふぅと一息ついた。
菊之助は顎をぽりぽりと掻いた。
「おめぇ、そんな話をするためにわざわざ俺を探し回ってここに来たって言うのかい?」
半ば呆れつつ、せっかちでいけねぇと首を振った。
「まさか、話にはまだ続きがありますんですよ。松一は取り敢えずそれを持って商いに出た。本を担いでお得意様の吉原遊郭へと行ったんです。そして、梅ぼ志飴の話をした禿が居る『大野屋』に真っ先に行ってみたんだそうです」
そこで菊之助が話に興味を持ったように顔を上げた。明らかに先ほどと目の色が違う。
「大野屋! 今、噂の梅野が居る所じゃねぇか。そりゃ、艶っぽくていい女なんだとか。一度で良いからその口で……」
「旦那、ここは越後屋でございます。あんまりそう言う話をされると、どこで聞かれてるか分かりやせんよ? 噂って言うのはあっという間に広まっちまうんだから」
嬉々として遊女の噂をしだした菊之助に亀吉が窘め、真顔で言われた菊之助は黙るしかなかった。またやる気を失った菊之助が指をくいくいと動かして、いいから先を話せと促した。
「その禿、実は噂の梅野に世話になってる子供だったらしく」
「梅野!」
「逐一、反応せんでください。話が進まないじゃねぇですか」
菊之助が叱られた子供のように口を噤むと、亀吉が言うことをしっかり聞いた子供を確認するように菊之助に頷いて見せた。
「とにかく、松一は本の荷を下ろした。そうしたら、禿に呼ばれた梅野が顔を出した……」
「よし、分かった。俺も明日から貸本屋になるぞ」
「いいと言うまで口を開かんでくださいよ。どこまで話したか分からんくなります」
ぶつぶつ文句を言う亀吉にさすがにやり過ぎたと再び口をつぐむ。
「松一が言うにはかなり大年増に見えたらしいですぜ? それなのに、やたら唇が艶々であれで吸い付かれたら精も根も……」
「お前こそ、真面目に話す気はあるのかい?」
ごほんっと咳払いをした亀吉が仕切り直して話を戻す。色に釣られてちゃ、仕事は勤まらないなどと己を正して。
「とにかく、禿に呼ばれた梅野は若い上客を伴って出てきたらしいですわ。朝早かったんで男は帰るついでとかなんとかで、一緒に下まで降りてきただけだと言ったんだとか。んで、まぁ梅野が本を選ぶために足を止めたから男もそうした」
そこまできて、置いておいた梅ぼ志飴を指差す。
「『おいおい、先日言ってた梅ぼ志飴。ただの甘いだけの飴じゃねえか』と禿に文句をつけた。すると本を手にしていた梅野がさっと顔をあげて言ったんだそうです。『何を言いますやら。梅ぼ志飴はそりゃあ酸っぱい飴ですよ』と」
菊之助は眉根を寄せて腕を組む。
「酸っぱくねぇよな」
「ええ、酸っぱくねぇです。松一も食べたから直ぐ様『いやいや、酸っぱくなんてありやせんよ』と言ったそうなんです」
だよなぁ。と、亀吉の話に菊之助は同意する。
「そしたら梅野が自分の横に立つ男を指して『こちら、榮太楼の若旦那さんなのよ』」
ほぉお。と、菊之助が唸る。
「その若旦那『ああ、梅ぼ志飴は酸っぱいよ。ちょいと変わっておるから売れてるんだ。それを酸っぱくないなんて触れ回らんで貰いたい』って言ったらしいですぜ」
菊之助はその亀吉の言葉に素直に驚いて見せた。
「はぁ? 酸っぱくねぇだろ。ちょいともう一粒食わせろな」
頷く亀吉を待たずに菊之助は赤い飴を取り上げて口に入れたと思ったら、直ぐにばりばりと噛み出した。追随して、亀吉もまた、残った一粒を口に入れた。大の男が揃って飴玉をがりがりぼりぼり。穏やかな秋の庭にしばし獣が食事をしているような音が鳴り響く。庭で寛いでいた雀が驚いて飛んで行くほどだった。そうして先に食べきった菊之助がうんと一つ声を出す。
「酸っぱくねぇ」
「酸っぱくねぇです」
菊之助の湯呑みにほんの少し茶があるのを見つけた亀吉が、勝手に湯呑みを取り上げさっさと中身を飲み干した。
「おまっ、それは俺のだろ」
「話してると喉が渇くんで」
「だからって勝手に飲むなよ、無礼者」
そこへ様子を見に来たと思われる越後屋の若旦那が顔を出し、二人が茶の事で揉めているのをまぁまぁと止めに入った。
「おい、誰かお茶を運んできなさい」
座敷の奥に声を張ると「はぁい、旦那様」と返事が返ってきた。そして、若旦那もまた話の輪に入るべくその場に座り込んだ。
「すまねぇな。そろそろ引き上げるよ。しかしなんだ、用意してもらった茶を飲まないのも悪いから、それは頂いてから行こう」
「旦那は茶が欲しいだけじゃないか」
「うるせぇよ、お前が飲んじまうから……」
「まぁまぁ、ゆっくりしていってくださいまし。うちとしては同心様とその御用聞きの親分さんが居てくれたら、安心ですんで」
にこにこと相変わらず穏やかな笑みを絶やさぬ若旦那に菊之助は問うてみる。
「なぁ、若旦那は榮太楼の梅ぼ志飴を食ったことがあるかい?」
返事が気になったようで、亀吉もまじまじと穏やかな笑みを見つめる。二人にじろじろ見られ、やや苦笑しながらもはっきり答える。
「ええ、ございますとも。美味でございます。しかしやはり私はきんつばの方が好きですね。飴は女子供が喜ぶものですし」
「味はどうでい? 飴らしからぬなにかを感じやしなかったかい?」
まだ若旦那が話しているのを遮って、肝心なそれを菊之助は問わずにはいられない。そんな菊之助に嫌な顔一つせずに若旦那は答える。
「ええ、とても上品な甘みでございました。なんでも有平糖を使うことで……」
「やっぱり甘い!」
亀吉もまた耐えきれずに話の腰を折って割り込んだ。
「梅ぼ志飴って名前は見た目からきているのは、皆知っておりますゆえ」
ゆったりと若旦那が言って返すと、うーんと菊之助が唸った。
「しかし、榮太楼の若旦那が違うと言ったとさ。おかしな話じゃねぇか。越後屋、榮太楼の若旦那は店に出だして日が浅いのかい?」
それを聞いた越後屋の若旦那がさもおかしそうに目尻を下げた。
「まさか、あちらさんは若旦那とは呼ばれておりましても、それは大旦那さんがまだまだお元気で店に出ているからでございます。年の頃は……たぶん渡邊様くらい。商いには十分精通したお方です」
亀吉がやっと運ばれてきた湯呑みをお盆から下ろすのを手伝い、そして自分の茶を早々に口に運ぶ。
亀吉の淹れたての茶を美味しそうに啜る姿は、巻物に描かれた仙人のようだと菊之助は密かに思っていた。貧相な見た目なのに貫禄がある不思議さに、ついつい菊之助はみいってしまうのだった。
「しかし、松一は若旦那を若いと言っておりやしたよ。あ、松一とは貸本屋をやっておる者なんですがね」
茶を啜る合間に言いたいことを言い、再び湯呑みに口をつける。
菊之助は顎を擦り、それでも足りないと自らの耳たぶを引っ張って考え込むと、早々に結論を出す。
「ま、難しいことはねぇ、若旦那と名乗る奴が偽者なんだろうよ。だから飴の事も分からねぇ、歳も本物と違うんだな」
「左様でございますね、きっと。時にどこの誰がそんな事を?」
菊之助の言葉を受けて、越後屋の旦那が不思議がる。だから、事の次第を話してやった。そうして聞き終わった若旦那が確信を込めて言う。
「吉原での話ならさもありなん。見栄もありましょう」
「まぁ、その辺が落ちどころな気ぃがします。私だって御用聞きには胸を張っておりやすがね、まぁ嘘が露呈することがないなら……同心だと言ってみたいような」
「馬鹿だな、亀吉。同心は良くねぇよ。俺なら越後屋の若旦那と言うぞ」
そこで越後屋が笑いを漏らして二人に返す。
「そのように仰って頂くのはありがたい話ではございますが、うちもなんやかんや、しがらみだらけでございます。他人様のものはよく見えるのでございましょう」
亀吉は苦笑する越後屋を見て、案外……と、真面目な顔で話し出す。
「その見栄っ張りは適した人間に化けたんでしょうよ。榮太楼は繁盛店だ。しかし、越後屋程は大きくなねぇしな、同心だなんて嘘でも言っちまえば、楼主がわざわざ顔を出すであろうから……顔を見たらさすがにばれるだろうし、ばれなくても二度とは顔を出せねぇもんな」
確かになぁと、菊之助もそれには同調した。
「越後屋の若旦那ならよ、顔も相当割れてるしな。榮太楼には数回行ってるが……きんつばしか覚えとらんし」
亀吉は食い意地の張った同心にやれやれと呆れた顔をした。そして今度も一番始めに茶を飲み干してしまった。だから、すくっと立ち上がり秋空を見上げて陽の位置を確認する。
「まだ早いんで、ちょいと松一の所に行ってきやす。梅ぼ志飴は甘いんだって話と、その若旦那は偽者だって言いに」
越後屋も同じように立ち上がると「外までおくりましょう。菊之助様は少々お待ちくださいませ」と頭を下げる。
忘れかけていた茶を取り「これを飲まなきゃ帰れん」と答え、二人を見送った。越後屋が姿を消してから「袖の下も貰わな帰れんし」と呟いて。
静かに茶を啜りながら目の前の立派な柿の木を羨ましげに眺めていた。穏やかな景色を眺めながら、この時菊之助はこれで一件落着だろうと踏んでいたのだが、話はそうは簡単には終わらなかったのである。
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