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相棒は若旦那
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菊之助は朝が来ると身支度を整えて屋敷を出た。
何時ものように帯と背の間に十手を挟むと、庭の柿の木を横目に門を潜る。今にも降りだしそうな曇天に浮かぶ柿は、今日中に採っておくように言い伝えてきた。
秋もそろそろ終わりへと近づいてきている。ぶるっと一震えすると、腕を組んで予定通り日本橋へと向かった。風が吹き抜ける日本橋を渡ると右手に折れ、河岸にずらりと並ぶ店の前を歩いていく。今日も幾多の船が荷の上げ下ろしをしており、盛況であった。若い頃はここいらに並ぶ船に身を隠し、知らない土地に行ってみたいなどと思ったりもした。しかし今はこうして遠路はるばるやって来た船を眺めるだけで良いと思うようになったのは、歳のせいなのかなどと顎を擦る。
菊之助は賑やかな日本橋、少々堅苦しい八丁堀。艶やかな吉原だってある江戸が、今は前よりずうっと好きだ。ひゅーと鳴る冷たい風に乾いた空気。それだって悪くねぇと思うのだ。悪くねぇから、このまま泰平の世が続きますようにってな。その為に菊之助は十手を背負って歩いていく。悪くねぇ、悪くねぇ。
一人だとついつい物思いに更けて、気が付くと直ぐそこに榮太楼が見えてきた。店が見える所で松一と亀吉がなにやら話し込んでいるし、その二人を邪魔せぬように数歩離れた位置に、市松模様の着物を着た高久が控えていた。
紺の暖簾が乾いた風にひゅるりと煽られて揺れる。その先には客の姿がちらほら。
「ご苦労さん。若旦那も付き合って貰っちまって悪いねぇ」
声を掛けると高久は何時ものように、綺麗な月代を見せつけるかの如く深々と頭を下げる。もちろん松一もぺこりとした。しかし、亀吉は違った。
「旦那! 偽若旦那が働いておるってぇ松一が!」
挨拶よりも何よりも言いたいことを優先させるせっかちぶりであった。
「あい。中で何かを練っておりやした」
亀吉を叱る前に松一が話を継いでしまったもんだから、文句を言いはぐってしまった。仕方なしに揺れる暖簾の隙を「どいつだ?」と伺う。
「今は見えねぇようです」
松一が返事をした後に、「昨晩、聞いた話でございますが……」と、高久がそっと会話に後ろから入ってきた。
「若旦那でも店の物を拵えたりすることはあるようでございます。そう言えば私もまだ幼い時に、『反物を売るのにどのように着物を作り上げるか知らなければ売れるわけがない』と言われまして……一年ほど丁稚奉公に出されておりました。ですから、もしかすると……」
話の先が読めた亀吉が「どこぞの店から預かった人間かも知れねぇってことか!」と結論を言い、高久がそれに頷いた。
菊之助が眉をくいっと上げ「丁稚奉公って歳の男じゃなかろう」と、異を唱える。
「覚えが良くなければ、長いこと預けておくこともございます。例えば、自分の戻るはずの家にきちんとした職人が居れば『しっかり物にしてこい』となりますでしょう」
話を聞いていたひょろりと背丈が高い松一が「なるほど」と、手をぽんと打った。
「ならば、『榮太楼の若旦那』って言うんは、『榮太楼に預けられた違う所の若旦那』ってぇ訳か!」
合点がいって晴れやかな顔の松一を眺めたまま、菊之助は「しかしよ」と、訝しげに首を捻る。
「だとしたってぇ、奉公人には違いねぇだろうよ。そんな身分で吉原に行けるか? 金は親元から貰うのか? いやそれより、なんで飴を酸っぺぇなんてよ……」
ぶつぶつ疑問を口にし、確かに菊之助の言うことは正しいと皆もまた困ったように首を傾げてしまう。
「ま、とにかくだ。梅野に会いに行くか。亀吉は奴さんが逃げ出さねぇように見ておいてくれ」
「へい」
何を梅野に語っているのか聞いてから、本人に問い質したって遅くない。
ひょろりとした松一と、鼠色の割かし珍しくない着物を何故かぱりっと着こなした高久とを連れ、菊之助は吉原に向け出発する。菊之助も、粋な縦縞模様の着物を田舎者のように着こなし、高久同様に菊之助は菊之助らしさを存分に発揮して歩いていくのであった。
松一を連れて行くのだから、駕籠はどうなのかと菊之助がちらりと高久を見た。高久は横を流れる川の流れを眺めつつ歩みを進めていた。大店の若旦那を歩かせるのは気が引ける。駕籠が一番お似合いだが、松一が居る。駕籠は元々武士しか乗ってはならないと決まりがあったが、そんなものを守っている者はいない。けれど、単なる棒手振りの松一が乗るのは、どうなのかと思う。
「今日は流れが穏やかでございますね。柳橋から猪牙舟に乗るのはいかがでございますか?」
悩みを見抜かれていたようで、高久は言い終えると、さっさと船宿の多い方へと寄っていく。だがそれも、その辺の商人ではない若旦那を舟に乗せて良いのかと菊之助はちらりと頭の片隅をかすめていった。
「私は昔から舟が好きでして」
しかし、これまた高久がくしゃりと嬉しそうに微笑むから、菊之助はまあいいかと思い、若旦那の提案を飲むことにした。見事なほど考えを読まれているが、そう言って貰えると迷いが飛んだのは事実。喜んだのは松一である。常日頃から吉原へ通ってはいるが、いつもは徒歩でしか行かない。それを舟で行けると聞けば、心が躍るのであろう。
「そりゃいいや!」
明るく同意してぱたぱたと船宿に向け、走り出した。
「手配しやす!」
子供のようなはしゃぎぶりであった。
それなのに、松一はめっぽう舟に弱かった。盛大に酔い、舟から降りても「なんか、足の下になまずがいるんじゃねえかってくらい、ぐらぐらしやす。なまずかな……」と、力ない。
困って眉根を寄せた高久と、呆れ顔の菊之助に見守られ、よたよた歩く姿はつたい歩きを覚えた幼児のようである。見かねた高久が肘をとり松一を支える。そうなると菊之助も支えないわけにいかず、棒手振りのお供に同心と江戸一番の大店の若旦那がつくという、なんとも珍しい光景となった。
「相当戻してしまわれましたね。こんなことならば駕籠にしておけば良うございました……」
高久がぐったりしている松一を気の毒がる。
「駕籠もなれねぇと酔うやつもいるってぇ話だよ」
菊之助が言うのを聞いて、うなだれたまま松一が「己の足で歩くのが一番って、わかりやした」と弱々しく返した。
「帰りはそうしな」
「……そうしやす。舟は二度とごめんだ……」
「だからあれほど遠くを見ろと言っただろ? 水の中なんて見ようとすれば、誰であろうとそうなるわ」
「だって旦那……魚が着いてきてたから……」
菊之助は、なにを子供のようなと、ぼやきながらも肘は相変わらず支えてやっている。
「う……口の中が酸っぺえや……」
とぼとぼと歩く松一の言葉に釣られて、菊之助まで酸っぱい液が上がってきた気がしてきた。
「今なら梅ぼ志飴も酸っぺぇと思いやす」
松一は元気のない冗談を言い、支える二人は笑うことも出来ずに歩いて行く。
日本堤からうねった五十間通りを抜けて、吉原大門をくぐると寄り道することもなく大野屋へと向かった。大門から真っ直ぐ伸びる仲之町を外れの方まで歩いて行くと、角にある大きな店が大野屋であった。
ここに来て、やっと支えられずに一人で歩けると言い出した松一が勝手知ったる大野屋にとぼとぼと入って行く。
もちろん、大野屋の方でも見知った貸本屋の松一が入ってくれば「ああ、松一さん。今日は荷物はどうしたんで?」と見世番の若い男が声を掛けて来る。
「ちょいとさ、梅野さんにお客さんなんだ」
松一はそこまで言うと見世番に体を寄せてこそこそと「同心様がお会いしたいと言っておるんでどこか場所を作ってくれねぇか?」と小声で用件を伝えた。
サッと顔色を変えた若い見世番はちらりと店の外で待つ長羽織りの菊之助を確認して、慌てて中へと入って行った。そしてすぐさま楼主が、やはり慌てた様子で奥から飛び出して来たのだった。白髪の混ざった頭をぺこぺこと下げて「これはこれは」と寄って来た大野屋の楼主。そして、菊之助に歩み寄ってやはり声を潜めて問う。
「うちの梅野が何かしでかしましたでしょうか?」
顔には不安でいっぱいだと書いてあるし、少々良き物を食い過ぎているとみて、やたら油も浮いていた。
「いいや、ちょいと聞きたいことがあるだけだが……もしかすると……『何かしでかしてる』ってぇことも考えられるがな」
ちょっと脅してやると、浮いていた油は面白いようにたらりとねばついた汗になって頬を伝った。
「それは……と、とにかく中へどうぞ入ってくださいませ。おい、誰か!」
そう言って、すでに平身低頭と言っていいほど、何度も頭を下げながら誘導していく。
駆け寄って来た先ほどの見世番と何やら話をすると、頷いてから菊之助と高久の方に向き直って「部屋を用意いたしましたんで、そちらで。梅野もすぐに参ります」と上がるように促した。違う見世番も出て来て、足の出ている松一用に水を張った桶を持って来た。
そういう訳で、二人と未だに少し元気のない松一は店の中へと招かれた。
通されたのは、なかなか立派な客間であった。
床の間の柱には彫刻が施されていたし、襖絵も他では余り見ないような鮮やかな牡丹。立派ではあるが、きらびやか過ぎて何とも落ち着かないので松一が始めにきょろきょろ、うずうずしだす。それがうつったかのように菊之助もじっとしているのが難儀で腕を組んでみたり、解いてみたり。高久だけはまるで何事も感じず、見えてもいなそうにじぃと岩の如く動かずに居た。
まずは菊之助が座り、襖の近くに高久が、更に下座に松一が座す。
そこへ、お茶が運ばれ銘々の前に置かれたと同時にお引きずり姿の女が現れた。髪はやや崩れ、目元はうっすらくまが出来、やつれた顔にやたら艶やかな唇、着物も良さそうだが菊之助にはいまいちどこの物かはわからない。
初めて見た梅野は噂通り、口ばかりが目立つ大年増そのものだった。いや、噂以上に歳をとっているように見えるのは、部屋に差し込む柔らかな日の光のせいなのだろうか。とにかく、枯れ木にもがいた椿が一輪、禍々しいほど艶やかに死に物狂いで咲いていると言った風貌をしている。菊之助はなんだかそれが痛々しくて、見るに耐えず、目を背けた。夜ならば、木が枯れかかっているのも見えなかろうと、気の毒にすら思うのだった。
とにかく、憐れんでしまうほど枯れかかっているのに、噂に名高い唇だけは、確かに確かに生き生きとしていた。
三人の前に不貞腐れたような梅野がすとんと座る。もちろん、相手が同心だろうが、どこぞの店の旦那だろうが吉原の女は余り媚びない。いや、下の下、食うのにも困るような女は媚びるが、売れれば売れるほど、強くなるのが約束事であった。噂では梅野は店を支える売れっ子だ。そりゃあ、ここでは天上人のような振る舞いをみせる。
「同心様だかなんだか知らないが、私は今やっと目を閉じたところだったのに……相手をしろとは何様なんでしょ」
口振りもやたら偉そうであった。
枯れ木の椿の癖によ。痛々しいより、恐ろしいわ。菊之助は黙って梅野を見つめたまま、心の内で悪態をつく。
すぅっと大きく息を吸い込んで、努めて落ち着いた声音で話し出す。
「相手をしてくれなんざ、言ってはおらぬわ。話を聞かせろと言っておるのだ」
「『話をお聞かせください』と?」
「話を聞かせろだ、梅野」
主導権争いをしているのを、開かれた戸の向こう側、廊下に座り込んで聞いていた楼主がたらたらと汗ばかりかいて聞いている。
「眠いところ起こして悪いが、同心様はわざわざ八丁堀より出向いてきたのでございます。ここは話を進めた方が互いに無駄なく事を運べるのではないですか?」
穏やかに優しい声音で高久が割って入った。
不機嫌な梅野はぷいっと顔を背けてから、敢えて高久に向けて「聞きたい事ってぇのは、なんなんでしょ」と返した。
「話があるのは、俺だぞ、梅野。お前、この松一に梅ぼ志飴を酸っぺぇと言ったよな?」
菊之助に言われて、梅野はちらっと松一に視線を投げて、また外す。
「だから?」
菊之助はこの『だから』にかちんときた。
「梅野、お前は大層売れてるらしいが、梅ぼ志飴一つ買えぬ可哀想な人間なんだな」
「は? なにを仰る。毎日飽くこともなく買ってるってぇの」
「じゃあ、お前。梅ぼ志飴が甘いことを知ってるって事だな?」
「ふん。あれは……甘くない!」
「は、甘くねぇっつったか? 俺も食ったが正真正銘甘い飴だ。間違えねぇ」
互いに喧嘩腰で端から見てると心の臓に悪かった。特に妓楼の主人は同心に張り合う梅野にはらはらし通し、汗が止めどなく湧いてくる。ここですぅっと息を吸った高久がはっきりした口調で二人の押し問答に割って入る。
「梅ぼ志飴は確かに甘い飴でございます。ええ、間違いないことでございますよ」
菊之助なほらみたことかと、鼻を高くあげる。梅野のくまのできた顔でぎろりと高久を睨み付けた。
おお……山姥《やまんば》だ。と小声で松一が呟いたのはたぶん隣にいる高久にしか聞こえなかったはずだ。
梅野は面倒臭そうに、鼻に皺をよせままため息をひとつ。
「同心様ってのは、お暇らしい。飴が甘いかどうかが気になって、わざわざ吉原まで来るとは……羨ましいご身分だこと」
いやはや、嫌味がよく似合う。亀吉には茶が似合うし、高久には粋な着物が似合うように、梅野は嫌味が似合うんだなぁと、菊之助は恐れ入った。
「言いたいことはそれだけかい? 悪党はもっと悪あがきしなくちゃぁ、芝居にならん。なんせお前は店の乗っ取りの片棒を担いでるって睨んでおるのだから」
「へ!?」
菊之助が言ったことに驚いて、廊下にいた楼主が間の抜けた声を上げた。
「は?」
瞬き一つ分、間を開けてから梅野も目を丸くする。
「の、乗っ取りって! うめ…梅野……」
「私は何にも企んじゃいないよ! ひどい濡れ衣だ!」
二人がわめき散らしてる横で、事情を聞かされていない松一が「乗っ取り! もしや……あの皆殺しの」と、それでなくても冴えなかった顔色が一気に青に染まっていく。
「そうなんですよ、松一さん。松一さんが梅野さんに紹介された榮太楼の若旦那とやらは偽者で、しかも店に出入りできる人間。しかしですよ、飴の味を知らないって言うのはなんとも怪しいと……」
親切に説明してやっている高久の言葉が梅野にも届いたらしい。恐ろしい形相でくいっと顔を向けた。
「ひぃ」
それでなくても細い松一の体が梅野に恐れおののいて、きゅいっと縮み上がった。
「若旦那が偽者!? 嘘言って貰っちゃ困るよ! あのひとは自分から若旦那だって言ったんだから。『ほら証拠に榮太郎の梅ぼ志飴だ』っつって、飴を出したんだ」
「んなこと、松一だってやろうと思えば出来るだろうよ」
そんな単純な事で騙されたのかと、呆れ返る菊之助に梅野が怒りで小さく震えた。
「身なりもいい、金払いだって悪くなかった。信じない方がおかしいじゃないか……」
「ほぉ、身なりが良かったのか。金払いもなぁ……なるほど」
ふーん。と、付け加えてから菊之助は前屈みになり、湯飲みを取り上げた。
「嘘なんかついちゃいないよ!」
梅野が言うのを聞きながら高久もまた前屈みになって、湯飲みに手を伸ばして言う。
「そうでございましょうか? 飴の味には嘘をついておりますし、にわかには信じられませんよねぇ」
すっと持ち上げた湯飲みを両手で包んでにっこりと微笑む。
「梅ぼ志飴が酸っぱいなどと申すのはあなたと偽者の若旦那だけでございます。仲がよろしいのですね」
高久の嫌味は柔らかく、優しく言われると余計に痛い。鈍い切れ味の刃物でゆっくりと刺されるように、じわりと効いてくる気がした。
「確かに……確かに梅ぼ志飴の味は嘘を言った。別に甘いものを酸っぱいと言っても罪じゃないじゃぁないか! でも、榮太楼の若旦那が偽者だってことは、本当に知らなかったんだよ!」
そこまで言うと悔しそうにぎりっと歯ぎしりをし、吐き出すように言った。
「私はもうすぐ年季が明ける。そしたら妾にしてやるって約束してたんだよ。若旦那じゃなかったなんて……とんだ嘘つきだ! なんてぇ、悪党なんだ!」
良い話がご破算になり、先の予定が狂った梅野はぎりぎりと悔しがる。なるほど、梅野は偽者を本当に正真正銘の榮太楼の若旦那と思っていたらしい。 怒りに目尻がつり上がる梅野に、そんな風に思いながら、最後に一つ菊之助は問う。
「お前、なぜに梅ぼ志飴を酸っぺぇなんて言ったんだ。頑なに甘いことを認めなかったのはなぜなんだ」
問われた梅野は鬼の形相が少し緩んで、細い枝のような指で唇をそっと押さえた。梅野は遠くを見たまま、肩の力が静かに抜けていく。本当にへなへなと崩れいく木のようであった。
「始めは……舐めていた飴がつるりと滑って口から出ていっただけのこと。それを……客が何にも知らずに言ったのさ。『今日のお前はなんてぇ旨そうな唇をしてるんだ』とね」
ゆるりと流す視線は艶っぽく、先ほどまでの梅野とは別人のようであった。
「そんなこと言われたら私だって嬉しいだろ? だからそのまま口吸いをしたのさ。そしたら『甘い』と、その客はやたら喜んだんだよ」
飴がついていればそりゃ甘かろうと菊之助は思ったが、それはおいておいて今一度同じ事を問う。
「それでなぜに、梅ぼ志飴を酸っぺぇと言ったんだ」
「……そりゃ、知られたくなかったんだよ、唇が甘く艶やかな理由をさ。毎日、ちょいと口に含んだ梅ぼ志飴を口から出して唇に塗ってから紅をひいた。それが周りに知られたら真似されちまうじゃないか……」
菊之助と高久は何故か視線が合わさった。互いにこの女を少し憐れんでいることは、交わしたそれでなんとなく感じ取っていた。売りがなければ落ちていくばかりの人気。見てくれじゃ、若い女には勝てない。だからと言って、技だけでどうにかなるものではなかったのだろう。たまたま見つけた自分の"売り"を隠しておきたかったのは理解できた。
「秘密を知られないように禿にも梅ぼ志飴が酸っぱいと教えたのでございますね?」
静かに問う高久に、素直に頷く。
「どこでどう秘密が漏れるか分からないから、出来るだけ飴から人を遠ざけたかったのさ……」
それを聞いていた松一がごそごそと袂を漁って、包みを取り出した。菊之助はその取り出した和紙を覚えていた。榮太樓の飴が中に入ってる包みだ。松一は自分の手元のそれを見下ろしてゆっくりと話し出す。
「亀吉親分に、店の中にその若旦那って奴が居るかどうか確かめてくれって言われたんで、ついでに買って来やした。さくらだったかな? 梅野さんとこの禿。あの子に上げてやってくだせぇ」
そう言って、その包みから梅野に視線を移した。罰の悪そうな梅野が頷くと、松一の横に座していた高久がそっとその包みを取り上げて、梅野に近い菊之助へと手渡した。渡されたそれを菊之助は既に枯れかかっている梅野の前に置いてやった。
「もうお前は年季明けなのだろう? 最後くらい良い姉《ねえ》さんだったと言われてぇだろ? お前さんの勤めが幾日残ってるか知らねぇがよ、これから先ずっと吉原で頑張らなきゃならん、その──」
禿の名前が出てこない菊之助を横から高久が「『さくら』でございます」助け舟を出す。
「ああ、さくらか。さくらに飴くらい分けてやんな。……んで、その榮太樓の若旦那って奴は悪だくみはしておらなかったのだな?」
どちらの事に頷いたのかは分からぬが、梅野は口をきゅっと閉じたまま頷いた。梅野はちらりと高久を見た。見られた方もそれを感じて「なんで御座いましょう」と問う。
「あんた一体何者なのさ。そっちの偉そうなのは同心だろ? あんたはどう見たって岡っ引きには見えないが」
そこで偉そうなと言われた菊之助が鼻をふんと鳴らしてやった。
「おまえにゃ縁遠い人間だよ」
ざまあみやがれってんだ、と心で付け足すのを忘れない。
「私は日本橋越後屋の高久と申します。本日、訳あって同心様のお供を致しております」
自己紹介などしなくていいものを、根っからの商売人である、丁寧に頭まで下げて梅野に答えた。これに梅野が表情を一変させる。目がきらりと光って、舌舐めずりをしたように菊之助には見えた。枯れかけた木が見事にぴんっと勢いを増したようであった。
「梅野よ、そやつは客ではないぞ」
憮然とした菊之助が釘を刺すと、梅野は鋭く尖った視線を菊之助に向けたと思ったらぷいっと顔を背けた。
「同心様には用はございません。さっさとお帰りになったらようございます」
「なんだと!」
帰りたいのは山々だが、帰れと言われるのは癪であった。しかも「越後屋の旦那はお残りくださいまし。よろしければお相手いたします」と来たものだから、益々いらっとした。
「越後屋の高久は俺の連れだ。俺が帰ると行ったら帰るんだわ、阿呆が」
苦笑した高久はまぁまぁと、菊之助を宥めながら穏やかな表情で梅野に語りかける。
「吉原は手順を踏まねばなるますまい。いくら同心様が一緒に居ろうとも、手順を全く無視するというのは心苦しい。それにでございます。あなた様のいい人は今や風前の灯火ではございませんか。妾にしてやると言われそのおつもりだったので御座いましょう?」
梅野は面白くも無さそうに笑った。
「所詮偽者の戯言」
そこで上目遣いに変えて、高久に熱っぽい視線を投げて言う。
「私を哀れに思って、通っちゃくださいませんか? 私は貴方様のような話のわかる男こそ真の男と思っております」
腕を組んで成り行きを見ていた菊之助が、馬鹿馬鹿しい! と言葉を吐き捨てた。
「この高久は根っからの商売人なだけだ。お前の話に耳を傾けているのだって、単なる道義に過ぎん。辞めとけ、辞めとけ、高望みなんて一文にもなりゃせんよ」
「相手にされないからとそのような戯れ言を」
梅野は上目遣いをやめて顔をくいと上げて、菊之助を上から見下ろしたから、菊之助の目尻がひくついた。二人の間に剣呑な空気が漂う。
「おやめくださいまし。私は同心様のお供、たてるべき相手は私ではございません。そこをしっかり理解してからお話くださいませ」
話終えた高久ににっこり微笑んで見せた梅野が、わかりましたと口にする。
「まずはこちらの同心様をササッとおもてなしいたしましょう。それから、越後屋様の元へ」
「はっ! お前は全くわかっとらんな。呆れてここにいたら呆けてしまうわ。高久帰るぞ。ほら松一も」
話すことはもうないとばかりに菊之助が立ち上がり、それに追随する形で高久も立ち上がる。
「私はこちらの同心様が好きでございます。堅苦しさもなく、ざっくばらんなお人柄、素晴らしいではございませんか。そんなお人を侮辱なさるのは、どうかと思いますよ、梅野さん。女子は色香だけが魅力ではございますまい。吉原の女ならそれはよぉく存じておるはず」
高久の言葉を背で聞いた菊之助は、少しばかり頬が緩んだ。例え商売人の口車だとしても、なかなかに気分が良い事を言う。よって、後から並んだ高久についこんな事を言ってしまう位、悦に入っていた。
「嬉しいことを言ってくれるじゃぁないか。よし、俺の相棒はお前だと今日から言って回ろうじゃないか」
意外な事にいつも澄まし顔の高久がこの言葉に目を輝かせた。
「本当でございますか! 嬉しゅうございます。喜んで何処へでもお供いたします」
思った以上の食い付きの良さに、菊之助が気圧され「お、おう……」と、空返事をしたのだった。
*****
店を出た三人は大門へと向けて揃って歩き出した。しかし、菊之助がふと足を止める。
「ああ、そういや若旦那は会いたい女が居たんじゃないかい? 若い頃に熱を上げた女にさ」
問われた高久が静かに微笑んで首を振った。
「随分と時間が経ってしまいました。きっと会いに行っても……互いにがっかりするだけでございます。一目会っておきたいと思ったりもしますが、会ったところで何かしてやれるわけじゃございませんので」
「若い頃に入れあげたなら、梅野のように幾分年増であるだろうしな」
「ええ、それに年季明けが近かったりしても、私は囲ったりするようなことも出来ませんので……。うちの嫁は良い嫁ではございますが、少々悋気持ちゆえ」
小さく二回程頷いた菊之助が、会わないのが良かろうよ。と、小さく呟いた。
そして大人しくついて来ていた松一に懐から出した五匁銀《ごもんめぎん》を一枚渡した。
「旦那! これはちょいともらい過ぎ……」
松一が慌てるが、菊之助が手をひらひらとさせて良いから良いからと制する。
「お前の出した飴にはそれくらい価値があるってぇことだよ。今日は付き合わせて悪かったな。明日からはしっかり自分で稼げよ」そう言うと、お前はここで帰っていいと解放した。
何時ものように帯と背の間に十手を挟むと、庭の柿の木を横目に門を潜る。今にも降りだしそうな曇天に浮かぶ柿は、今日中に採っておくように言い伝えてきた。
秋もそろそろ終わりへと近づいてきている。ぶるっと一震えすると、腕を組んで予定通り日本橋へと向かった。風が吹き抜ける日本橋を渡ると右手に折れ、河岸にずらりと並ぶ店の前を歩いていく。今日も幾多の船が荷の上げ下ろしをしており、盛況であった。若い頃はここいらに並ぶ船に身を隠し、知らない土地に行ってみたいなどと思ったりもした。しかし今はこうして遠路はるばるやって来た船を眺めるだけで良いと思うようになったのは、歳のせいなのかなどと顎を擦る。
菊之助は賑やかな日本橋、少々堅苦しい八丁堀。艶やかな吉原だってある江戸が、今は前よりずうっと好きだ。ひゅーと鳴る冷たい風に乾いた空気。それだって悪くねぇと思うのだ。悪くねぇから、このまま泰平の世が続きますようにってな。その為に菊之助は十手を背負って歩いていく。悪くねぇ、悪くねぇ。
一人だとついつい物思いに更けて、気が付くと直ぐそこに榮太楼が見えてきた。店が見える所で松一と亀吉がなにやら話し込んでいるし、その二人を邪魔せぬように数歩離れた位置に、市松模様の着物を着た高久が控えていた。
紺の暖簾が乾いた風にひゅるりと煽られて揺れる。その先には客の姿がちらほら。
「ご苦労さん。若旦那も付き合って貰っちまって悪いねぇ」
声を掛けると高久は何時ものように、綺麗な月代を見せつけるかの如く深々と頭を下げる。もちろん松一もぺこりとした。しかし、亀吉は違った。
「旦那! 偽若旦那が働いておるってぇ松一が!」
挨拶よりも何よりも言いたいことを優先させるせっかちぶりであった。
「あい。中で何かを練っておりやした」
亀吉を叱る前に松一が話を継いでしまったもんだから、文句を言いはぐってしまった。仕方なしに揺れる暖簾の隙を「どいつだ?」と伺う。
「今は見えねぇようです」
松一が返事をした後に、「昨晩、聞いた話でございますが……」と、高久がそっと会話に後ろから入ってきた。
「若旦那でも店の物を拵えたりすることはあるようでございます。そう言えば私もまだ幼い時に、『反物を売るのにどのように着物を作り上げるか知らなければ売れるわけがない』と言われまして……一年ほど丁稚奉公に出されておりました。ですから、もしかすると……」
話の先が読めた亀吉が「どこぞの店から預かった人間かも知れねぇってことか!」と結論を言い、高久がそれに頷いた。
菊之助が眉をくいっと上げ「丁稚奉公って歳の男じゃなかろう」と、異を唱える。
「覚えが良くなければ、長いこと預けておくこともございます。例えば、自分の戻るはずの家にきちんとした職人が居れば『しっかり物にしてこい』となりますでしょう」
話を聞いていたひょろりと背丈が高い松一が「なるほど」と、手をぽんと打った。
「ならば、『榮太楼の若旦那』って言うんは、『榮太楼に預けられた違う所の若旦那』ってぇ訳か!」
合点がいって晴れやかな顔の松一を眺めたまま、菊之助は「しかしよ」と、訝しげに首を捻る。
「だとしたってぇ、奉公人には違いねぇだろうよ。そんな身分で吉原に行けるか? 金は親元から貰うのか? いやそれより、なんで飴を酸っぺぇなんてよ……」
ぶつぶつ疑問を口にし、確かに菊之助の言うことは正しいと皆もまた困ったように首を傾げてしまう。
「ま、とにかくだ。梅野に会いに行くか。亀吉は奴さんが逃げ出さねぇように見ておいてくれ」
「へい」
何を梅野に語っているのか聞いてから、本人に問い質したって遅くない。
ひょろりとした松一と、鼠色の割かし珍しくない着物を何故かぱりっと着こなした高久とを連れ、菊之助は吉原に向け出発する。菊之助も、粋な縦縞模様の着物を田舎者のように着こなし、高久同様に菊之助は菊之助らしさを存分に発揮して歩いていくのであった。
松一を連れて行くのだから、駕籠はどうなのかと菊之助がちらりと高久を見た。高久は横を流れる川の流れを眺めつつ歩みを進めていた。大店の若旦那を歩かせるのは気が引ける。駕籠が一番お似合いだが、松一が居る。駕籠は元々武士しか乗ってはならないと決まりがあったが、そんなものを守っている者はいない。けれど、単なる棒手振りの松一が乗るのは、どうなのかと思う。
「今日は流れが穏やかでございますね。柳橋から猪牙舟に乗るのはいかがでございますか?」
悩みを見抜かれていたようで、高久は言い終えると、さっさと船宿の多い方へと寄っていく。だがそれも、その辺の商人ではない若旦那を舟に乗せて良いのかと菊之助はちらりと頭の片隅をかすめていった。
「私は昔から舟が好きでして」
しかし、これまた高久がくしゃりと嬉しそうに微笑むから、菊之助はまあいいかと思い、若旦那の提案を飲むことにした。見事なほど考えを読まれているが、そう言って貰えると迷いが飛んだのは事実。喜んだのは松一である。常日頃から吉原へ通ってはいるが、いつもは徒歩でしか行かない。それを舟で行けると聞けば、心が躍るのであろう。
「そりゃいいや!」
明るく同意してぱたぱたと船宿に向け、走り出した。
「手配しやす!」
子供のようなはしゃぎぶりであった。
それなのに、松一はめっぽう舟に弱かった。盛大に酔い、舟から降りても「なんか、足の下になまずがいるんじゃねえかってくらい、ぐらぐらしやす。なまずかな……」と、力ない。
困って眉根を寄せた高久と、呆れ顔の菊之助に見守られ、よたよた歩く姿はつたい歩きを覚えた幼児のようである。見かねた高久が肘をとり松一を支える。そうなると菊之助も支えないわけにいかず、棒手振りのお供に同心と江戸一番の大店の若旦那がつくという、なんとも珍しい光景となった。
「相当戻してしまわれましたね。こんなことならば駕籠にしておけば良うございました……」
高久がぐったりしている松一を気の毒がる。
「駕籠もなれねぇと酔うやつもいるってぇ話だよ」
菊之助が言うのを聞いて、うなだれたまま松一が「己の足で歩くのが一番って、わかりやした」と弱々しく返した。
「帰りはそうしな」
「……そうしやす。舟は二度とごめんだ……」
「だからあれほど遠くを見ろと言っただろ? 水の中なんて見ようとすれば、誰であろうとそうなるわ」
「だって旦那……魚が着いてきてたから……」
菊之助は、なにを子供のようなと、ぼやきながらも肘は相変わらず支えてやっている。
「う……口の中が酸っぺえや……」
とぼとぼと歩く松一の言葉に釣られて、菊之助まで酸っぱい液が上がってきた気がしてきた。
「今なら梅ぼ志飴も酸っぺぇと思いやす」
松一は元気のない冗談を言い、支える二人は笑うことも出来ずに歩いて行く。
日本堤からうねった五十間通りを抜けて、吉原大門をくぐると寄り道することもなく大野屋へと向かった。大門から真っ直ぐ伸びる仲之町を外れの方まで歩いて行くと、角にある大きな店が大野屋であった。
ここに来て、やっと支えられずに一人で歩けると言い出した松一が勝手知ったる大野屋にとぼとぼと入って行く。
もちろん、大野屋の方でも見知った貸本屋の松一が入ってくれば「ああ、松一さん。今日は荷物はどうしたんで?」と見世番の若い男が声を掛けて来る。
「ちょいとさ、梅野さんにお客さんなんだ」
松一はそこまで言うと見世番に体を寄せてこそこそと「同心様がお会いしたいと言っておるんでどこか場所を作ってくれねぇか?」と小声で用件を伝えた。
サッと顔色を変えた若い見世番はちらりと店の外で待つ長羽織りの菊之助を確認して、慌てて中へと入って行った。そしてすぐさま楼主が、やはり慌てた様子で奥から飛び出して来たのだった。白髪の混ざった頭をぺこぺこと下げて「これはこれは」と寄って来た大野屋の楼主。そして、菊之助に歩み寄ってやはり声を潜めて問う。
「うちの梅野が何かしでかしましたでしょうか?」
顔には不安でいっぱいだと書いてあるし、少々良き物を食い過ぎているとみて、やたら油も浮いていた。
「いいや、ちょいと聞きたいことがあるだけだが……もしかすると……『何かしでかしてる』ってぇことも考えられるがな」
ちょっと脅してやると、浮いていた油は面白いようにたらりとねばついた汗になって頬を伝った。
「それは……と、とにかく中へどうぞ入ってくださいませ。おい、誰か!」
そう言って、すでに平身低頭と言っていいほど、何度も頭を下げながら誘導していく。
駆け寄って来た先ほどの見世番と何やら話をすると、頷いてから菊之助と高久の方に向き直って「部屋を用意いたしましたんで、そちらで。梅野もすぐに参ります」と上がるように促した。違う見世番も出て来て、足の出ている松一用に水を張った桶を持って来た。
そういう訳で、二人と未だに少し元気のない松一は店の中へと招かれた。
通されたのは、なかなか立派な客間であった。
床の間の柱には彫刻が施されていたし、襖絵も他では余り見ないような鮮やかな牡丹。立派ではあるが、きらびやか過ぎて何とも落ち着かないので松一が始めにきょろきょろ、うずうずしだす。それがうつったかのように菊之助もじっとしているのが難儀で腕を組んでみたり、解いてみたり。高久だけはまるで何事も感じず、見えてもいなそうにじぃと岩の如く動かずに居た。
まずは菊之助が座り、襖の近くに高久が、更に下座に松一が座す。
そこへ、お茶が運ばれ銘々の前に置かれたと同時にお引きずり姿の女が現れた。髪はやや崩れ、目元はうっすらくまが出来、やつれた顔にやたら艶やかな唇、着物も良さそうだが菊之助にはいまいちどこの物かはわからない。
初めて見た梅野は噂通り、口ばかりが目立つ大年増そのものだった。いや、噂以上に歳をとっているように見えるのは、部屋に差し込む柔らかな日の光のせいなのだろうか。とにかく、枯れ木にもがいた椿が一輪、禍々しいほど艶やかに死に物狂いで咲いていると言った風貌をしている。菊之助はなんだかそれが痛々しくて、見るに耐えず、目を背けた。夜ならば、木が枯れかかっているのも見えなかろうと、気の毒にすら思うのだった。
とにかく、憐れんでしまうほど枯れかかっているのに、噂に名高い唇だけは、確かに確かに生き生きとしていた。
三人の前に不貞腐れたような梅野がすとんと座る。もちろん、相手が同心だろうが、どこぞの店の旦那だろうが吉原の女は余り媚びない。いや、下の下、食うのにも困るような女は媚びるが、売れれば売れるほど、強くなるのが約束事であった。噂では梅野は店を支える売れっ子だ。そりゃあ、ここでは天上人のような振る舞いをみせる。
「同心様だかなんだか知らないが、私は今やっと目を閉じたところだったのに……相手をしろとは何様なんでしょ」
口振りもやたら偉そうであった。
枯れ木の椿の癖によ。痛々しいより、恐ろしいわ。菊之助は黙って梅野を見つめたまま、心の内で悪態をつく。
すぅっと大きく息を吸い込んで、努めて落ち着いた声音で話し出す。
「相手をしてくれなんざ、言ってはおらぬわ。話を聞かせろと言っておるのだ」
「『話をお聞かせください』と?」
「話を聞かせろだ、梅野」
主導権争いをしているのを、開かれた戸の向こう側、廊下に座り込んで聞いていた楼主がたらたらと汗ばかりかいて聞いている。
「眠いところ起こして悪いが、同心様はわざわざ八丁堀より出向いてきたのでございます。ここは話を進めた方が互いに無駄なく事を運べるのではないですか?」
穏やかに優しい声音で高久が割って入った。
不機嫌な梅野はぷいっと顔を背けてから、敢えて高久に向けて「聞きたい事ってぇのは、なんなんでしょ」と返した。
「話があるのは、俺だぞ、梅野。お前、この松一に梅ぼ志飴を酸っぺぇと言ったよな?」
菊之助に言われて、梅野はちらっと松一に視線を投げて、また外す。
「だから?」
菊之助はこの『だから』にかちんときた。
「梅野、お前は大層売れてるらしいが、梅ぼ志飴一つ買えぬ可哀想な人間なんだな」
「は? なにを仰る。毎日飽くこともなく買ってるってぇの」
「じゃあ、お前。梅ぼ志飴が甘いことを知ってるって事だな?」
「ふん。あれは……甘くない!」
「は、甘くねぇっつったか? 俺も食ったが正真正銘甘い飴だ。間違えねぇ」
互いに喧嘩腰で端から見てると心の臓に悪かった。特に妓楼の主人は同心に張り合う梅野にはらはらし通し、汗が止めどなく湧いてくる。ここですぅっと息を吸った高久がはっきりした口調で二人の押し問答に割って入る。
「梅ぼ志飴は確かに甘い飴でございます。ええ、間違いないことでございますよ」
菊之助なほらみたことかと、鼻を高くあげる。梅野のくまのできた顔でぎろりと高久を睨み付けた。
おお……山姥《やまんば》だ。と小声で松一が呟いたのはたぶん隣にいる高久にしか聞こえなかったはずだ。
梅野は面倒臭そうに、鼻に皺をよせままため息をひとつ。
「同心様ってのは、お暇らしい。飴が甘いかどうかが気になって、わざわざ吉原まで来るとは……羨ましいご身分だこと」
いやはや、嫌味がよく似合う。亀吉には茶が似合うし、高久には粋な着物が似合うように、梅野は嫌味が似合うんだなぁと、菊之助は恐れ入った。
「言いたいことはそれだけかい? 悪党はもっと悪あがきしなくちゃぁ、芝居にならん。なんせお前は店の乗っ取りの片棒を担いでるって睨んでおるのだから」
「へ!?」
菊之助が言ったことに驚いて、廊下にいた楼主が間の抜けた声を上げた。
「は?」
瞬き一つ分、間を開けてから梅野も目を丸くする。
「の、乗っ取りって! うめ…梅野……」
「私は何にも企んじゃいないよ! ひどい濡れ衣だ!」
二人がわめき散らしてる横で、事情を聞かされていない松一が「乗っ取り! もしや……あの皆殺しの」と、それでなくても冴えなかった顔色が一気に青に染まっていく。
「そうなんですよ、松一さん。松一さんが梅野さんに紹介された榮太楼の若旦那とやらは偽者で、しかも店に出入りできる人間。しかしですよ、飴の味を知らないって言うのはなんとも怪しいと……」
親切に説明してやっている高久の言葉が梅野にも届いたらしい。恐ろしい形相でくいっと顔を向けた。
「ひぃ」
それでなくても細い松一の体が梅野に恐れおののいて、きゅいっと縮み上がった。
「若旦那が偽者!? 嘘言って貰っちゃ困るよ! あのひとは自分から若旦那だって言ったんだから。『ほら証拠に榮太郎の梅ぼ志飴だ』っつって、飴を出したんだ」
「んなこと、松一だってやろうと思えば出来るだろうよ」
そんな単純な事で騙されたのかと、呆れ返る菊之助に梅野が怒りで小さく震えた。
「身なりもいい、金払いだって悪くなかった。信じない方がおかしいじゃないか……」
「ほぉ、身なりが良かったのか。金払いもなぁ……なるほど」
ふーん。と、付け加えてから菊之助は前屈みになり、湯飲みを取り上げた。
「嘘なんかついちゃいないよ!」
梅野が言うのを聞きながら高久もまた前屈みになって、湯飲みに手を伸ばして言う。
「そうでございましょうか? 飴の味には嘘をついておりますし、にわかには信じられませんよねぇ」
すっと持ち上げた湯飲みを両手で包んでにっこりと微笑む。
「梅ぼ志飴が酸っぱいなどと申すのはあなたと偽者の若旦那だけでございます。仲がよろしいのですね」
高久の嫌味は柔らかく、優しく言われると余計に痛い。鈍い切れ味の刃物でゆっくりと刺されるように、じわりと効いてくる気がした。
「確かに……確かに梅ぼ志飴の味は嘘を言った。別に甘いものを酸っぱいと言っても罪じゃないじゃぁないか! でも、榮太楼の若旦那が偽者だってことは、本当に知らなかったんだよ!」
そこまで言うと悔しそうにぎりっと歯ぎしりをし、吐き出すように言った。
「私はもうすぐ年季が明ける。そしたら妾にしてやるって約束してたんだよ。若旦那じゃなかったなんて……とんだ嘘つきだ! なんてぇ、悪党なんだ!」
良い話がご破算になり、先の予定が狂った梅野はぎりぎりと悔しがる。なるほど、梅野は偽者を本当に正真正銘の榮太楼の若旦那と思っていたらしい。 怒りに目尻がつり上がる梅野に、そんな風に思いながら、最後に一つ菊之助は問う。
「お前、なぜに梅ぼ志飴を酸っぺぇなんて言ったんだ。頑なに甘いことを認めなかったのはなぜなんだ」
問われた梅野は鬼の形相が少し緩んで、細い枝のような指で唇をそっと押さえた。梅野は遠くを見たまま、肩の力が静かに抜けていく。本当にへなへなと崩れいく木のようであった。
「始めは……舐めていた飴がつるりと滑って口から出ていっただけのこと。それを……客が何にも知らずに言ったのさ。『今日のお前はなんてぇ旨そうな唇をしてるんだ』とね」
ゆるりと流す視線は艶っぽく、先ほどまでの梅野とは別人のようであった。
「そんなこと言われたら私だって嬉しいだろ? だからそのまま口吸いをしたのさ。そしたら『甘い』と、その客はやたら喜んだんだよ」
飴がついていればそりゃ甘かろうと菊之助は思ったが、それはおいておいて今一度同じ事を問う。
「それでなぜに、梅ぼ志飴を酸っぺぇと言ったんだ」
「……そりゃ、知られたくなかったんだよ、唇が甘く艶やかな理由をさ。毎日、ちょいと口に含んだ梅ぼ志飴を口から出して唇に塗ってから紅をひいた。それが周りに知られたら真似されちまうじゃないか……」
菊之助と高久は何故か視線が合わさった。互いにこの女を少し憐れんでいることは、交わしたそれでなんとなく感じ取っていた。売りがなければ落ちていくばかりの人気。見てくれじゃ、若い女には勝てない。だからと言って、技だけでどうにかなるものではなかったのだろう。たまたま見つけた自分の"売り"を隠しておきたかったのは理解できた。
「秘密を知られないように禿にも梅ぼ志飴が酸っぱいと教えたのでございますね?」
静かに問う高久に、素直に頷く。
「どこでどう秘密が漏れるか分からないから、出来るだけ飴から人を遠ざけたかったのさ……」
それを聞いていた松一がごそごそと袂を漁って、包みを取り出した。菊之助はその取り出した和紙を覚えていた。榮太樓の飴が中に入ってる包みだ。松一は自分の手元のそれを見下ろしてゆっくりと話し出す。
「亀吉親分に、店の中にその若旦那って奴が居るかどうか確かめてくれって言われたんで、ついでに買って来やした。さくらだったかな? 梅野さんとこの禿。あの子に上げてやってくだせぇ」
そう言って、その包みから梅野に視線を移した。罰の悪そうな梅野が頷くと、松一の横に座していた高久がそっとその包みを取り上げて、梅野に近い菊之助へと手渡した。渡されたそれを菊之助は既に枯れかかっている梅野の前に置いてやった。
「もうお前は年季明けなのだろう? 最後くらい良い姉《ねえ》さんだったと言われてぇだろ? お前さんの勤めが幾日残ってるか知らねぇがよ、これから先ずっと吉原で頑張らなきゃならん、その──」
禿の名前が出てこない菊之助を横から高久が「『さくら』でございます」助け舟を出す。
「ああ、さくらか。さくらに飴くらい分けてやんな。……んで、その榮太樓の若旦那って奴は悪だくみはしておらなかったのだな?」
どちらの事に頷いたのかは分からぬが、梅野は口をきゅっと閉じたまま頷いた。梅野はちらりと高久を見た。見られた方もそれを感じて「なんで御座いましょう」と問う。
「あんた一体何者なのさ。そっちの偉そうなのは同心だろ? あんたはどう見たって岡っ引きには見えないが」
そこで偉そうなと言われた菊之助が鼻をふんと鳴らしてやった。
「おまえにゃ縁遠い人間だよ」
ざまあみやがれってんだ、と心で付け足すのを忘れない。
「私は日本橋越後屋の高久と申します。本日、訳あって同心様のお供を致しております」
自己紹介などしなくていいものを、根っからの商売人である、丁寧に頭まで下げて梅野に答えた。これに梅野が表情を一変させる。目がきらりと光って、舌舐めずりをしたように菊之助には見えた。枯れかけた木が見事にぴんっと勢いを増したようであった。
「梅野よ、そやつは客ではないぞ」
憮然とした菊之助が釘を刺すと、梅野は鋭く尖った視線を菊之助に向けたと思ったらぷいっと顔を背けた。
「同心様には用はございません。さっさとお帰りになったらようございます」
「なんだと!」
帰りたいのは山々だが、帰れと言われるのは癪であった。しかも「越後屋の旦那はお残りくださいまし。よろしければお相手いたします」と来たものだから、益々いらっとした。
「越後屋の高久は俺の連れだ。俺が帰ると行ったら帰るんだわ、阿呆が」
苦笑した高久はまぁまぁと、菊之助を宥めながら穏やかな表情で梅野に語りかける。
「吉原は手順を踏まねばなるますまい。いくら同心様が一緒に居ろうとも、手順を全く無視するというのは心苦しい。それにでございます。あなた様のいい人は今や風前の灯火ではございませんか。妾にしてやると言われそのおつもりだったので御座いましょう?」
梅野は面白くも無さそうに笑った。
「所詮偽者の戯言」
そこで上目遣いに変えて、高久に熱っぽい視線を投げて言う。
「私を哀れに思って、通っちゃくださいませんか? 私は貴方様のような話のわかる男こそ真の男と思っております」
腕を組んで成り行きを見ていた菊之助が、馬鹿馬鹿しい! と言葉を吐き捨てた。
「この高久は根っからの商売人なだけだ。お前の話に耳を傾けているのだって、単なる道義に過ぎん。辞めとけ、辞めとけ、高望みなんて一文にもなりゃせんよ」
「相手にされないからとそのような戯れ言を」
梅野は上目遣いをやめて顔をくいと上げて、菊之助を上から見下ろしたから、菊之助の目尻がひくついた。二人の間に剣呑な空気が漂う。
「おやめくださいまし。私は同心様のお供、たてるべき相手は私ではございません。そこをしっかり理解してからお話くださいませ」
話終えた高久ににっこり微笑んで見せた梅野が、わかりましたと口にする。
「まずはこちらの同心様をササッとおもてなしいたしましょう。それから、越後屋様の元へ」
「はっ! お前は全くわかっとらんな。呆れてここにいたら呆けてしまうわ。高久帰るぞ。ほら松一も」
話すことはもうないとばかりに菊之助が立ち上がり、それに追随する形で高久も立ち上がる。
「私はこちらの同心様が好きでございます。堅苦しさもなく、ざっくばらんなお人柄、素晴らしいではございませんか。そんなお人を侮辱なさるのは、どうかと思いますよ、梅野さん。女子は色香だけが魅力ではございますまい。吉原の女ならそれはよぉく存じておるはず」
高久の言葉を背で聞いた菊之助は、少しばかり頬が緩んだ。例え商売人の口車だとしても、なかなかに気分が良い事を言う。よって、後から並んだ高久についこんな事を言ってしまう位、悦に入っていた。
「嬉しいことを言ってくれるじゃぁないか。よし、俺の相棒はお前だと今日から言って回ろうじゃないか」
意外な事にいつも澄まし顔の高久がこの言葉に目を輝かせた。
「本当でございますか! 嬉しゅうございます。喜んで何処へでもお供いたします」
思った以上の食い付きの良さに、菊之助が気圧され「お、おう……」と、空返事をしたのだった。
*****
店を出た三人は大門へと向けて揃って歩き出した。しかし、菊之助がふと足を止める。
「ああ、そういや若旦那は会いたい女が居たんじゃないかい? 若い頃に熱を上げた女にさ」
問われた高久が静かに微笑んで首を振った。
「随分と時間が経ってしまいました。きっと会いに行っても……互いにがっかりするだけでございます。一目会っておきたいと思ったりもしますが、会ったところで何かしてやれるわけじゃございませんので」
「若い頃に入れあげたなら、梅野のように幾分年増であるだろうしな」
「ええ、それに年季明けが近かったりしても、私は囲ったりするようなことも出来ませんので……。うちの嫁は良い嫁ではございますが、少々悋気持ちゆえ」
小さく二回程頷いた菊之助が、会わないのが良かろうよ。と、小さく呟いた。
そして大人しくついて来ていた松一に懐から出した五匁銀《ごもんめぎん》を一枚渡した。
「旦那! これはちょいともらい過ぎ……」
松一が慌てるが、菊之助が手をひらひらとさせて良いから良いからと制する。
「お前の出した飴にはそれくらい価値があるってぇことだよ。今日は付き合わせて悪かったな。明日からはしっかり自分で稼げよ」そう言うと、お前はここで帰っていいと解放した。
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