二枚目同心 渡辺菊之助

今野綾

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憧れの人

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 江戸の頃、定町廻り同心と言えば粋な男と相場が決まっていた。だが同心、渡辺菊之助はどうにもその枠から外れてしまう男だった。何が残念かと言えば、顔は役者顔負けの二枚目なのである。
 しかし、何故か着物に負ける。粋な着こなしがとんと出来ぬ男だった。

 これを八丁堀界隈では七不思議の一つに加えるべきだと常々言われている。着物に怨みを抱いた霊でもついておるのだと、まことしやかに囁かれてもいた。

 この菊之助、口は悪いが人柄は悪くない。齢三十、最近貫禄も備わって、これでなかなか頼り甲斐のある同心だと慕われている。

 そんな菊之助には最近『相棒』ができた。
 成り行きで日本橋一、いや江戸一番の大店おおたなである三井越後屋の若旦那、高久を相棒として連れ回している。まぁ、連れ回すと言っても互いに多忙であるため、融通が効くときだけなのだが、これが案外評判がよい。根っからの商売人、しかも大店中の大店の若旦那である高久は人当たりが良いので、顔だけ立派な菊之助の足らないものを程好く補ってくれているのだ。高久が居てくれると話が早いと言うことで、始めは乗り気じゃなかった菊之助だが、今はすっかりこの『相棒』を頼りにしていた。




*****

 菊之助はぶすっと柿の木にくっついている蝉を睨みつけていた。蝉が鳴かなければ幾分暑さも和らぐのではないか。冬の静けさを持ってくれば、こんなに暑さを感じないような気がする。そんな風に思って縁側で、柿の木に着いた蝉の鳴き声に耐えていた。

「旦那は柿の木が好きだねぇ。そんなに柿が好きなら一層の事、一緒に木にぶら下がっておればよろしいんじゃねぇですか?」

 庭で掃き掃除をしていた御用聞き(岡っ引き)の亀吉が手をとめてそんなことを言ってくる。この亀吉、名前に偽りなしと言えるほど亀に似ていた。少々年季が入った顔は亀を通り越して、仙人にも似ているなどと菊之助は常日頃感じている。菊之助とは、親子ほど歳が離れている。親の代から使っている御用聞き、気心の知れた間柄であった。

 ちらりと亀吉の何時もの仙人顔を見ると、菊之助は盛大にため息を吐いた。

「俺は夏っていうのが嫌いでよ、なあんにもしていなくっても苛々しちまう。お前の仙人みてぇな顔を見たって、これっぽちもありがたいと思わないどころが、むかむかしてきちまうんだよ」

「なら、見なきゃいいじゃねぇですか」

「見たかないが、お前が話かけてくるからよ。って、お前の顔なんざまぁどうでもいいが……それよりそこの柿の木につく蝉を追っ払ってくれや」

 亀吉は振り返って、先ほどから一心に鳴いている蝉を見上げた。

「蝉は悪い事なんざいたしませんぜ? 可哀想じゃ、ねぇですか。せっかく悦にいってるところを」

 菊之助はしっしと手で追い払う仕草をしてみせて
「暑苦しいのは俺にとっちゃあ悪なんだよ」
と、早く追い払えとせっつく。
 
 亀吉はしようもないと言う風に眉毛を八の字にしてみせて、手にしていた箒を持ったまま、柿の木にいる蝉の方へと近寄って行った。蝉は亀吉が近寄って来たのを感じ取り、ぴたりと鳴くのをやめる。そして、亀吉が箒を振り上げたらジジっと不満の声を漏らして、青い空へと飛び立った。

 二人そろって空を見上げていたら、そこへ門の外から呼びかける声が聞こえ、亀吉は持っていた箒を柿の木に立てかけて、そちらの方にのんびりと歩いて行った。するとどういう訳か、蝉が戻ってきて再び同じところに止まったので、菊之助は舌打ちして腰を上げた。

 用意されていた草履に足を引っかけると、庭へと降りてそろりそろりと箒を取り上げた。戻って来るとは俺への挑戦だな。ならば、仕留めてやろう。箒を持ち上げ、振りかぶったところで
「おやおや、剣の稽古でございますか」
と、のんびりした声に勢いを削がれて振り返る。

「なんでぇ、高久じゃねぇか」

 暑さなど感じさせない澄まし顔、日本橋越後屋の若旦那高久が
「おはようございます。お伺いするには幾分 早《はよ》うございますが」
と何時もの穏やかな口調で言い、一旦言葉を切った。もちろん、後ろには付き添いの手代が主人よろしくなんとも涼やかな顔で控えている。

「旦那、高久さんのところに迷い人が居るらしいですぜ」

 亀吉はせっかちゆえ、越後屋の若旦那が息を吸い込むのを待っていられず、門で聞いた用件を勝手に話始めた。

「迷い人? またかよ」

 菊之助は眉根を寄せる。丁度一年ほど前に、迷子に振り回されて、永代橋から落ちて寝込んだのを思い出していた。崩落した橋から人が落ちぬように、人の流れを止めようと試みて、あまりうまくいかずにたくさんの死者を出したことも菊之助には苦い思い出となっていた。

「越後屋さんは日本橋の大店。人が集まりゃ、いろいろな困りごとも舞い込むってもんですぜ」

 亀吉の言葉に、そうだがよ……と、幾分拗ねて菊之助が箒を亀吉に手渡した。

    
 「お手を煩わせるのは申し訳なく思うのですが、その迷い人、ただ道に迷ったとかいう事ではなく、自分がどこのだれだかも分からぬ始末。私どもも困ってしまいまして。
それにちょっとばかり気になる物も」

 高久が本当にすまなそうな顔をすると、亀吉は同じような表情を浮かべてうんうんと頷いている。物腰の柔らかい若旦那にすっかり首ったけの亀吉である。それが気に入らない菊之助は、けっと一人密かに悪態をついた。

「まあ、いつも世話になっておるし行くとするか。ちょいと準備をしてくるから高久たちはここで待っておれ」

 不機嫌なまま一行に背を向けて、下りてきた縁側へ向かうと、その後をちょこちょこと亀吉がついて来る。そんな二人の後姿を見送った高久が連れの手代に一つ頷くと、再び鳴き始めた蝉を見上げていた。

  
 *****

 ぞろぞろと連れ立って八丁堀から日本橋へと歩いて行く。道中、菊之助だけ胸元を開けて少しでも涼しい風を入れ込もうとひどい恰好で歩いていく。

「そのように胸元を開けますと」

横を歩く高久が菊之助の着物がはだけた酷い有様を見下ろして、それでもにっこり微笑んで続ける。

「やはり二枚目でございますね」

「お、おう……あんまり褒めるなよ」

 嬉しいやら照れくさいやらで頬を掻く菊之助に後ろから会話を聞き取った亀吉がすかさず割り込んできた。

「旦那、それは相変わらず着物に負けて居るって話でしょうよ」

「うるさいわ!」

 二人のやりとりに苦笑しつつ、高久は首を傾げて菊之助の顔を覗き見る。ちょっとばかし近いものだから、菊之助の方は歩きながら顎を引いて顔を顰めた。

「あんまし見るんじゃねぇよ。俺は何度も言うがその気《け》はねぇよ? 女が好きなんだ、女が」

「存じております。ただ、もしかすると肌に近い色が似あったりするのかもと思ったりしたもので」

 そう言われて菊之助は肌に近い色の着流し姿の自分自身を思い描いでみた。そして、慌ててふるふると首を振る。

「こりゃいかん。着ているのに何も着ていないように見えるじゃないか。なにが滑稽って、裸に帯だけ巻いているように見えるのがいかん!」

 後ろからあはははっと亀吉が笑い声をあげた。そして
「そりゃいい。褌姿に帯を巻いた同心の旦那が歩いたら、そりゃ目を引く。みんな恐れをなして転げまわりやすよ」
などと言うから、菊之助が顔だけ振り返ってうるせーよと怒鳴った。

 大っぴらには笑わず、しかし可笑しそうにしている高久に、菊之助が話を変えようと迷い人について聞いてみた。

「さっき言っていたその迷い人はよ、今どんな様子なんだい? 何も思い出せずにぼうっと呆けてしまっておるとか?」

「ああ、いえ。今は寝ております。昨日の夕刻、日本橋の広小路に人が倒れていたってんで、店の者が見に行ったのでございます。そこで、そのお人が本当に空を向いて倒れて居りました。とにかくこれはいけないとなりまして、男数人で店まで運んで手当を……」

「手当?」

「はい。見つけた時は口から血を流しておりました。かち医者を急いで呼びましたら、頭に大きなたんこぶが出来ているという話でした」

 菊之助はここで腕を組んで首をひねる。

「たんこぶで口から血を流すのか? そう言うことはままあることなのか?」

「いえ、血はどこから来たのかわかりませぬ。運び込んだとき、口の周りが血だらけだったので拭きましたところ、そのあとは出て来ませんでしたし、やはり医者の話じゃたんこぶが出来て口から血を吐くって言うのは聞いたことがないと」

 だよなぁと菊之助は首を捻りながら、今日も賑わう日本橋の太鼓橋を渡って行く。橋の上は川から吹いて来る風で涼しく、先ほどからずっと眉間に出ていた皺がスッと引いていった。


「まあ、頭にたんこぶを拵えているなら、自分のことがわからなくなっていてもおかしくねぇ。それに、そういうことは時間が経てば大抵ぽっと己のことを思い出すって言うしな」

 パタパタと着物の裾が風にはためき、楽しそうに揺れていた。前を行く金魚売のたらいから飛び出した水飛沫が大層涼しそうに見えた。

「そ奴は、何か言ってないのか? 名前はわからんでも、誰それに切られたとか殴られたとか」

 菊之助の問いに、高久が残念そうに首を振った。

「一度目を覚ましたのですが、どこの誰なのかという問いに『分からねぇ』と呟いたっきり、頭から布団を被りまた眠りに落ちてしまったのですよ。ひどく怯えた目をしておりまして、それは気の毒なくらいで……だから、起きるまでとにかく寝かせておこうと言う話になったのでございます」

「怯えていたのか。うーん、そりゃまた謎が増えたな。まあ、越後屋に行ってみて姿を改めてみようじゃないか。亀吉は顔がひれぇからよ、見ればどこぞの人間かわかるかもしれねぇしな」

 橋を渡り切ると先ほどの金魚売はさっさと道を逸れていってしまったので、菊之助は橋の袂で休んでいるしのぶ(こけ玉)売りに心惹かれて眺めつつ歩みを進めていった。担ぎ屋台にぶら下げている風鈴がからんころんとなんとも耳に心地良い。

「あー旦那。またそうやって西瓜の断売たちうりなんかにうつつを抜かして、朝飯食ったばかりじゃねぇですか」

 後ろから飛んで来た亀吉の声でしのぶ売りの横に西瓜の断売が居ることを知って、確かに旨そうだと思いつつ
「お前じゃあるめぇし」
とぶつぶつ。
しかし、気が付いてしまうと風鈴のからんころんの音よりも
「すいかんやぁ、すいかん」
という呼び声の方が大きく聞こえるようになるから不思議だ。

「おめぇ、西瓜は好きかい?」

「もちろんでございます。乾いた喉を潤すのにはもってこいでございますし」

 高久の返事を聞いて、菊之助はくるりと頭を回転させて亀吉の方へ向く。

「って言うことだからよ、あの西瓜売りを越後屋へ連れてまいれ。持ってる分はありったけ買ってやるって言っておけよ」

「おお! こりゃあいい。持って運ぶのを手伝いますよ。一人で運ぶよりずうっと早い」

 亀吉が言うと、高久も振り返って自分の手代に
「じゃ、お前も手伝ってさしあげなさい」
と声を掛けた。

 西瓜売りを連れた一行が越後屋に着くと、店はもう商いを始めていた。店に居た高久の父親、越後屋の旦那に挨拶を済ませると、いつものように店を通過して、中庭に向かう。

「今日は上がっていただかないと……なんせ病人なのでまだ床に」

 いつも座敷に上がりたがらない菊之助に申し訳なさそうに高久が言い、菊之助はなんでもにように肩を上げた。

「俺だって、床に臥せってる者を起きて来いとは言わねぇよ。高久が恐縮することじゃねぇ」

 それを予測して、足元はきちんと足袋を履いていた。夏だから本当は素足が良かったが、亀吉に注意されて渋々履いて来たってだけなのだが。

 二人は申し合わせたように縁側から廊下へと上がった。すると控えていた女中が奥の座敷の障子をすすっと開ける。

「まだ寝ているのかい?」

 女中に高久が問うと、女はずうっととだけ答えた。

「昨日の夕刻からほぼ寝ております。そろそろ起きてもいいと思うのですが」

  高久が部屋の前まで来ると、体を引いて菊之助に道を譲った。菊之助は仕切られた六畳ほどの部屋の真ん中で寝ている男の元へと歩みを進めていく。お盆に置かれた桶には水が張られており、替えの手拭いが桶にはかかっていた。      
       
「熱がございまして。頭を冷やしております」

 高久が菊之助の視線を一緒に追って、桶の説明をする。もちろん説明がなくても、男の額には手拭いが乗せてあるのでそれでわかるのだが、その手拭いは幾分ずれ落ちていた。それもそのはず、男は顔を横に向けて眠っている。

「頭の後ろにこぶがあるので、痛いらしく……横を向いてしか眠れないようでございます」

 逐一、高久が説明をしてくれるので菊之助は頷いて、男の横に胡坐を掻いて座った。

「顔色が冴えねぇなぁ。でもまあ、若そうだな」

 顔は青いが、肌はぱりっと張っているし、皺もなさそうだ。菊之助の声に目尻がぴくぴくと揺れて反応を見せたが、目を開けなかった。

「ええ、若いと思われます。うちの手代と肌の張りようは同じくらいでございますので、二十歳前後でしょうか」

「今日連れていたあれか?」

「ええ、あれが二十一になったところでございます」

 西瓜売りと楽しそうに談笑していた亀吉の横でニコニコとしていた男の顔を思い出してみた。けれど、亀吉が仙人のようなしわしわの男なので、並んだ姿を思い出しても参考にはならず、顎をさすってもう一度男の様子をうかがってみた。

 何の気なしに、菊之助がぺらりと上等な布団をめくると、清潔な着物を身に着けていた。

「綺麗なものに着替えさせてやったのかい?」

「はい。倒れてしまって汚れておりましたので。おい、お前。ちょいとこの人が着ていたものをここへ持って来なさい」

 廊下で待っていた女中に高久が言うと、女はすぐに立ち上がってそれを取りにいった。遠ざかって行く足音を聞きながら、菊之助は男のたんこぶを覗き込んだ。なるほど、大きく腫れている。これは痛そうだと顔を引いたところで、先ほどの女がまたパタパタと廊下を戻って来た。

 振り返って両手を上に向けた高久の手の上に、女が持ってきた着物を乗せて、直ぐに廊下へ辞した。高久は着物を掲げ持ったまま膝立ちで菊之助の横に着くと、その着物を菊之助へと見せる。着物の上には黒表紙の本『東海道中膝栗毛』と、手拭いが乗っていた。この手拭いが菊之助の目を引いた。

「こりゃ、すごい血じゃねぇか」

 トンボの絵柄のどこにでもありそうな手拭いにはかなりの血が付いており、時間が経って黒ずんでしまっている。菊之助が、本と手拭いをどかして着物を見ると待っていたように
「着物は松坂木綿の縞お仕着しきせ。良くもなく悪くもなくと言った具合です。察するにどこかの手代でございましょう」
と、高久が口にした。

 菊之助もそう思うし、なにより越後屋の若旦那が言うのだから確かだろうと、持っていた着物を畳の上に置いた。

 「旦那、西瓜を持ってきやしたよ」

 丁度良く亀吉と手代が西瓜を持ってやって来たので
「ああ、俺たちの分以外は店の者で食いな。足らない分はさっきの西瓜売りに明日持って来いと伝えておきなよ」
と菊之助は帯に引っかけてある根付けを引っ張りあげて財布を出した。そして、かねを数えて、手を出した亀吉のところへぽいと置く。亀吉はそれを受け取りながら、畳の上に置かれた着物の方を見ていた。

「んん、こりゃ労咳かい? こんだけ血を吐くとなると……こりゃあ悪いねぇ」

 亀吉は男の顔を見て仙人顔を曇らせたが、高久は違うと思われますよ。と、返した。

「寝込む前も、寝込んでからも咳が止まらないのが労咳でございますよね? 苦しくて眠れやしないのだと聞いております。しかし、このお人は一度も咳をしておりませんし、この通りすやすやと眠っております」

「じゃあ、西瓜でも食ったかな? 食い方が下手でしこたま汁をダラダラこぼしたとか」

「亀吉よ、くだらねぇこと言ってねぇで、西瓜売りに金を持って行ってやんな」

「だって、旦那。この血の跡、量は多いけどなんだか水ぺぇ感じがしやせんか?」

 いいから、払いに行けってんだよ。と、追い払われて亀吉は渋々腰を上げて部屋を出て行った。そんな風に言って追い払った菊之助も、実際手拭いの血液をもう一度よく見てみたら、亀吉の言い分も分からなくないと感じていた。

「これはこやつの血なのか……口に血がついていたならよ、ほら蛇に噛まれた奴を見かけて、毒を吸い出したとか」

 話し声に気が付いたのか、全員の見ている前でその男がもぞもぞしだし、ぐいっと寝返りを打ったものだから、自ら痛みで
「ひゃ!」
と跳び起きた。

「おいおい、目覚めが悪そうな起き方だな」

「一回りして、ある意味しっかり目が覚めたと言ってもいいような……」

「高久にしちゃ、とげのある言い方だな」

 高久はほんのり笑いを受かべながら、起き上がった男の背を支えてやった。そういうところはやはり優しいと言うか気を使う男なのだが、一応常人と同じようにちょっとばかり冗談を言ったり皮肉を言ったりする頭もあるようだ。

「さてと、おめぇ腹は減ってねぇか? ひとまず、西瓜でもどうだ? 喉の渇きも潤うぞ」

 菊之助が言うと、越後屋の手代がさっとお盆に乗せた西瓜を男の前を持ってきた。男はまじまじとそれを見下ろしてから、頭を一つ下げて一個取り上げる。そして。水で冷やされていた冷たい西瓜にがぶりと噛り付く。

「何か食べ物を持ってこさせましょう。おい、お腹にたまるようなものを持っておいで」

 高久が女中に声を掛けている間、菊之助も西瓜に手を伸ばした。男同様がぶりと食らいつけば、甘い汁がじゅるっと口の中を満たしていく。満面の笑みを浮かべた菊之助を見て、なぜか高久も嬉しそうな顔をする。だから菊之助はちょっとばかり表情を隠して能面にでもなった気分で西瓜をかじっていく。

「んで、お前は一体どこの誰なんだ? ちったぁ思い出したかい?」

 モグモグ噛んではごくりと飲み干して、合間に一応聞いてみたりする。そうすると相手も同じように噛んでは飲み込んで、首を捻った。

「ああ……ええっと……生まれは駿州府中……」

 お。と小さく漏らして菊之助が西瓜を口から離し、横にいた高久もじっと耳をそばだてる。

「どこへ行こうとしてたんだったか……いや待てよ、住まいは神田の八丁堀だったような?」

「住まいより名前を言え、名前だ」

 菊之助がじれったそうに促すと、名前……と呟いてしばし考え込む。高久が固唾を飲んで次の言葉を待つし、菊之助は待っているのが辛くて足がゆらゆらと揺れ始める。

「あ、旦那! 先に食っちまうとはひでぇや。しかも、一番甘いところから食ってるじゃねぇか」

 空気を読まない亀吉が、部屋に入って来るなり開口一番西瓜について菊之助を責め立てる。菊之助はガクッと頭を下げてから、一気に面を上げて亀吉を睨みつける。

「こやつが今思い出してるところなのに、お前ってやつは! 入って来る時はな、どんな感じなのか空気を読んでから話出せよ」

 亀吉はどこ吹く風でお盆から西瓜を取り上げると、まずは高久に手渡して、その後自分の分をとってかぶりついた。

「で、何か思い出したんですかい?」

 どうして咀嚼している姿まで亀に似るのか、などと思っていると、高久がおっとりとした口調ではい。と返事をして手に西瓜を持ったまま続ける。

「生まれは駿州府中。今の住まいは神田の八丁堀と」

「名はなんと?」

 赤い部分を食べきった西瓜をお盆に戻すと菊之助が「おめぇがそこで空気を読まねぇで入って来ちまうから答えてねぇよ!」とけんか腰。それでも亀吉はむしゃむしゃとまるで亀そのものと言った具合で西瓜を食べていく。

「これはいけない。また顔色が……」

 高久が迷い人の顔色がまた青く変わっているのに気が付いて、男が持っていた西瓜をとって自分のものと共に盆の上に置き
「吐き気があったりすると、よくないと言う話だよ。また医者を呼ぼうか」
と、男に問いかける。

「俺、どこかで恐ろしい思いをした気がしやす。それを思い出そうとすると」

 そう言うと、小さくぶるっと震えあがって見せた。

 菊之助が恐ろしい思いねぇと呟く。

「ってことはだ。お前の頭のこぶは倒れて出来たんじゃなくて、誰かに殴られたとかしたってことか?」

「いや……殴られた覚えはねぇですけど。なんかこう、痛い思いはしたような?」

 高久が困ったように布団の上で座っている男の背後から聞く。

「一体、どこまで覚えて居るのか……分かっていることを言ってもらわないと、こちらも謎ばかりが増えてしまいます」

 男は目を閉じて、眉間に力を入れてから口を開く。

「身の毛がよだつような怖い思いはしやしたが、それがどんなことだったのかはすっぽり抜け落ちちまっていて……なんかこう、ふらふらと足元が覚束なかったけど歩いておりやした。で、気が付いたらこちらで世話になっておったという具合で」

 無遠慮にがつがつ西瓜を食べていた亀吉が顔を上げる。

「生まれは駿州府中。今の住まいは神田の八丁堀ってわかったんなら、俺がちょっくら行ってあちこち聞いて歩きやしょう」

「おう、寝ぼけてうちに行くんじゃねぇぞ。神田八丁堀だとよ」

「旦那じゃあるめぇし、わかってるって話ですよ」

 菊之助のからかいをささっと交わして亀吉が西瓜の最後の一口を口に入れ込んだ。西瓜の皮を持ったままの亀吉が男の顔を月代から眉、鼻、目と頭に叩き込むように視線を下げていく。

「月代は剃りたてだな。眉は薄くて横に真っ直ぐ、目も横に細い、目の横に黒子。黒子は右だな。言葉も特段気になるような訛りもねぇ」

 よし。と掛け声をかけて立ち上がると、皮だけになった西瓜をお盆に戻してお盆の横に置いてあった手拭いで手を拭いた。

「んじゃ、旦那。俺は一足先にでますぜ」

「ああ、気ぃ付けていけよ」

「日が暮れる前に八丁堀に行きやす」

「はいよ」

 出て行こうとする亀吉に、高久から目配せされた手代が駆け寄って、裾で隠してもぞもぞとやり取りをする。それを横目で見ていた菊之助が高久に向けて
「亀吉にはやらんでもいいぞ。俺も渡したりしてるんだから」
と言うと、高久はただ笑って頷いた。それは分かったと言うよりも、知っていると言う頷きだと菊之助も理解していた。

 一時、迷い人と二人きりになった菊之助が開けた着物を少し整えながら、んーと唸って男を眺める。すると外からまた蝉の鳴き声が。

「ああああああ、うるせぇ。おい、誰か蝉を追い払ってくれ!」

 思わず出た言葉だったのに、目の前の男が「へい」と反射的に返事をした。菊之助も驚いたが、男も自分が思わず返事をしたことに驚いたようで、互いに目を見張って顔を見合っていた。

「あの……思わず返事をしちまいました」

「だな。おめぇ、どこかの店者だな。って覚えちゃいえねぇんだろうけどよ」

「そう言われると、どこかの店で働いて気がしてきやしたが」

 男が話していると言うのに、蝉がみーんみんみんと邪魔するから、菊之助が顔に怒りを浮かべて立ち上がる。そこへ女中が冷や飯と茶を持ってやってきた。菊之助は女に目配せして、それを出してやるように合図すると、そのまま縁側に立った。
 
 越後屋の中庭にも立派な柿の木があり、そこで蝉が必死になって鳴いている。

「追い払いましょうか?」

 戻って来た高久が菊之助に肩を並べるとそっと言った。菊之助は騒いでいる蝉を見つめたまま腕を組む。

「いや、いいよ。俺はそろそろ戻るとするから。明日、もう一度来るから男を頼むよ」

「人をつけておきますので、何か思い出したことがあった場合には……直ぐに報告いたしますか?」

「いや、急いだって仕方ねぇし……明日来た時にまとめて聞くことにするよ」

 高久はそれには、はいと直ぐに返事をしたのに、身じろぎせず庭に目を向けたまま黙っていた。菊之助はそれが気になって、隣に目をやると、高久がチラチラと菊之助を覗っていることを知って、なんだよ。と、問う。

「ええ……差しでがましいとは思ったのですが、私が菊之助様の……お召し物をご用意させて頂いてもよろしいでしょうか?」

「は?」

「いえいえ、あの今着ていらっしゃる物も良い品でございます。ただ、もっとお似合いになるものを私としては着ていただきたいと……」

「それがべらぼうに涼しいってんならいいが。あ、肌と同じ色とか御免だよ? それじゃ着る意味がねぇってもんだろ」

 今だって比較的肌の色に近い黄八丈きはちじょうの格子柄だ。本当のところ菊之助は黒の方が好きなのだが、夏場の黒は暑すぎて着ていられないのだ。

「もっと薄い黄を探してまいります。柄がないものでもよろしいかと」

「いや、勘弁してくれ。お前なんだって俺の着るものにああだこうだと口を出すんだ」

 嫌そうな顔の菊之助に高久は真剣そのものの顔で、その手をがっしり握り込んだ。握られた方の菊之助は驚いて顔を引いたし、少し離れてみていた女中ですら目を丸くしているのが、菊之助から見えた。

「同心様は私の憧れの人でございます。そのままでも憧れのお人であることには違いありませんが、出来ればこの良さを世間様にも知らしめたくてうずうずするのでございますよ!
『着物を着たら三枚目』なんて言われたくないのでございます。中身もそりゃ立派な同心様が、見てくれもこんなにも素晴らしいのは……」

「ああああ、分かったから手を離せな。お前頭でも打ったんじゃねぇのか? それとも暑さでどうかしちまったんじゃあんめ?」

 褒められるのは嬉しいが、過剰な賛美は体がむず痒くていけない。菊之助は高久の手を振りほどいて、同じことにならないように腕を組んで手をしまい込んだ。

「良いか、高久。間違っても俺に着物を拵えようとするなよ? 俺はな、三枚目でいいんだよ。それで損してるとも思わんし、二枚目だから得をするってもんでもなかろうよ」

「しかし、生来持って生まれた二枚目のお顔が勿体のうございます。肌をさらけ出した褌姿は掛け軸にして拝みたいとすら思ってしまいますのに」

 菊之助は狼狽して、くるっと高久に背を向けた。高久は嫌いじゃないが、こういうのは少々困る。慕われるのは悪い気がしないが……心酔されても、そんなに立派な人間じゃねぇと体がどうしても受け付けないのだ。

「掛け軸になんかしたら金輪際、ここには立ち寄らねぇからな!」

 口調は強いが、逃げ腰で草履を履くとそそくさと越後屋を後にする菊之助だった。

 中庭を通り過ぎていった菊之助を待っていたように、鳴くのを休んでいた蝉がまたけたたましく騒ぎ出す。菊之助を見送って振り返った高久が、成り行きを並んで座って見ていた女中と迷い人に笑顔を見せて言うのだった。

「同心様がうるさいと言うと蝉も遠慮するのだねぇ」

 満面の笑みの高久に二人は少しだけ目を泳がせて、女中だけ小さく頷いた。
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赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

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