二枚目同心 渡辺菊之助

今野綾

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憧れの人

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 朝の身支度を終えて、昨日約束した通り日本橋の越後屋へ向かおうとしている時だった。
いつものように小走り気味に亀吉がやって来て「おはようごぜぇやす」と今日は菊之助の屋敷の中にまで入って来た。

「亀吉、今朝も早いなぁ。亀の癖に動きが速いとは珍しい。見世物小屋で一儲けできるぞ」

 菊之助は嫁のお菊に羽織を着せてもらおうとしているところだった。菊之助に紋付の羽織を着せようとしていたお内儀さんの手から、それを半ば強引に亀吉は受け取って、着るのに手を貸した。お内儀さんの方もいつものことなので、咎めることもない。

 菊之助は顔を後ろに向けて二人の行動を確認しながら、袖に腕を通す。それから、お内儀さんから刀を貰い、かんぬき差しにすると「ありがとよ。亀吉が話したくて仕方ねぇらしいから、もういいよ」
と声を掛けた。

「では、お約束は守ってくださいね。おもんはそれはそれは楽しみにしておりますので」

「ああ、帰りにな」

 二つ返事なのはいいが、菊之助の返事には重みがない。要するに信用ならないほど軽かった。

 菊之助とお内儀さんのやり取りを待って、亀吉はやっと自分の番だと言わんばかりの勢いで口を開いた。

「聞いてくだせぇ、旦那。俺は昨日一日かけて相当数の長屋と店を回ったんですよ。
ええ、そりゃもう足も腰も痛いってもんじゃございやせん。特に腰は痛くて痛くて、帰ってから女房にお灸をしてもらわなきゃならないぐらいでさぁ。それなのに、越後屋の迷い人らしき人を見つけることが出来なかったんです。人が居なくなったと言う話も全く入って来ちゃくれないってんで、今日はもうちょっと念入りに聞き込みをしようと思ってとにかく報告だけ来た次第なんで。

 それにしても、お内儀さんのあれはなんなんで? おもんちゃんは何を楽しみにしてるっていうんですかい? また、出来もしない約束なんざして、おもんちゃんを怒らせたに違いねぇ。女の子はそれじゃなくても父親に懐かないって言うのに」

 一気に捲し立てた亀吉の話が途切れると菊之助は大きなため息を吐いた。

「いいか、亀吉よ。せっかちなのはもう仕方ねぇ。今更変えろって言ったって、お前の歳だ、そうそう変われんだろ? ならば、一回に話すことは一つの事柄までって決めねぇか? 聞いている方も一体何を聞かれているんだか分からなくなっちまうよ」

 そこまで言うと、菊之助は一本指を立てて亀吉に見せる。

「まず一つ目。話は分かった。俺は越後屋に行って、さらに思い出したことがないか聞いてみることにするよ」

そして、もう一本指を追加する。

「おもんは越後屋に行くなら土産が欲しいと言うんだよ。巾着が売ってるはずだからそれを買ってこいとな。そろそろ新しいのが欲しいらしいよ。でも、俺には選んでくれるなって念を押しやがる」

「そりゃそうですぜ。今、江戸で一番流行ってる物を高久さんに選んで貰うのがいいや。旦那は趣味が悪りぃから」

 亀吉が菊之助の腰帯にぶら下がっている根付を指さして言う。小さいながらも全く可愛げのない生き物。特にだらりと中途半端に伸びた鼻が良くない。

「そんななんだか分からん生き物の根付、買うのは旦那くれぇなもんですぜ? なんですかそれは」

「これか? これは獏だとよ」

「獏ねぇ。これっぽっちも良くねぇと思いやすよ?」

「余計なお世話だ。それにこれは悪い夢を食ってくれるって伝説の獏だぞ。いいじゃねぇか、世の中楽しい事ばかりってな」

 それじゃなくたって、旦那の頭の中は花が咲いてる癖に。と、亀吉が小声で呟いて、気を取り直し
「じゃあ、俺はまた聞き込みに行ってきやすよ」
と、さっさと部屋を出て行ってしまった。

 せわしない亀吉から自分の帯に着いた獏の根付を見下ろした。瀬戸物の親指の爪ほどの大きさしかない。菊之助はそれをひっくり返したりして、よくよく見て思う。

 可愛いじゃねぇか。このちぃとばかり珍しい鼻がいいのによぉ。俺だって獏なんざ居るとは思わねぇがよ、この愛くるしい顔に惹かれて手に入れたって言うのに、あやつめ。

 亀吉は居ないならと中間を連れて日本橋に赴いた。今日は物売りなんかに目もくれず、さっさと歩いたおかげですぐに越後屋に着いた。そこで待ちかねていた高久と落ち合って、そうそうに迷い人の元へ案内された。

「そうそう、西瓜をありがとうございました。皆、喜んでおりました。さすが菊之助様でございます。普段気になどされておらぬようなのに、何かの時はしっかり下々まで気を使ってくださる」

「ああ、たまにはな。元は越後屋の金だ。たまには還元せねば。それより、やつは何か思い出したって?」

 高久と顔を会わせて直ぐ「朗報でございます」と言うので、菊之助は件の男が何かを思い出したのだと思っていた。それで察したらしく、高久は申し訳なさそうな顔をして、手を横に振った。

「ああ、いえ思い出したことはありませんが……起きられるようになりまして、今縁側に出てくるように言ってあります。あ、ほらご覧くださいまし」

 中庭に並んで入って行くと、確かに昨日の男が縁側でちょこんと座して待っていた。遠目でも昨日よりは顔色も良くなってしゃんとしている。庭に遊びに来ている雀を目でしっかりと追っているあたり、頭の怪我も悪くはなさそうだと、菊之助は胸を撫でおろす。残すは身元を何とか割り出して、家に返してしまえば一件落着な訳だ。

 男は中庭に入って来た菊之助に気が付くと立ち上がろうとした。それを菊之助が
「ああ、良いってことよ。そのまま座って居ろ」
と、手で制したので、男はその場で頭を深く下げた。

「気分はどうだ? ちょいと調べたんだが、頭を打っていつまでもがんがん割れるように痛いとか、気持ちが悪いとか、そう言うのは良くないんだそうだ」

 昨夜、家にあった病のあれこれが書かれている病草紙を読んでみたのだ。おかげで今日は目が疲れてやたらと肩が凝っていた。

「そういうことはございやせん。こぶも誤って触れたりしなければ、痛くもかゆくもありやせん」

 男は縁側に腰を下ろす菊之助の為に腰を浮かせて、少しずれながらしっかりと受け答えをする。そう言うのを聞いていても、確かにこぶは記憶を飛ばした以外には悪さをしてないように感じた。

 高久は縁側から中へと上がり、人を呼んでお茶を出すように指示をしてから、菊之助の横へと腰を下ろした。それを待って、菊之助が男に問う。

「そうそう、昨日一緒に居た亀みたいな男。あれがお前の言う神田の八丁堀に行って、お前を知っている人間を探し出そうとしておるんだが、誰一人知っているものがないそうだ。あれはやけになって今日もそっちの方で方々訪ねて歩くと出かけちまった」

「見つかりませんでしたか……それは亀吉親分さんは大変でございますね」

 高久は縁側から見える青空を見つめ、表情を曇らせる。この暑さ、亀吉親分さんが心配です。と、誰に聞かせるでもなく呟いていた。つられて菊之助も空を見上げたが、迷い人も一緒になって見上げようとして
「いてっぇ」
と声を上げた。どうやら、見上げた時にこぶを刺激したらしい。

「あ! なんか思い出しやした。俺の名前は鼻之助だった気ぃがしやす!」

「それは吉報です。漢字はどう書くのです?」

「漢字……ええっと……顔についてるこの鼻と、之はこうでしょう、助は人助けの助だったはず」

 鼻之助と名乗った迷い人は畳に指で文字を書いて見せながらその漢字を説明していく。菊之助は腕を組んでその漢字を追いながら
「けったいな名前だな、おい」
と、本人を前にして口に出して言うから
「これなら探しやすいかと思われます」
と、高久がすかさず良い解釈を付け加えていく。

 
「……あれ? 俺は旅役者だったかな?」

 急に次々思い出したのか、鼻之介がまたも新しいことを言い出した。しかしそれには菊之助も高久も首を傾げずにはいられない。

「だっておめぇ、昨日は店者だった気がするって言っておったじゃねぇか。俺の言ったことにも反応したりしてよ」

「着ていた物も旅人とは到底思えないものでございましたものねぇ」

「まあ、どこかに興行しに来てふらふらしていたってんなら、あの姿でもおかしくねぇけどな……」

「どのみち、そうなると亀吉親分さんのやっていることは見当違いと言うことになってしまいますね……うちの手代に親分さんを探しに行かせましょう」

 菊之助は雲のない澄み切った空を見上げて
「そうしてくれるかい? すまんねぇ」
と、高久の提案を受けて亀吉を呼び戻すことにした。

 そこへひょっこりと、貸本屋を営む松一が中庭に顔を覗かせた。変わらぬひょろりとした頼りない体に背にはどっさりと本を担ぎ、頭からかぶっていた手拭いを取りながらぺこぺこと頭を下げて近寄って来る。

 この松一、前に亀吉に事件を持ってきた男だった。ちょっと気の弱いところはあるが、なんとも愛嬌があるので高久がそれ縁で、越後屋で働いている者たちの為に定期的に本を借りていると言う話を菊之助も耳にはさんでいた。

「おう、元気にしておったか? 商いは順調らしいじゃねぇか。松一」

 菊之助が声を掛けると
「同心の旦那さんも、いろいろご活躍のようで。聞きやした、永代橋の活躍。俺もなんだか鼻がたけぇや」
と、痩せた大根みたいな顔を嬉しそうに綻ばせた。

 高久が立ち上がり縁側の端を手で翳して荷物を置くように促すと、またぺこぺこと頭を下げつつ、背にあった荷物を置いた。

「近くを通ったら同心の旦那が越後屋さんに入って行くのを見たって言う知り合いがおりやして、久しぶりにお会いしたいと思って来たんで」

「なんでぇ、商いをしに来たんじゃねぇのかよ」

「越後屋さんにはもう本は持って来やしたから。ひと月で四十ほど置いていく約束なんで」

「そりゃ随分な量だな。まあ、店の者が多いしな。しかし、いい取引先を見つけたじゃねぇか」

 女中にお茶を運んでくるように言った高久が戻ってきて、腰を下ろしながらいえいえ。と、話に加わった。

「それが菊之助様。松一の考えた方法はこちらとしてもとてもいい話なんでございますよ。きっかり四十冊、ちょっとばかり手あかがついたようなものを松一さんが持ってきてくれるんでございます。値は相場の半分ほどでございます」

「半分!? なんでよ? 越後屋は儲かっておるんだから、もっと金をとったらいいじゃねぇか」

 驚く菊之助に松一が首を振った。なんとも情けない顔に見せるのは、生まれついた時から眉が八の字に下がっているせいなのかもしれない。

「新しいのは借り手が付きやすいのでごぜぇます。しかしながら、日が経ったものは流行りも過ぎて、しかも手あか付き。そうなるってぇと、なかなか皆も手を伸ばしちゃくれません。だったらちょい流行りが落ち着いたものとやや年季の入った物を半々にして、少しばかり値を下げて貸す。これが一番俺としては損がねぇってことなんですよ」

 続けて
「まあ、半値は言い過ぎですぜ、越後屋の旦那」
と、松一が言うと、高久はただ柔らかく頷くだけだった。

「大方の人は流行り物を借りたがる。だから、それを待ってもらうにも古い物でつなぎとめておきてぇってこともありやす」

「こちらとしても、自分じゃ選ばないような物まで持ってきてくれますので、案外楽しめたりするのでございますよ」

  楽しそうに顔を見合わせる二人を眺めながら、なるほどねぇと菊之助は呟いて、そろそろと進んできた女中の方に顔を上げた。四人分のお茶と鶏卵の形にそっくりなお菓子をお盆に乗せてやってきた。それを銘々の前に出すと、いそいそと女は下がって行く。

 松一は自分の目の前に出されたお菓子を珍しそうに見つつ、ちらちらと合間を縫っては迷い人鼻之助を覗っていた。それはそうだ、面識もないので興味津々である。

「松一、そいつは鼻之助だ。おい、高久。これはもしかすると"よね饅頭"か?」

 菊之助はさっさと鼻之助を紹介すると、美味しそうな饅頭について高久に尋ねた。そして、横に並ぶ湯呑の中身にも気が付いて、おぉと声が漏れた。

「むぎ湯か!」

「はい。暑気あたりにならないそうなので、むぎ湯売りから買って井戸水で冷やしておきました。おいしゅうございますよ? どうぞどうぞ」

 菊之助は嬉々として湯呑を取り上げる。すると確かに湯呑もひんやりとしていて、それだけで天にも昇る気持ちになった。そんな様子を我がことのように嬉しそうな顔で微笑んだ高久は、話を聞いていた二人にも
「どうぞ。せっかくですから、冷たいうちに飲みましょう」
と、勧めた。

 横でぐびぐびと飲み干した菊之助がぷはっと一息つく。そして今度はよね饅頭に手を伸ばす。米粉で作った皮で小豆餡を包んだもので、浅草名物であった。それをパクっと口に頬張れば、再び菊之助の顔がでれっと溶け出さんばかりに表情が崩れた。

「いいねぇ。こりゃぁ、旨いわ」

 松一も遠慮がちに自分の湯呑に手を伸ばす。そしてそれを両手で包むと一旦額のあたりで掲げ、頭を下げてから口をつけた。そこからは一気にごくごくと喉を鳴らして飲んでいく。

「旨くて止まらないよな」

 菊之助は揺れる喉元を見ながら、同じ調子で顎を揺らしていた。

 松一は飲み干してしまった湯呑の底を名残惜しそうに見つめてから、もう一度鼻之助に視線を投げていた。横からその様子を見ていた菊之助が今度こそ落ち着いて、事情を話してやろうと口を開いた。

「こいつはな、日本橋で大きなたんこぶ拵えて、ぶっ倒れていたのよ。目が覚めたら何もかも忘れておって、名前も帰る場所もわからねぇってな。持ち物は血が付いた手拭いと本、それに銭を少しだったか……。
しかし、昨日忘れていた己の記憶が戻って来たって言ってな『駿州府中の生まれで今の住まいは神田の八丁堀。名はわからん』と口にした。だが今朝は『名前は鼻之助。旅役者だったかもしれねぇ』と、来たもんだ。でもよ、見た目はどうも旅役者って感じじゃねぇってんで、思い出した話もどこまで本当かわかりゃしねぇ」

 黙って聞いていた松一が
「鼻之助……」
と呟いてからこめかみをぐりぐりと押す仕草をしだす。高久がすぐさま
「聞き覚えが?」
と問うと
「一回聞いたらなかなか忘れねぇ名前ではあるわな」
と、菊之助も松一の動きに注視する。当の鼻之助も松一の答えを待って、固唾を飲んでいた。

「あ! 思い出しやした!」

 閃いた途端に立ち上がって、自分の荷物の元へと松一が駆け寄って行く。大きな荷物はどでかい風呂敷に包まれていて、それをもどかしそうに解く。すると、出てきた本をこれでもねぇ、これでもねぇと呟いて描き分けていく松一。そしてついに一冊の本に辿り着き、それを手に転がるように戻って来た。

「これを!」

 差し出されたのは黒表紙の左に白帯で『東海道中膝栗毛』と記してあった。そう、今巷で大流行している紀行物であったが、これは今までのそれとは比べ物にならないほど面白いのだと言う。噂は菊之助でも知っていた。ただ、江戸から出ることなんざありゃしないと思っている菊之助にとって、紀行文は読んでみたいと思うようなものではなく、手に取ることも今まで考えもしなかった。

 渡された本を持ったまま菊之助と高久は互いの顔を見た。そういえば、目の前の迷い人もこの本を持っていた。菊之助は渡されたそれをぺらぺらと見るともなしに捲りながら
「これがなんだってんだよ?」
と、松一に聞く。

「へい。旅役者の鼻之助は、そこに出てくる喜多八のことでごぜえやす。そういや、その喜多八、江戸を出る前は神田の八丁堀に住んで居たと書いてあったような」

 高久が読む気のなさそうな菊之助から本を譲りうけると「探してみます」と猛烈な勢いで文字を追い始めた。

「おめぇは読んだってことかい? 松一よ」

「一応こういう商いでごぜえやす。貸し出す前にできるだけ読んでおくんですよ。『どんなのがおすすめだい?』と聞かれたり、『これはどんな話なのか』と問われたら、ある程度は答えられるようにしておくんで」

 なるほど、なかなかに勉強熱心であると思いながら、それではと松一にどんな話なのかかいつまんで話してくれと言った。


「駿州府中から江戸に出てきた男二人がおりやして、一人は弥次郎兵衛やじろべえ、通称弥次さん。もう一人が喜多八きたはちこと喜多さん。色々あってとにかく東海道を面白おかしく旅をしていく話でごぜえやす。先ほど申し上げやした通り、喜多八は元は鼻之助と言いやして、旅役者をしていたところを弥次さんに見初められて、駆け落ちのような形で江戸に来たんでごぜえやす」

「ああ、確かにございました。ここに駿州府中のと書いてございました」

 松一の説明に割って入るよう身を乗り出して高久が菊之助に本の一部を指さして、話していた部分を指でなぞって行く。なるほど、確かに書いてあった。松一を含め三人で頭を寄せていると「あ!」と、鼻之助と名乗った男が声を上げる。三人は本から男へと視線を上げると、男は驚いて目を見開いた状態で本を見下ろして言う。

「鼻之助ではございやせん」

「わかってるよ、んなことはよ」

 今更とばかりに菊之助が渋い顔で言う。

「与七だ。通油町とおりあぶらちょうに住んでおりました」

 それを聞いた菊之助と高久がほぼ同時に松一を見た。見られた方の松一はなぜ見られたのか分からず途方に暮れて「へ?」と、元々細い顔をさらに細くして答えた。

「ああ、通油町に住んで居る与七が出てくる話はないかと思ったのですよ、松一さん」

 高久が言葉で補って初めて二人の視線の意味を理解したようで、それからうーんと唸って記憶をたどるように松一は目を閉じる。しばしの沈黙。すぐに菊之助は焦れて胡坐を掻いた膝を人差し指でトントンたたき出し、一方高久の方は微動だにせずただ待っていた。そして、もう一体何者だか分からない迷い人も松一が口を開くのを待つ。

「うーん……与七、与七……思い浮かばねぇ。すまねぇことです」

「いや、良いってことよ。お前のくれた情報は亀吉が一日歩き回る手間が省けたんだ、助かったよ。明日からは亀吉は通油町だな。俺もいっちょ行ってみるか」

 しおれた大根みたいな松一をねぎらう為にも、出されたよね饅頭の皿を押して、これで気分を変えろと促しつつ、迷い人である男に顔を向けた。

「いちいち面倒くせぇから、お前も明日は連れていくぞ。お前を知ってる奴は居ないかと聞きながら、お前がその場で違うことを思い出したら、次はそっちに行くってことにするからな」

 やれやれと最後に付け加えて、高久にお茶を頼もうとする。すると高久がなぜか期待を込めた眼差しで菊之助を見つめていて、ん? となった。

「通油町にこの方を連れていくのでございますよね? 私がこの人を伴って菊之助様のお宅へ伺います。そのまま、私も……ご一緒に」

 最後は少しだけ声が小さくなる。好奇心あるいは暇つぶしかわからないが、高久はこういう事になると、俄然一緒に付いていきたがる。それが少々言い出しにくいと見える。

「決して、興味本位というわけではございません。あの、私は同心渡辺様の相棒でございますゆえ、お手伝いできることがあるのならばどんなことをしても……このお人が例えば急に具合が悪くなりましたら、ここに連れ帰るにも私が居た方が便利でございますし……」

 ややしどろもどろなのが高久らしくなく、しかしなんこう子供のようで無下には出来ず、菊之助は頬を掻きながら頷いていた。行きたくて、理由をどんどん上げへつらうなんて、可愛いじゃねぇかと思わなくもなく……。

「血の付いた手拭いのこともある、一応用心してくれ。連れていくお供は出来るだけ腕っぷしが強そうなのがいいぞ」

 菊之助が許可してくれたことに高久がパッと表情を明るくした。

「一番体格のいい者を連れてまいります。そうでございました。血が付いた手拭いがあったのでございましたね」

「持ち物が血のしみ込んだ手拭いと、財布には幾ばくかの金、あとは『東海道中膝栗毛』。最後の本は一体なんで持って歩いてるんだかって話だな」

 菊之助が考えながら迷い人の与七だか鼻之助だかを見ると、同じように悩んでいるのでこれは答えが出そうにもないと、そのまま天井の板を見つめてため息を一つ。

「財布の中身は二朱。まあまあ持っておりますねぇ。うちでしたら半襟以下小物の類辺りなら買えましょう」

 高久の言葉でふと菊之助が今朝の出来事を思い出した。

「ああ、そうだ。高久、女子おなごが喜ぶ巾着を一つ見繕ってくれや」

「はい。贈り物でございますか?」

「いや、贈り物じゃねぇ。子どもにせがまれたんだよ。俺が選ぶものじゃだめだから高久に頼んでくれって話だ。ひでぇ話だと思わねぇか? 蛙の子は蛙だぞ? 俺の選んだものが気に入らねぇとかおかしいじゃねぇか」

「私ならば菊之助様に選んで頂きたいと思います。ええ、絶対に」

 高久の返事に返す言葉が見つけられず、畳に置かれた『東海道中膝栗毛』を手に取った。まだ新しいらしく、古い本特有のべたつきがなくてさらりとしている。

「松一、悪いがこれを貸しちゃくれんか? ちゃんと借り賃は払うからよ」

 松一は頷きかけて、思い出したように眉尻を下げた。

「その本は引く手あまた。実はもう約束があるんでごぜえます」

「仕方ねぇ、分かったよ」

 顔を回して高久に
「んじゃ、与七の持ち物にあった本を借りていくか」
と、伝えると急に横に座っていた与七と名乗った男が立ち上がった。あまりに何の前触れもない動きに一同驚いて顔を上げたが、なぜか見つめられている当の本人も目を丸くしているから一時《いっとき》間が開いた。

「おめぇ、どうした?」

「あの……自分でもよくわかりやせん。なんだかじっとしていられなくって立っちまった」

菊之助と高久は顔を見合わせたが、そうしたところで何か答えが得られるわけでもなく……。

「まぁとにかくよ、俺は帰る。松一いろいろありがとよ」

松一がぺこりと頭を下げて、下げた頭を上げる時には口がもぐもぐと動いていた。
食べそこなっては困ると、饅頭を急いで口に押し込んだようだった。菊之助は苦笑して「旨いよな」
と、言うとまた松一がぺこぺこと頭を下げて答える。

 そんな訳でなんとか食いそこなうこともなく饅頭にありついた松一と連れ立って越後屋の賑わう店を後にした。
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