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憧れの人
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相変わらず涼やかな顔でやって来た高久は約束通り、迷い人と今までで一番がっしりとした体つきの手代を連れてやってきた。外で見た迷い人はやはり旅役者というには足腰が細いような、役者としても華がなく、肌の白さから言っても生粋の江戸で働く店者と言った風貌をしていた。屋敷内で顔を合わせていた時より顔色が良く見えるのはひとまず良かったと言える。急に死なれたりしたら越後屋も困ってしまうだろう。
「高久さん、昨日はわざわざありがとうごぜえやす。同心の旦那は気が利かねぇから、俺が歩き回っててもそのうち帰ってくんだろうくらいのもので、絶対呼び戻しちゃくれないんですぜ? ひでぇ話で……」
「亀吉、うるせぇからちぃと黙ってろな」
顔を見たらもう話しだす、しかも止まらぬ亀吉の口を封じると今度は高久が挨拶を始める。
「おはようございます。今日は私の我儘をお聞きくださり……」
「あーあー。挨拶はいいって。みんな揃ったんだし、さっさと行くぞ。と、その前に、鼻之助こと与七よ、何か新しく思い出したことはねぇのか?」
話を振った与七が菊之助の手元を凝視しているので、ああ……と菊之助はちょいとばかり丸めて持っていた『東海道中膝栗毛』を持ち主である与七に差し出した。すると、ぺこりと頭を下げて、懐にしまい込んで上から手で押さえて見せた。
「そんなに大事なのか? まあ、本は高ぇからな。持って歩くところを見ると、自分の物って事かねぇ。ま、聞いても分からんだろうからそれはいいか」
屋敷の門辺りで立ち話をしているものだから、行く人行く人チラチラと様子をうかがいながら歩いて行く。だから、八丁堀から北に向けて菊之助は歩き出すことにした。
「思い出したことは?」
再度問う菊之助に
「申し訳ございやせん……」
と、だけ与七は答えた。菊之助の方もああだこうだと聞いても仕方ないと思い、それ以上質問をすることはなかった。
ざっざと響く草履の音を聞きながら、出来るだけ川沿いを歩いて行く。その方が気持ち風が涼しく、時折植えてある柳の木が揺れているさまなど眺めていくと、暑さを少しばかり忘れられて良かった。
ふぁぁと欠伸をしながら歩いていく菊之助に、お疲れでございますか? と高久がすかさず気を使う。欠伸を堪えながら、菊之助が浮かんだ涙を手の甲で拭う。
「さっきの『東海道中膝栗毛』をちょいと読んでみたのよ。これがまあ、悔しいかな面白くてだな……油が勿体ねぇと言われながらも夜更かししちまった」
「そうなのでございますね。私も今度松一さんに頼み込んで持ってきて貰うことに致します」
「ああ、無理強いするなよ。確かに鼻之助が出てきたし、鼻之助は駿州府中から弥次郎兵衛とか言うどうしようもねぇ男と一緒に江戸に出てきて……ふぁぁ」
「旦那……慣れねぇことをすると雨が降りやすぜ? もっとも、今日みたいな日は一雨欲しいところだけど」
半分振り返って亀吉に
「おめぇの甲羅が干からびちまうもんな」
などと言っても亀吉は肩をちょいと持ち上げて
「旦那が大好きな亀なら、日光浴が好きらしいから問題ねぇと思いますがね!」
と言い返す。
ついでに
「暑くなりゃ旦那の胸元がはだけていいってもんです。どうしてそんなに着物が似合わねぇのか……この前両国で見た猿回しの猿の方がしっかり着こなしておりやしたよ」
なんて言いながら、猿回しの猿を真似て見せたりする。
「菊之助様は器量が良すぎるのでございます。着物が負けてしまうなんて、すごいではございませんか。菊之助様の整ったお顔立ちを邪魔しないような無地の何でもない着物を私がご用意……」
「いいっつってるだろうよ。まったくよ……」
「そういや、まだむつき(おむつ)を当ててた頃、暑いからってむつき一枚で寝かされていた旦那は偉く神々しかったっけねぇ」
しれっとそんなことを言う亀吉に
「嘘をつくな、嘘を」と言い返せば、見てみたかったと高久がしみじみと口にするものだから、菊之助は話題を変える為に与七の方を見た。
「与七よ、手拭いの血は人を殺めたとかじゃねぇよな? 口にもついていたとか言ってたから、始めは疑いもしなかったがよ」
与七は泣きそうな顔になって、しかし思い出そうと必死に顔を歪めた。それでも、きっと何も出てこなかったと見えて、菊之助に視線を戻した時にはいよいよ涙目になっていた。
「もし……も、人を手にかけていたら死罪なんで……ごごごぜぇますか」
「それは死体が出てこんとなぁ。もしくは、記憶がよみがえってきて、はっきりやっちまったって分かってからの話じゃねぇのか」
そう答えながらも、なんとなくこの男はやってないのではないかと菊之助は感じていた。やられて必死になってやり返して殺めたなんてことはなくもないが、あまり気が強そうじゃないし、やられたらやられっぱなしの方が似合うなんて勝手に思っていた。
しかし、恐ろしい思いをしたとも話していたし、罪人である可能性だってなくはない。などと、考えながら歩いていた。
そんなこんなで一行は通油町に到着した。日本橋界隈と違って、こちらは町人ばかりの町である。賑わいも少しばかり落ち着いて、代わりにあちこちから木がぶつかったりするような作業音が顔を覗かせていた。
「さてと、二手に分かれるか。亀吉はそっち、俺はあっち」
「私は菊之助様と」
高久がすかさずついて来ると言うので、まあそれも良いかと「おう」と返す。人差し指でちょいちょいと与七を呼び寄せて亀吉を指さすと、与七は素直に亀吉の方へと歩いていく。
亀吉はさっさと手短な表店に入って行くのを菊之助は見ていた。八百屋の店主が背を向けて大葉を並べているところを肩を叩いて、与七を指しながら何かを問う。すると、店主は首を振ってそして何やら身振り手振りで亀吉に話をしていた。
「んじゃ、俺たちはもっと先まで行って聞くことにするかね。死体が上がったわけじゃねぇ。だから犯人捜しをするわけでもねぇ。こう言う事柄はまあ平和でいいわな。ちょいと前にあった事件はそりゃ悲惨でよ……」
歩きながら高久に語っていたのに、話はこれからと言うところで
「旦那ぁ! 旦那ぁ!」
と、さっそく亀吉が戻ってきて話しを中断するものだから、菊之助はすこぶる不機嫌依振り返った。
「あんだよ! 俺がこれから話そうって言うときによ。卵が安かったとか言いやがったら承知しねぇからな」
「卵が安けりゃそりゃ一大事だ。いやいや、そんなことじゃねぇですから。与七が見つかったんですよ。ここらじゃちょいと有名らしくって、店主曰く『俺が知っている与七であってるなら、こんな若くねぇし、こんな愛想もよくねぇですぜ』と来たもんだ」
菊之助と高久は揃って亀吉の背後に立っている与七こと鼻之助こと迷い人を覗いてみた。愛想が良いか? 今だって、情けない顔をしているだけで愛想がいいとは言い難い。
「与七って名なら、そんなに珍しくねぇしな。鼻之助なら、人違いってこともねぇだろうが」
「そうでございますね。場所は教えてくれたのでしょうか?」
「もちろん、近いからそこから確認して、違っていたらまたあたるってんでも問題ねぇと思いやす。ちなみに『もし行くんなら、もう付けは利かねぇって言っておいておくれよ。岡っ引きの旦那が言えばちったぁ耳を貸すかもしれねぇし』って言っておったんで、生活は困窮しているのかもしれねぇですね」
そこで再度迷い人与七を眺める。確か、着物は松坂木綿の縞お仕着で擦り切れているとかそういう感じはなかった。二朱持っていたってところを見ても、八百屋に付けを払えないほど困っているとは考えにくかった。と言うことは、やはり与七も別人だと結論付けるのが妥当と言うことか。
「別人だと確認して、一応違う与七を探すか。鼻之助だったらもっと探すのは楽だったろうにな」
またもや、何者だか分からない人間になってしまった迷い人は申し訳なさそうに首の後ろに手を持って行って、ぺこっと頭を下げた。あまり覇気がないのはもともとそういう人間なのだろう。
来る道すがら高久が、与七は食事をしっかり取っていると話していた。ただ食べ方が少しだけ風変わりで、後は特段変わったところはないと言う。何が風変わりなんだと問うと、兎のように小さく刻むように物を食らうのだそうだ。西瓜を食べていた時、確かに小さく噛んでもごもごしていたが、遠慮してあんな風になったのだと思っていたら、そうではなかったらしい。しかし、食べ方が変わっているからと言って、それが探すときの手立てになるかと言われたら、それはあまりあてにはできず……
「とにかくここの木戸らしいですぜ。家主は茂吉」
そう亀吉に案内されながら、裏長屋の入り口にある木戸を見上げて入って行く。長唄の師匠やら、畳屋やらが住んで居る至って変哲のない長屋らしかった。亀吉だけはさっさと先を走って行き、厠から一番離れたところにある戸を叩いて、出てきた男と話を始めた。きっとその男が茂吉であろうと菊之助はのんびり井戸端の横を通り過ぎていく。見慣れぬ一行が歩いて行くので、遊んでいた子供たちが手を止め物珍しそうに見ていた。
「菊之助様、子供たちが見惚れておりますねぇ。そりゃそうでしょうとも、浮世絵から出てきたみたい器量のよさでございます。できればここで着物を脱ぎ捨てて、陰りのない良さを見せつけてあげたいところでございます」
高久がまたけったいなことを言い出すので、菊之助は白目をむきそうになった。
「おめぇ最近おかしくねぇか? 気は確かなのか? 高久よ」
「ええ、至ってまともにございます。菊之助様を知れば知るほどに、心惹かれるのでございますよ。亀吉親分さんだって、ああだこうだと申しておりましても、菊之助様が好きなんだとひしひしと伝わってまいります。私も負けてはおられません」
話を聞き終えて、心配顔の茂吉を置いてばたばたとどぶ板を踏んで戻って来た亀吉が
「お? 旦那、その顔はどうしてぇ? 腹でも痛ぇのか?」
と心配などしてみせるから、菊之助はいいから話せと顎でしゃくった。
「与七の部屋は茂吉の部屋の前。比較的長屋の中ではいいところでごぜぇます。しかし、茂吉も与七は家賃をなかなか払わないと嘆いでおりやした」
「するってぇと、どういうことだ?」
「どうも、実入りは悪くねぇらしいが、払わなきゃならん場所に払わずに、どんどん使っちまうらしいですぜ」
そこで菊之助は迷い人が持っていた本のことを思い出した。本なんか買ってしまえば、実入りが良くてもすぐさまなくなってしまうだろう。じゃあこいつは与七なのか? でもなぁ、などと考えながら、まあ会ってしまえばわかることだと返事を待つ亀吉に頷いて見せた。
みんなでガタガタと音がなるどぶ板を踏んで、今しがた亀吉の話をしていた茂吉が立ち尽くしているところまで行った。茂吉が深々と挨拶をするので、一行も軽く頭を下げる。
「じゃあ、旦那。開けやすよ」
既に『与七』と障子に名前が書いてある戸に手をかけて、亀吉が振り返って言う。良いからやれと、菊之助は手で払うように合図した。
「おい、与七よ。戸を開けるがいいかい? 八丁堀の旦那、渡辺様がお見えだ」
こういう時だけ俺の名前を出すのかよ。などと、腹の中で思いながら菊之助は黙って聞いていた。すると中から物音がし、直ぐに戸が引かれた。
「なんだってんだい。同心なんかに来てもらうようなことはしちゃおらねぇよ」
中から出てきたのは、亀吉くらいか、とにかく結構な歳の男だった。顔に頑固で偏屈だと言わんばかりの皺を携えていて、不愛想というより、ほとんど不快の域に達するほど不機嫌な雰囲気であった。
「お前が与七か」
菊之助が問うと、菊之助の姿を上から下まで値踏みして、歪めた顔でしぶしぶ頷く。高久がそれを待って迷い人の男の肩をちょいちょいと叩いてそして一歩前へ出るようにと、手を差し出して促した。
「こちら、日本橋で倒れておりました迷い人でございます。頭を打ち付けてしまい、記憶が飛んでおりまして……それでなぜか通油町の与七だと口にしたのでございます。顔見知りであったりしませんか?」
高久の丁寧な説明を聞きながら与七が若い迷い人をじっと観察してみせる。まるで産毛一本残さず見ているようなそんな執拗さで、見られている方の男は少しばかり嫌そうであった。
「さぁ、知らねぇな。たまたま俺と同じ名だったって……ん?」
男は話すのをやめて、迷い人の胸元から顔を覗かせていた本に目を止めた。そして、その表紙についている題名を見つけて顔を傾けて読んだ。
「こりゃ……俺の本じゃねぇか」
「お? 『東海道中膝栗毛』か? え? お前がこれを書いた十返舎一九なのか?」
菊之助は驚きを隠さず、この偏屈じじいを改めてみてみた。あんな面白可笑しい物語を綴る男が、こいつなのか? 俄には信じられない。それが相手にも伝わったのだろう、与七こと十返舎一九が開けっ放しの戸の内側を見て
「信じられねぇってんなら、今書き途中の弥次喜多を見せるが」
と、口にした。
するとなぜか迷い人の男が小刻みにぶるぶると震えだし、胸元を抑えて苦しそうに前かがみになったから、一同驚き、横に居た高久が男を慌てて支える。
「これはいけない。どうされました?」
「なんか急に……胸が……息ができねぇ」
「なんだってんだよ。さっきまでなんともなかったじゃねぇか」
菊之助が男の様子を見ようと屈んでいる時、亀吉が一同の背後で成り行きを覗っていた家主の茂吉に「わりぃがちょいと、こやつを寝かさせてくれねぇかい?」と寝かせる算段をし始めた。
「あ……皆さん、大丈夫みたいです。息を吸ったら落ち着いてきやしたんで」
まだ胸を抑えながら男は言った。偏屈じじいの与七も倒れられるのは迷惑と見て「そういや、日本橋の本町で買い求めた癪の薬が残っていたかもしれねぇ」などと言って家へ入って行こうとした。
「いやいや、十返舎一九様からそのようなものをいただく訳にはまいりやせん。十返舎一九……」
迷い人はなぜか十返舎一九の名を繰り返して、そして目を潤ませる。それを菊之助が横から見ていて怪訝そうに「なんだってんだよ」と呟いた。
「お前ら……もしや恋仲なのか?」
菊之助の問いに、高久や亀吉はおろか、茂吉や高久の手代すら固唾を飲んで返事を待った。
「はぁ? 馬鹿言っちゃいけねぇよ。俺はこんな奴見たことも……」
出だしは勢い勇んで景気よく反論した与七こと一九であったが、何か引っかかったらしく言葉を飲み込んだ。
「なんだよ。何か思い出したか?」
「んー、この情けねぇ顔……栄邑堂で見たことがあるやもしれねぇな。村田屋治郎兵衛《じろべえ》がやってる地本問屋よ」
「あああああ!!」
急に大声を上げた迷い人が大口を開けて固まった。
「なんか、思い出したのか?」
「それはこの」
そう言いながらずっと懐に大切に持っていた『東海道中膝栗毛』を取り出してなぜか口をぱくぱくとさせて言葉が出てこないようだった。与七が体を引いて変なものを見るような視線を送りながら
「その本を作ってるところだよ。あんさん、そういうことは良く出てくるのに、自分がどこの誰だかまだ出てこねぇのか……」
と、呆れて言った。
菊之助もそれには同意見だった。やたら本のことばかり口にして、俺たちを弄んでいるんじゃなかろうかと口をへの字にして片方の眉をくいっと上げた。
「与七よ、その店はどこにあるんだ」
「同じ通油町だよ。一旦表通りに出て右に行けば大きな看板がでてらぁ」
「栄邑堂。そしたらちょっくら先に行って店を確認してきやす。旦那たちは後からゆっくりきてくだせぇ」
相変わらず亀吉はせっかちで、店の名を確かめるとどぶ板を踏みしめて、たったと走って行ってしまう。
「亀の癖に早いっつってんだよ。まったく。じゃあ、俺たちも後を追うか。ああ与七よ、あちこち付けが溜まっているって話じゃねぇか。おめぇ流行りの物書きなんだろうが、金くらいしっかり払えな」
与七は気分を害したと言わんばかりに目を吊り上げて
「うるせぇよ」
と楯突いたから菊之助の方も一気に苛立ちが沸き上がって行く。
「あれを書くにはあちこち出て行かなきゃならねぇ。金がかかるんだよ。読む方はそりゃお気楽極楽だろうがよ、こちとら神経すり減らして、おまけに金も使って書いてるんだ」
偉そうに与七に啖呵を切られてムッとして口を開きかけた菊之助の前に、手を出しそれを制した高久が、穏やかに間に割って入った。
「皆さんを楽しませることを生業にするとは、とても立派にございます。しかし、その一方払うべきところにお金を払っていないと言うのは、なんとも勿体のうございますね。あちこち調べに行くために旅に行かれるのでしたら、部屋をもっと安いところに変えたらいかがでございましょう? どうせあまりいらっしゃらないのでしたら、ね? 菊之助様」
「あ? ああ、そうだな。その通りだ」
高久がひとの良さそうな顔で微笑んで、更ににっこりとしてみせて与七にたたみかける。
「本当にこれほどの流行り本聞いたことがございません。私も読みたいと思っておりますが、なかなか手に入れられないのでございますよ。ああ、申し遅れました私は三井越後屋の高久と申します。お会いできてうれしゅうございました」
「三井越後屋ってあの呉服問屋の? 日本橋一のあそこか?」
「あの一九様がご存知とは! これはこれはなんとも光栄でございます」
さっきまで険しい顔つきだった癖に、大店の若旦那に持ち上げられて与七はすっかり勢いを削がれたようであった。高久は仏のような穏やかさで振り返り、話を聞いていた家主の茂吉に向けて
「そういう事でございますので、後はお二人で相談なさるとよろしいかと」
と、話を振ってはまた微笑む。
そんなわけで、与七と茂吉を残して歩き始めた一行は来た道を引き返していた。
微笑みを絶やさず歩く高久が、長屋の子らに向けてその笑顔を振りまいているのを菊之助は商売人とはすごい生き物だと思わずにはいられない。なんでもないのに笑ってやがるし、尊敬してる訳じゃねぇのに、あたかもそうであるようにさらりと持ち上げる。嘘がすらすらと出てくると言ったら聞こえは悪いが、高久にとってこれは嘘ではなく生きていく術なのかもしれない。
「菊之助様? 先ほどからこちらを覗っておりますが、どうされましたか?」
「いやよ、おめぇは凄いと思ってな。根っからの商売人なんだな。
そういや、与七もあれでなかなか観察眼が鋭いねぇ。常日頃から話のねたになるものを探しておるんだろう」
「ええ、そのようでございますね。本人が面白い人でなくっても、誰かが面白いことをしているのを見ていてそれを書けば、それはきっとしっかり面白い話になるのでございましょう」
ふふふと最後に上機嫌で笑ってみせるから、与七の話のどこに上機嫌になるところがあったのか分からぬまま菊之助は腕を組んで歩いていく。
先ほど抜けてきた木戸を抜けると八百屋とは反対側にある紙問屋側に折れる、すると通りの先で亀吉が一心に手を伸ばしてここだと合図を送っていた。首まで伸ばして、そういう所が亀なのだと言ってやりたかったが、幾分距離がありすぎて口にできないのが菊之助には口惜しい。
しかし相も変らぬせっかちぶりで、亀吉は足踏みしながら手を上げている。そこを目指していくのは恥ずかしい。それでも行かないわけにはいかないし、行くまで続けるのだろうから、仕方ない。とはいえ、菊之助は真っ直ぐ亀吉の元へと行くことに抵抗して、少しずつ斜めに歩いて目当ての店の方へと寄って行った。すかさず寄って来た亀吉がそんな菊之助の気持ちなど気が付きもせずに
「ここです。ここです」
と、菊之助がすでに向かっていた店へと案内する。
栄邑堂の店先には旅の恰好をした男が数名、浮世絵を品定めしていた。そのちょっと奥、畳の上では今まさに何かが職人たちの手で刷られているところだった。
「喜助! おい、喜助じゃないか!」
店の者が声を上げると、職人たちが一斉に手を止め店の外にいる菊之助の連れ、迷い人へと視線を向けた。慌てて店の中から飛び出してきた男、恰幅の良い体格とお仕着ではなくいい着物を着ている辺り店の主であろう。
「菊之助様、お召し物から言ってあの方がこの店の主でございましょう。薩摩上布でございます。夏物といたしましては最高級でございます」
高久は主らしき人物が近寄って来る前にこそこそと耳元で囁いて、声が届きそうなところまで来たらスッと身を引いた。
「ええっと、私はこの店をやっております村田屋治郎兵衛と申します。あなた様方は……」
菊之助と高久の読み通り男は店の主、村田屋と名乗り、そして迷い人を何度も確認するように見ながら、二本差しの菊之助に名前を問う。
「ああ、こちら無駄に二枚目なのは八丁堀同心渡辺菊之助様だ。そして俺はその御用聞きである亀吉。こちらの品が良いのは三井越後屋の若旦那、高久さんだ」
なんでお前が答えるんだよ。と、亀吉の頭を軽く殴った菊之助が
「まあそういう事だ。で、今日はこの男がどこの誰なのか、身元を調べておったんだが……この店の者なのか?」
と、親指で迷い人を指して問い返した。
「ええ、ええ。うちの喜助でございます。数日前に出かけて行ったっきり戻ってこないので、そりゃあ心配しておりました。迷い人ってことは、どこの誰だか分からなくなっていたということでございますか?」
「その通りだ。日本橋でぶっ倒れて頭を打っちまって、まあいろいろとな」
とにかく中へと、村田屋に導かれて一行は作業を止めていた男たちに見送られて店の中へ入って行くこととなった。店に入ると濃厚な墨の香りがし、力士や遊女の浮世絵を横目に通された座敷へと歩いていき、そこで腰を下ろした。
喜助は皆に呼ばれても苦悩の表情を浮かべるだけ、主に腕を掴まれてもますます頭を抱えるだけで、思い出せないようで、一緒に部屋に入って来た時も腰を下ろしたのは高久の後ろ、要するに店の主の方ではなかった。
「んじゃあ、村田屋よ。この男、お前の店の手代であることに間違いはないか?」
皆が腰を下ろしたのを見計らって菊之助が問う。横を向いて女中にお茶の準備を指示していた村田屋が顔を菊之助に向けて、いま一度喜助の顔をしっかり確認してから、頷いた。
「間違いありません。数日前、喜助のたっての願いで、休みをくれてやりました。それから行方知れずで、店の者一同どうしてしまったのかと心配しておりました」
「喜助のたっての願い? ほぉ、なんで休みたいのか言っておったのか」
「ええ、聞かなくても分かっておりましたが一応聞きました。『抜歯師』の元へ行きたいと」
村田屋がそこまで説明すると、喜助がぴょんとはねてひっくり返った。そして、腰が抜けたような状態で
「抜歯師……」
と、青ざめ震え上がった。高久は手を差し伸べ、震える喜助を支えてやり、亀吉は驚いた顔で首を伸ばして喜助の様子をうかがっている。
「おいおい、大丈夫かよ。お前、もしや恐ろしい思いをしたって言うのは、歯を抜いたことか?」
菊之助が眉間に皺を寄せて喜助に問うと、喜助は自分の右頬を抑えてぶるぶる震えながら涙を浮かべた。
「泣くほどかよ……」
「は、はっきり思い出しやした。俺……両国に腕のいい抜歯師が来たって言う噂を、店に来たお客さんから聞いたんで、これはいくしかねぇと思いやして……それで、その……」
説明を始めた喜助の目から涙があふれ落ちてくる。大の大人、しかも男がこのようにさめざめと泣くのは見たことがない。親しいものが亡くなったとか、そういう事ならまだしも、痛みを思い出して泣くなどと……前代未聞のことだった。いくら情けない顔の頼りなげの喜助であっても、涙はあまりに似合わない。
「村田屋、こやつに人をつけて顔を洗わせろ。おら、喜助。お前も顔を洗ってちったぁしゃきっとしてこいや」
村田屋がお茶を運んできた女中からお盆を受け取って、喜助を連れていくように告げると、自ら預かった茶を菊之助たちに出して歩いた。出された茶を取り上げた菊之助はため息を吐いて、出て行った喜助が座っていたところを見つめて言う。
「喜助とはあのようにいつでも涙もろいのか」
「いえいえ、普段は気が弱いだけの普通の男でございます。いや、普通じゃないところもございますが」
自分のお茶を取り上げて膝の上で包み込んで持っていた高久が「普通じゃないところでございますか?」と聞き返した。
「普通じゃないと言っても人様に迷惑をかけたりするようなことはございません。ただ、異常なほどに『東海道中膝栗毛』が好きなのでございます」
「異常なほどってぇ、そりゃまた凄い言い方だな。ね? 旦那」
亀吉が村田屋の言葉に反応するが、菊之助は亀吉も異常なほど亀に似ていると思って、口を開きかけてやめた。さすがにここで言うのは憚れたから。
「でも亀吉親分さん。喜助さんはうちに来て口のした言葉はすべて『東海道中膝栗毛』のことに関してのことばかりにございます。そういえば作者である十返舎一九こと与七さんのことまで口にしておりましたねぇ。あれが無意識に出ていたのなら、確かに異常なほど好きだと言っていいと思います」
村田屋はそうだろう、そうだろうと言いたげに頷いた。
「あの本は確かに面白いですよ? でも何があれをあんなに惹きつけるのか全くわかりませんよ。でも、ぞっこんなのは確かで、それゆえ喜助には与七さんとは顔を合わせないように配慮しておりました」
「そりゃまたなぜ。会わせたってそこは男同士、入れあげるってこともそんなにはなかろうに」
しかも相手はあの与七。着古した着物みたいに色褪せ痩せた男だった。しかも不機嫌そうな顔は見ていて不愉快だし、好きになれる要素が思いつかないじゃないかと菊之助は思っていた。
それなのに、横から高久が
「私は少しばかり喜助さんの気持ちが分かる気がいたします。理屈じゃないのでございましょう。一旦心から良いと思ってしまうと、何もかもよく思えてしまう……憧れるとはそういうものでございますから」
と、言いながら菊之助を見ているので、菊之助は横頬に感じる視線に気が付かないふりで、ふーんと唸って見せた。
「まあ、確かに己のことは何にも覚えちゃいねぇくせに、若い女子みたいに、与七に会ったときに胸をときめかせていたっけぇ。あの与七にねぇ……あの与七だぞ」
「見方が違うんでしょうよ。俺らとは違う目線で見ておるんですよ。仕方ねぇ。恋煩いにかかった女子だって、なんでこんな男? ってことがあるじゃねぇですか」
「俺も亀吉の女房が亀吉でいいって言う理由が分からん。そういう事だな」
「そういう事っちゃあ、そういう事ですが、俺だって旦那みたいな口の悪い同心に高久さんが慕っておるのがどうにもこうにも」
「菊之助様はそれは立派なお方でございます。ええ、私の憧れの人でございます」
話が毎度おかしな方向へと向くので、菊之助は耳を引っ張って考え、話をもとに戻すことにした。
「とにかくだ、喜助という名の男が見つかった。たぶん自分がどこの誰なのかも大体わかったであろうし、分からないところがあったとしても、早いうちに思い出すだろうってことで話は一件落着でいいよな?」
村田屋は
「はい。うちの喜助でございます。長らくお世話になりました。皆さま、本当にありがとうございました」
と、深々頭を下げた。
高久は相手が頭を下げると、自分も反射的に下げてしまうようで、直ぐに同じように頭を下げて返していた。そこへ、女中に伴われて喜助が帰ってきて、今度こそ自分の店の主、村田屋の横に座して畳に手を着いた。
「あれやこれやと思い出してまいりました。お手を煩わせてしまったこと、深く反省いたしやす。特に越後屋の皆さんにはよくして頂きやして、本当に感謝してもしきれやせん」
主共々深く頭を垂れると、高久もしっかりとそれに応えて頭を下げた。ゆっくり顔を上げた喜助の顔を眺めながら、菊之助は考えていた。そう言われてみれば、高久がこの男の食べ方がおかしいと話していた、と。
「喜助は随分前から歯痛に苦しんでおったのか」
「ああ……へい。初めはちょいと痛いと思うくらいだったんですが、次第に物を食べるのが辛くなって来て」
「その痛かった歯は奥の方なのか?」
「その通りでごぜえやす。右奥の痛いところで物を噛んじまうと、頭の髄まできーんってなるので、出来るだけ口先で食らうようにしておりやした」
兎のような食い方の理由はそれだったのかと合点がいったし、何より血濡れた手拭いの謎も一気に解けた。あれは歯を抜いた後に出た、喜助自身の血であろう。口から唾と一緒に出てきたから、亀吉曰く『水っぺぇ』感じになったのも納得がいった。
「しかし、おめぇよ。へろへろしていても大人だろうよ。泣くほど怖がるってなんだよ……」
菊之助が言うと、喜助が身を乗り出して今までで一番真剣な表情で語るのだ。
「同心様。歯を抜いたことはごぜえますか? しかも奥歯を。それはそれ身の毛もよだつ恐ろしさでごぜぇやす。
何が怖いって、柱に体ごと縛られているのに歯を引っ張られると体が浮くんでごぜぇますよ。しっかり張った根っこをギシギシと引っ張られて、それがまた体全身に痛みを運びやがって……もうなにが痛ぇのか、どこを引っ張られているのか……俺は地獄に行って舌を抜かれるのと同じような経験をしたんじゃねぇかとおもっておりますんで。
ありゃ、地獄です」
嫌な顔をして聞く菊之助に更に喜助が煽って行く。
「この世のものじゃねぇような悲鳴がずっと聞こえていて、それが自分の悲鳴だって気が付くのに時間がかかるほど、あの世に飛んで行っちまうんです。悲鳴が止むのは自分の血で息が苦しくなって……」
「いや、もういい……分かった分かった。
あれだな、その抜歯師にもお灸を添えておくとしよう。沢山血が出たなら、そのまま帰すのはまずい事くらい経験で分かるであろうに。
亀吉、喜助に人相なんかを聞いて両国へ行って来てくれや。
何も人を欺いたり、殺めたりすることばかりが罪じゃねぇ。先が分かっているのに放っておくことだって立派な罪だ」
へい。と、返事をしながら立ち上がった亀吉がすぐさま抜歯師の見てくれを喜助に問い出した。
*****
栄邑堂の面々に見送られて、日本橋方面へと向かい始めた菊之助が寄りたいところがあると言うので、高久が興味を持って問うと、菊之助が自分の右頬に手を当てがった。
「痛くはねぇがよ、喜助の歯痛の話を聞いていたら、ちょっとばかし気になっちまって。楊枝屋によって房楊枝を買って帰ろうと思ってな」
それならばと高久が提案する。
「日本橋四丁目にある『歯磨き楊枝問屋 瓢箪屋次郎左衛門』の店が良いと思われます。なんせ今人気の『団十郎歯磨』を扱っている店にございますから」
「お前は流行りもんが好きなのか?」
「いえいえ、そんなことはございません。ただ、商いの都合で、いろいろと耳に入って来ますので……『団十郎歯磨』は、磨いた後、せいせいするのだと聞いております。いかがでございましょ」
「そうさな、試しに買ってみるか」
菊之助が言うと高久も嬉しそうに頷いた。
「同じものを使えるとは、なんだか距離がまた一つ近づいた気がしまして、大変うれしゅうございます」
高久も使っているのか、それとも一緒に行って買うつもりなのか。聞いても仕方ないので、先ほどから高久が手に持っている本を見下ろして問う。
「なんだ、おめぇ『東海道中膝栗毛』を貰ったのかよ」
「いえいえ、お金は払ってまいりました。今日から菊之助様と同じものを読むことが出来ます」
「俺はもう読まねぇよ」
「え、どうして……ああ! あれは喜助さんの本でございましたね。わかりました、おい」
高久は後ろから着いてきていた手代に声を掛けて、何か耳打ちし、手代は頷いて今来た道を引き返し始めた。菊之助は高久が何を手代に命じたのか大方予想がつき、そして天を仰いで高久にバレぬように息を吐いた。
憧れの人か……。やれやれ。高久も頭を打ったら、俺の名前を言うんじゃあるめ? それはなんていうか、あんまし嬉しかねぇやな。
「ああ、高久。そういや巾着をだな……」
珍しく二人っきりで歩いていく菊之助と高久。高久はこれ以上嬉しいことないと言わんばかりの表情で、菊之助と歩いていく。
『憧れの人』終わり
「高久さん、昨日はわざわざありがとうごぜえやす。同心の旦那は気が利かねぇから、俺が歩き回っててもそのうち帰ってくんだろうくらいのもので、絶対呼び戻しちゃくれないんですぜ? ひでぇ話で……」
「亀吉、うるせぇからちぃと黙ってろな」
顔を見たらもう話しだす、しかも止まらぬ亀吉の口を封じると今度は高久が挨拶を始める。
「おはようございます。今日は私の我儘をお聞きくださり……」
「あーあー。挨拶はいいって。みんな揃ったんだし、さっさと行くぞ。と、その前に、鼻之助こと与七よ、何か新しく思い出したことはねぇのか?」
話を振った与七が菊之助の手元を凝視しているので、ああ……と菊之助はちょいとばかり丸めて持っていた『東海道中膝栗毛』を持ち主である与七に差し出した。すると、ぺこりと頭を下げて、懐にしまい込んで上から手で押さえて見せた。
「そんなに大事なのか? まあ、本は高ぇからな。持って歩くところを見ると、自分の物って事かねぇ。ま、聞いても分からんだろうからそれはいいか」
屋敷の門辺りで立ち話をしているものだから、行く人行く人チラチラと様子をうかがいながら歩いて行く。だから、八丁堀から北に向けて菊之助は歩き出すことにした。
「思い出したことは?」
再度問う菊之助に
「申し訳ございやせん……」
と、だけ与七は答えた。菊之助の方もああだこうだと聞いても仕方ないと思い、それ以上質問をすることはなかった。
ざっざと響く草履の音を聞きながら、出来るだけ川沿いを歩いて行く。その方が気持ち風が涼しく、時折植えてある柳の木が揺れているさまなど眺めていくと、暑さを少しばかり忘れられて良かった。
ふぁぁと欠伸をしながら歩いていく菊之助に、お疲れでございますか? と高久がすかさず気を使う。欠伸を堪えながら、菊之助が浮かんだ涙を手の甲で拭う。
「さっきの『東海道中膝栗毛』をちょいと読んでみたのよ。これがまあ、悔しいかな面白くてだな……油が勿体ねぇと言われながらも夜更かししちまった」
「そうなのでございますね。私も今度松一さんに頼み込んで持ってきて貰うことに致します」
「ああ、無理強いするなよ。確かに鼻之助が出てきたし、鼻之助は駿州府中から弥次郎兵衛とか言うどうしようもねぇ男と一緒に江戸に出てきて……ふぁぁ」
「旦那……慣れねぇことをすると雨が降りやすぜ? もっとも、今日みたいな日は一雨欲しいところだけど」
半分振り返って亀吉に
「おめぇの甲羅が干からびちまうもんな」
などと言っても亀吉は肩をちょいと持ち上げて
「旦那が大好きな亀なら、日光浴が好きらしいから問題ねぇと思いますがね!」
と言い返す。
ついでに
「暑くなりゃ旦那の胸元がはだけていいってもんです。どうしてそんなに着物が似合わねぇのか……この前両国で見た猿回しの猿の方がしっかり着こなしておりやしたよ」
なんて言いながら、猿回しの猿を真似て見せたりする。
「菊之助様は器量が良すぎるのでございます。着物が負けてしまうなんて、すごいではございませんか。菊之助様の整ったお顔立ちを邪魔しないような無地の何でもない着物を私がご用意……」
「いいっつってるだろうよ。まったくよ……」
「そういや、まだむつき(おむつ)を当ててた頃、暑いからってむつき一枚で寝かされていた旦那は偉く神々しかったっけねぇ」
しれっとそんなことを言う亀吉に
「嘘をつくな、嘘を」と言い返せば、見てみたかったと高久がしみじみと口にするものだから、菊之助は話題を変える為に与七の方を見た。
「与七よ、手拭いの血は人を殺めたとかじゃねぇよな? 口にもついていたとか言ってたから、始めは疑いもしなかったがよ」
与七は泣きそうな顔になって、しかし思い出そうと必死に顔を歪めた。それでも、きっと何も出てこなかったと見えて、菊之助に視線を戻した時にはいよいよ涙目になっていた。
「もし……も、人を手にかけていたら死罪なんで……ごごごぜぇますか」
「それは死体が出てこんとなぁ。もしくは、記憶がよみがえってきて、はっきりやっちまったって分かってからの話じゃねぇのか」
そう答えながらも、なんとなくこの男はやってないのではないかと菊之助は感じていた。やられて必死になってやり返して殺めたなんてことはなくもないが、あまり気が強そうじゃないし、やられたらやられっぱなしの方が似合うなんて勝手に思っていた。
しかし、恐ろしい思いをしたとも話していたし、罪人である可能性だってなくはない。などと、考えながら歩いていた。
そんなこんなで一行は通油町に到着した。日本橋界隈と違って、こちらは町人ばかりの町である。賑わいも少しばかり落ち着いて、代わりにあちこちから木がぶつかったりするような作業音が顔を覗かせていた。
「さてと、二手に分かれるか。亀吉はそっち、俺はあっち」
「私は菊之助様と」
高久がすかさずついて来ると言うので、まあそれも良いかと「おう」と返す。人差し指でちょいちょいと与七を呼び寄せて亀吉を指さすと、与七は素直に亀吉の方へと歩いていく。
亀吉はさっさと手短な表店に入って行くのを菊之助は見ていた。八百屋の店主が背を向けて大葉を並べているところを肩を叩いて、与七を指しながら何かを問う。すると、店主は首を振ってそして何やら身振り手振りで亀吉に話をしていた。
「んじゃ、俺たちはもっと先まで行って聞くことにするかね。死体が上がったわけじゃねぇ。だから犯人捜しをするわけでもねぇ。こう言う事柄はまあ平和でいいわな。ちょいと前にあった事件はそりゃ悲惨でよ……」
歩きながら高久に語っていたのに、話はこれからと言うところで
「旦那ぁ! 旦那ぁ!」
と、さっそく亀吉が戻ってきて話しを中断するものだから、菊之助はすこぶる不機嫌依振り返った。
「あんだよ! 俺がこれから話そうって言うときによ。卵が安かったとか言いやがったら承知しねぇからな」
「卵が安けりゃそりゃ一大事だ。いやいや、そんなことじゃねぇですから。与七が見つかったんですよ。ここらじゃちょいと有名らしくって、店主曰く『俺が知っている与七であってるなら、こんな若くねぇし、こんな愛想もよくねぇですぜ』と来たもんだ」
菊之助と高久は揃って亀吉の背後に立っている与七こと鼻之助こと迷い人を覗いてみた。愛想が良いか? 今だって、情けない顔をしているだけで愛想がいいとは言い難い。
「与七って名なら、そんなに珍しくねぇしな。鼻之助なら、人違いってこともねぇだろうが」
「そうでございますね。場所は教えてくれたのでしょうか?」
「もちろん、近いからそこから確認して、違っていたらまたあたるってんでも問題ねぇと思いやす。ちなみに『もし行くんなら、もう付けは利かねぇって言っておいておくれよ。岡っ引きの旦那が言えばちったぁ耳を貸すかもしれねぇし』って言っておったんで、生活は困窮しているのかもしれねぇですね」
そこで再度迷い人与七を眺める。確か、着物は松坂木綿の縞お仕着で擦り切れているとかそういう感じはなかった。二朱持っていたってところを見ても、八百屋に付けを払えないほど困っているとは考えにくかった。と言うことは、やはり与七も別人だと結論付けるのが妥当と言うことか。
「別人だと確認して、一応違う与七を探すか。鼻之助だったらもっと探すのは楽だったろうにな」
またもや、何者だか分からない人間になってしまった迷い人は申し訳なさそうに首の後ろに手を持って行って、ぺこっと頭を下げた。あまり覇気がないのはもともとそういう人間なのだろう。
来る道すがら高久が、与七は食事をしっかり取っていると話していた。ただ食べ方が少しだけ風変わりで、後は特段変わったところはないと言う。何が風変わりなんだと問うと、兎のように小さく刻むように物を食らうのだそうだ。西瓜を食べていた時、確かに小さく噛んでもごもごしていたが、遠慮してあんな風になったのだと思っていたら、そうではなかったらしい。しかし、食べ方が変わっているからと言って、それが探すときの手立てになるかと言われたら、それはあまりあてにはできず……
「とにかくここの木戸らしいですぜ。家主は茂吉」
そう亀吉に案内されながら、裏長屋の入り口にある木戸を見上げて入って行く。長唄の師匠やら、畳屋やらが住んで居る至って変哲のない長屋らしかった。亀吉だけはさっさと先を走って行き、厠から一番離れたところにある戸を叩いて、出てきた男と話を始めた。きっとその男が茂吉であろうと菊之助はのんびり井戸端の横を通り過ぎていく。見慣れぬ一行が歩いて行くので、遊んでいた子供たちが手を止め物珍しそうに見ていた。
「菊之助様、子供たちが見惚れておりますねぇ。そりゃそうでしょうとも、浮世絵から出てきたみたい器量のよさでございます。できればここで着物を脱ぎ捨てて、陰りのない良さを見せつけてあげたいところでございます」
高久がまたけったいなことを言い出すので、菊之助は白目をむきそうになった。
「おめぇ最近おかしくねぇか? 気は確かなのか? 高久よ」
「ええ、至ってまともにございます。菊之助様を知れば知るほどに、心惹かれるのでございますよ。亀吉親分さんだって、ああだこうだと申しておりましても、菊之助様が好きなんだとひしひしと伝わってまいります。私も負けてはおられません」
話を聞き終えて、心配顔の茂吉を置いてばたばたとどぶ板を踏んで戻って来た亀吉が
「お? 旦那、その顔はどうしてぇ? 腹でも痛ぇのか?」
と心配などしてみせるから、菊之助はいいから話せと顎でしゃくった。
「与七の部屋は茂吉の部屋の前。比較的長屋の中ではいいところでごぜぇます。しかし、茂吉も与七は家賃をなかなか払わないと嘆いでおりやした」
「するってぇと、どういうことだ?」
「どうも、実入りは悪くねぇらしいが、払わなきゃならん場所に払わずに、どんどん使っちまうらしいですぜ」
そこで菊之助は迷い人が持っていた本のことを思い出した。本なんか買ってしまえば、実入りが良くてもすぐさまなくなってしまうだろう。じゃあこいつは与七なのか? でもなぁ、などと考えながら、まあ会ってしまえばわかることだと返事を待つ亀吉に頷いて見せた。
みんなでガタガタと音がなるどぶ板を踏んで、今しがた亀吉の話をしていた茂吉が立ち尽くしているところまで行った。茂吉が深々と挨拶をするので、一行も軽く頭を下げる。
「じゃあ、旦那。開けやすよ」
既に『与七』と障子に名前が書いてある戸に手をかけて、亀吉が振り返って言う。良いからやれと、菊之助は手で払うように合図した。
「おい、与七よ。戸を開けるがいいかい? 八丁堀の旦那、渡辺様がお見えだ」
こういう時だけ俺の名前を出すのかよ。などと、腹の中で思いながら菊之助は黙って聞いていた。すると中から物音がし、直ぐに戸が引かれた。
「なんだってんだい。同心なんかに来てもらうようなことはしちゃおらねぇよ」
中から出てきたのは、亀吉くらいか、とにかく結構な歳の男だった。顔に頑固で偏屈だと言わんばかりの皺を携えていて、不愛想というより、ほとんど不快の域に達するほど不機嫌な雰囲気であった。
「お前が与七か」
菊之助が問うと、菊之助の姿を上から下まで値踏みして、歪めた顔でしぶしぶ頷く。高久がそれを待って迷い人の男の肩をちょいちょいと叩いてそして一歩前へ出るようにと、手を差し出して促した。
「こちら、日本橋で倒れておりました迷い人でございます。頭を打ち付けてしまい、記憶が飛んでおりまして……それでなぜか通油町の与七だと口にしたのでございます。顔見知りであったりしませんか?」
高久の丁寧な説明を聞きながら与七が若い迷い人をじっと観察してみせる。まるで産毛一本残さず見ているようなそんな執拗さで、見られている方の男は少しばかり嫌そうであった。
「さぁ、知らねぇな。たまたま俺と同じ名だったって……ん?」
男は話すのをやめて、迷い人の胸元から顔を覗かせていた本に目を止めた。そして、その表紙についている題名を見つけて顔を傾けて読んだ。
「こりゃ……俺の本じゃねぇか」
「お? 『東海道中膝栗毛』か? え? お前がこれを書いた十返舎一九なのか?」
菊之助は驚きを隠さず、この偏屈じじいを改めてみてみた。あんな面白可笑しい物語を綴る男が、こいつなのか? 俄には信じられない。それが相手にも伝わったのだろう、与七こと十返舎一九が開けっ放しの戸の内側を見て
「信じられねぇってんなら、今書き途中の弥次喜多を見せるが」
と、口にした。
するとなぜか迷い人の男が小刻みにぶるぶると震えだし、胸元を抑えて苦しそうに前かがみになったから、一同驚き、横に居た高久が男を慌てて支える。
「これはいけない。どうされました?」
「なんか急に……胸が……息ができねぇ」
「なんだってんだよ。さっきまでなんともなかったじゃねぇか」
菊之助が男の様子を見ようと屈んでいる時、亀吉が一同の背後で成り行きを覗っていた家主の茂吉に「わりぃがちょいと、こやつを寝かさせてくれねぇかい?」と寝かせる算段をし始めた。
「あ……皆さん、大丈夫みたいです。息を吸ったら落ち着いてきやしたんで」
まだ胸を抑えながら男は言った。偏屈じじいの与七も倒れられるのは迷惑と見て「そういや、日本橋の本町で買い求めた癪の薬が残っていたかもしれねぇ」などと言って家へ入って行こうとした。
「いやいや、十返舎一九様からそのようなものをいただく訳にはまいりやせん。十返舎一九……」
迷い人はなぜか十返舎一九の名を繰り返して、そして目を潤ませる。それを菊之助が横から見ていて怪訝そうに「なんだってんだよ」と呟いた。
「お前ら……もしや恋仲なのか?」
菊之助の問いに、高久や亀吉はおろか、茂吉や高久の手代すら固唾を飲んで返事を待った。
「はぁ? 馬鹿言っちゃいけねぇよ。俺はこんな奴見たことも……」
出だしは勢い勇んで景気よく反論した与七こと一九であったが、何か引っかかったらしく言葉を飲み込んだ。
「なんだよ。何か思い出したか?」
「んー、この情けねぇ顔……栄邑堂で見たことがあるやもしれねぇな。村田屋治郎兵衛《じろべえ》がやってる地本問屋よ」
「あああああ!!」
急に大声を上げた迷い人が大口を開けて固まった。
「なんか、思い出したのか?」
「それはこの」
そう言いながらずっと懐に大切に持っていた『東海道中膝栗毛』を取り出してなぜか口をぱくぱくとさせて言葉が出てこないようだった。与七が体を引いて変なものを見るような視線を送りながら
「その本を作ってるところだよ。あんさん、そういうことは良く出てくるのに、自分がどこの誰だかまだ出てこねぇのか……」
と、呆れて言った。
菊之助もそれには同意見だった。やたら本のことばかり口にして、俺たちを弄んでいるんじゃなかろうかと口をへの字にして片方の眉をくいっと上げた。
「与七よ、その店はどこにあるんだ」
「同じ通油町だよ。一旦表通りに出て右に行けば大きな看板がでてらぁ」
「栄邑堂。そしたらちょっくら先に行って店を確認してきやす。旦那たちは後からゆっくりきてくだせぇ」
相変わらず亀吉はせっかちで、店の名を確かめるとどぶ板を踏みしめて、たったと走って行ってしまう。
「亀の癖に早いっつってんだよ。まったく。じゃあ、俺たちも後を追うか。ああ与七よ、あちこち付けが溜まっているって話じゃねぇか。おめぇ流行りの物書きなんだろうが、金くらいしっかり払えな」
与七は気分を害したと言わんばかりに目を吊り上げて
「うるせぇよ」
と楯突いたから菊之助の方も一気に苛立ちが沸き上がって行く。
「あれを書くにはあちこち出て行かなきゃならねぇ。金がかかるんだよ。読む方はそりゃお気楽極楽だろうがよ、こちとら神経すり減らして、おまけに金も使って書いてるんだ」
偉そうに与七に啖呵を切られてムッとして口を開きかけた菊之助の前に、手を出しそれを制した高久が、穏やかに間に割って入った。
「皆さんを楽しませることを生業にするとは、とても立派にございます。しかし、その一方払うべきところにお金を払っていないと言うのは、なんとも勿体のうございますね。あちこち調べに行くために旅に行かれるのでしたら、部屋をもっと安いところに変えたらいかがでございましょう? どうせあまりいらっしゃらないのでしたら、ね? 菊之助様」
「あ? ああ、そうだな。その通りだ」
高久がひとの良さそうな顔で微笑んで、更ににっこりとしてみせて与七にたたみかける。
「本当にこれほどの流行り本聞いたことがございません。私も読みたいと思っておりますが、なかなか手に入れられないのでございますよ。ああ、申し遅れました私は三井越後屋の高久と申します。お会いできてうれしゅうございました」
「三井越後屋ってあの呉服問屋の? 日本橋一のあそこか?」
「あの一九様がご存知とは! これはこれはなんとも光栄でございます」
さっきまで険しい顔つきだった癖に、大店の若旦那に持ち上げられて与七はすっかり勢いを削がれたようであった。高久は仏のような穏やかさで振り返り、話を聞いていた家主の茂吉に向けて
「そういう事でございますので、後はお二人で相談なさるとよろしいかと」
と、話を振ってはまた微笑む。
そんなわけで、与七と茂吉を残して歩き始めた一行は来た道を引き返していた。
微笑みを絶やさず歩く高久が、長屋の子らに向けてその笑顔を振りまいているのを菊之助は商売人とはすごい生き物だと思わずにはいられない。なんでもないのに笑ってやがるし、尊敬してる訳じゃねぇのに、あたかもそうであるようにさらりと持ち上げる。嘘がすらすらと出てくると言ったら聞こえは悪いが、高久にとってこれは嘘ではなく生きていく術なのかもしれない。
「菊之助様? 先ほどからこちらを覗っておりますが、どうされましたか?」
「いやよ、おめぇは凄いと思ってな。根っからの商売人なんだな。
そういや、与七もあれでなかなか観察眼が鋭いねぇ。常日頃から話のねたになるものを探しておるんだろう」
「ええ、そのようでございますね。本人が面白い人でなくっても、誰かが面白いことをしているのを見ていてそれを書けば、それはきっとしっかり面白い話になるのでございましょう」
ふふふと最後に上機嫌で笑ってみせるから、与七の話のどこに上機嫌になるところがあったのか分からぬまま菊之助は腕を組んで歩いていく。
先ほど抜けてきた木戸を抜けると八百屋とは反対側にある紙問屋側に折れる、すると通りの先で亀吉が一心に手を伸ばしてここだと合図を送っていた。首まで伸ばして、そういう所が亀なのだと言ってやりたかったが、幾分距離がありすぎて口にできないのが菊之助には口惜しい。
しかし相も変らぬせっかちぶりで、亀吉は足踏みしながら手を上げている。そこを目指していくのは恥ずかしい。それでも行かないわけにはいかないし、行くまで続けるのだろうから、仕方ない。とはいえ、菊之助は真っ直ぐ亀吉の元へと行くことに抵抗して、少しずつ斜めに歩いて目当ての店の方へと寄って行った。すかさず寄って来た亀吉がそんな菊之助の気持ちなど気が付きもせずに
「ここです。ここです」
と、菊之助がすでに向かっていた店へと案内する。
栄邑堂の店先には旅の恰好をした男が数名、浮世絵を品定めしていた。そのちょっと奥、畳の上では今まさに何かが職人たちの手で刷られているところだった。
「喜助! おい、喜助じゃないか!」
店の者が声を上げると、職人たちが一斉に手を止め店の外にいる菊之助の連れ、迷い人へと視線を向けた。慌てて店の中から飛び出してきた男、恰幅の良い体格とお仕着ではなくいい着物を着ている辺り店の主であろう。
「菊之助様、お召し物から言ってあの方がこの店の主でございましょう。薩摩上布でございます。夏物といたしましては最高級でございます」
高久は主らしき人物が近寄って来る前にこそこそと耳元で囁いて、声が届きそうなところまで来たらスッと身を引いた。
「ええっと、私はこの店をやっております村田屋治郎兵衛と申します。あなた様方は……」
菊之助と高久の読み通り男は店の主、村田屋と名乗り、そして迷い人を何度も確認するように見ながら、二本差しの菊之助に名前を問う。
「ああ、こちら無駄に二枚目なのは八丁堀同心渡辺菊之助様だ。そして俺はその御用聞きである亀吉。こちらの品が良いのは三井越後屋の若旦那、高久さんだ」
なんでお前が答えるんだよ。と、亀吉の頭を軽く殴った菊之助が
「まあそういう事だ。で、今日はこの男がどこの誰なのか、身元を調べておったんだが……この店の者なのか?」
と、親指で迷い人を指して問い返した。
「ええ、ええ。うちの喜助でございます。数日前に出かけて行ったっきり戻ってこないので、そりゃあ心配しておりました。迷い人ってことは、どこの誰だか分からなくなっていたということでございますか?」
「その通りだ。日本橋でぶっ倒れて頭を打っちまって、まあいろいろとな」
とにかく中へと、村田屋に導かれて一行は作業を止めていた男たちに見送られて店の中へ入って行くこととなった。店に入ると濃厚な墨の香りがし、力士や遊女の浮世絵を横目に通された座敷へと歩いていき、そこで腰を下ろした。
喜助は皆に呼ばれても苦悩の表情を浮かべるだけ、主に腕を掴まれてもますます頭を抱えるだけで、思い出せないようで、一緒に部屋に入って来た時も腰を下ろしたのは高久の後ろ、要するに店の主の方ではなかった。
「んじゃあ、村田屋よ。この男、お前の店の手代であることに間違いはないか?」
皆が腰を下ろしたのを見計らって菊之助が問う。横を向いて女中にお茶の準備を指示していた村田屋が顔を菊之助に向けて、いま一度喜助の顔をしっかり確認してから、頷いた。
「間違いありません。数日前、喜助のたっての願いで、休みをくれてやりました。それから行方知れずで、店の者一同どうしてしまったのかと心配しておりました」
「喜助のたっての願い? ほぉ、なんで休みたいのか言っておったのか」
「ええ、聞かなくても分かっておりましたが一応聞きました。『抜歯師』の元へ行きたいと」
村田屋がそこまで説明すると、喜助がぴょんとはねてひっくり返った。そして、腰が抜けたような状態で
「抜歯師……」
と、青ざめ震え上がった。高久は手を差し伸べ、震える喜助を支えてやり、亀吉は驚いた顔で首を伸ばして喜助の様子をうかがっている。
「おいおい、大丈夫かよ。お前、もしや恐ろしい思いをしたって言うのは、歯を抜いたことか?」
菊之助が眉間に皺を寄せて喜助に問うと、喜助は自分の右頬を抑えてぶるぶる震えながら涙を浮かべた。
「泣くほどかよ……」
「は、はっきり思い出しやした。俺……両国に腕のいい抜歯師が来たって言う噂を、店に来たお客さんから聞いたんで、これはいくしかねぇと思いやして……それで、その……」
説明を始めた喜助の目から涙があふれ落ちてくる。大の大人、しかも男がこのようにさめざめと泣くのは見たことがない。親しいものが亡くなったとか、そういう事ならまだしも、痛みを思い出して泣くなどと……前代未聞のことだった。いくら情けない顔の頼りなげの喜助であっても、涙はあまりに似合わない。
「村田屋、こやつに人をつけて顔を洗わせろ。おら、喜助。お前も顔を洗ってちったぁしゃきっとしてこいや」
村田屋がお茶を運んできた女中からお盆を受け取って、喜助を連れていくように告げると、自ら預かった茶を菊之助たちに出して歩いた。出された茶を取り上げた菊之助はため息を吐いて、出て行った喜助が座っていたところを見つめて言う。
「喜助とはあのようにいつでも涙もろいのか」
「いえいえ、普段は気が弱いだけの普通の男でございます。いや、普通じゃないところもございますが」
自分のお茶を取り上げて膝の上で包み込んで持っていた高久が「普通じゃないところでございますか?」と聞き返した。
「普通じゃないと言っても人様に迷惑をかけたりするようなことはございません。ただ、異常なほどに『東海道中膝栗毛』が好きなのでございます」
「異常なほどってぇ、そりゃまた凄い言い方だな。ね? 旦那」
亀吉が村田屋の言葉に反応するが、菊之助は亀吉も異常なほど亀に似ていると思って、口を開きかけてやめた。さすがにここで言うのは憚れたから。
「でも亀吉親分さん。喜助さんはうちに来て口のした言葉はすべて『東海道中膝栗毛』のことに関してのことばかりにございます。そういえば作者である十返舎一九こと与七さんのことまで口にしておりましたねぇ。あれが無意識に出ていたのなら、確かに異常なほど好きだと言っていいと思います」
村田屋はそうだろう、そうだろうと言いたげに頷いた。
「あの本は確かに面白いですよ? でも何があれをあんなに惹きつけるのか全くわかりませんよ。でも、ぞっこんなのは確かで、それゆえ喜助には与七さんとは顔を合わせないように配慮しておりました」
「そりゃまたなぜ。会わせたってそこは男同士、入れあげるってこともそんなにはなかろうに」
しかも相手はあの与七。着古した着物みたいに色褪せ痩せた男だった。しかも不機嫌そうな顔は見ていて不愉快だし、好きになれる要素が思いつかないじゃないかと菊之助は思っていた。
それなのに、横から高久が
「私は少しばかり喜助さんの気持ちが分かる気がいたします。理屈じゃないのでございましょう。一旦心から良いと思ってしまうと、何もかもよく思えてしまう……憧れるとはそういうものでございますから」
と、言いながら菊之助を見ているので、菊之助は横頬に感じる視線に気が付かないふりで、ふーんと唸って見せた。
「まあ、確かに己のことは何にも覚えちゃいねぇくせに、若い女子みたいに、与七に会ったときに胸をときめかせていたっけぇ。あの与七にねぇ……あの与七だぞ」
「見方が違うんでしょうよ。俺らとは違う目線で見ておるんですよ。仕方ねぇ。恋煩いにかかった女子だって、なんでこんな男? ってことがあるじゃねぇですか」
「俺も亀吉の女房が亀吉でいいって言う理由が分からん。そういう事だな」
「そういう事っちゃあ、そういう事ですが、俺だって旦那みたいな口の悪い同心に高久さんが慕っておるのがどうにもこうにも」
「菊之助様はそれは立派なお方でございます。ええ、私の憧れの人でございます」
話が毎度おかしな方向へと向くので、菊之助は耳を引っ張って考え、話をもとに戻すことにした。
「とにかくだ、喜助という名の男が見つかった。たぶん自分がどこの誰なのかも大体わかったであろうし、分からないところがあったとしても、早いうちに思い出すだろうってことで話は一件落着でいいよな?」
村田屋は
「はい。うちの喜助でございます。長らくお世話になりました。皆さま、本当にありがとうございました」
と、深々頭を下げた。
高久は相手が頭を下げると、自分も反射的に下げてしまうようで、直ぐに同じように頭を下げて返していた。そこへ、女中に伴われて喜助が帰ってきて、今度こそ自分の店の主、村田屋の横に座して畳に手を着いた。
「あれやこれやと思い出してまいりました。お手を煩わせてしまったこと、深く反省いたしやす。特に越後屋の皆さんにはよくして頂きやして、本当に感謝してもしきれやせん」
主共々深く頭を垂れると、高久もしっかりとそれに応えて頭を下げた。ゆっくり顔を上げた喜助の顔を眺めながら、菊之助は考えていた。そう言われてみれば、高久がこの男の食べ方がおかしいと話していた、と。
「喜助は随分前から歯痛に苦しんでおったのか」
「ああ……へい。初めはちょいと痛いと思うくらいだったんですが、次第に物を食べるのが辛くなって来て」
「その痛かった歯は奥の方なのか?」
「その通りでごぜえやす。右奥の痛いところで物を噛んじまうと、頭の髄まできーんってなるので、出来るだけ口先で食らうようにしておりやした」
兎のような食い方の理由はそれだったのかと合点がいったし、何より血濡れた手拭いの謎も一気に解けた。あれは歯を抜いた後に出た、喜助自身の血であろう。口から唾と一緒に出てきたから、亀吉曰く『水っぺぇ』感じになったのも納得がいった。
「しかし、おめぇよ。へろへろしていても大人だろうよ。泣くほど怖がるってなんだよ……」
菊之助が言うと、喜助が身を乗り出して今までで一番真剣な表情で語るのだ。
「同心様。歯を抜いたことはごぜえますか? しかも奥歯を。それはそれ身の毛もよだつ恐ろしさでごぜぇやす。
何が怖いって、柱に体ごと縛られているのに歯を引っ張られると体が浮くんでごぜぇますよ。しっかり張った根っこをギシギシと引っ張られて、それがまた体全身に痛みを運びやがって……もうなにが痛ぇのか、どこを引っ張られているのか……俺は地獄に行って舌を抜かれるのと同じような経験をしたんじゃねぇかとおもっておりますんで。
ありゃ、地獄です」
嫌な顔をして聞く菊之助に更に喜助が煽って行く。
「この世のものじゃねぇような悲鳴がずっと聞こえていて、それが自分の悲鳴だって気が付くのに時間がかかるほど、あの世に飛んで行っちまうんです。悲鳴が止むのは自分の血で息が苦しくなって……」
「いや、もういい……分かった分かった。
あれだな、その抜歯師にもお灸を添えておくとしよう。沢山血が出たなら、そのまま帰すのはまずい事くらい経験で分かるであろうに。
亀吉、喜助に人相なんかを聞いて両国へ行って来てくれや。
何も人を欺いたり、殺めたりすることばかりが罪じゃねぇ。先が分かっているのに放っておくことだって立派な罪だ」
へい。と、返事をしながら立ち上がった亀吉がすぐさま抜歯師の見てくれを喜助に問い出した。
*****
栄邑堂の面々に見送られて、日本橋方面へと向かい始めた菊之助が寄りたいところがあると言うので、高久が興味を持って問うと、菊之助が自分の右頬に手を当てがった。
「痛くはねぇがよ、喜助の歯痛の話を聞いていたら、ちょっとばかし気になっちまって。楊枝屋によって房楊枝を買って帰ろうと思ってな」
それならばと高久が提案する。
「日本橋四丁目にある『歯磨き楊枝問屋 瓢箪屋次郎左衛門』の店が良いと思われます。なんせ今人気の『団十郎歯磨』を扱っている店にございますから」
「お前は流行りもんが好きなのか?」
「いえいえ、そんなことはございません。ただ、商いの都合で、いろいろと耳に入って来ますので……『団十郎歯磨』は、磨いた後、せいせいするのだと聞いております。いかがでございましょ」
「そうさな、試しに買ってみるか」
菊之助が言うと高久も嬉しそうに頷いた。
「同じものを使えるとは、なんだか距離がまた一つ近づいた気がしまして、大変うれしゅうございます」
高久も使っているのか、それとも一緒に行って買うつもりなのか。聞いても仕方ないので、先ほどから高久が手に持っている本を見下ろして問う。
「なんだ、おめぇ『東海道中膝栗毛』を貰ったのかよ」
「いえいえ、お金は払ってまいりました。今日から菊之助様と同じものを読むことが出来ます」
「俺はもう読まねぇよ」
「え、どうして……ああ! あれは喜助さんの本でございましたね。わかりました、おい」
高久は後ろから着いてきていた手代に声を掛けて、何か耳打ちし、手代は頷いて今来た道を引き返し始めた。菊之助は高久が何を手代に命じたのか大方予想がつき、そして天を仰いで高久にバレぬように息を吐いた。
憧れの人か……。やれやれ。高久も頭を打ったら、俺の名前を言うんじゃあるめ? それはなんていうか、あんまし嬉しかねぇやな。
「ああ、高久。そういや巾着をだな……」
珍しく二人っきりで歩いていく菊之助と高久。高久はこれ以上嬉しいことないと言わんばかりの表情で、菊之助と歩いていく。
『憧れの人』終わり
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歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
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楽しく読ませていただきました!
ありがとうございます!