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03

招かざる客

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07
 石城島島民の避難は、島民と自衛隊員に死傷者を出しつつもなんとか完了していた。
 島にある県立小学校は津波や台風による水害を見越して、島の中央部の高台に建てられている。構造は築10年の鉄筋コンクリート。丘の周囲の傾斜はかなり急であり、道は西側と北側に舗装された道路が2本あるのみ。
 陸上自衛隊混成部隊は、島の砂浜の野営地を放棄。丘に防衛戦を引いて恐竜の進撃に備えることとした。司令部は小学校の校庭にテントを設置して置かれることになった。
 車両やヘリは、丘の中腹にある造成地に仮置きすることとした。
 島を一望できる立地条件に加えて、基本的に小学校にいたる2本の道路を封鎖すればいいのだから、立てこもるには最適と言えた。
 だが、万全とは行かない。今のところ恐竜が丘に向かってくる様子はないが、いつまでも安全とは限らない。
 加えて、今後どうするかに関しては司令部でも意見が対立している状態だった。

 「やはり本島からヘリを廻してもらうのは難しいんですか?」
 「残念だがそうだ。運悪く沖縄全体が低気圧に見まわれだしたからな。ヘリを飛ばすのは危険と判断されたようだ。こちらから輸送ヘリを飛ばすにしても、受け入れられる場所があるかわからないそうだ」
 司令である池田の返答に、諏訪部は頭をがしがしとかきむしる。
 この島を覆っている原因不明の局地的な低気圧だけであれば、ヘリで強行突破して輸送を行うことも可能だったかも知れない。だが、折悪しく南から上がってきた大規模な低気圧が沖縄列島全体に豪雨を降らせている。沖縄本島には輸送艦“しもきた”が停泊し、陸所のヘリ部隊も駐留しているが、悪天候のためにヘリによる輸送は不可能という回答が来たという。
 「“ワスプ”はどうです?大型ヘリを出してもらって」
 「それも難しいな。“ワスプ”とはいまだに直接交信ができない状態だ。
 こちらから沖縄本島に電話で連絡して、本島から無線で“ワスプ”に連絡を取ってという迂遠なやり方になってしまう。それが危険なのはわかるだろう?」
 池田の答えに、いよいよ諏訪部は言葉を失う。
 揚陸艦からヘリを出してもらい、人や物を輸送するというのは考える以上に難しいことなのだ。
 事前にタイムスケジュールや離着陸の場所を念入りに打ち合わせ、連絡を密にしながら行う必要がある。原因不明の通信障害は依然として続いていて、“ワスプ”と直接無線で連絡が取れない状況でヘリによる輸送を依頼するというのは自殺行為に等しかった。悪天候で視界が効かない状態ではなおのこと。
 「結論は出ましたな。今のところ島民の避難は無理だ。
 丘を封鎖して小学校に立てこもって様子を見るべきです」
 幕僚の1人が締めくくるように言う。
 司令部に重苦しい雰囲気が流れる。取りあえず様子見という策は一時しのぎでしかないことを誰もが知っていたからだ。
 草食恐竜たちが島の西側の作物や森林を食い尽くせばこちらに向かってくることは当然予測された。そして、そうなれば草食恐竜たちをえさにする肉食恐竜も当然ついてくることになる。
 自衛隊に恐竜と交戦した経験はない。当然恐竜に対処するマニュアルも存在しない。それに、恐竜たちは赤外線放射量が極端に少なく、赤外線センサーや誘導兵器はほとんど役に立たないことが予想された。極めつけに、恐竜たちはどれも怖ろしくタフだった。小型の部類に入るドロマエオサウルスでさえ、小銃弾数発を直撃させなければ殺すことはできない。ティラノサウルスともなると、50口径重機関銃でどうにかダメージを与えられるレベル。確実に殺そうと思えば戦闘車や攻撃ヘリの銃撃が必要だった。
 問題はそれだけではない。天文学研究所の研究員である桑島の見解によれば、近いうちにタイムスリップの揺り戻しが起こる可能性があるという。その時なにが起こるかは予想がつかないが、“イスラ・ヌブラル”が6500万年前に送り返されるだけで済むかどうかわからないのだという。
 できれば早々に島民を島から避難させ、自分たちも離脱したい。それは全員の一致した本音だった。だが、通信障害と低気圧がそれを許さない。
 司令部内部では、多少無理をしてでも避難を実行すべきとする意見と、安全を期して様子を見るべきという意見が対立し、議論が交わされていた。
 だが、結局のところ方針は後者と決まったことになる。
 「わかりました。
 ですが、隊員たちにはできるかぎり車両の中か見通しのいい場所にいることを徹底させましょう。
 油断したら、殺された4人の二の舞です」
 諏訪部が、ドロマエオサウルスの奇襲に対して注意を促す。
 「しかし、島民は全員学校に避難した。そして、家畜や食料は置いてきたままだ。わざわざ人間を襲うかな?食い物なら取りあえずは他にあるだろう」
 「4人の遺体が喰われていなかったことを思い出して下さい。やつらはスポーツハンティングをするんです。他にえさがあるかどうかの問題じゃありません」
 口を挟んだ機動戦闘車の車長である一尉に、諏訪部はぴしゃりと言い返す。
 「それに、賭けてもいいですが、やつら人間を知っています。もっと言えば、タイムスリップする以前に銃を持った人間と戦った経験があるんです。
 報告した通り、あちらで我々が襲われた時の戦闘力、他に説明がつきません」
 諏訪部は“イスラ・ヌブラル”でドロマエオサウルスの奇襲を受けたときのことをもう一度思い出していた。まず、銃という人間が持つ鉄の塊の危険性を知っていた。一方で、正面にしか攻撃できないことも。あまつさえ、弾が切れれば再装填するまで脅威にならないことまで知っていた。
 諏訪部には確信があった。撃鉄がからの薬室を打つ音を聞いて、ドロマエオサウルスは突進してきた。弾が切れた銃は脅威にならないことを知っていなければ不可能なことだ。
 「おいおい、6500万年前、人類は影も形もなかったんだろ?どうやったら銃を持った人間と戦えるんだ?」
 「現にタイプスリップは起こっているんです。
 人為的に可能かどうかはともかく、タイムスリップで6500万年前に行った人間がいても不思議はないでしょう?
 実際、あっちで人工的な建造物の痕跡を見つけましたからね」
 口を挟んだ攻撃ヘリのパイロットの一尉は、諏訪部の鋭い切り返しに言葉もなかった。
 司令部の空気がさらに重々しくなる。ドロマエオサウルスの俊敏さと攻撃力に加えて、人間と銃に対する対処法まで知っているというアドバンテージは大変な驚異だと認めざるを得なかったからだ。
 「まあ、用心に越したことはない。ここは諏訪部二尉の意見を入れておこう。単独行動厳禁。必要がない時は車両か屋内での待機を徹底する。
 それと、小銃には常に着剣をしておくこととしよう。
 それで行こう」
 池田が沈黙を破るように言う。司令部の空気がいくらか和らぐ。状況は悪くなる一方だが、今後の方針が決まったことは幾分か心が楽になるきっかけになったのだ。
 「あ、それともうひとつ。恐竜をこちらに近づけないための策を考えてみました」
 諏訪部の後輩で、西普連の三尉である堀がA4のコピー用紙に鉛筆で書かれたメモを池田に渡す。
 「なるほどな。これはいいかも知れん。堀三尉、すぐに取りかかりたまえ」
 池田が感心した様子で堀の具申を採用する。メモを回し読みする他の幹部たちも、内容を読んで表情を明るくする。なかなかに目の付け所がいいと感服したのだ。
 「後もうひとつ。
 島の西側の様子を見ておく必要があると思います。できるだけ近くで。戦闘車をお借りできれば自分が偵察に行ってきます」
 「わかった。決して無理はするな」
 諏訪部の具申を池田は採用することにする。
 通信障害と電子機器の不具合に加えて悪天候で、ヘリは相変わらず低空飛行ができないままだ。上陸した恐竜たちが今どうしているか、今後どのような行動をとるであろうかが全くわからない状態だった。
 偵察をしておくに越したことはないはずだった。
 「諸君、状況は非常に困難だが、我々は島民を守る義務がある。
 自衛隊員を志した時の気持ちを思いだし、誇りを持って任務に当たってもらいたい。
 解散」
 池田の訓示を合図に、幹部たちは自分の任務を果たすべく散っていった。

08
 予想されたことだが、舗装された道路と無限軌道の相性は最悪だった。
 89式装甲戦闘車は、丘の中腹の駐屯地を出発して以来がたがたと小刻みに揺れっぱなしだったのだ。ともあれ、多少の兵員輸送能力があって、大型の恐竜でも撃退できる攻撃力を持つ車両となると、装甲戦闘車くらいしかなかったのも事実だった。
 諏訪部は石田曹長以下、西普連から派遣された隊員5人を連れて偵察に出ていた。前回の偵察で死傷者を出した挙げ句に遭難した経験を活かして、今回は装甲戦闘車で移動することにした。
 その考えは間違っていなかったらしい。恐竜たちも戦闘車の外見と大きさに恐れをなしたのか、こちらが近づくと逃げ去っていく。野生動物としては自然な反応だった。
 勝てるケンカしかしないのは生きるための定石だ。負けるとわかっているケンカは問題外だが、勝てるかどうかわからないケンカにしても避けるに越したことはない。自然界は過酷だ。負傷して動けなくなれば、飢え死にするか他の動物のえさになる運命が待っている。勝てるかどうかわからないケンカを挑んで負けた挙げ句、怪我で動けなくなったものに慈悲をかけるものは自然の中には存在しない。
 「堀三尉が考案した仕掛けもうまくいっているようだな」
 「ええ、島の中央部に進もうとしていた恐竜たちが引き返し始めてる」
 外周監視カメラのモニターを交替で覗きながら、諏訪部と子安は満足げに言葉を交わす。
 こちらの思惑通り、恐竜たちはきびすを返して島の西側に引き返しつつある。人間には全く体感できないものでも、恐竜たちにとっては耐えられないものというわけだ。この雨の中でさえ。
 堀が考えた仕掛けは極めてシンプルだった。上部をくりぬいた一斗缶にアルミ製の斜めの雨よけを取りつける。丸めた紙くずを中に詰め、軽油を染みこませる。そこに島で生産している唐辛子の実を放り込んで火をつけるのだ。
 ほどよく雨で湿った紙くずは、猛烈な煙を上げながら燃焼する。人間にとっては目と鼻が多少ひりひりする程度の刺激だが、嗅覚に優れる恐竜たちにとっては鼻の奥にわさびを詰め込まれたような苦痛であることだろう。
 「取りあえず大型恐竜たちがすぐに丘の方に向かうことはなくなったと考えてよさそうだが…」
 諏訪部にとっての不安は別のところにあった。モニターで観察していると、小型の恐竜が民家や木立の間にちらほら見えるのだ。子細はわからないが、とにかく先だって砂州を渡ってきたトリケラトプスとエドモントサウルスの群れ以外にも、恐竜たちが石城島に渡ってきてしまっているのは間違いない。
 そうなると問題だった。偵察ヘリからの情報で、“イスラ・ヌブラル”にはもはや草食恐竜の群れを養うだけの食物は残っていないことがわかっている。草食恐竜たちは今さら“イスラ・ヌブラル”に帰っても食えないからと、石城島に定着しようとしてしまう可能性が考えられた。
 そうなれば、草食恐竜たちを捕食する肉食恐竜もこちらに居着いてしまうことだろう。住民にとって危険であることはもちろんのこと、タイムスリップの揺り戻しが起きた時に多数の恐竜が現代に取り残されてしまう危険があった。数の問題ではないかもしれないが、あまり多数の恐竜が元の時代に帰れなかった場合、タイムパラドックスが起きてしまう可能性も考えられた。
 「二尉、もうすぐつくぞ。君らが草食恐竜の群れと交戦した現場だ」
 砲塔の中に座る車長の言葉に、諏訪部はカメラを操作して目当てのものを探す。それはすぐに見つかった。
 「遅かったか…」
 エドモントサウルスが3頭、トリケラトプスが2頭。計5頭の死体に肉食恐竜たちが群がっている。寒色系の鮮やかな羽毛と、がっしりして大柄な体つきには見覚えがあった。ユタラプトルだ。
 一般に、野生の肉食動物はあればあるだけ食料を食ってしまう。自然界では次にいつ食料を確保できるかの保証などなく、食えるときに食っておく必要があるからだ。肉食動物であれば特に。
 ユタラプトルたちは、大型の草食恐竜5頭という大盤振る舞いに狂喜して、肉をあさるのに余念がなかった。
 「これじゃ空輸どころの騒ぎじゃありませんね…」
 「うむ…。それに、今さら空輸しても遅いだろうな。もうこちらの島をえさ場と認識しているだろうから」
 諏訪部は草食恐竜たちの死体をできるだけ早く“イスラ・ヌブラル”にヘリで空輸すべきと考えていた。今正に目の前で起こっている事態を怖れていたからだ。
 肉食動物はより食料が得やすいところを選んで生活する。ある意味では当然の判断だ。そして、多くの肉食動物は生きた獲物でも死体でも食べる。“石城島に来れば大量の肉にありつける”と多くの肉食恐竜が認識してしまう可能性があった。それは、揺り戻しが起きた時、より多くの恐竜たちが現代に残ってしまう可能性を示唆していた。
 「こうなった以上、恐竜をあっちに返す方法を考えなきゃならんな。
 取りあえず引き上げよう」
 諏訪部は草食恐竜の死体を空輸することは諦めることにして、引き返すことにした。
 
 「車長、止めて下さい」
 諏訪部の言葉に、戦闘車はブレーキをかけて停車する。養豚場の前だった。
 「後部ハッチを開けます」
 「おい、大丈夫か?」
 「遠くには行きません。笹沼、カメラを頼む」
 せっかく戦闘車で来た手間を台無しにしかねない諏訪部の行動に車長は難色を示したが、偵察という任務を果たさないわけにも行かず、ハッチを開ける許可を出すしかなかった。
 「やはりこうなりましたね」
 「予想はしていたが…」
 周囲を着剣した89式小銃で警戒しながら、慎重に豚舎に近づく。あまり近づくのは危険と判断し、双眼鏡で状況を確認する。豚舎の脇では、2頭のドロマエオサウルスが豚を喰っていた。最近では少ないが、この島で飼育されているのはステロイドなどを使用せず、植物質のえさだけで育てた豚だ。無駄な脂肪がなく口に合うのかもしれない。
 「記録しておきます」
 「頼む。後々損失補償やらの問題になってくるだろうしな」
 養豚場の豚が全滅したとなると、何千万単位の損害になる可能性もある。それに今回自衛隊が恐竜の群れを攻撃せず、避難を優先したことが適切だったのかどうか、後で行政訴訟やら情報開示請求やらになって跳ね返ってくるのはほぼ確実と言えた。
 悪いことに、沖縄は太平洋戦争で味方であるはずの日本政府と日本軍にさんざんな目に遭わされた経験から、暴力装置である自衛隊に対する反感も強い。「自衛隊が恐竜を追い払っていれば農業に対する損失は避けられたのではないか」という問題になってくるのは火を見るより明らかだった。
 石城島で起きていることは可能な限り記録しておくのが望ましかった。たとえ後々自分たちに不利になる証拠であろうとも。
 「!?」
 何かが崩れる音に、諏訪部と笹沼はぎょっとして音のした方に銃口を向ける。
 10メートルほど向こうにいたのは小型の角竜らしい草食動物の親子、計5頭だった。大きいのが親で、小さい4頭は子供だろう。納屋から豚の飼料と思しい果物を引っ張り出して喰っている。
 「小さいし角もない。プロトケラトプスですかね?」
 「その割りにはフリルが大きいし、角の代わりにこぶが発達しているな…。顎もかなり器用に動くようだ。
 いまだ化石が発見されてない、我々の知らない恐竜かもな」
 その角竜は、恐竜オタクである諏訪部の記憶しているいかなる種とも完全に一致しなかった。
 確かに大きさは成体である親でも2メートル前後、角竜としては小さい。だが、原始的な角竜にしてはフリルが大きくて飾り気がある。それに、額には一対のこぶがあった。パキリノサウルスのように、角の代わりに角質のこぶを発達させた種だろうか。なにより、顎はかなり器用に動くらしく、固い皮を持つ瓜をかみ砕いてうまく咀嚼している。
 小型で原始的なまま環境に適応したプロトケラトプスとも、身体を大型化して顎と歯を発達させることで生活圏を拡大したトリケラトプスなどとも違う。全く独自の進化を遂げたとしか思えない姿だった。
 「もしかしたら新種ってわけか?名前はイシグスクサウルスかな?」
 「発見者の名前をにちなんでスワベサウルスでもいいと思いますがね」
 こんな状況だが、もしかして新種を発見したのかも知れないと思うと、2人は興奮していた。恐竜というのはやはりロマンがある生き物なのだと感じられた瞬間だった。
 その時、甲高い鳴き声を2人は耳にしていた。鳴き声の方に目を向けると、先ほどの豚を喰っていたドロマエオサウルス2頭が島の北側に向けて声を発していた。どうやら北側にいる仲間と会話しているようだ。
 都会でカラスが鳴き声で高度な意思疎通を図っているように、ドロマエオサウルスにも言語がある。諏訪部はそう確信するものがあった。
 ドロマエオサウルスはしばらく鳴き声で何事か会話し続け、やがて北の方角に向けて駆けだした。迷いのないその動作には明確な目的が感じられた。
 「こりゃやばいかも知れないぞ」
 諏訪部は周囲の風向きを確認して、怖ろしい可能性に思い至る。
 今のところ風は北から南に向かって吹いている。つまり、北から回り込めば堀が考えた唐辛子の煙に悩まされることなく小学校に到達できるかも知れない。
 「やつらまさかスポーツハンティングをしに学校に向かったと?」
 「だとしたら一大事だ!戻るぞ!」
 諏訪部と笹沼は偵察を放棄して一目散に戦闘車へと戻った。無線で連絡して小学校を警護している部隊に注意を喚起しなければならない。あれと白兵戦になったら、腕に覚えのある自衛官でも危険と考えざるを得なかった。

09
 「わかりました。戸締まりを徹底して周囲を警戒します。
 難しいですが、お任せ下さい」
 小学校の警護の指揮を取っていた堀は、ドロマエオサウルスが群れをなして接近しつつあるかも知れないという報を受けていた。
 少し考えてから、携帯無線のプレストークスイッチを押す。
 「総員、作業を中断して聞いてくれ。諏訪部二尉が島の北側を迂回して中心部に向かうドロマエオサウルスを見たという報告が入った。こちらに向かっているかどうかははきとはしないものの、スポーツハンティングを行うというドロマエオサウルスの習性から考えて、ここに“狩り”に来る可能性は高い。
 校舎及び体育館の戸締まりを徹底し、住民に屋内待機を厳守させるように」
 『甲班了解』『乙班、戸締まりの確認に入ります』『丙班も了解です』
 警戒に当たる各班から応答が入る。ドロマエオサウルスの力では鉄筋コンクリートの校舎と体育館を破壊するのは不可能だろう。しかも窓に使われているのは台風などを見越して厚手の強化ガラスだ。映画のように簡単に割って入り込むことも不可能なはずだ。
 戸締まりをして屋内待機を徹底している限り危険はない。事前に小学校の教員や用務員に侵入経路になりそうな場所の確認もしてある。恐竜どころか小動物さえ入り込むすきはないはず。
 そう思うのだが、堀はどうも嫌な胸騒ぎを感じて仕方がなかった。

 だが、堀の嫌な予感は的中しようとしていた。
 「はあ…間に合った…」
 女子トイレの便座に腰を下ろした少女は盛大に息を吐く。彼女の名前は氷上かなりといった。この島に住み、小学校に通う小学6年生だ。
 彼女も他の島民と同様に小学校に避難してきているが、避難生活の苦労を噛みしめているところだった。不便はいろいろとあるが、中でもトイレが混雑するのが大問題だ。特に女子トイレにはどこも行列ができている。この小学校は離島にあるだけに規模が小さい。島民の大半を寝泊まりさせることを想定していないからこういうことが起きる。
 「蒸し暑いな…」
 かなりはTシャツの襟が汗でじっとりと肌に吸い付く感触に辟易する。小規模な校舎と体育館の空調では、島民全員を収容して快適な温度と湿度を保つことは困難なのだ。低気圧で湿度が上がっているからなおのこと。
 やっとトイレに座ることができた解放感と蒸し暑さ。この相乗効果がかなりに致命的なミスを犯させていた。外の空気を吸いたいという欲求から、トイレの個室の窓を開けてしまったのだ。
 大人たちから戸締まりは厳重にと言い渡されていたが、ここは2階だし、窓が開く範囲は狭いから大丈夫だろうという甘い判断がミスを犯させた。
 溜まっていた尿意を解放しながら、背後にふと気配を感じてかなりは振り返る。心臓が口から飛び出そうになった。
 鳥ともトカゲともつかないくさび形の顔が窓から覗いていたのだ。目は爬虫類そのものの細い瞳孔をしていて、剣呑な雰囲気を漂わせている。口にはノコギリのような歯が並んでいる。
 「きゅあああああああーーーーーーっ!」
 かなりの悲鳴がトイレに響き渡った。
 窓からの予期せぬ来訪者にパニックになったかなりは下着を上げるのも忘れ、黄色い飛沫が床を汚すのもかまわず個室から逃げ出す。
 「どうしましたか!?」
 校舎内を巡回していた女性の三曹が悲鳴を聞いて駆けつけてくる。
 「恐竜!恐竜だ!入って来たよ!」
 かなりは必死で訴える。言葉が通じるように発音できたかどうか自信がなかったが、三曹はレッグホルスターから9ミリ拳銃を抜いて女子トイレの中に向ける。
 「だめだ、一般人に当たる!」
 「みんな、出て!早く出て下さい!」
 少し遅れて駆けつけてきた堀が女子トイレの中にいる人間を外に誘導する。だが、その間にドロマエオサウルスは狭い窓から器用に入り込んでくる。
 「やばい、何頭も入り込んでくる!」
 「撃て!撃て!」
 2人は拳銃の引き金を立て続けに引くが、ドロマエオサウルスはトイレの個室の壁をうまく使い、射線をやり過ごす。そして、機転を利かせた1頭が個室の敷居の上に上がり、通風口のフタを外して中に入り込んだ。もう1頭がそれに続く。
 「ちくしょう!逃げられる!」
 「待った、まずは窓を閉めろ!」
 通風口に入り込んだ2頭も問題だが、まずは問題の元を絶つことが先決と、2人はドロマエオサウルスの侵入経路を塞ぐことにする。
 だが、三曹が窓の金具に手をかけて閉めようとした瞬間、3頭目のドロマエオサウルスが窓から入り込んで来ようとしていた。
 「ちいっ!こいつ…!」
 「かまわん!そのまま押さえてろ!」
 堀は窓に挟まったドロマエオサウルスの頭に向けて9ミリ拳銃の銃口を向ける。
 「悪く思うなよ」
 見栄を切るかのように行って、堀は引き金を引いた。脳漿と頭蓋骨が混じったものが飛び散り、ドロマエオサウルスは絶命した。堀はそのまま銃口でドロマエオサウルスの死体を窓の外に押しやる。
 窓が閉じられ、取りあえずこれ以上の侵入者が入り込んでくることは避けられた。だが、これで終わりではない。ドロマエオサウルスは2頭でも充分脅威になるのだ。隠れる場所が多い屋内では、むしろ屋外より厄介かも知れなかった。
 「なんで窓開けたりしたの?戸締まり厳守って言われなかった?」
 三曹はかなりに向けて、つい苛立ち紛れに言ってしまう。
 「だって…蒸し暑かったし…。ここは2階だから安全だと思って…」
 そのかなりの返答がまずかった。
 「言い訳するなよ!」
 「そうだよ!どう責任取るつもりだよ!」
 「2階だから安全て馬鹿じゃないの!?現にやつら入り込んで来たじゃん!」
 島が恐竜に蹂躙されて作物や家畜が喰われ、自分たちは恐竜の脅威から逃れるために避難しなければならない。避難生活は不便でストレスも溜まる。
 この数日溜まっていたストレスが、かなりに向けて爆発してしまったのだ。トイレの順番待ちをしていた避難民たちが激昂して口々にかなりを罵倒する。
 「やめなさい!
 誰が悪いかを云々するより、これからどうすべきか考えて下さい!」
 堀の一喝で、避難民たちは渋々口を閉じる。
 だが、ストレスを爆発させていても仕方ないと考えただけで、納得していないことは傍目にも明らかだった。
 危ういバランスの上になんとかなり立っていた避難が破綻してしまうかも知れない。堀はそんな嫌な予感を感じずにはいられなかった。
 
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