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05

不退転の航路

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03
 なんとか避難民が乗ったヘリを送り出した陸自混成部隊は、いよいよ本格的な撤収作戦に取りかかっていた。
 避難場所していた小学校は放棄。万一の火災などの事態を考え、電気はブレーカーが全て落とされ、プロパンガスも元栓を閉じられる。
 けが人や高齢者などは自衛隊の車両に乗せられ、他は相変わらずの雨の中徒歩で歩き始める。目指すのは島の東の砂浜。そこに海自のエアクッション揚陸艇が迎えに来る手はずだ。それに乗って沖縄本島まで一気に脱出する。
 ドロマエオサウルスの気配は依然として周囲から消えることはない。それに、自衛隊の砲撃を浴びて島の西に向けて後退した草食恐竜の群れも、いつまた東を目指すかわからない。もはや島の西側には草食恐竜の群れを養えるえさはないのだ。
 「全部隊、周辺警戒は怠るな。だが、置いて行かれないようにしろよ。
 やつらは孤立したところを狙ってくるぞ」
 避難民を護衛する陸自の車列の殿を務める諏訪部は、87式指揮通信車のデジタルペリスコープで周囲を警戒する。そして部隊全体に注意を促す。
 羊が群れで移動するのは、狼や野犬の脅威から身を守るためだ。イワシやアジが集団で移動するのは、カツオやサワラなどの大型の魚の顎から逃れるためだ。逆に言えば、群れからうっかり離れた個体はたちまち餌食にされることになる。
 もちろん、現代の頂点捕食者たる人間は本来であれば狩るがわにいるはずだった。だが、今この島に起きている状況に限ってはその理屈は全く当てはまらない。油断すれば餌食にされるのは間違いなく人間の方だった。
 陸自の隊員達もそれはよく承知していた。
 『7時の方向の植え込みの中で何か動いています。やつらつけてきてますね』
 『いっそ何発かお見舞いしてやっちゃどうだ?少なくとも足止めにはなるだろう』
 『いや、やつらを甘く見ない方がいい。挑発してこちらを消耗させる作戦かも知れない』
 隊員たちは着剣した89式小銃の銃口で油断なく周囲を警戒しながら軽口交じりにやり取りする。
 自分の腕への自信、厳しい訓練をこなしてきた自負、未知の敵に対する恐怖、得体の知れない現象の中に置かれてしまった不安。そう言ったものが彼らの中で複雑に入り混じっていた。
 「落着け。できれば移動中に戦闘は起って欲しくない。
 こちらから挑発するようなことはだめだ!」
 諏訪部は無線で伝えて隊員たちの手綱を締める。緊張と興奮のあまり、故あれば引き金を引きたがるような空気はうまくない。すくなくとも目的地の砂浜に到着して、防御態勢が整うまでは。
 その措置は功を奏した。
 相変わらずドロマエオサウルスが物陰に隠れながらつけてくる気配は感じられた。が、幸いにして戦闘が起こることはなく、混成部隊と避難民は砂浜に到着することができたのだった。

 諏訪部が乗る指揮通信車が砂浜に到着すると、ちょうどエアクッション揚陸艇が轟音を上げて砂浜に乗り上げてくるところだった。
 相変わらずすごい迫力だと思わずにはいられない。シャチはアザラシを負って砂浜に乗り上げて来ることがあるが、インパクトは比ではない。縦に長いだけでなく、横幅もあり、なおかつホバースカートの部分がマッシブな印象を与えるエアクッション揚陸艇は、さながら小島が砂浜に乗り上げて来るような荘厳さを感じさせる。
 「島民の方は2列に並んでください!四角形の兵員輸送モジュールに乗ってください!」
 「ほらそこ!止まらないで!そのまま進んでください!」
 「え、トイレ?時間がありません。モジュールの中の簡易トイレで済ませてもらうことになります!」
 陸自と海自の隊員達が拡声器と身振り手振りで島民たちを誘導していく。なかなかに大変な作業であるようだった。
 なにせ、島民たちは当然のようにエアクッション揚陸艇に乗った経験などない。勝手がわからない上に、乗ったとしてこの後どうなるのかという不安にさいなまれているようだ。さりとても、ここに残っても恐竜に蹂躙されるだけだとわかっているから、みな渋々でも動いていく。ばかでかい筆箱か、飯場のプレハブとでも思える正方形の兵員輸送モジュールに向けて整然と列をなして歩いて行く。
 「あ、諏訪部さーん!」
 「ああ、桑島さん。どうしました?」
 諏訪部は、桑島が手を振りながら近づいてくることに気づいた。かっぱは来ているが、横殴りの雨の中では大して役に立たず、濡れてしまっているのがわかる。
 それでも、もともとタフな気質なのか、学者としての矜持のたまものか、疲れた様子を見せることはない。
 「一応お知らせしておこうと。
 正体不明の電磁波の受信パターンに変な法則と言うか決まりがあるのが分かったんです」
 「というと?」
 「昨夜、草食恐竜の群れが島の東を目指して向かって来た時、わずかですが電磁波が強まったんです。
 ところが、自衛隊が彼らを追い払うと元に戻った。
 それだけじゃないんです。学校でドロマエオサウルスが襲って来た時も、ごくわずかですが電磁波のパターンに変化がありました。そして、あなたがたが彼らを追い払うと元に戻った」
 諏訪部は桑島が言いたいことがなんとなく想像できて嫌な予感にさいなまれる。
 「つまり?」
 「6500年前から送られて来た彼ら。つまりこちらから見れば異物である恐竜たちが電磁波と相関関係があるかも知れないということです。あくまで推測ですけどね。
 これもあくまで推測ですが、タイムスリップの揺り戻しにも関係するかもしれません」
 「具体的にはどうなる?」
 「もし、揺り戻しが起こったとき恐竜の近くにいたら、巻き添えを食う形で彼らの時代に連れていかれるかも知れない。そういうことです」
 桑島のその言葉に、諏訪部は体と心が鉛のように重くなるのを感じた。この島から脱出すればなんとかなると思っていたのに、もし恐竜の追跡を振り切れなければ揺り戻しに巻き込まれる可能性がある。
 諏訪部は、白亜紀のどこともわからない場所で途方に暮れている自衛隊員と避難民たちの様子を想像せずにはいられなかった。やがて枯渇する燃料と弾薬。じわじわと恐竜の餌食になって行く者たち。なんとか生き残った者たちにも、物陰に隠れ、恐竜の陰に怯えながら真綿で首を絞められるような最後が待っている...。
 「急いだほうが良さそうだ。桑島さん、ありがとうございます。大変参考になるお話でした。」
 諏訪部はそれだけ言って桑島から意識を逸らし、車両を揚陸艇に乗せる作業の指示を始める。
 理不尽な状況を桑島のせいにするような態度は不実とは重々わかっている。だが、これ以上桑島から残酷な予測を聞かされ続けて正気でいられる自信がなかった。諏訪部も他の隊員と同様、それだけ追い詰められていたのだ。

04
 百里を行く者九十里を半ばとす、という言葉がある。
 物事は終わりに困難が多いから、九十里を半分と心得て慎重に油断なく行動すべし。と言う意味だ。
 エアクッション揚陸艇への積み込み作業は思いの外順調だった。
周辺には相変わらずドロマエオサウルスの気配が絶えなかったが、襲いかかってはこない。自衛隊員たちによって唐辛子で刺激臭のするかがり火が引っ切りなしに焚かれているせいで近寄りにくいことに加えて、砂浜で隠れる場所がないことで攻めあぐねているようだった。
 彼らの強さは物陰に隠れながらのゲリラ戦にある。逆に言えば隠れる場所がなければ、銃を持った人間に対するアドバンテージは全くないことになる。
 おかげでというか、積み込み作業は予定より早く進んでいる。後は一番かさばる16式機動戦闘車を積み込めば終わりだ。
 それだけに、周囲を警戒する自衛隊員たちは油断なく目をこらす。あと少しで脱出できるのだ。一瞬の油断でなにか大事があってはつまらない。
 『こちらトンビ、周辺に敵影認められず。引き続き警戒す』
 OH-1からの通信に、自衛隊員たちの間に安堵の空気が拡がる。このタイミングで周辺に恐竜の動きが認められないならば大丈夫だろう。
 が、その安堵は次の瞬間打ち砕かれることになる。
 『こちら第一班!ティラノサウルスが海から上がってきます。あ、もう一頭!
 繰り返す、ティラノサウルスが海から接近中!数は二頭!』
 隊員たちはその通信に、海の方に目線を向けて絶句する。まるで怪獣映画さながら、2頭のティラノサウルスがゆっくりと海からあがり、その巨体を現したのだ。距離は30メートルと離れていない。
 2頭とも大柄で逞しい身体をしていてほとんど見分けがつかないが、1頭は脇腹に火傷の跡のようなケロイドが目立つ。自衛隊との交戦でできたものだろうか。もう1頭は前肢の根元、人間で言うと肩口の部分に刀傷のような跡がある。これはおそらくトリケラトプスなどの大型の草食恐竜と戦ってついたものだろう。
 「戦闘用意!
 無反動砲とMATを前面に押し出せ!
 池田隊長!16式も戦闘に参加させる許可を!」
 『あいわかった!16式積み込み中止!
 速やかにティラノサウルスを排除せよ!
 諏訪部、指揮はお前が執れ!』
 諏訪部の意見を容れた池田の命令に、エアクッション揚陸艇のスロープを上っている途中だった16式は逆進して砂浜に降り立つと、砲塔をティラノサウルスの方に向けて戦闘態勢に入る。
 他の自衛隊員たちも無反動砲や対戦車ミサイルの安全装置を外し、ティラノスウルスに対応する体勢を取る。
 隊員たちの間に緊張が走る。上空のOH-1から周辺に驚異なしという報告を受けていたため、ほとんど完全に不意を突かれる形になってしまったのだ。まさか海から上陸してくるとは思わなかった。とにかく距離が近すぎる。
 だがティラノサウルスは意外にもすぐに襲いかかってくることはせず、まじまじと自衛隊員たちとエアクッション揚陸艇を観察している。
 「全部隊、命令するまで撃つな。
 このまま立ち去ってくれるかも知れん」
 面倒はごめんだという気持ちが半分、強い相手とわざわざ戦う必要はないという計算が半分で、諏訪部は命令を伝達する。
 隊員たちもおおむね似たような気持ちだったらしく、トリガーから指を離し間違っても暴発で戦端を開いてしまうことがないようにする。
 緊張の糸が張り詰めた時間が流れる。ティラノサウルスは相変わらずこちらをまじまじと観察するだけで、今にも近寄って来そうなのに動かない。
 「頼むからあっち行ってくれよ」
 「お前にも家族いるんだろ?」
 隊員たちの間からそんなつぶやきが聞こえる。
 無限とも思える時間が過ぎる。実際には数分だったが。
 そして、隊員たちの祈りも空しく2頭のティラノサウルスはエアクッション揚陸艇に向けて歩み始める。
 「全部隊攻撃開始!危害射撃許可!殲滅せよ!
 撃て!撃て!」
 諏訪部の命令を合図に、一斉に銃撃が始まる。威嚇射撃による警告という発想は、諏訪部を始め誰にもなかった。ティラノサウルスの頑丈さは既知のことだし、ここまで距離が近いと威嚇射撃をしている余裕もない。
 小銃弾が、無反動砲が、対戦車ミサイルが、そして16式の105ミリ徹甲榴弾が2頭のティラノサウルスに向けて降り注ぐ。
 火傷を負っている一頭は105ミリの直撃を受けて一瞬で絶命したが、“刀傷”の方は運がよかった。雨風の中で正確な照準が困難になっていた無反動砲や対戦車ミサイルはいずれも初弾が外れ、致命傷を負うことがなかったのだ。
 怒りの咆吼を挙げ、刀傷のティラノサウスルは銃撃をものともせず仲間を殺した16式に突進していく。
 「うわっ!」
 2名の隊員が“刀傷”によって蹴飛ばされ昏倒する。
 16式は次弾装填を急ぐが、一瞬早く“刀傷”によって主砲の内側に入り込まれてしまう。そして、仲間の仇とばかりに105ミリ主砲の砲身に噛みついた。
 『くそ!なんて顎の力だ!』
 『車長!砲塔動きません!』
 完全に“刀傷”に押さえ込まれてしまった形の16式の乗員たちはパニックに陥る。金属がひしゃげる耳障りな音ともに主砲が飴細工のようにねじ曲がり始めたから無理もない。
 「16式落ち着け!エンジンを吹かして2時方向に前進!
 やつを岩場に叩きつけてやれ!
 進路上の隊員は直ちに退避!」
 諏訪部は自分でも驚くほど冷静に状況を分析し、指示を下していた。いや、厳密に言えばパニックになっていたのは彼も同じだったかも知れない。切迫した状況で、人間が恐竜に負けるはずはないと思い込もうとした。その現実逃避同然の思考が、取りあえずそれが有効かどうかもわからないまま1手指示をさせたに過ぎなかったかも知れない。
 だが、結果としてその1手は16式を救うことになる。猛然とエンジンを吹かした16式の力に抗えず、“刀傷”はそのまま2時方向の岩場まで引きずられていく。そして、衝突寸前で運転手が右に向けて急ハンドルを切りながらブレーキをかけたことで、柔道の投げ技さながら遠心力によって放り投げられる。結果、“刀傷”はむき出しの岩場と全力で愛し合うことになる。
 単純に物理法則で考えれば、7トンのティラノサウルスに対して26トンの16式の優位は当然に思えるが、そもそも主砲でロングレンジから敵を仕留めることを想定している16式にとって、至近距離に近づかれるというのは非常に危険な状況と言えた。主砲を軽く噛みつぶす顎の力を敵が持っているとなればなおのこと。
 『おい、あいつ立ち上がるぞ!』
 16式の車長の無線越しの声に、隊員全員がぎょっとする。“刀傷”は確かに、ふらつきながらも立ち上がろうとしていた。身体のあちこちから血を流し、骨折したのか片足を引きずりながらも、隊員たちに向き直りにらみつける。
 「大したやつだ」
 諏訪部に他の感想はなかった。その強靱さは正に白亜紀の頂点捕食者にふさわしいものに思えたのだ。
 『隊長、とどめを刺しましょう。あれなら余裕で110ミリを当てられます』
 「いや待て。やつは退くつもりらしい」
 とどめを具申する部下を諏訪部は制する。“刀傷”がゆっくりと向きを変え、島の中央に向けて歩き始めたのだ。その足取りは非常に危なっかしい。だが、その姿には最後まで必死で生きようとするタフさと諦めの悪さが見て取れた。
 「全部隊、追撃の必要無し。我々は自衛官だ。守るためにのみ力を使うことを許される、専守防衛の精神を思い出して欲しい。
 負傷者の手当と積み込み作業の再開を優先せよ」
 諏訪部は無線で命じる。
 本音を話していないな、と思いながら。
 正直に言えば、“刀傷”に対する追撃を思いとどまったのは武士の情け故だった。戦いを放棄して撤退するものを後ろから撃つのは忍びないという、単なる個人的な感情論に過ぎなかった。その感情論に専守防衛という理屈を後付けしただけだ。
 理屈から言えば後々の脅威を考えてとどめを刺してしまう方が合理的かも知れない。だが、諏訪部はどうしても追撃の命令を出すことができなかった。“刀傷”が自衛隊の追撃で屍をさらすところと見たくなかったのだ。

 負傷した隊員を装甲車に収容して応急手当をし、16式を揚陸艇に積んでしまえば作業は完了だ。
 吹き付ける風に煽られながらも、2隻の揚陸艇は石城島を後にしていた。海が荒れている中で最大速力を出すのは揺れが大きくなるし危険なのだが、モササウルス類が周辺で手ぐすね引いているとあっては速度を落とすわけにはいかない。
 激しい揺れと燃費の悪化を甘受してとにかくこの海域から離れるほかはなかった。
 自衛隊員たちも島民たちも疲労困憊だった。取りあえず恐竜の脅威からは逃れられたが、これからどうなるのだろう?避難先での暮らしは?仕事は?子供たちの学校は?高齢者たちの介護や医療は?
 だれもが、これが困難の終わりではなく始まりだと感じていた。取りあえず脱出できたことを喜ぼうという気分には誰もなれなかった。
 『諏訪部隊長、桑島です。聞こえますか?』
 「どうした?」
 指揮通信車の車長席で桑島からの無線に応じた諏訪部は嫌な予感を感じていた。アクションゲームや映画では、船や航空機で脱出したと喜んだのもつかの間。新たなトラブルが降りかかるのがお約束。今は正にそんな場面という予感がしたのだ。
 『ちょっとまずい事態です。異常な電磁波が観測されて、しかも発信源が移動しているんです』
 「わかるように説明してくれ」
 『恐竜がこの船に乗り込んでいる可能性があります!』
 最悪だ。諏訪部は水から浮き上がろうとして足をつかまれたような感覚を覚えずにはいられなかった。
 もしこの揚陸艇が恐竜をおんぶしているとしたら、揺り戻しに巻き込まれる可能性がある。そうでなくとも、危険な恐竜を本島まで連れて行くわけにはいかない。
 「桑島さん、そいつの位置はわかるか?」
 桑島が答えるより早く、諏訪部の疑問への答えはもたらされた。ごとりという物音に目を向けると、指揮通信車のボンネットの上にあるバルジに乗ったドロマエオサウルスともろに目が合ってしまったのだ。
 「いや、いい。わかった」
 そう言って諏訪部はマイクを置く。そして携帯無線のヘッドセットをつけて鉄帽をかぶる。そして、レッグホルスターから9ミリ拳銃を抜いてスライドを引き、弾を込める。
 「無賃乗車お断りだ。子安、あんたも来てくれ」
 「了解」
 諏訪部の隣に座っていた子安が同じように拳銃に弾を込め、ヘッドセットをつける。
 「我々も行きますか?」
 「いや、人数が多いと同士討ちをしてしまうかも知れん。
 それよりもカメラとセンサーでやつの位置を把握して教えてくれ」
 立ち上がろうとする三曹を制して、諏訪部はバックアップを命じる。俊敏なドロマエオサウルスは数に任せて倒すのは困難だ。狭い場所では特に。まして、揚陸艇の上でやたらと発砲すれば何に当たるかわかったものではない。
 それならば不意打ちを食らわないようにするのが最優先だ。やつらを正面にとらえて対峙することができれば勝機はある。
 「俺は上に登る、そっちは車両の間や下を見てくれ」
 「了解。気をつけて」
 揺れに逆らって指揮通信車の外に出た諏訪部は、子安に下を調べるように命じて自分は指揮通信車の屋根に上る。すでにボンネットにドロマエオサウルスの姿はなかった。
 『二尉、注意して下さい。やつら2頭います。今左に逃げました』
 「わかった。間違いないか?1頭でも3頭でもなく2頭だな?」
 『間違いありません。2頭でした』
 諏訪部は指揮通信車の観測結果を信じることにして、腰を落として落ちないようにしながら周辺を伺う。視線と一致させた拳銃の銃口を油断なく車両の隙間に向ける。
 その時、ふと視界の隅で何かが動いた気がした。銃口を向けると、正にドロマエオサウルスの姿があった。高機動車のソフトトップの天井に上り、油断なくこちらを見ている。
 「くそ、子安。そっちから狙えるか?こっちからじゃ輸送モジュールに当たる!」
 「やってみます」
 諏訪部は歯がみした。指揮通信車の背丈が高機動車より高いため打ち下ろす形になる。つまり、もろに後ろにある輸送モジュールが射線に入ってしまう。防弾装備などされていないから、このまま撃ったら中にいる隊員や避難民がどうなるかは火を見るより明らかだった。
 『二尉、危ない!右後方!』
 その通信に、反射的に右を振り向いた諏訪部の視界に、ドロマエオサウルスの姿がいっぱいに拡がる。
 「くそっ!」
 切磋に拳銃を持った右腕を挙げて防がなければ、そのまま首にかぎ爪を突き立てられていただろう。
 だが、なんとか瞬殺されることは防げたものの、跳びかかられた衝撃はどうにもならなかった。諏訪部はそのまま指揮通信車の屋根に引き倒されてしまう。はじき飛ばされた拳銃が屋根を滑っていき、ランヤードスリングによって宙づりになる。
 「この七面鳥野郎!お前なんかに!」
 ドロマエオサウルスは首に掛かった手を緩めはしない。諏訪部に押しかかると、足のかぎ爪を突き立てようとする。諏訪部も負けじとドロマエオサウルスの身体をつかんで抵抗する。が、かぎ爪が何度も鋭く宙を切る。一発でも食らえば動脈を破られる危険がある。
 諏訪部は一か八かの賭に出る。屋根から落ちるどころか最悪海に放り出されてしまう危険を甘受して、ドロマエオサウルスに体ごとぶつかったのだ。ドロマエオサウルスは強靱だが、体重にすれば諏訪部の3分の1程度に過ぎない。あっさりと浴びせ倒されてしまう。
 「うわあああああっ!?」
 だがそこで、諏訪部とドロマエオサウルスを不運が襲う。横波を食らって揚陸艇が大きく傾き、両者とも指揮通信車の屋根から落ちてエンジンブロックの上に投げ出されてしまったのだ。
 「くそっ!冗談じゃねえ!」
 諏訪部はアンテナの支柱をつかんで辛うじて海に投げ出されるのを防ぐ。なんとか身体を支えながら、ドロマエオサウルスを探す。そしてすぐに見つけることができた。作業用のはしごにしがみついているのが見えたのだ。振り落とされないようにするのが精一杯で、諏訪部を攻撃する余裕がないらしい。
 「悪いが降りてもらうぞ!」
 諏訪部は手を伸ばして渾身の力でドロマエオサウルスの首を絞める。ドロマエオサウルスはうなり声を上げて抵抗するが、首をつかまれては身体を安定させる術がないため諏訪部に有効打を与えることができない。必死で手足の爪を突き立て、ひっかこうとするが、強化繊維のグラブと迷彩服には効果は薄い。
 諏訪部も苦痛は感じていたが、この機を逃してはならないという一念が常ならぬ力と忍耐を彼に発揮させていた。
 やがて、ドロマエオサウルスが糸の切れた人形のようにだらりと身体を弛緩させる。
 「悪く思うなよ!」
 諏訪部はドロマエオサウルスを荒れた海に向けて投げつける。荒ぶる波の中ではドロマエオサウルスは激流の中の木の葉も同然だった。すぐに波に呑まれ、姿が見えなくなる。
 諏訪部は大きく息を吐くと、アンテナの支柱を両手でつかんで身体を引き上げようとする。が…。
 「嘘だろおい…!」
 2頭目のドロマエオサウルスが、アンテナをつかんで同じように身体を固定して諏訪部を見下ろしていたのだ。
 “なにか言い残すことは?”
 琥珀色の双眸がそう言った気がした。
 だが次の瞬間ドロマエオサウルスの胸と胴に血の花が開き、そのまま風に煽られて海に投げ出されていった。
 「二尉、無事ですか!?」
 諏訪部は一瞬何が起きたのかわからなかったが、子安がドロマエオサウルスを撃ち殺したのだとすぐに理解する。
 「手をつかんで下さい!」
 「ああ!すまない!」
 諏訪部は差し出された手を掴み、なんとか指揮通信車の屋根に戻ることに成功する。
 『諏訪部二尉、電磁波元の計測値に戻ります。作戦成功です』
 無線に入った桑島の言葉に、諏訪部は不思議と喜びが湧いてこなかった。疲れ切っていてそれどころではないらしい。
 ふと諏訪部は、雨風が急速に穏やかになっていくことに気づいた。
 そして、怖ろしい可能性に思い当たる。今までタイムスリップが起きていたひずみのせいで低気圧が固定されていたのだとしたら、低気圧が収まったということは…。
 「二尉、あれ“ワスプ”じゃあ…?」
 子安が指さした方向を見て、諏訪部は目を疑った。米軍の強襲揚陸艦“ワスプ”が、タイムスリップの渦中であるはずの石城島に向けて航行していたのだ。
 しかも。ワスプからはヘリが何機も飛び立っているのが見える。
 「馬鹿どもが!なにを考えてる!?」
 タイムスリップの揺り戻しが起こる可能性は沖縄の米軍司令部にも伝えられているはずだ。それ以前に、恐竜がたむろする島に向かっていこうという神経が理解不能だ。
 「池田隊長!ワスプを呼び戻して下さい!
 今島に向かったら何が起こるかわからない!」
 『だめだ!すでに呼びかけてるが、無線が通じない!』
 池田の言葉に諏訪部が絶望的な気分になった瞬間、石城島の方向から核爆発かと見まがうようなまばゆい光が閃いた。
 
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