上 下
16 / 26
03

水の流れは

しおりを挟む
02

 池田を訪ねてから数日後。
 祥二はその夜も瀬戸屋を訪れ、恵子を指名していた。
 だが、いつもとは少し違った。
「どうしたんだい、祥二さん。なんだか難しい顔してるけど?」
「あ…ああ…。恵子とはちゃんと話しておくべきかもな。売春防止法のことさ」
 祥二は恵子の顔をまともに見ることができないまま、冷や酒を呑み下す。
 自分はすぐ顔に出るのが悪い癖だし、恵子には隠し事はしたくない。
 そもそも、岸や池田ににらまれるのを怖れて、売春防止法に賛成はしないまでも積極的に反対してこなかった。
 その負い目がある。
「聞いてるよ…。赤線も廃止になるって…」
 そう言った恵子は、割合落ち着いていた。
(女っちゅうんは強いのお)
 祥二は素直にそう思う。
 自分だったら、不安につぶされてしまうかも知れない。
 期限を区切って猶予を与えるから、今の商売から足を洗って別の食い扶持を探せ。
 売春防止法の施行は、要はそう言う話なのだ。
 断言してもいいが、法案を可決した政治家たちは、深く考えていないことだろう。
 赤線が廃止された後、そこで働いていた者たちがどうやって食っていくのか。

「なあ恵子…。赤線が廃止されたら、そのあとどうするんじゃ?」
 祥二の問いに、恵子は一瞬天井をあおぐ。
 そして、寂しそうに笑う。
「そうだね。多少の蓄えはあるし、お店でも持てればって思うけど…」
「簡単じゃあない…か…」
 祥二は沈痛な面持ちで相手をする。
 朝鮮特需と呼ばれた戦争特需はすでに終わり、景気は横ばいになりつつある。
 そろそろ、多くの人間がビジネスモデルの軌道修正を迫られている。
 人々のサイフのひもも締まって行くことだろう。
(決めるなら…早いに越したことはないか…)
 祥二は腹を括る。
 どうせ、赤線の廃止は動かせない。
 恵子の次の商売と居場所は、今のうちに確保しておく必要がある。
「惠子さん、店初めてみるかい?わしが出資するけえ…」
「え…でもいいの…?小さなお店持つっていっても、安くはないんだよ…?」
 恵子が遠慮がちな表情になる。
 売春で生計を立てていても、しっかりした女だ。
 男におんぶして生きることに、抵抗を感じているのだ。
「まあ…わしも会社も、特需で稼がせてもろうたしの…。その金、このまま金庫に溜め込んどいたら泥棒と同じじゃ。なんかしらの形で還元せんにゃ、と思うとる」
「泥棒だなんて…祥二さんと会社の人たちが必死で稼いだお金じゃないかさ。特需に乗っかったにしても、才能と読みを効かせた結果だろう?」
 恵子が厳しい表情になる。
 祥二の気持ちはありがたいと思っている。
 だが一方で、必死で働き、この国を敗戦から復興させた人たちを否定して欲しくないのだ。
 もちろん祥二本人も含めて。
「すまん…。泥棒は言い過ぎじゃったな。でもな、恵子さん。金は天下の回りものと言うじゃろう?金の流れは水のようなもんじゃ。もし誰かが流れを止めてよどみを作ると、全体が腐ってしまうもんじゃ。ま、池田の親父の受け売りじゃがな」
 祥二はそこで言葉を句切り、おちょこの中身を開ける。
「言うてはなんじゃが、その腐敗が太平洋戦争の原因じゃったと、わしは思うとる。金持ちたちが、短期的な利益、あるいは自分の栄華だけ考えて金の流れを止めた。それが多くの人間を貧困に追いやり、政党政治を崩壊させ、軍部を止められなくした。その結果が…」
 祥二はみなまで言わなかった。
 だが、言いたいことは恵子に伝わったらしい。
 地主、財閥、そしてそれらを票田とする政治家。
 目先の利益のために、他人に損をさせて自分だけ得をする構造を作り上げた。
 そのツケは、敗戦と占領統治、農地改革と財閥解体、そしてパージという形で跳ね返ってきた。
 間違いは繰り返したくないし、繰り返すべきじゃない。
 理解してくれたらしい。
「少し考えさせてくれないかい…?」
 恵子は迷いがあるようだった。
「まあ、今日明日てこともないが、なるべく早ようにの」
 祥二はそれ以上の言及を避けた。
 最後は、恵子自信が決めること。
 自分はただ支援するだけだと。

 だが、直後に祥二と恵子が予想もしていなかったことが起きる。
 ふたりはまだ知らない。
 自分たちを荒々しい濁流が、無情に押し流そうとしていることを。

しおりを挟む

処理中です...