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今日だけ頑張る ご褒美のスパゲティが待っている

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 07
 「ううう…緊張する…」
 六本木にある音楽スタジオの中、着物に身を包んだ真里音はがちがちになっていた。
 今日は、作詞家と作曲家の真里音に対するオーディションが行われる。真里音が演歌歌手としてやっていけると認められた場合に限り、曲を作ってもらえる。
 歌だけではない。身振り手振りから着物の着こなしまで全部が評価の対象になる。全部で及第点を取って合格。それが作詞家と作曲家が出した条件だった。
 「真里音さん、自分を信じて。
 みんな応援して協力してくれたし、真里音さん自身も頑張ってたじゃないか」
 有給休暇を取得して、荷物持ち兼運転手という名目で着いてきている洋一が精一杯激励する。
 ここが正念場なのは、真里音にも洋一にもわかっていた。
 真里音が一念発起して演歌を歌いたいとマネージャーや事務所の幹部たちに談判した時も、簡単な話ではなかった。事務所の立場としては、Jポップスで安定して稼げている真里音が突然演歌を歌いたいなどと言い出すとは思いも寄らなかったのだ。
 最終的にはマネージャーが味方になってくれたことで、なんとか事務所を説得することができた。マネージャーは真里音が演歌が好きであることを知っていたのだ。今までずっと演歌を多くの人間の前で歌いたい気持ちを我慢してきたことも。
 しかし、ゼロから新しい音楽活動を始めるというのは大変なことだ。真里音の所属事務所は、演歌の活動の経験が全くなかったのだ。
 そこで、業界でも大物の演歌の作詞家と作曲家に曲を作ってもらうことを依頼した。
 それだけでもかなり無茶で恐れ多いことだった。
 その作詞家と作曲家は職人気質で、いくら金を積まれようが、事務所の力を振りかざされようが、気に入らない仕事はしない。そういう主義で有名だった。
 これはある意味で当然の話だった。事務所のコネや情実で芸能活動をしているような芸能人は大成しない。コネや事務所の力に実力や努力が追いつかず、肝心のファンに見放されて一発屋で終わった芸能人は枚挙にいとまがない。
 演歌歌手として見込みのない歌手、やる気や努力が足りない歌手に曲は作れない。それが彼らの方針だった。
 そういう事情があったから、事務所の社長も門前払いを内心覚悟していたほどだった。
 だが、意外にもオーディションをしてくれるという回答が来たのだ。ただし、審査はかなり厳しいものになると申し添えられていた。
 かくして、真里音の特訓が始まったのだった。
 まずは、着物の着付けの仕方や髪の結い方から始まる。そして、歌うときの立ち振る舞いを有名な演歌歌手を参考に身につける。
 一応かっこうがついたら、次は発声や歌い方の練習だ。一応業界向けに演歌の歌い方の本などはあるが、そもそも音楽活動に模範解答などない。
 自分の中で満足できる歌い方ができるかは、真里音自身の努力とセンス次第だった。
 だが、真里音の演歌に対する熱意は本物だった。
 周りも全力で応援してくれた。
 着物の着付けや髪の結い方の指導は志乃。舞台での立ち振る舞いや表情の作り方などの指導は、対人関係の仕事で、また日本舞踊の経験もある時雨が行った。歌の歌い方のアドバイスは洋一の担当だった。
 指導もアドバイスも厳しかった。心が折れそうになったことも一度ならずあった。
 だが、真里音は転んで泥だらけになっても立ち上がる強さを見せ続けた。演歌を歌いたい。多くの人に聞いて欲しい。その思いが、真里音の強さになっていた。
 そしてついに今日という日を迎えた。やり残したことはない。できることは全部やった。そう思いながら、真里音はオーディションに臨む。
 「人事を尽くして天命を待つ…か。うちは人事を尽くせたやろか…?」
 スタジオの控え室。茶碗を持つ手が震えている真里音は不安そうに言う。
 「きっと大丈夫。真里音さんは“今日だけ頑張る”ができる人だからね」
 洋一が相手をする。“今日だけ頑張る”は、洋一はある大物漫画家の作品の中から引用した言い回しだ。
 継続は力なりとは言うが、言うは易しの話でもある。
 明日があると思うから、物事を先延ばしにしてしまう。本気でやる気なら、明日は来ない、今日だけ頑張るという気構えが必要。
 そして、次の日が来たら、また今日だけ全力で頑張るのだ。それを繰り返さない限り栄達はない。
 真里音にとって、“今日だけ頑張る”は大きな指針になった。妖怪は寿命が人間に比べて長いため、どうしても期限や時間に追われるという意識に乏しくなってしまう。
 だが洋一は、その辺りこそが努力家である真里音に足りていないことだと思っていた。
 真里音は素直に洋一のアドバイスを聞いていた。手先が不器用であるため、難しかった着物の着付けも、髪の結い方も、“今日だけ頑張る”を胸に刻んでなんとか身につけた。さきほど控え室の姿見で確認したが、我ながらうまくまとめられたと思う。
 「洋一くん、手握ってや」
 「うん」
 真里音の求めに応じて、洋一は真里音の両手を握る。少し冷たく、ガラス細工のように繊細で、女の子の手だと思える。
 しばし目を閉じていた真里音は、やがてにっこりと微笑む。
 「これで、大丈夫そうや!」
 そう言った真里音の声は、自身と希望に満ちていた。

 スタジオに真里音の歌声が響く。曲は真里音が最も好きな曲の一つである“天城越え”だ。
 妖術とは別の意味で、洋一は聞き惚れる。そして、真里音の美しさに見入ってしまう。いつもステージや音楽番組では活発で露出度の高い服装をしているため、着物姿は新鮮に見えてしまう。
 動きや表情は多少硬い気もしないではないが、特訓の成果は出ていると思える。
 やがて曲のアウトロが終わる。洋一は無意識に拍手をしていた。カラオケや舞台ではなくオーディションであることをすっかり失念していたのだ。それほど真里音の歌に聴き惚れていた。
真里音のマネージャーもつられて拍手をしていた。真里音のことを理解してくれて、思ってくれているのだな。洋一は思う。
 一方、審査するがわの作詞家の留萌と作曲家の忍野はポーカーフェイスを崩さず、どういう評価を下したのかうかがい知れなかった。二言三言言葉を交わして、メモに何事か書いていく。
 その後、真里音とマネージャーと洋一は、スタジオの会議室でしばし待たされる。オーディション前とは違い、和気あいあいとした空気が流れていた。後は結果を待つだけだと思うと、肩の荷が下りた気分なのだ。
 審査の結果が出たらしく、留萌と忍野が会議室に入ってくる。
 「歌はさすがにうまいね。動作は少し固かったが、努力したのがよくわかるよ」
 留萌がメモを見ながら言う。
 「ただ、腹に力が入ってない感じはしますね。こぶしの回し方ももうひとつです」
 忍野は渋面を浮かべながら言う。
 真里音たちに緊張が走る。
 「もうひとつ…ですか」
 真里音の言葉に、忍野が少し表情を崩す。
 「話は最後まで聞きなさいな。まだ未熟だけど、努力次第でどうにかなるものだと思いますよ」
 真里音と洋一は、自然と笑顔になる。
 「じゃあ…?」
 「合格です。曲、作らせてもらいますよ」
 「僕も異議なしだ。期待してるよ」
 忍野と留萌の言葉に、真里音と洋一は抱き合って喜ぶ。真里音に至っては、感動で涙を浮かべている。
 「やった!洋一くん、うちやったよ!」
 「だから、きっと大丈夫だっていったでしょ!?」
 二人の振る舞いは、一応仕事できているのに不謹慎ではあるものの、咎めるものはいなかった。
 洋一が背中を支えていたから真里音が頑張れたことが伝わって来たからだ。
 「先生方、今日はお忙しいところ、本当にありがとうございました。
 曲作りも、どうかよしなに」
 マネージャーが立ち上がり、背筋を伸ばして礼をするのに合わせて、真里音と洋一も同じように礼をする。
 ここがゴールではない。真里音は今ようやく、演歌のスタートラインに立ったに過ぎない。それを改めて自覚したのだ。

 08
 「じゃあ、洋一くん、真里音をお願いね」
 そう言ったマネージャーは真里音と洋一と別れ、事務所への帰路につく。
 真里音は“化野”でお祝いの準備ができているからとマネージャーもどうかと誘ったが、マネージャーは車を事務所に戻さなければならないし、予定があるからと固辞した。
 「マネージャーにもお祝いして欲しかったなあ」
 真里音は残念そうだった。
 「本当にマネージャーさんのこと信頼してるんだね」
 「もちろんや!事務所に入った時から世話になりっぱなしやよって。
 うち不器用やから、尻ぬぐいと後始末ばかりさせてもうて…」
 真里音は真剣な顔でそう言う。本当に強い信頼関係で結ばれているのだな。洋一は思う。
 「じゃあ今度、マネージャーさんのご都合のいいときに化野に来てもらおうよ。真里音さんが感謝の気持ちを伝える意味も含めてさ。
 酒や料理用意してさ」
 「せやね!いいアイディアや!」
 そう言って、真里音と洋一は笑い合う。
 マネージャーは40前後の女性で、既婚で子供もいるらしい。真里音がこれほど信頼している人物とはどういう人なのか。洋一も興味が湧いてきたのだ。
 「ねえ、洋一くん…帰る前にお願いがあるんやあ…」
 改まった様子でそう言う真里音の顔はなぜか赤く、媚びるような表情をしていた。

 「真里音さん、こりゃまずくないかい?」
 スタジオの男子トイレの個室の中、洋一は情けない声を出す。
 「お願いや…なんや急にしたくなってもうて…。
 このまま帰るなんてようせんのや…♥」
 洋式便器に手をついて、着物の裾をまくって尻を突き出した真里音が、肩越しに熱っぽい視線を送ってくる。
 洋一は、その扇情的な光景に節操なく勃起していた。
 一方で、もしトイレでセックスをしているのがばれたら怒られないかという不安もある。
 まして真里音はアイドルだ。スキャンダルに発展する可能性だってある。
 ちなみに、男子トイレに忍び込んでいるのは、女子トイレが掃除中だったからだ。女子トイレなら生理が思いとか、便秘がひどいとか言ってごまかせるかも知れないが、男子トイレで女のあえぎ声がしたらごまかしようがない。
 「ねえ…意地悪せんといてや…。うちもう我慢できへんのやあ♥」
 真里音の切なそうな声を聞いていると、洋一も我慢ができなくなってくる。
 着物の裾がまくられて真里音の美しい尻が露わになっているのも興奮する。くわえて、普段と違い、髪留めでアップにした髪も普段は見えないうなじも、どうしようもなく色っぽく見えるのだ。
 「わかった…。あんまり大きい声出さないでね」
 セックスの衝動に屈した洋一は、ジッパーを下ろしてズボンとパンツを下ろすと、荒々しく勃起した陰茎を取り出す。そして、すでにとろりと愛液を溢れさせている真里音の蜜壺に亀頭をあてがう。
 「早う…早う入れてえ…♥」
 真里音の女の部分が、待ちきれないとばかりにひくひくとする。
 服役していた女性が、刑務所から出たとたん反動のように性欲が強くなったり、女子のスポーツ選手が大会で成果を上げた後できちゃった結婚をしたり、ということがあるようだが、これも似たようなものか。と洋一は思う。
 張り詰めていた緊張が解けて、状況が今までと180度変わったことで、男を求める本能が働くということはあるのかもしれない。
 なんにせよ、一度セックスしないことには真里音が収まらなそうだ。
 洋一は意を決して腰を進め、立ちバックの体勢で真里音とつながっていく。
 「ああ…♥入って来るう…!♥あんっ…洋一くんのち○ぽ…すごおい…!♥」
 身体がすでに敏感になって、セックスがしたい気持ちが溢れていた真里音は、挿入だけで軽く達してしまう。
 洋一とのセックスですっかり身体を開発されてしまったのか、最近では洋一が側にいるだけで女の芯が熱くなり、女の部分を濡らしてしまうようになっている。
 なんや恥ずかしいわ…。洋一くんに会うだけでお○んこ濡らしてまうなんて…。
 「真里音さんのお○んこ…相変わらず気持ちいいよ…。前よりもっといい感じになってるかも」
 「やん…♥恥ずかしい…!♥そんなこと…♥」
 洋一の言葉に、真里音は耳まで真っ赤になるほど恥ずかしくなる。蜜壺が洋一の陰茎の形を覚えてしまっているのだ。今ではすっかり洋一の陰茎の形に蜜壺が拡げられてしまい、勝手にひだが陰茎に絡みついて、陰茎を締め付けてしまう。そしてその絡みつき締め付ける感覚は、洋一にも真里音にもたまらない快感をもたらしていた。
 「あんっああああんっ!♥ 
 お○んこが…お○んこが気持ちいい…!♥洋一くん専用のお○こに洋一くんのち○ぽが入って…擦られてるよお…!♥ああん!」
 洋一がゆっくりと腰を使い始めると、真里音はハレンチで下品な言葉を発してしまうのを抑えられなかった。オナニーの時もそうだが、わざと大きな声で卑語淫語を連呼することで興奮を高める。真里音のいつものやり方だった。
 「真里音さん、もっと気持ち良くしてあげるよ」
 そう言った洋一は、真里音の首筋にキスして、次いで耳に舌を這わせる。
 「やあんっ!♥耳は…耳は弱いんやあ…♡ああああ…♥」
 耳の裏に舌を這わせると、真里音が敏感に反応する。真里音の蜜壺が耳への愛撫に反応して、ぎゅっぎゅっと陰茎を締め付けてくる。
 ただでさえミミズ千匹で具合のいい真里音の蜜壺が締め付けてくるのだから、洋一はたまらなかった。急速に射精の衝動がこみ上げてくる。
 「真里音さん…もう出そうだよ…」
 「うん…!うちも…うちもイく…!イくわ…!♥」
 洋一が絶頂に向けて、腰の動きを加速させる。つながった部分からぐちゃぐちゃと湿った卑猥な音がする。
 真里音と洋一の官能が、絶頂に向かって急速に駆け上がっていく。
 「ああ…出るよ…!」
 「イく…イくうううううううっ!♥
 ああ…ああああああああああああああっ!♥」
 洋一が真里音の腰を掴み、陰茎を一番奥まで突き込んで激しく射精する。大量の白濁が子宮の奥まで流れ込んでいく。
 少し遅れて真里音がオーガズムに達し、洋式便器の便座に手をついたまま身体をぐっと仰け反らせて硬直する。
 トイレの中に、オスとメス、精液と愛液のにおいが充満していく。
 ああ…すごく気持ち良くて幸せ…。洋一くんのち○ぽも、首筋に感じる息づかいも、背中に感じる重さも…。
 そのまま二人はつながったままうっとりと余韻に浸る。
 トイレの中でセックスというのは官能小説やAVでは定番だが、なんだかすごく倒錯して背徳的で癖になってしまいそうだ。
 「ねえ、洋一くん、このままもう一回してみいへん?
 なんか…射精した後のち○ぽの感触もいい感じや…♥」
 「うん…俺もなんだかもっとセックスしたいと思ってたんだ…」
 オーディションの緊張から解放された反動か、真里音も洋一もいつもより性欲が強くなっているようだった。加えて、トイレの個室で立ちバックでセックスしているという背徳感と倒錯感が二人を再び興奮させていく。
 「動くよ…真里音さん!」
 「あ…あああああっ!♥洋一くん…!すごく感じる…♥もっと…もっとお…!♥」
 洋一と真里音の肉の宴は続く。回路がつながったままスイッチが切れなくなった機械のように、二人はセックスの衝動が求めるままに交尾し続ける。
 ようやく洋一と真里音が満足したのは、抜かずの5発を終えた後だった。トイレの個室に、ごまかしようのない事後のにおいが充満してしまっていた。
 「ちょっとやりすぎたね…」
 「あは…♥このにおい…どないしょ…」
 満足してセックスの後始末をした二人は途方にくれたのだった。

 洋一と真里音は服を整え、取りあえずトイレの用具入れから洗剤を失敬して便器にまくことでにおいをごまかす。
 その後、洋一が外の様子をうかがうため個室に真里音を残して外に出る。タイミング悪く、そのとき男子トイレに人が入ってくる。
 「あれ、君は魚住さんの事務所の…?どうしたの?」
 入って来た人物は留萌だった。
 「ええと、落とし物しちゃって探しに戻って来たんですけどね…。急に腹の具合が悪くなって…」
 真里音とセックスを始めてからすでに2時間近くが経過している。こんな言い訳でごまかせるのかと思ったが、留萌はとくに気にしている様子はなかった。
 「そうか、お大事にね。この時期食中毒が怖いからなあ」
 そう言って用を足し始める。
 「その、真里音さんのために曲を作って頂けて、本当にありがとうございます」
 その言葉に、洗面台で手を洗う留萌がふっと笑みを浮かべる。
 「君、野球は好きかね?」
 「ええ…アンチ巨人ですが…」
 洋一は留萌の質問の意図がわからなかったが、取りあえずそう答える。
 「今年パリーグ2位の球団の監督の現役時代は、君はまだ生まれてないか、はいはいしてたかな。
 守備もうまいし、思い切りのいいバッターでもあった。だが、バントが致命的に下手という重大な弱点があってね」
 「そうだったんですか?」
 洋一は交流戦を思い出していた。名選手だったと聞いていたが、それは知らなかった。
 「バントの不得手をカバーするために、インコースでも転がしてランナーを進める練習を必死で行ったそうだ」
 洋一は、なんとなく留萌の言いたいことがわかった気がした。
 「見回せば、世の中才能やセンスの不足を努力でカバーしてる人間はたくさんいる。いや、そっちの方が多数派かもな。
 正直なところ、魚住さんが演歌をやっていくのは簡単なことではないと思っている。
 死ぬ気で自分を研鑽して絶えず努力する必要があるだろう。
 それは平坦な道じゃない。
 だが、今日魚住さんの歌を聴いて、彼女の演歌に対する熱意は本物だと感じた。彼女ならやれそうだと思ったのさ。
 だから、君も彼女を精一杯応援してあげるがいい」
 オーディションの時とは打って変わって気さくな笑顔でそう言う留萌に、洋一は心の底から感謝の気持ちを抱いた。
 「はい!頑張ります!ありがとうございました!」
 元気な声でそう言って、洋一は頭を下げる。
 留萌は満足げな表情でトイレを出て行く。
 その後、トイレを出てスタジオを後にし、電車で“化野”の最寄りの駅に移動するまで、感極まった真里音はずっと泣き通しだった。
 留萌の激励の言葉は真里音に向けられたものではなかったが、真里音にはどうしようもなく嬉しかったのだ。
 「良かったね、留萌さんたちに真里音さんの熱意が届いたんだ」
 「いんや…。洋一くんのお陰や。うち、本当はとっても不安で怖かったんよ…。
 オーディション前に、洋一くんが手を握ってくれんかったら…自分の弱さに負けて妖術を使っとったかも知れへん…」
 真里音も不安だったのだな。洋一は思う。
 もし妖術を使ってオーディションに通ったりすれば、それはシンガーとしての真里音が死んでしまうことを意味する。自分の弱さに負けてしまった真里音は2度と思うように歌えなかったろう。
 真里音が自分に負けずにオーディションに正面からぶつかる手助けができた。洋一は誇らしい気分になる。
 なにより、真里音が大好きな演歌の道を一歩踏み出せたことを、今は素直に喜ぼうと思う。この先いろいろ大変だとは思うが、それを考えるのは今日でなくてもいいはずだ。そう思えるのだった。
 
 09
 「いらっしゃい。真里音ちゃんおめでとう!頑張った甲斐がありましたね!」
 “化野”の暖簾をくぐると、鍋でダシを取っていた志乃が満面の笑みで真里音と洋一を迎える。
 「ありがとう!女将さんのご指導のお陰や!本当にありがとう」
 真里音はまた涙を流し始める。意外に泣き虫なのだな。あるいは感激屋なのか。洋一は思う。
 「さあ、座って。ご褒美のスパゲッティ、用意しますから」
 そう言ってカウンターの上におしぼりを置く志乃の言葉に従って、真里音と洋一は腰を下ろす。
 志乃は真里音がオーディションに合格したら、最高の食材を使ったスパゲティをごちそうすると約束していたのだ。
 麺類に目がないマリネにはまたとない励みになった。志乃の料理の腕は誰もが認めるところだからとくに。
 志乃は具材の仕込みをしていく。まずは油を引いた鍋に刻んだタマネギを入れて強火で炒める。
 タマネギに火が通ると、志乃は魚介類の準備を始める。むきえび、アサリ、そしてカキを軽く洗い、塩を振る。それらを油をしいたフライパンに開け、塩コショウで味をつけ、白ワインを加えて軽く炒めていく。
 あらかじめ用意して置いた昆布のだし汁を先ほどのタマネギの鍋に入れて、タマネギが柔らかくなるまで煮込んでいく。
 それに魚介類をくわえ、アサリとカキが煮えくたれない程度に煮えたら、塩コショウで味を整えて魚介類とタマネギのスープのできあがり。
 固めに茹でたスパゲティにかけて、スープパスタとする。
 「いただきます」
 「はい、召し上がれ」
 湯気を立てるスープパスタに、辛抱たまらないという様子でマリネはフォークをつけていく。
 「おお…!美味しい!いい食材使っとるねえ!」
 「九重食品の調達、販売網はすごいですからねえ。カキもエビもアサリも新鮮で、タマネギは有機農法のいいのが手に入ったんです」
 実際、それは食べるのが止まらなくなり、無口になってしまうほどのうまさだった。カキやアサリ、エビがいいものというのは本当らしく、食感も味も最高と言えた。
 「うん、さっぱりしてて日本酒にも合うね。昆布だしがいい感じに味を引き締めて」
 洋一は冷や酒を注文したのは正解だと思った。これだけうまいといろいろな酒に合いそうだが、昆布だしを使っているスープと日本酒の相性が抜群だった。
 スパゲティそのものもいけるが、酒と相性がいいというのがなんといっても素晴らしい。
 「真里音さん、頑張った甲斐あったね?」
 「うん!この味、最高のご褒美や!」
 洋一の言葉に、真里音が幸せいっぱいという表情で応じる。
 「お、いいにおいしてるね?私らももらえる?」
 「真里音さん、オーディション通ったって?おめでとう!」
 ぼちぼちと、“化野”に常連立ちが集まり始める。
 「えーでは、真里音さんのオーディション合格を祝いまして、乾杯!」
 「乾杯!」店の中に一斉に、乾杯の声と、グラスがぶつかる音が響く。
 真里音はまた目頭が熱くなるのを感じた。みんなが自分の第一歩を祝福して、喜んでくれている。こんなに嬉しくて幸せなことはない。
 そして、自分をここまで連れてきてくれた洋一に改めて感謝した。
 どないしょ…。洋一くんを好きって気持ちが溢れそうや…。こんなに洋一くんを好きになって、そしてきっとこれからもっともっと好きになる。
 好きになりすぎて怖いくらい…。
 隣で冷や酒を傾ける洋一の横顔を眺めながら、真里音はそんなことを思っていた。
 
 
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