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第五章 その筋のコワモテ元締めさんは実は
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ある日の午後。非番の里実は市場に買い物に出ていた。
(順応してるな。僕も……)
買い物籠にリンゴやオレンジを入れて代金を払いながら、そんなことを思う。こちらにはコンビニも24時間スーパーもない。冷蔵庫もないから、食材の保存もよく考える必要がある。最初は慣れずに四苦八苦したが、今ではどうということもない。
「よう里実さん。いいタマネギが入ったんだよ。買ってってくれよ」
「そうだな。3つもらおうかな」
「豚と牛の合い挽き肉だよー。美味しいよー」
「買った。おまけしてくれよ」
市場で売っているもののなかからできのいいものを選び、足の速い食材から調理する。それを普通にこなせている。夕飯はミートローフにするか。
その時だった。
「ちょっといいかな?あんたが里実さんかい?」
ハスキーな女の声で呼び止められる。見れば、人力車に乗った妊婦がいた。
褐色肌と流れるような黒髪が目を引く、かなりの美人だ。が、装いは派手で、化粧も装飾品も少しケバケバしい。この辺の住人ではなさそうだ。どちらかと言えば裏街の娼婦か、パブの女主人というところか。言葉遣いも育ちがいい者のものではない。
「僕が里実で間違いありませんが……。なんでしょう……?」
仕事柄裏街の人間との付き合いもある。が、この手の女はどうにも苦手だ。美人でも内側に何を秘めているかわからないからだ。
「申し遅れたけど、アタシはカトリーン。ミカエルの妻でね。よろしく」
「ミカエルの?こちらこそよろしくお願いします」
笑顔で握手を交わす。
だが、内心では肝を冷やしていた。なにせ地下組合のボスの嫁だ。荒事も辞さずの気質かも知れない。そして彼女から見れば、自分は愛おしい夫の同性の浮気相手ということになる。
よく見れば、褐色肌の美人ではあるが相応の貫禄を持っている。
「忙しいところ申し訳ないけど、ちょっと付き合ってもらえないかい?」
「はあ……。ご一緒したいのはやまやまですが……。食材を持ち帰らないと……」
「なら、一度あんたのねぐらに寄ってからでいい。乗りなよ」
「わかりました。では失礼して」
二人乗りの人力車のシートに腰を下ろす。
香水臭いかという不安は杞憂だった。カトリーンからはいいにおいがする。彼女自身の香りか、はたまた微香の香水や香木などの類いだろうか。
「では、しばらく待っていてください」
「あいよ」
約束通り一度男妾館に立ち寄り、食材を然るべきところに映す。まかない当番の新入りに細かく指図し、足の速いものから調理するように指示する。やり残しがないことを確認して裏口から出る。
「お待たせしました」
「ああ。じゃあ行こうか。レムゼン通りにやってくれるかい?」
「へい」
カトリーンに指示された行き先に向かって、車夫は人力車を引いていく。
(レムゼン通りねえ……。大丈夫かね……?)
隣に座る褐色肌美人が指定した行き先に、里実は不安になる。
レムゼン通りは、裏街の中でも治安が悪いことで知られる。定職に就かない者、暴力しか生きる術がない者、まともに食っていく方法を知らない者。そういう輩たちが寄り集まった最下層のゴミ溜め。官憲や一般市民からはそう呼ばれている。
土地柄を現わすかのように、どんどん道が悪くなり人力車が揺れるようになっていく。
「あの……。そのお腹大丈夫ですか?切迫流産とか……」
「そうだね。車夫さん、少しゆっくり行ってくれる?」
「へい」
カトリーンの指示に応じて、車夫が速度を落とす。
無法と諦念が支配する街の様子がよく見えるようになる。道ばたであからさまに麻薬を吸っている若者。寝ているのか死んでいるのかさえよくわからない、路肩に横たわる汚れた装いの老人。隙あらば怪しげなものを売りつけようと、手ぐすね引いているチンピラ。
特に胸に応えるのが、子どもたちの姿だった。
(あれは見るに堪えないなあ……)
小さい子どもたちは一様に痩せていて顔色が悪い。まともなものを食べられていないのだろう。よく見れば、生々しいあざをこしらえた子もいる。恐らく暴力を受けているのだ。一番彼らを守るべきはずの保護者たちによって。
(順応してるな。僕も……)
買い物籠にリンゴやオレンジを入れて代金を払いながら、そんなことを思う。こちらにはコンビニも24時間スーパーもない。冷蔵庫もないから、食材の保存もよく考える必要がある。最初は慣れずに四苦八苦したが、今ではどうということもない。
「よう里実さん。いいタマネギが入ったんだよ。買ってってくれよ」
「そうだな。3つもらおうかな」
「豚と牛の合い挽き肉だよー。美味しいよー」
「買った。おまけしてくれよ」
市場で売っているもののなかからできのいいものを選び、足の速い食材から調理する。それを普通にこなせている。夕飯はミートローフにするか。
その時だった。
「ちょっといいかな?あんたが里実さんかい?」
ハスキーな女の声で呼び止められる。見れば、人力車に乗った妊婦がいた。
褐色肌と流れるような黒髪が目を引く、かなりの美人だ。が、装いは派手で、化粧も装飾品も少しケバケバしい。この辺の住人ではなさそうだ。どちらかと言えば裏街の娼婦か、パブの女主人というところか。言葉遣いも育ちがいい者のものではない。
「僕が里実で間違いありませんが……。なんでしょう……?」
仕事柄裏街の人間との付き合いもある。が、この手の女はどうにも苦手だ。美人でも内側に何を秘めているかわからないからだ。
「申し遅れたけど、アタシはカトリーン。ミカエルの妻でね。よろしく」
「ミカエルの?こちらこそよろしくお願いします」
笑顔で握手を交わす。
だが、内心では肝を冷やしていた。なにせ地下組合のボスの嫁だ。荒事も辞さずの気質かも知れない。そして彼女から見れば、自分は愛おしい夫の同性の浮気相手ということになる。
よく見れば、褐色肌の美人ではあるが相応の貫禄を持っている。
「忙しいところ申し訳ないけど、ちょっと付き合ってもらえないかい?」
「はあ……。ご一緒したいのはやまやまですが……。食材を持ち帰らないと……」
「なら、一度あんたのねぐらに寄ってからでいい。乗りなよ」
「わかりました。では失礼して」
二人乗りの人力車のシートに腰を下ろす。
香水臭いかという不安は杞憂だった。カトリーンからはいいにおいがする。彼女自身の香りか、はたまた微香の香水や香木などの類いだろうか。
「では、しばらく待っていてください」
「あいよ」
約束通り一度男妾館に立ち寄り、食材を然るべきところに映す。まかない当番の新入りに細かく指図し、足の速いものから調理するように指示する。やり残しがないことを確認して裏口から出る。
「お待たせしました」
「ああ。じゃあ行こうか。レムゼン通りにやってくれるかい?」
「へい」
カトリーンに指示された行き先に向かって、車夫は人力車を引いていく。
(レムゼン通りねえ……。大丈夫かね……?)
隣に座る褐色肌美人が指定した行き先に、里実は不安になる。
レムゼン通りは、裏街の中でも治安が悪いことで知られる。定職に就かない者、暴力しか生きる術がない者、まともに食っていく方法を知らない者。そういう輩たちが寄り集まった最下層のゴミ溜め。官憲や一般市民からはそう呼ばれている。
土地柄を現わすかのように、どんどん道が悪くなり人力車が揺れるようになっていく。
「あの……。そのお腹大丈夫ですか?切迫流産とか……」
「そうだね。車夫さん、少しゆっくり行ってくれる?」
「へい」
カトリーンの指示に応じて、車夫が速度を落とす。
無法と諦念が支配する街の様子がよく見えるようになる。道ばたであからさまに麻薬を吸っている若者。寝ているのか死んでいるのかさえよくわからない、路肩に横たわる汚れた装いの老人。隙あらば怪しげなものを売りつけようと、手ぐすね引いているチンピラ。
特に胸に応えるのが、子どもたちの姿だった。
(あれは見るに堪えないなあ……)
小さい子どもたちは一様に痩せていて顔色が悪い。まともなものを食べられていないのだろう。よく見れば、生々しいあざをこしらえた子もいる。恐らく暴力を受けているのだ。一番彼らを守るべきはずの保護者たちによって。
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