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第六章 救われぬ心
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(なにが起きたんだ……)
誠には、その瞬間起こったことがまるで見えなかった。
まるでフィルムのコマ落としだ。
一瞬、まばゆい光で視界がくらんだ。ブラウバウムがフラッシュライトで照らしたのがおぼろげにだが見えた。
いつの間にかラリサの左手親指に、ダーツが突き刺さっていた。相馬が投げたのだとすぐに悟る。
親指をやられては、拳銃を支えることはかなわない。デトニクスがゴトリと床に落ちる
そして……。
「お……お父さん……?」
ラリサの眼が驚愕に見開かれる。いつの間にか倉木がすぐ近くにいた。
その右手は、フォールディングナイフの刀身をわしづかみにしている。指の間から、赤い血が流れる。
「こんな結果のために……五年間養ってきたつもりはない……! 誰が死なせるために、ここまで大きくするもんか……!」
血が出続けるのもかまわず、倉木が口を開く。
「自殺なら、私と子どもたちの見ていないところでしてくれ。もう……人が理不尽に死ぬところを見たくないんだ」
そう言って、ナイフの刀身を握る手に力を込める。
「オーナー……だめだっ……!」
駆け寄ろうとする速水を、倉木は手で制する。
「ラリサ、お前にならわかるだろう? 戦場ではみな狂う。殺すことも死ぬことも、うんざりするほど普通になる。だが……お前は違う。血が流れることを恐ろしいと思っている。人が傷つくことを悲しいと思っている。お前は正常だ」
倉木の手が、ラリサの手に重なる。
「その正常さ……無駄にしてはいけない」
「お父さん……」
ラリサの手が、ナイフから離れる。
「すまなかった。悪いのは……父さんだよな……」
驚くほど優しい、だが悲痛な声で、倉木が語りかける。
彼はあるいは、今初めてラリサの父になったのかも知れない。
「お父さん……。パパーシャ……プロシティーテ……。めんなさい……ごめんなさい……!」
ラリサが泣き崩れる。
もう、十五歳の少女相応の顔に戻っていた。先ほどまでの殺気と怒りに駆られた表情は、影も形もない。
初めて倉木を『パパーシャ』と呼んだ。彼女もまた今、ようやく本当の娘になれたのかも知れない。
「少佐、傷を見せてください」
相馬が駆け寄る。
「まずいな……。動脈が切れてます……」
彼女のエキゾチックな美貌が、焦燥の表情になる。
「抑えましょう。こいつで……」
沖田がハンカチを取り出す。
「いえ、動脈出血はそれでは無駄です……。しょうがない……」
相馬がロビーに隣接する納戸から、荷造り用のビニールひもを持ってくる。
倉木の手首に巻き付けて、さらにボールペンを突っ込んでねじる。ヒモによって動脈が圧迫され、取りあえず手のひらからの出血は止まる。
「傷口より高く上げてください。救急車! 急いで!」
「わかりました」
相馬の大きな声に応じて、七美がスマホで119番通報をする。
「書くもの貸して!」
「は……はい……!」
相馬の有無を言わさぬ口調に、篤志がサインペンを手渡す。
倉木の前腕に、現在の時刻を書いていく。
「十分ごとに緩めて、時間をその都度書いて。壊疽を起こし始めたら、手首をぶった切るはめになるわよ」
「わかりました」
速水が応じる。
「ラリサ。あなたも見せて。少佐ほどひどくはないけど……医者に診てもらわないと化膿するかも……」
相馬が今度は、ラリサの左手を調べ始める。ダーツの小さな傷とはいえ、甘く見ていいものではない。
「二人一緒に救急車に乗せましょう。それにしても相馬さん……手慣れてますね……」
誠が感心する。
「あの戦争では、もっとひどい負傷者が毎日出たのよ。アントニオだって……ちゃんと止血していたら死なずにすんだ……」
そう言った相馬の顔には、悔恨と今度は過たないという決意が浮かんでいた。
「しかし……すげえなあ……。親指をピンポイントで狙うなんて……」
篤志が信じられないという調子で言う。相馬のダーツは、あの状況で正確にラリサの親指をヒットしたのだ。しかも、ライトで目がくらんだほんの一瞬の隙を突いて。
「言ったでしょ? 誰にもトップを譲ったことがないってね」
振り向いた彼女が、ニヤリとする。
「それに……オーナーの動き……ぜんぜん見えなかった。ライトでラリサの視界を奪って、一瞬で……」
七美も、狐につままれたようだ。
(あれが……高度に訓練された実戦経験者の力か……)
誠は胸中に思う。
もし自分が戦ったら、とても勝ち目はない。だまし討ちという手段を選択したラリサは、正しかったことになる。
同じ部隊で戦ったラバンスキーと山瀬も、同様に強かったろうから。
誠には、その瞬間起こったことがまるで見えなかった。
まるでフィルムのコマ落としだ。
一瞬、まばゆい光で視界がくらんだ。ブラウバウムがフラッシュライトで照らしたのがおぼろげにだが見えた。
いつの間にかラリサの左手親指に、ダーツが突き刺さっていた。相馬が投げたのだとすぐに悟る。
親指をやられては、拳銃を支えることはかなわない。デトニクスがゴトリと床に落ちる
そして……。
「お……お父さん……?」
ラリサの眼が驚愕に見開かれる。いつの間にか倉木がすぐ近くにいた。
その右手は、フォールディングナイフの刀身をわしづかみにしている。指の間から、赤い血が流れる。
「こんな結果のために……五年間養ってきたつもりはない……! 誰が死なせるために、ここまで大きくするもんか……!」
血が出続けるのもかまわず、倉木が口を開く。
「自殺なら、私と子どもたちの見ていないところでしてくれ。もう……人が理不尽に死ぬところを見たくないんだ」
そう言って、ナイフの刀身を握る手に力を込める。
「オーナー……だめだっ……!」
駆け寄ろうとする速水を、倉木は手で制する。
「ラリサ、お前にならわかるだろう? 戦場ではみな狂う。殺すことも死ぬことも、うんざりするほど普通になる。だが……お前は違う。血が流れることを恐ろしいと思っている。人が傷つくことを悲しいと思っている。お前は正常だ」
倉木の手が、ラリサの手に重なる。
「その正常さ……無駄にしてはいけない」
「お父さん……」
ラリサの手が、ナイフから離れる。
「すまなかった。悪いのは……父さんだよな……」
驚くほど優しい、だが悲痛な声で、倉木が語りかける。
彼はあるいは、今初めてラリサの父になったのかも知れない。
「お父さん……。パパーシャ……プロシティーテ……。めんなさい……ごめんなさい……!」
ラリサが泣き崩れる。
もう、十五歳の少女相応の顔に戻っていた。先ほどまでの殺気と怒りに駆られた表情は、影も形もない。
初めて倉木を『パパーシャ』と呼んだ。彼女もまた今、ようやく本当の娘になれたのかも知れない。
「少佐、傷を見せてください」
相馬が駆け寄る。
「まずいな……。動脈が切れてます……」
彼女のエキゾチックな美貌が、焦燥の表情になる。
「抑えましょう。こいつで……」
沖田がハンカチを取り出す。
「いえ、動脈出血はそれでは無駄です……。しょうがない……」
相馬がロビーに隣接する納戸から、荷造り用のビニールひもを持ってくる。
倉木の手首に巻き付けて、さらにボールペンを突っ込んでねじる。ヒモによって動脈が圧迫され、取りあえず手のひらからの出血は止まる。
「傷口より高く上げてください。救急車! 急いで!」
「わかりました」
相馬の大きな声に応じて、七美がスマホで119番通報をする。
「書くもの貸して!」
「は……はい……!」
相馬の有無を言わさぬ口調に、篤志がサインペンを手渡す。
倉木の前腕に、現在の時刻を書いていく。
「十分ごとに緩めて、時間をその都度書いて。壊疽を起こし始めたら、手首をぶった切るはめになるわよ」
「わかりました」
速水が応じる。
「ラリサ。あなたも見せて。少佐ほどひどくはないけど……医者に診てもらわないと化膿するかも……」
相馬が今度は、ラリサの左手を調べ始める。ダーツの小さな傷とはいえ、甘く見ていいものではない。
「二人一緒に救急車に乗せましょう。それにしても相馬さん……手慣れてますね……」
誠が感心する。
「あの戦争では、もっとひどい負傷者が毎日出たのよ。アントニオだって……ちゃんと止血していたら死なずにすんだ……」
そう言った相馬の顔には、悔恨と今度は過たないという決意が浮かんでいた。
「しかし……すげえなあ……。親指をピンポイントで狙うなんて……」
篤志が信じられないという調子で言う。相馬のダーツは、あの状況で正確にラリサの親指をヒットしたのだ。しかも、ライトで目がくらんだほんの一瞬の隙を突いて。
「言ったでしょ? 誰にもトップを譲ったことがないってね」
振り向いた彼女が、ニヤリとする。
「それに……オーナーの動き……ぜんぜん見えなかった。ライトでラリサの視界を奪って、一瞬で……」
七美も、狐につままれたようだ。
(あれが……高度に訓練された実戦経験者の力か……)
誠は胸中に思う。
もし自分が戦ったら、とても勝ち目はない。だまし討ちという手段を選択したラリサは、正しかったことになる。
同じ部隊で戦ったラバンスキーと山瀬も、同様に強かったろうから。
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