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第五章 迷い、見失い、それでも

04 伝えなければならない気持ち 伝えたい気持ち

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 翌日。
 その日は祝日だったが、学校の保健室は開いていた。部活の練習試合があるので、念のため舞が待機していたのだ。
 湊にとっては幸運だった。
「そう……。彼女にちゃんと謝るつもりでいるのね?」
「はい……。もう許してもらえるとは思ってません。でも……せめて一言ごめんて言いたいんです」
 湊が舞にしているのは人生相談でさえない。ただ、話を聞いてもらうだけだった。
 一ヶ月も彼女を避け続けた挙げ句にまた浮気をした。あまつさえ、今更雪美の大切さに気づいて厚かましくもよりを戻そうというのだ。
 話を聞いている舞も、難しい顔をしていた。彼女のカウンセリングは多くの生徒や教師に好評だ。
 だが、ここまで湊の自業自得の果てに事態が悪化してしまっては、アドバイスできることは少ない。
「相葉さん。あなた本気ね?」
「はい」
 話を一通り静聴して口を開いた舞に、湊は精一杯真剣に答える。
「どんな結果になっても、ちゃんと謝れる。そしてその先、彼女の気持ちを受け入れられる。その覚悟はあるね?」
「はい。もう逃げたくないんです。覚悟してます」
 しばらく湊の目をのぞき込んでいた舞が、ふっと笑顔になる。
「あなた、野球は好き?」
「え……ええ……。アンチ巨人ですが……」
 湊は不意に向けられた質問の意図がわからなかった。
「今は、思い切りバットを振っていきなさい。下手に勝負を避けたらダメ。九回裏でツーアウトかも知れないけど、あなたはバッターボックスに立っている。確率なんてくそ食らえ。当たって砕けろの気持ちで打っていきなさい」
「はい!」
 湊は元気よく返事をする。
 舞が引用したのは、知る人ぞ知る特撮ロボットアニメの台詞だ。諦めて戦いを放棄しようとする主人公を、熱血漢でユーモア溢れるロボットが叱咤した場面のものだった。
 今の湊には、心に刺さる言葉だった。
 やはり舞は頼りになる。相談して良かった。心からそう思えた。

「よし……。これが俺だ……間違いない……」
 湊は自宅の洗面台の鏡とにらめっこをしていた。
 映っているのは、ボーイッシュな少女だ。ちょうど、最初に女になったときと同じだ。
 髪は美容院でショートボブの長さまで切った。おでこを出して、ワイルドな感じにする。顔はマスカラとリップクリームで、最低限みっともなく見えない程度に整えた。アクセサリーは、シンプルなチョーカーに留める。
 七分袖のシャツとジーンズで、盛りすぎず、男っぽすぎずにコーデした。
 いつぞや舞が言ったとおりだ。
 昨日までの自分は、問題から逃げるあまり、状況に流されるまま女をやっていた。
 それではいけない。身体は女である一方、感性は男の部分が残っている。
 これが、自分自身が望む自分。相葉湊だ。
 準備ができたところで、スマホを取る。電話をかける相手は、もちろん雪美だ。
(雪美ちゃん、会いたい……。今すごく会いたい……)
 電話帳の中からひとつの番号を呼び出し、通話ボタンを押すのをためらう。だが、雪美に会いたい。どうしても会いたかった。話がしたかった。
(ちゃんとするのは……今しかない……)
 湊には確信があった。
 生理が終われば、自分はまた思考停止してプカプカ浮いた状態に戻ってしまう。
 恥も痛みも覚悟の上で、雪美に全部を伝え向き合う。その機は今しかないのだ。

 果たして、丘の上の展望台で湊は雪美と落ち合った。彼女に告白して付き合うことになった場所だ。
「雪美ちゃん……?」
 一瞬、そこに待っていた少女が誰かわからなかった。
 雪美は自慢の長く美しい髪をバッサリと切っていた。アダルトボブになった彼女は、ずいぶん違って見える。
 服装もいつもとはだいぶ違う。細く白いスリムジーンズを履き、ニットセーターとロングコートも白でまとめている。首の金のチェーンが妙に優雅だ。
 その姿は、さながら王子様だった。いつものかわいい彼女とは全く異なる。かっこよく凜々しいという表現がしっくりくる。
「湊ちゃん、髪……切ったんですね……」
「雪美ちゃんも切ったのか……。似合ってるよ……」
 苦しい社交辞令が口から出る。雪美があの美しい髪を切ってしまった。なんだか無性に寂しかった。
(雪美ちゃんは……怒ってるんだ……。時間は戻せないと言ってるんだ……)
 湊は察する。雪美は自分に対して憤っている。それを態度で示している。してしまったことは取り消せず、起きてしまったことは元には戻せない。
 もしもあのとき……もしもあのとき……。いくら振り返ってみてももう戻れはしない。こんなはずではなかったと、だから時よ戻れと。いくら祈っても届かない。
 もう戻せない。こんな素敵な彼女がいながら梓に脇見をしたことも。弱い自分と向き合えず、雪美から逃げ続けていたことも。あの美しい髪も。
「雪美ちゃん……ごめん……」
 謝罪が口を突いて出ていた。
「どうして……謝るんですか……?」
 応じた雪美の表情は厳しかった。
 だが、それが湊にはむしろありがたかった。下手に優しくされれば、自分はまた甘えてしまう。今は、全てを話してけじめをつけなければならないのだ。
「また……俺浮気したんだ……」
「またですか……梓君とですか……?」
「うん……」
 ごまかしても始まらない。梓と東村とみんなで付き合うという話は、自分が女になったことで宙に浮いたままだ。
 自分はまた雪美を裏切ったのだ。
「雪美ちゃん……ごめん。本当にごめん……」
「謝ってくれるのはうれしいです。でも……それより話して下さい。なにがあったのか、そしてこれから湊ちゃんはどうしたいのか」
 彼女の目はまっすぐで澄んでいた。だが、湊にはそれが辛かった。もう自分はこの目を見つめる資格はない。心からそう思う。もう、彼女の優しさにすがる権利もない。
(やり直せるなんて……。甘かった……)
 今日、雪美に謝ってよりを戻してもらうつもりでここに来た。だが、湊のその決意は脆くも霧散していた。
 相葉湊がしてきたことは、もう取り返しがつかない。愛おしい人とのきずなは、ひびの入ったガラスも同然。あと少し力が加わるだけで、粉々に飛散する。
 それに気づかず、ぬけぬけと雪美を呼び出した自分が恥ずかしい。
「雪美ちゃん……聞いて欲しいんだ」
 湊は話し始める。
 自分が二度性別転換を起こしたのは、よこしまな気持ちがあったから。
 男に戻る前、よりによって愛し合っている最中に雪美と梓を比べた。彼女に陰茎がついていないのを不満に思った。
 再び女になる前、雪美と梓に対して男のけじめをつけなければならなくなった時、自分は怖くなった。
 その結果がこれだ。逃げ出したい気持ちが、性別転換を起こしてしまった。湊には確信があった。
「俺はどうしようもないやつだ……。男としてはヘタレで……女としてはビッチなんだ……。これ以上、雪美ちゃんを振り回したくない……。俺といると、雪美ちゃんが不幸になるんじゃないかって……」
「私を言い訳にしないで下さい!」
 雪美らしくない、大きな声でかぶせられる。
 一瞬ぽかんとした湊は、彼女の悲しそうな顔にはっとする。自分はまだ逃げている。グダグダと言い訳をしている。それに気づく。
「私を振り回したくないとか、私が不幸になるとか……そういうのはやめて。はっきり言ってください。好きじゃないなら好きじゃないって……」
 泣きそうになりながらも、雪美は一度も目線を逸らさなかった。
(そうだ……言わなきゃ……。好きじゃないって……。お互いのため……雪美ちゃんのため……俺のためでもあるんだ……)
 湊は大きく息を吸い込み、言おうとする。「好きじゃない」と。
 だが、どうしても言えなかった。
(俺は……俺は雪美ちゃんが好きだ……。好きなんだ……)
 無性に悲しくなる。胸が痛くなる。
 雪美との思い出が蘇る。
 告白して、恋人同士になれたこと。一緒に池袋や秋葉原に繰り出したこと。女になって、改めて互いに好きだと確かめたこと。男に戻って、登ったはしごを外した自分を雪美が受け入れてくれたこと。
「俺は……俺は……雪美ちゃんが好きだ……。大好きなんだ……。雪美ちゃんなしじゃ……きっといられない……!」
 前後の脈絡もなにもなく、湊は心のままに告げていた。
 涙が溢れてくるのを抑えられない。胸の痛みに耐えられず、雪美の顔を見られない。
 自分は雪美が好きだ。そんな資格はないだろうが、それでも彼女を愛している。切ない思いが後から後から溢れてきて、とても苦しい。
(でも……これで良かった……。これが最後でも……気持ちを伝えられて……)
 湊はいっそ清々した気分だった。
 自分にそんな資格はない。また、意味もなく雪美にひどいことをしているかも知れない。だが、彼女を嫌いになんてなれるわけがない。
 これで終わりでも、二度と雪美に触れる資格がなくとも、本心を言えて良かった。そこに後悔はない。
 そう思った時だった……。
 涙でよく見えない視界が、急に暗くなる。
(え……?)
 雪美の胸に抱きしめられていることに気づくのに、時間がかかった。
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