はるになったら、

エミリ

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第二十二話

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「今日楽屋何番?」
「五番だ。急げよ、もう他始まってる」
「お姉ちゃんこれ置いたらすぐ行くからねー」
 春は、三人の会話をどこか遠くの出来事のように静観していた。
 ──そうか、暁人もお姉さんの仕事手伝ってるんだ。
「っていうかお前、楽屋の場所くらいマネに聞けよ」
「坂井さん、今日新人の子につきっきりなんだってさ」
 ──ああ、だから暁人は千羽さんのこと知ってたんだ。
「ハル、ぼーっとするなって言っただろ。早く来い」
「早くしないと怒られるよ。この人、仕事中は鬼みたいなんだから」
 千羽と暁人はその後も並んで歩きながら、廊下の突き当たりの部屋へ入っていった。
 春は頭の整理が追いつかず、しばらく廊下に突っ立っていた……いのは山々だったのだが、廊下を猛スピードで行き来する人々に押されたりぶつかられたりして、次第に隅に追いやられた。
 直後、その壁に勢いよく吸い込まれる。
「うっ……わ?」
 どうやらドアの前だったらしく、春は後ろに倒れ込んでしまった。
「あらん? シンデレラボーイじゃない!」
「あ……アンさん?」
 春はドアを開けたブライアンに助け起こされた。いつにも増して高いヒールを履いている彼女は、春よりも頭一つ分以上背が高い。
「ありがとうございムォ」
 春は抱きしめられ──というよりは、ヘッドロックされた。
「やーん、聞いたわよ─! クレインちゃんの弟子になったんですってえぇぇ?」
「ム」
 窒息しかけた春を助けたのは、千羽だった。
「おい……何してんだお前ら。ハル、楽屋隣だぞ」
 解放された春は、どこからともなくちくちくと肌を刺す視線を感じ、辺りを見回した。
 ドアには、第四楽屋と書いてある。刺すような視線の主は、鏡前に座ったいかにもな感じの少女たちだった。
「ごめんなさい!」
 そのまま逃げるように第四楽屋を出ようとした春は、千羽に二の腕を掴まれる。
「ブライアン、ちょうどよかった。第六の応援頼まれたんだが俺今手が離せないんだ。ハルを連れて行ってきてくれないか」
「りょーかいよ」
 春はわけもわからないまま、今度はブライアンに引き摺られて行った。


 その後も訳が分からないまま、春は結局何もできなかった。
 ブライアンと一緒にやってきたのは、一つ上の階の第六楽屋。さっき覗いた第四や第五よりも数倍広く、人も多かった。
 ブライアンは部屋に入るなりどこかへ行ってしまったので、春は入り口付近に取り残される。
「君、巻ける?」
 突然話しかけられたが何のことか分からない。その人は春の返答を一秒も待ってはくれず、またどこかへ行ってしまった。
「あの……」
 勇気を出して一番近くにいた女性スタッフに話しかけるが、「あのさあ、何もできないんだったら邪魔だからよそ行ってくれる?」と一蹴されてしまった。
 春は一人廊下に出た。なぜか鼻の奥がツーンと痛くなり、涙がこみ上げてくる。たった一人、猛獣が犇めく無人島に放り出された気分だ。
「なんで千羽さん、おれを連れてきたんだろう……」 
 春は人目を避けるように、階段の横にあったトイレに逃げ込んだ。

 どれくらいトイレでじっとしていただろう。時間感覚がない。だがさすがにそろそろ戻らないとまずいかもしれない。
 春は恐る恐る廊下に顔を出した。
 未だ多くの人が行き交っており、どこにも春の居場所はなさそうだ。
 再び春がトイレにこもろうとした時、聞き覚えのある声が春を引き留めた。
「やっぱりここにいた。ハル、一緒に来て」
「はい?」
 知らない男の子だった。だが、どこかで見たような気もする。
 春が必死に記憶を辿っていると、彼は春の腕を掴んでさっさと歩き出してしまう。
「ハルのことだから、なんで千羽さんは自分を連れてきたんだろう、とか思ってたんでしょ。まあそれについては俺も同感。あの人たち今日は忙しくて、ハルのこと気にかけてられないだろうから」
 春や千羽のことをまるで前から知っているように話す彼は、StudioDと書いてあるドアの前で立ち止まった。春は、そこで思い切って訊ねてみる。
「……あの、前にどこかでおあいしましたっけ?」
「……」
 彼は少し悲しそうな顔をして春に笑いかけた。そして、ポケットから黒縁の眼鏡を取り出す。
「これならわかる? ──ハル、俺だよ」
 眼鏡をかけたその顔には、見覚えがあった。
「あき……と?」

 眼鏡を外しただけで印象がガラリと変わる人はたくさんいるが、暁人の場合ほとんど別人だった。陰湿な印象を受ける厚ぼったい前髪は搔き上げられてエレガンスなオールバックスタイルに変身し、普段前髪と眼鏡で隠れている目は何かを惹きつけるような力を宿している。
「……ごめん、黙ってて」
 暁人は春から目をそらした。春の視線が痛かった。
「それ、千羽さんがやったの?」
 暁人の心配事をよそに、春の目の中は別の興味でいっぱいのようだ。春の視線は、暁人の目線よりも少し高い位置に留まっている。
「えっ……そうだけど」

「暁人──お前、かっこいいな」

 暁人はてっきり、春は動揺を隠すために明るく振る舞い出すと思っていたので、その反応には面食らった。いつもなら、相手を気遣って「なんでもっと早く言わなかったんだよ!」とか「そんなの、前から気づいてたし」とか言っておちゃらけるのに、春は心底感動したように目を輝かせている。
「いいなあ。トイレなんかにこもってないで、暁人が変身するとこ見てればよかった」
「変身て……大袈裟だな……」
 いい加減見つめられすぎて穴があきそうだった暁人は、スタジオのドアに手をかける。後ろから、春の小さな呟きが聞こえてきた。
「やっぱ……千羽さんはすごいなあ……」
 暁人はため息をついたが、ドアを勢いよく開ける音にかき消された。


「失礼しまーす」
 暁人に続いて、春もスタジオの中に入る。
 スタジオの中は閑散としていた。一方の壁は大きな緑色の布で覆われており、その反対側はカメラやパソコン、大きな傘のようなものがたくさん並んでいるだけ。
「お、いらっしゃい冬哉さん」
 大きな傘をセッティングしていた若い男性が、暁人の声に気づいて近寄ってきた。
「その子、例の?」
「あ、はい。今時間あるみたいなんで、連れてきました。ハル、こちらカメアシの内藤さん」
「亀足……?」
 緑色の壁のことも、カメラの横にある傘も、暁人が「冬哉」と呼ばれたことも気になっていた春は、頭がすでに飽和状態だった。
 それがありありと伝わってきたので、暁人と内藤は顔を見合わせてクスッと笑う。
「ハル、たぶんだけとその漢字変換違う。カメラアシスタントのことね。ハルは今から、この人を手伝って欲しいんだ」
「手伝う……? って、でも、おれ」
「大丈夫大丈夫。この緑の壁の前に立っててくれるだけでいいから」
 次の言葉を発する前に、内藤は春を壁際まで押しやった。春は、助けを求めるように暁人を振り返る。
「心配しなくても大丈夫だよ。向こうはまだ終わらないし、ハルはいる場所がないでしょ。居場所に困ったら、第五楽屋においで。トイレじゃなくて」
 向こうとは、さっきまで春がいたところだろうか。確かに、あそこへ戻っても何もできない。
「じゃ、あとはよろしくお願いしますねー」
 暁人はそう言って、スタジオを出て行ってしまった。

「さて、と」
 スタジオ内に反響する内藤の声に、春はビクッと肩を震わせた。
「これ、着てみてもらえる?」
 差し出されたのは、なにやら光沢のある羽毛のついた派手なスーツ。白を基調とし、羽毛やラメなど様々な装飾がついている。
「靴って何センチかな?」「制服のサイズって何号?」「袖ちょっと長いかな」「まあ冬哉さんがだいたいサイズ一緒って言ってたけど」「身長って一緒くらいなんだっけ?」「あ、着るとき気をつけないと羽根飛び散るからねー」
 内藤は一人で喋りながら、スーツとともに春を更衣室に押し込んだ。
「あの……」
 春がやっと口を開いた時にはすでにカーテンが引かれ、目の前には誰もいなかった。



 ***



 約一時間後。
 暁人はDスタジオのドアを少しだけ開けて中を確認し、静かに中へ入った。
「内藤さん、お疲れ様です」
「ああ、冬哉さん。そっちもう終わったの?」
「いえ、まだ始まってすらいませんよ」
 ざっと見回しても、内藤以外の人の気配はない。もう春はスタジオを出たようだ。
 暁人は内藤に小声で訊ねた。
「どうでしたか?」
「バッチリ。うまく撮れたよ」
 何かを企むようなしたり顔で、内藤はカメラの脇に置いてあったパソコンの前に暁人を誘った。
「どう?」
「最高ですね」
 画面を眺めるうち、暁人も内藤同様得意げな笑みを浮かべる。内藤は、カメラマン魂を揺さぶるその笑顔をカメラに収めたくて仕方なかった。
 暁人──冬哉は、カメラの前ではどんな表情も見せるが、商業用ではない自然な笑顔はまた全然違う。
 内藤は細かく頭を振って雑念を払った。
「じゃ、明日まで仕上げとくよ」
「お願いします。無理言ってすみません」
「いーのいーの。おかげでテストもできたし、いい素材も手に入ったし」
 本来テスト撮影をするはずだったモデルは、風邪で休んだらしい。暁人はその代役として春を連れてきたのだった。
 他にも季節特有の体調不良で欠員が多く出て、マネージャーもスタッフも目を回していた。春を代役にすることは、そんなに難しくなかった。
「いつか、冬哉さんとツーショット撮ってあげたいなあ」
 データの整理をしていた内藤が、ぽつりと呟く。

「ツーショット撮る相手が違いますよ」

 そう言いながら、暁人の手は自然と髪の毛に伸びていた。
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