はるになったら、

エミリ

文字の大きさ
30 / 30

第二十八話(終)

しおりを挟む
 実は、空港の駐車場を出た時からずっと、千羽の車の後ろを走っているタクシーがいた。
 タクシーに乗っている客は一人。その客は後部座席で、呆れたようなため息とともに呟いた。
「乱暴な運転だなあ……」
 どうせ行き先は同じ、そう思って前の車を追うように言ったが、タクシーの運転手は非常に運転しにくそうだ。
「はあ……やっぱり坂井さんに迎えに来てもらえば良かったかな」
 その時、スマートフォンの通知音が鳴った。

『暁人、あんたって案外損な役回りよね』

 毬子からのメッセージを見て、暁人は自嘲気味に笑いながら返信を打ち込む。

『いいんじゃない? 普段で損したことないし』

 車が大きく揺れた。前を走る千羽の車が無理な車線変更をし、タクシーもそれに倣ったためだ。
 やがて車は一般道に入り、乱暴な運転は少し収まりを見せてきた。
「……まったく、世話が焼けるんだから」
 信号待ちで車間が詰まると、車内の様子が見て取れる。
 長い付き合いで、暁人は千羽が本当に怒っている時と、照れ隠しにぶっきらぼうになる時の見分けがつくようになっていた。
「……あ」
 今回は、どうやら後者のようだ。
 暁人は前の車のバックミラーに写り込まないよう、より一層姿勢を低くしたのだった。



 ***



 しばらく、何も起こらなかった。
 やっぱり、まずいことを言ってしまったのだろうか。春は背筋に寒気を感じ、恐る恐る目を開けた。
 千羽はハンドルに肘を乗せ、眉間に皺を寄せたままじっとしていた。
 それが怒っている表情にも見えたため、春は泣きそうになる。いよいよ謝ろうと大きく息を吸い込んだ時、千羽は反対に大きく息を吐き出した。
「……誰が、そこまで言えと」
「ごめんなさい! ええと、おれ……」
「ベルト」
「ベル……おわっ」
 春がシートベルトをするより前に、千羽はエンジンをふかしてやや乱暴に車を発進させた。
 車という、逃げ場のない密閉された空間。春は自分の魂が口から出ないように黙っているので精一杯だった。


 高速道路から一般道に出ると、千羽はおもむろに口を開いた。
「一生、大事にされるようじゃ困るな。さっさと使い潰してもらわないと」
 その声色に温かみを感じて、春の緊張はそれまでの緊張が嘘のように、一気に解けた。
「ああうん! もちろん、よ……お?」
 最近受験勉強のかいもあって、春は自分の使うちょっとおかしな日本語に違和感を覚えることくらいはできるようになっていた。
 この場に暁人がいたらすぐさま突っ込まれそうだと思い、慌てて取り繕う。
「……ん? なにしてんだ?」
 信号が赤になり、千羽はちょっとおかしな行為をしている春を横目で見た。
「おれだって、ちゃんと勉強してたんだ。暁人にも添削してもらったから間違いないよ」
 間違いない、と言われても。千羽には、どう見ても春がハサミにキスしているようにしか見えなかった。自然とハンドルを握る手に力が入る。
「大事なものにはさ、つばつけとくんだろ? 大事な、自分のものって証拠にさ」
「へえ……なるほどね」
 千羽は面白がるように口角を上げ、目を細めた。
「じゃ、俺も自分のものって証拠に、つばつけとかなきゃな」
「うんうん、それがい──」

「──っ」

 千羽は春の頭に手を回してぐっと引き寄せると、その額にそっと唇を寄せた。

 春は当然、プチパニック。
 そのあとすぐに信号がすぐに青になったので、千羽はすぐ春から離れてしまった。
 千羽が触れたところが熱を持って、顔全体に広がっていく。春はその熱を逃がすまいと額に触れた。
 千羽は何事もなかったかのように運転を続けているが、その横顔は、何かが吹っ切れたように爽やかに見えた。
 

 目的地の駐車場に着いても、春も千羽もすぐには車を降りなかった。
「どうした? もっかいしてほしいのか?」
 千羽は冷静に大真面目を装って言う。反対に、春は今にも顔が噴火しそうだった。
「ぬっ……子供をからかうなよぉ」
 その様子に、千羽は吹き出した。
「あっはは……悪い悪い。大丈夫。未成年のうちは手出さないでおいてやるよ」
「手……って──」
 続けて春が、「あんたよく人の頭に手出すじゃん……」と言いかけたところに、千羽の大きな手が乗せられる。
 春は、自分の熱が千羽に伝わらないか心配だった。
「早く大人になれよ。それまで待ってやるから」
 それは、今はまだ子供でも許してくれるということ。
 春は嬉しさのあまり緩んだ顔を見られないよう、うつむいたまま頷いた。
 すると千羽の指が、次第に春の髪で遊び始める。
「でももったいないな。ちっちゃくて子供のハルもかわいくて好きだったのに」
 春はムキになって千羽の手を払った。
「い、いつの時代の話をしてるんだよ!」
 そう言うと、千羽は少し悲しい顔をした。
 春はその表情にどことなく見覚えがある気がして、一瞬記憶の海を彷徨った。
 道でばったり会うより前に、千羽とはどこかで──

 ──コンコン 

 車の窓をノックする音が、春の思考を遮った。
「あ、暁人」
「あ、暁人、じゃないんだけど。俺より遅いってどういうこと? 遅刻だよ二人とも」
「おっと、そうだったな。急ぐぞハル」
「ああうん! 今いく!」
 時間はたっぷりある。きっとその間に何か思い出すだろう。
「暁人、色々ありがとな」
 春は暁人を呼び止め、千羽に聞こえないよう小声で囁いた。
「何が?」
「ずっと後ろついて来てたタクシー、乗ってたの暁人だろ?」
 暁人はぎくっとして動きを止めた。
「……ホント、ハルって鈍いんだかバカなんだかわかんないよね」
「おい、バカって言ったなバカって。……ん? っていうか鈍いもそれディスってるだろ!」
「そこは訂正しない」
「……むぅ。確かに鈍いしバカだけども」
「ホント、ハルは俺がいないとダメなんだから」
「それは、否定しないっ」
 二人は、顔を見合わせて笑った。
「んっも~ぅ! 遅いじゃない! どこで道草食ってたのよ!」
 離れたところからでもわかりやすい声とシルエットが、向こう側から走ってくるのが見える。
「悪いな。ちょっといちゃついてた」
 千羽は、なんの感慨もなしに淡々とブライアンをあしらった。当然、「えっ!」とドスの効いた声が返ってくる。
「アンさん、声」
 暁人はそう言いつつ、春や千羽の死角となる位置でブライアンに親指を立てて見せた。
「あらヤダ……」
 ブライアンは、暁人に顔を寄せて小声になる。
「じゃあ、うまくいったのね?」
「当たり前でしょ? 俺を誰だと思ってるの」
「さすがだわ! クレインちゃんの機嫌がいいと、現場が速く回るのよ。いやぁたすかったわぁ」
 春と千羽は、ちちくり合いながら先を歩いていた。その光景を生暖かい目で見つめながら、暁人も早足になって二人を追いかける。
「ほら、アンさんも早く。まだミッションは終わってないよ」
「そうだったわね!」
 今日は春の誕生日。百歩譲って千羽に先を越させたが、撮影を予定通り終わらせて春の誕生日パーティーをするというミッションが、まだ残っていた。

「あらハルくん、おはよう! 今日も荷物持ちご苦労さまー」
「おはようございます! ありがとうございます! よろしくお願いします!」
 春は入り口でスタッフ証を受け取り、首にかけた。
 春の声を聞いた他のスタッフたちも、続々と顔を覗かせる。今はちょうど休憩時間のようだ。
「まあ、最初から心配はしてなかったが……あいつ、コミュ力の塊だな」
 千羽は、感心したような呆れたような微妙な表情を作りながら、挨拶回りをする春を眺めていた。
 春が廊下を通るだけで、それまでの張り詰めた空気が緩んでいく。まるで、春自身がを運んできたかのように。
「ほーら、急ぐんだろ? 早くしろよな、千羽さん!」
 千羽は心地いい空気に身を委ねていたかったが、この後のミッションのことを思い出して気を引き締め直した。
「わかってるよ。ところでハル」
「ん? なんだよ。……な、名前で呼ぶのはさ、二人の時だけ、だろ?」
 鼻の頭を赤く染めながら顔を寄せる春を今すぐどうにかしてやりたかったが、千羽は心を鬼にした。
「ところで」
 千羽は急に立ち止まった。
「そっちは女性控え室しかないが、何か用でもあるのか?」
 廊下の壁を見ると、ちょうど春が立っている位置に「→控え室(女性)」と張り紙がある。春は、顔が赤くなった。
 だが、次の千羽の台詞のせいで、顔だけでなく全身が真っ赤なゆでだこ状態になってしまう。
「ほーら、俺が女優に嫉妬しないうちにさっさとこっち来い」
「……そーゆーセリフも二人の時だけにしろよな」
 当分退屈せずにすみそうだと、千羽は悪戯っぽく笑った。
「いちゃつくのも、お二人様の時だけにしてくれない?」
 暁人が冷めた目でその光景を見ていた。
「なんだよ、お前いつもカメラの前でこれよりクサいセリフ言ってるだろ」
「あー、クサいって自覚はあるんだ」

 休憩時間が終わったのか、人々の動きが早まった。
 春はまだ熱が引いていなかったが、無理やり体を動かすことで誤魔化した。
 千羽の仕事道具を、その一つ一つに自分の熱を移していくように、大事に並べる。目の前の鏡には、まだ半人前で頼りない春の姿が映っていた。

 ──いつか、大好きな人と並んでここに立てますように。

 半年前は思いもしなかった。まさか今、自分がここにいるなんて。
 というか、千羽と出会ってまだ半年しか経っていないとは、にわかには信じ難い。
 春は濃かった半年を振り返り、先の数年に想いを馳せた。少なくとも専門学校を卒業する頃の春になったら、あの場所に近づけるだろうか。

 春は今こうしてこの場にいられる奇跡を噛み締め、鏡の中の幻想から離れた。
 春の体を縛っていた熱は、いつの間にか解けていた。


 
 


 ──はるになったら、本編完


   最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
しおりを挟む
感想 1

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

みけ
2020.06.29 みけ

登場人物がみんな素敵な人ばかりで毎回、楽しく読ませていただきました。完結とのことですが、今後の展開も正直、気になりました。また、優しい気持ちになるようなお話を待っていますね。

2020.06.29 エミリ

ありがとうございます!!!!! あぁ、凄く嬉しい…
そういえばこの話、悪役っていう悪役いないですね。
完結は私の中のひとつの区切りなので、今後の春たちの動向も見守っていただければ幸いです……!(続編というか、番外編はいくつか考えています)

解除

あなたにおすすめの小説

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている

キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。 今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。 魔法と剣が支配するリオセルト大陸。 平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。 過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。 すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。 ――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。 切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。 全8話 お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

同居人の距離感がなんかおかしい

さくら優
BL
ひょんなことから会社の同期の家に居候することになった昂輝。でも待って!こいつなんか、距離感がおかしい!

【完結】恋した君は別の誰かが好きだから

花村 ネズリ
BL
本編は完結しました。後日、おまけ&アフターストーリー随筆予定。 青春BLカップ31位。 BETありがとうございました。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 俺が好きになった人は、別の誰かが好きだからーー。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 二つの視点から見た、片思い恋愛模様。 じれきゅん ギャップ攻め

【bl】砕かれた誇り

perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。 「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」 「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」 「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」 彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。 「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」 「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」 --- いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。 私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、 一部に翻訳ソフトを使用しています。 もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、 本当にありがたく思います。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。