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第一章 団地に来ちゃった見習い管理人①
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就活用のスーツが、もはや喪服にしか見えなかった。
ショーウィンドウに映る自分の姿を見て、瀬川凛は深いため息をついた。黒いジャケットは何度も着たせいで、肘や肩のあたりがテカテカと光を反射している。パンプスのかかとはすり減って、歩くたびにカツカツと情けない音を立てる。薄くなった履歴書ファイルは、まるで沈没した船の設計図のように思えた。中身は空っぽで、希望も夢も、とうの昔にどこかへ流れ去ってしまったのだ。
(……全部落ちたなぁ)
心の中で呟く声は、驚くほど平坦だった。もう、悲しむ気力さえ残っていないのかもしれない。
最終面接まで行った会社もあった。グループディスカッションでは、震える声でなんとか発言もした。自己PRだって、鏡の前で一晩中練習した。それなのに、結果は見事なまでの全敗である。三十社、四十社――もう数えるのもやめた。不採用通知のメールを見るたびに、胸の奥が少しずつ冷たくなっていった。
「自分には社会性がない」
親には決して言えない本音を、凛は心の中だけでこっそり認めていた。集団になじめない。飲み会が怖い。初対面の人と話すとき、頭が真っ白になって、用意していた言葉が全部どこかへ消えてしまう。そんな人間を、企業が進んで採るはずがなかった。人事担当者の冷たい視線が、今でもまぶたの裏に焼きついている。
「次の方、どうぞ」
あの声が聞こえるたびに、自分という存在が少しずつ削られていくような気がした。
そんな凛のもとに、一本の電話がかかってきたのが三日前のことだ。
『りんちゃん? 久しぶりねぇ。おばさんよ、おばさん』
遠縁の、よく分からない「おばさん」からの電話だった。法事のときに一度だけ会ったことがある。丸い眼鏡をかけた、声だけやたら元気な人。名前も、どんな関係だったかも、もう曖昧だ。
『住み込みでできるお仕事があるの。家賃タダ、ごはんつき。りんちゃん、今ひまよね?』
「ひ、ひまっていうか、その、就活中で……」
弱々しく答える凛の声は、電話口の向こうで呆気なく遮られた。
『就活もお仕事のうちよ。じゃ、ちょうどいいわ! 明後日、来られる?』
「え、あ、その……」
『じゃ、決まりね! 住所、LINEで送るから!』
このテンポの良すぎる、というより一方的な会話の結果、凛はふだん乗らない路線に乗り、電車に揺られている。目的地は——。
「だ、団地……」
小さくつぶやいた瞬間、胃がきゅっと縮んだ。冷たい汗が背中を流れる。
団地。
できれば、一生関わらずに生きていきたい単語ランキング堂々一位である。いや、ランキングというより、もはや凛にとって団地とは、記憶の底に沈めておくべき言葉だった。
子どもの頃、凛は団地で孤立していた。
理由はいまだによく分からない。気がついたときには、もう自分だけが輪から外れていた。同じ階の子どもたちの視線が冷たかった。中庭の鉄棒の前で、誰かがひそひそ話をする。その声が止むと、一斉にこちらを見る。ランドセルの中に小石やゴミを入れられたこともある。
あの頃の空気は、今でも喉の奥に残っている。乾いた砂みたいに、ざらざらと痛い。
(……でも、他に行くところ、ないし)
現実は残酷だ。トラウマより、家賃と光熱費のほうが遥かに強い。凛は自分の人生が、団地に負ける音を聞いた気がした。心の中で、かすかに何かが砕けた。
ショーウィンドウに映る自分の姿を見て、瀬川凛は深いため息をついた。黒いジャケットは何度も着たせいで、肘や肩のあたりがテカテカと光を反射している。パンプスのかかとはすり減って、歩くたびにカツカツと情けない音を立てる。薄くなった履歴書ファイルは、まるで沈没した船の設計図のように思えた。中身は空っぽで、希望も夢も、とうの昔にどこかへ流れ去ってしまったのだ。
(……全部落ちたなぁ)
心の中で呟く声は、驚くほど平坦だった。もう、悲しむ気力さえ残っていないのかもしれない。
最終面接まで行った会社もあった。グループディスカッションでは、震える声でなんとか発言もした。自己PRだって、鏡の前で一晩中練習した。それなのに、結果は見事なまでの全敗である。三十社、四十社――もう数えるのもやめた。不採用通知のメールを見るたびに、胸の奥が少しずつ冷たくなっていった。
「自分には社会性がない」
親には決して言えない本音を、凛は心の中だけでこっそり認めていた。集団になじめない。飲み会が怖い。初対面の人と話すとき、頭が真っ白になって、用意していた言葉が全部どこかへ消えてしまう。そんな人間を、企業が進んで採るはずがなかった。人事担当者の冷たい視線が、今でもまぶたの裏に焼きついている。
「次の方、どうぞ」
あの声が聞こえるたびに、自分という存在が少しずつ削られていくような気がした。
そんな凛のもとに、一本の電話がかかってきたのが三日前のことだ。
『りんちゃん? 久しぶりねぇ。おばさんよ、おばさん』
遠縁の、よく分からない「おばさん」からの電話だった。法事のときに一度だけ会ったことがある。丸い眼鏡をかけた、声だけやたら元気な人。名前も、どんな関係だったかも、もう曖昧だ。
『住み込みでできるお仕事があるの。家賃タダ、ごはんつき。りんちゃん、今ひまよね?』
「ひ、ひまっていうか、その、就活中で……」
弱々しく答える凛の声は、電話口の向こうで呆気なく遮られた。
『就活もお仕事のうちよ。じゃ、ちょうどいいわ! 明後日、来られる?』
「え、あ、その……」
『じゃ、決まりね! 住所、LINEで送るから!』
このテンポの良すぎる、というより一方的な会話の結果、凛はふだん乗らない路線に乗り、電車に揺られている。目的地は——。
「だ、団地……」
小さくつぶやいた瞬間、胃がきゅっと縮んだ。冷たい汗が背中を流れる。
団地。
できれば、一生関わらずに生きていきたい単語ランキング堂々一位である。いや、ランキングというより、もはや凛にとって団地とは、記憶の底に沈めておくべき言葉だった。
子どもの頃、凛は団地で孤立していた。
理由はいまだによく分からない。気がついたときには、もう自分だけが輪から外れていた。同じ階の子どもたちの視線が冷たかった。中庭の鉄棒の前で、誰かがひそひそ話をする。その声が止むと、一斉にこちらを見る。ランドセルの中に小石やゴミを入れられたこともある。
あの頃の空気は、今でも喉の奥に残っている。乾いた砂みたいに、ざらざらと痛い。
(……でも、他に行くところ、ないし)
現実は残酷だ。トラウマより、家賃と光熱費のほうが遥かに強い。凛は自分の人生が、団地に負ける音を聞いた気がした。心の中で、かすかに何かが砕けた。
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