あやかし団地 管理人見習い日誌

双月ねむる

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第二章 空き部屋は放したくない③

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 午前中は、あっという間に過ぎた。
 ゴミ捨て場のチェック。廊下の掃き掃除。共用部分の窓拭き。やることは次々に出てくる。団地という巨大な生き物は、常に何かしらの世話を必要としているのだ。

 階段の踊り場を掃いていたとき、不思議なことが起きた。
 見えない誰かが、そこをトントンと踏む音が聞こえたのだ。

 凛は思わずほうきを止めて、足元を見下ろした。
 もちろん、誰もいない。しかし確かに、靴音が聞こえた気がした。子どもの靴のような、軽い音。

「あ、あの……ほうき、当たったらごめんね」

 小声で謝る。
 すると、足元でコツコツッと軽いリズムが返ってきた。まるで返事をするように。

「靴鳴らしさん、今日はご機嫌ですね……」

 独り言のようにつぶやいて、凛は掃除を続けた。

 もし誰かに見られたら、完全に危ない人だろう。階段で一人でぶつぶつ言いながら、誰もいない足元に話しかけている若い女。通報されても文句は言えない。
 しかし、慣れてしまえばどうということはなかった。

 団地の噂話のひとつやふたつ、今さら増えても大差ない。そもそも、ここに引っ越してきた時点で、普通の人生からは逸脱している。
 そう自分に言い聞かせているうちに、時間は過ぎていった。

 昼過ぎ。
 団地の中庭の道路に、一台のトラックが止まった。荷台には、引っ越しの段ボールと、布で覆われた家具がいくつか積まれている。

「来たわね」

 管理人棟の玄関から、お千代が顔を出した。
 凛もあわてて駆け寄る。心臓が、妙に早く打っていた。これから始まる何かへの予感が、胸の奥でざわめいていた。

 トラックの運転席から、運送会社の若い男が降りてきた。作業着を着た、人のよさそうな青年だ。
 そして、その反対側のドアから——。

「よいしょ……」

 細い腕が、段ボールを抱えて出てくる。
 短く切られた髪。スキニーのジーンズにパーカー。
 段ボールの上にのぞく顔を見た瞬間、凛は足を止めた。

 呼吸が、一瞬止まった。
 知っている顔だった。

 目つきの鋭さも、眉のラインも、笑ってないときの口元の形も、記憶の中と寸分違わず同じ。時間が巻き戻されたような錯覚に襲われる。

(……うそ)

 喉の奥で、声にならない言葉が泡立った。
 向こうも、段ボール越しにこちらを見て、一瞬固まった。黒目が大きく開く。驚きと、戸惑いと、何か別の感情が、その瞳に浮かんでいた。
 そして、ほぼ同時に。

「……凛?」
「……由梨?」

 名前が、空中でぶつかった。
 二人は固まり、見つめ合う。

 運送会社の青年だけが、状況を把握できずに「どしたの?」と首をかしげている。彼にとっては、ただの引っ越し作業の一コマにすぎない。しかし当事者にとっては、世界が凍りついた瞬間だった。
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