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第三章 ベランダのSOS①
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その朝、さくらヶ丘第一団地は、いつものように「ちょっとだけうるさい平和」に包まれていた。
A棟とB棟のあいだに広がる中庭では、幼稚園のバス待ちらしい子どもが鉄棒にぶら下がって、元気な声を上げている。ベランダというベランダには、色とりどりの洗濯物がひらひらと風に揺れていた。レトロな商店街からは、コロッケでも揚げているのか、食欲をそそる匂いが漂ってくる。「いらっしゃいませー」という威勢のいい声も聞こえた。銭湯の煙突からは、薄く湯気がのぼっている。午前中から営業の準備をしているらしい。
そんな平和な団地の風景を背景に、二人の人影が、ほうきとチリトリを手に駆け回っていた。まるで何かに追われているかのような慌ただしさだ。
「由梨、そっちの階段終わった?」
凛の声が、団地の廊下に響いた。
「まだ! なんか三階の踊り場、靴鳴らしが舞ってて掃きにくい!」
由梨の返事が、階段の上から返ってくる。
「踊るなって言ってー!」
「無理! めっちゃノリノリ!」
人間二人と目に見えないあやかし一匹による、カオスな朝の掃除風景である。
凛は、ジャージの上に紺色の管理人ジャケットという、完全に体育会系な出で立ちで階段を上がっていく。髪を後ろでひとつに束ねた彼女の額には、すでに薄く汗が浮かんでいた。頭上から、コツコツコツ、と軽快なステップ音が聞こえてくる。その音はまるで、誰かがタップダンスでも踊っているかのようだ。
「靴鳴らしさん! ダンスはいいから、せめて端っこ寄ってください! ゴミが集まらない!」
凛が声をかけると、足音がすーっと隅のほうへ移動した。フリーダムなくせに、いちおう協力はするあたりが団地あやかしらしい。凛は小さく息をついた。慣れたものである。
「りーん、見て、クモの巣でハートできてる」
別の階段から、由梨の声がした。興奮したような口調だ。
すぐに凛のスマホが震えた。由梨が写真を送ってきたのだ。
踊り場の角に張ったクモの巣が、妙にきれいなハート型になっている。まるで誰かが意図的に作ったかのような、完璧な形だった。
「可愛いけど、掃除的にはアウトなのよね……」
凛が苦笑する。
「SNSに上げたらバズるかな」
「バズったらまずいよ。見物人が来たらどうするの」
そんな軽口を叩けるようになって、もう数日が経った。
思えば不思議な関係だった。昔、団地で顔を合わせれば胃が縮こまっていた相手。今は一緒に「管理人見習いコンビ」としてあやかしに振り回されているのだから、人生というのは本当にわからない。
ようやく階段の掃除を終えた二人は、掃除道具とごみ袋を手に、中庭で合流した。
「にしてもさぁ……団地って、こんなに『動いて』たんだね」
由梨がしみじみとつぶやいた。
「ほら。人の話し声とか、テレビの音とか、洗濯機の音とかさ。前に住んでたときは、自分の家のことでいっぱいいっぱいで、こんなに響きわたってるって意識してなかった」
由梨の言葉に、凛はハッとした。
「……わかるかも」
凛も、耳を澄ます。
どこかの部屋で、誰かの笑い声。別の階では、誰かと大声で会話しているらしい声。遠くからは、レコード屋の店主がかけている古い歌謡曲が、かすかに流れてきていた。昭和の香りがする、懐かしい旋律だ。
団地は、常に何かしら喋っている。生きている。呼吸している。
「でも、その割に、『誰が困ってるか』が見えにくいよね」
由梨の言葉が、核心を突いた。
「それがあたしたちの仕事でしょ、管理人見習いの」
凛が言うと、由梨が不満そうな顔をする。
「いちいち『見習い』ってつけるの、やめない?」
「権限が欲しいの?」
「せめて有給が欲しい」
「ここに有給って概念があると思う?」
「ないねぇ!」
二人の笑い声が重なったそのときだった。
「りーん! まただよー!」
A棟の中層から、風鈴の精の声が響いた。チリンチリンとやたら騒がしい。その音には、明らかな焦りが含まれていた。
凛と由梨は顔を見合わせる。二人の表情が、同時に曇った。
「……またって、何回目?」
「この三日でたぶん五回」
「多くない?」
「うん、多い」
二人が見上げた先、三階のベランダから、Tシャツがひらりと落ちてきた。
「わ、落ちた!」
由梨が声を上げる。
「今日は無風だよね!? なんで!? あの高さだけ風が吹いてるの!?」
混乱を口にしながら、凛はTシャツを拾い上げる。手に取ると、まだ洗剤の香りがした。
頭上から、洗濯バサミやタオルがはらはらと降ってくる。地面に散らばったそれらは、まるで小さな事件現場のようだった。
A棟とB棟のあいだに広がる中庭では、幼稚園のバス待ちらしい子どもが鉄棒にぶら下がって、元気な声を上げている。ベランダというベランダには、色とりどりの洗濯物がひらひらと風に揺れていた。レトロな商店街からは、コロッケでも揚げているのか、食欲をそそる匂いが漂ってくる。「いらっしゃいませー」という威勢のいい声も聞こえた。銭湯の煙突からは、薄く湯気がのぼっている。午前中から営業の準備をしているらしい。
そんな平和な団地の風景を背景に、二人の人影が、ほうきとチリトリを手に駆け回っていた。まるで何かに追われているかのような慌ただしさだ。
「由梨、そっちの階段終わった?」
凛の声が、団地の廊下に響いた。
「まだ! なんか三階の踊り場、靴鳴らしが舞ってて掃きにくい!」
由梨の返事が、階段の上から返ってくる。
「踊るなって言ってー!」
「無理! めっちゃノリノリ!」
人間二人と目に見えないあやかし一匹による、カオスな朝の掃除風景である。
凛は、ジャージの上に紺色の管理人ジャケットという、完全に体育会系な出で立ちで階段を上がっていく。髪を後ろでひとつに束ねた彼女の額には、すでに薄く汗が浮かんでいた。頭上から、コツコツコツ、と軽快なステップ音が聞こえてくる。その音はまるで、誰かがタップダンスでも踊っているかのようだ。
「靴鳴らしさん! ダンスはいいから、せめて端っこ寄ってください! ゴミが集まらない!」
凛が声をかけると、足音がすーっと隅のほうへ移動した。フリーダムなくせに、いちおう協力はするあたりが団地あやかしらしい。凛は小さく息をついた。慣れたものである。
「りーん、見て、クモの巣でハートできてる」
別の階段から、由梨の声がした。興奮したような口調だ。
すぐに凛のスマホが震えた。由梨が写真を送ってきたのだ。
踊り場の角に張ったクモの巣が、妙にきれいなハート型になっている。まるで誰かが意図的に作ったかのような、完璧な形だった。
「可愛いけど、掃除的にはアウトなのよね……」
凛が苦笑する。
「SNSに上げたらバズるかな」
「バズったらまずいよ。見物人が来たらどうするの」
そんな軽口を叩けるようになって、もう数日が経った。
思えば不思議な関係だった。昔、団地で顔を合わせれば胃が縮こまっていた相手。今は一緒に「管理人見習いコンビ」としてあやかしに振り回されているのだから、人生というのは本当にわからない。
ようやく階段の掃除を終えた二人は、掃除道具とごみ袋を手に、中庭で合流した。
「にしてもさぁ……団地って、こんなに『動いて』たんだね」
由梨がしみじみとつぶやいた。
「ほら。人の話し声とか、テレビの音とか、洗濯機の音とかさ。前に住んでたときは、自分の家のことでいっぱいいっぱいで、こんなに響きわたってるって意識してなかった」
由梨の言葉に、凛はハッとした。
「……わかるかも」
凛も、耳を澄ます。
どこかの部屋で、誰かの笑い声。別の階では、誰かと大声で会話しているらしい声。遠くからは、レコード屋の店主がかけている古い歌謡曲が、かすかに流れてきていた。昭和の香りがする、懐かしい旋律だ。
団地は、常に何かしら喋っている。生きている。呼吸している。
「でも、その割に、『誰が困ってるか』が見えにくいよね」
由梨の言葉が、核心を突いた。
「それがあたしたちの仕事でしょ、管理人見習いの」
凛が言うと、由梨が不満そうな顔をする。
「いちいち『見習い』ってつけるの、やめない?」
「権限が欲しいの?」
「せめて有給が欲しい」
「ここに有給って概念があると思う?」
「ないねぇ!」
二人の笑い声が重なったそのときだった。
「りーん! まただよー!」
A棟の中層から、風鈴の精の声が響いた。チリンチリンとやたら騒がしい。その音には、明らかな焦りが含まれていた。
凛と由梨は顔を見合わせる。二人の表情が、同時に曇った。
「……またって、何回目?」
「この三日でたぶん五回」
「多くない?」
「うん、多い」
二人が見上げた先、三階のベランダから、Tシャツがひらりと落ちてきた。
「わ、落ちた!」
由梨が声を上げる。
「今日は無風だよね!? なんで!? あの高さだけ風が吹いてるの!?」
混乱を口にしながら、凛はTシャツを拾い上げる。手に取ると、まだ洗剤の香りがした。
頭上から、洗濯バサミやタオルがはらはらと降ってくる。地面に散らばったそれらは、まるで小さな事件現場のようだった。
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