【完結】あやかし団地 管理人見習い日誌

双月ねむる

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第四章 消えた喫茶店⑥

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「……でも、主人が病気になっちゃって」

 静かな言葉。
 それは、あまりにも淡々としていて、だからこそ——重かった。

「店と、病院と、子育てと。全部は、持てなかった」

 チラシの上に落ちる指先が、少し強く紙を押しつぶす。
「店を続けていればよかった、っていう後悔と。やめなきゃよかったっていう後悔と。どっちも、ずっと残ったままで」

 凛は、その感情の重さを、ありありと想像できた。
 自分だって、あのとき違う選択をしていれば、という後悔はたくさんある。就活のときの一つ一つの判断。団地から逃げたこと。
 けれど、この人の「やめる/やめない」は、もっと生活に直結した、苦しい選択だったのだろう。

 正解なんて、ない。
 どちらを選んでも、きっと後悔は残る。

「店を閉めたあと、チラシの束、捨てられなくてね」
 女性が、少し照れ笑いをする。
「押し入れの箱の中にずっと入れたままにしてたの。年に一回くらい、こっそり出して眺めては、またしまって」

 ——押し入れ。
 ポスティング妖怪が、チラシスタンドの中でひそひそと震える。

「『またいつか』なんて思ってたけど……。気づいたら、その『いつか』って言葉さえ、古くなっちゃってて」
 女性は、少し肩を落とした。
「もう、若くないし。商店街も、人が減ったし。喫茶店なんて、今さら。……そう思って、チラシも、そろそろ処分しようかと思ってたのよ」

 その瞬間、凛の頭の中で、ピースがカチリと噛み合った。

 チラシを捨てようとしたタイミングで――。
 「配って」「もう一度」「ここに来て」。
 ポスティング妖怪が感じた声。
 それは、たぶん――。
 この人自身の気持ちが、形になったものだ。

「あのぉ、実は、団地じゅうに、このチラシが勝手に配られていまして」

「ええ?」
 女性が目を丸くする。

「いま、このチラシが、いろんなお宅のポストに入っていて……。それで、みなさんから『そんな店ないじゃないか』と問い合わせが来てて……」

 女性は、目を丸くした。

「私が配ったんじゃないわよ?」
「はい。わかってます。誰がやったのかはわかってるんです、実を言いますと」
「そうなの? うちの押し入れからわざわざ持ち出して、配った人がいるの?」
「はい」

 そう答えてから、「人じゃありませんけどね」と内心でつけ加える。

「びっくりされましたよね?」
「ええ。まさかこんな形でまた目にするとは思ってなかったから」

 女性は、少しチラシを見つめてから、ぽつりと言った。

「でも……嬉しかった」
 その一言が、とても静かで——強かった。
「忘れられてなかったみたいで。店の名前も、団地の商店街の奥にカフェがあったことも。私の頭の中だけじゃなくて、紙に残ってる、っていうだけでも……なんだか、まだここにいられる気がして」

 凛の胸が、ぎゅっとなる。

 忘れたくない部屋。
 風鈴のSOS。
 この団地には、そういう「手放しきれない」気持ちが、あちこちに残っている。

「でも、迷惑、よね」
 女性は、苦笑してチラシを伏せた。
「ない店のチラシが配られたら、みんな困るもの」

「……たしかに、びっくりはされてます」
 凛は正直に答える。
「でも、怒ってる人ばかりじゃないです。『懐かしい』『こんな店、昔あった?』って言ってる人もいます」

 そうだ。
 朝、管理人室に来た高齢女性は、こんなことも言っていた。

『さくらカフェって、あの奥の? 懐かしいわぁ。まだやってるなら行きたいけどねぇ』

 今の団地にも、「覚えている人」はたくさんいるのだ。
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