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第一章 フィルム屋敷の夜
夜が泣いている
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雨は、降るでもなく止むでもなく、街灯の下でいつまでも迷っていた。
アスファルトに落ちたしずくは、すぐに薄い水膜になり、車も人もほとんど通らない夜の商店街を、にじんだ色の帯みたいにしている。コンビニの白い光だけがやたら元気で、まるで深夜営業を自慢しているみたいだ。他の店はみんなシャッターを下ろして眠っていた。店先に並んでいた商品たちも、台車に乗せられて店の奥へ引っ込み、街全体が一日の終わりを告げている。
その真ん中を、進藤彩乃は、リュックの片方だけ肩にひっかけて、ふらふらと歩いていた。
足取りは、目的地を持たない人間のものだった。どこへ行くという気持ちもなく、ただ止まってしまうのが怖くて、脚だけが勝手に前へ出ている。濡れた靴底が、湿ったアスファルトをペタペタと鳴らす音だけが、妙にはっきりと耳に届いた。
スマホは右手の中にある。画面は暗いままだが、その重みは確かに感じられる。通知の数は、さっきからずっと二桁を超えている。そして、じわじわと増えている。
けれど画面は、ロックのまま。
――開いたら、また「知らない誰か」が、何か言っている。
そう思うだけで、胸の奥がぞわりと泡立って、親指が動いてくれない。何を言われているかは、もう想像がつく。あの写真のこと。炎上のこと。謝罪が足りないということ。もう二度と撮るなということ。知りもしないくせに勝手なことを、ということ。
彩乃は、スマホを握りしめたまま、うつむいて歩き続けた。
どしゃぶりになってくれたら、まだよかったかもしれない。雨音がすべてをかき消して、スマホの震える音も、自分の鼓動も聞こえなくなるくらいに。空から降り注ぐ水が、街も自分も全部洗い流してくれるくらいに。
けれど実際の雨は、気まぐれな霧雨で、前髪の先だけをじっとり濡らしてくる。髪から落ちた水が頬を伝う感覚は、涙とよく似ていて、あまり好きではなかった。泣いていないのに泣いているみたいで、まるで自分の感情まで勝手に決められてしまうみたいで、余計に惨めになる。
「……寒っ」
小さくつぶやく声も、びっくりするくらい弱々しい。自分で聞いて、彩乃は少しむっとした。いつの間にか、自分はこんなに情けない声を出すようになっていたのか。
ほんの数ヶ月前までは、夜の街を歩くことは、わくわくの代名詞だった。
撮影帰りに仲間と入った安い居酒屋。テーブルの上で笑い合った、どうでもいい冗談。夜の路地で撮った光の軌跡。長時間露光で撮った車のライトが、赤い線になって画面に流れていく瞬間の興奮。頼まれて撮ったポートレートが喜ばれた帰り道に、ひとりで飲んだコンビニコーヒーの味。苦いけれど、それが心地よかった。
そういうものを全部ひっくるめて、「夜」が好きだったはずだ。
夜は、昼間よりも自由だった。誰に見られているという感覚もなく、好きなものを好きなように撮れた。夜の街は、いつも彩乃に優しかった。
それなのにいまは、夜が、街灯が、他人の視線のように感じられる。
――見られてる。
――あの写真の子だって、思われてるかもしれない。
誰もこちらを気にしていないことくらい、頭ではわかっている。夜の商店街を歩いている女子大生なんて、誰の興味も引かない。わかっているのに、背中を冷や汗が伝う。街灯のひとつひとつが監視カメラに見えて、まるで全方向から自分が撮影されているような錯覚に陥る。
皮肉なものだ、と彩乃は思った。撮る側だった自分が、今度は撮られる恐怖に怯えている。
リュックの中には、カメラが入っている。炎上以来、一度も取り出していない、自分の相棒。愛機。大学に入ってすぐ、バイト代を貯めて買ったミラーレス一眼。
肩にかかる重みはほとんどないのに、妙に背中が重く感じるのは、そのせいだ。カメラの重さじゃない。それを使えなくなった自分の、重さだ。
「……もう、撮らないって、決めたのに」
誰に言うでもなくこぼれた言葉は、湿った空気に溶けて消えた。
決めたはずだった。SNSのアカウントも消した。サークルも辞めた。カメラも、もう二度と手に取らないと誓った。
それなのに、どうしてまだ持ち歩いているのか。
自分でも、わからなかった。
アスファルトに落ちたしずくは、すぐに薄い水膜になり、車も人もほとんど通らない夜の商店街を、にじんだ色の帯みたいにしている。コンビニの白い光だけがやたら元気で、まるで深夜営業を自慢しているみたいだ。他の店はみんなシャッターを下ろして眠っていた。店先に並んでいた商品たちも、台車に乗せられて店の奥へ引っ込み、街全体が一日の終わりを告げている。
その真ん中を、進藤彩乃は、リュックの片方だけ肩にひっかけて、ふらふらと歩いていた。
足取りは、目的地を持たない人間のものだった。どこへ行くという気持ちもなく、ただ止まってしまうのが怖くて、脚だけが勝手に前へ出ている。濡れた靴底が、湿ったアスファルトをペタペタと鳴らす音だけが、妙にはっきりと耳に届いた。
スマホは右手の中にある。画面は暗いままだが、その重みは確かに感じられる。通知の数は、さっきからずっと二桁を超えている。そして、じわじわと増えている。
けれど画面は、ロックのまま。
――開いたら、また「知らない誰か」が、何か言っている。
そう思うだけで、胸の奥がぞわりと泡立って、親指が動いてくれない。何を言われているかは、もう想像がつく。あの写真のこと。炎上のこと。謝罪が足りないということ。もう二度と撮るなということ。知りもしないくせに勝手なことを、ということ。
彩乃は、スマホを握りしめたまま、うつむいて歩き続けた。
どしゃぶりになってくれたら、まだよかったかもしれない。雨音がすべてをかき消して、スマホの震える音も、自分の鼓動も聞こえなくなるくらいに。空から降り注ぐ水が、街も自分も全部洗い流してくれるくらいに。
けれど実際の雨は、気まぐれな霧雨で、前髪の先だけをじっとり濡らしてくる。髪から落ちた水が頬を伝う感覚は、涙とよく似ていて、あまり好きではなかった。泣いていないのに泣いているみたいで、まるで自分の感情まで勝手に決められてしまうみたいで、余計に惨めになる。
「……寒っ」
小さくつぶやく声も、びっくりするくらい弱々しい。自分で聞いて、彩乃は少しむっとした。いつの間にか、自分はこんなに情けない声を出すようになっていたのか。
ほんの数ヶ月前までは、夜の街を歩くことは、わくわくの代名詞だった。
撮影帰りに仲間と入った安い居酒屋。テーブルの上で笑い合った、どうでもいい冗談。夜の路地で撮った光の軌跡。長時間露光で撮った車のライトが、赤い線になって画面に流れていく瞬間の興奮。頼まれて撮ったポートレートが喜ばれた帰り道に、ひとりで飲んだコンビニコーヒーの味。苦いけれど、それが心地よかった。
そういうものを全部ひっくるめて、「夜」が好きだったはずだ。
夜は、昼間よりも自由だった。誰に見られているという感覚もなく、好きなものを好きなように撮れた。夜の街は、いつも彩乃に優しかった。
それなのにいまは、夜が、街灯が、他人の視線のように感じられる。
――見られてる。
――あの写真の子だって、思われてるかもしれない。
誰もこちらを気にしていないことくらい、頭ではわかっている。夜の商店街を歩いている女子大生なんて、誰の興味も引かない。わかっているのに、背中を冷や汗が伝う。街灯のひとつひとつが監視カメラに見えて、まるで全方向から自分が撮影されているような錯覚に陥る。
皮肉なものだ、と彩乃は思った。撮る側だった自分が、今度は撮られる恐怖に怯えている。
リュックの中には、カメラが入っている。炎上以来、一度も取り出していない、自分の相棒。愛機。大学に入ってすぐ、バイト代を貯めて買ったミラーレス一眼。
肩にかかる重みはほとんどないのに、妙に背中が重く感じるのは、そのせいだ。カメラの重さじゃない。それを使えなくなった自分の、重さだ。
「……もう、撮らないって、決めたのに」
誰に言うでもなくこぼれた言葉は、湿った空気に溶けて消えた。
決めたはずだった。SNSのアカウントも消した。サークルも辞めた。カメラも、もう二度と手に取らないと誓った。
それなのに、どうしてまだ持ち歩いているのか。
自分でも、わからなかった。
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