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1章 有村遥(ありむらはるか)
第6話 ラブ・クラフティック・ロマンス
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姉はメガネをクイッと直して言った。
「これはあるオカ研部員が、南米で行われた探索合宿で発見したものよ。彼女はこれをオカ研にもたらした後『私はすべてを理解した』という置き手紙を残して失踪……未だにその行方は知れない。かつてはナチスドイツの手に渡り、その執政を助けたとも言われているわ。しかし彼らの末路を見れば分かるように、これは書物のもたらす無限の知識と引き替えに、使用者を例外なく不幸に陥れるという呪われた品よ………」
「当時のオカ研……最強のマジックアイテム………」
「家のリビングに何持ち込んでくれちゃってんの!?」
「大丈夫よ。不幸をもたらすなんていうのはただの噂だし、
ほら、ちょっと古いア○パッドみたいなもんだと思えば」
「思えねえよ! こんな禍々しいア○パッド見たことないわ!」
姉は黒装束の懐から、真鍮の鍵を取り出した。
鍵は本と同じでよほど古いものらしく、ところどころ欠けていて、蛇の絡まるような飾り彫りのくぼみに、干しブドウをなすったような黒い汚れが溜まっている。
「ほら、ハルカは男に戻りたいんでしょ? なら、手段は選んでられないんじゃない? かわいいかわいいミミコちゃんのままでいたいんだったら、お姉ちゃんはぜんっぜんかまわないんだけどなー」
姉は俺に鍵を突きつけながらそう言った。
「うぐっ………」
確かに。
このままじゃたぶん、一生女の体のままだ。手段は選んでいられない。
変態どもの邪法に手を染めるのも仕方ない……!
俺は姉から受け取った鍵を指先でつまむと、本の背表紙にある鍵穴におそるおそる差し込んだ。
ぬちゅっ。
「おわぁっ!!」
俺は思わず鍵を引っこ抜いて放り投げた。
「いや、なんかこれ中が濡れてるんだけど! にちゃあって……!」
杏子は素早く腕を伸ばして、俺が放り投げた鍵をつかみ取った。
「……ハルカってさ、実はめちゃくちゃ怖がりだよね」
腕にしがみついた俺を見下ろして、杏子はあきれたように言った。
「こ、怖がり? 俺が? ハン!」
俺は杏子から離れてふんぞり返った。体を反らせると、いっしょに胸がムヨンと揺れた。
「何を言うかと思えば、俺が怖がりだって? 小学校のときに学校の物置にできた蜂の巣を駆除した勇者はこの俺だぜ」
「ハルカは蜂の巣に石投げてただけでしょ。で、泣きながら逃げてきたから、あたしが下で煙花火焚いてから叩き落としたんじゃない」
「そ、それじゃほら、杏子をいじめて泣かせた上級生に果敢に立ち向かって、池に放り投げたの俺だし」
「それ、いじめられてたのハルカ。投げ飛ばしたのがあたし」
「校舎の2階から飛び降りるという離れ業を………」
「それはただのアホだし、結局できなくて泣いてたでしょ。で、代わりに飛んだ津山くん骨折したし」
「うわーん杏子のアホーっ!」
「いいから、さっさと鍵開けなさいよっ」
杏子は俺に無理矢理鍵を握らせると、その手を持って本の鍵穴につっこんだ。
ぐぬちょっ。
「あやんっ!」
「あやんじゃない!」
杏子はそのまま俺の手首ごと鍵を回した。
ごりゅごりゅごりゅ――ごぬちょっ。
おぞけに身震いして、二の腕に鳥肌が立った。
粘液たっぷりの肉と骨の感触が、真鍮の鍵を通して背筋にまで沁み通ってくる。
鍵を1回転させて、再び引き抜く。
ぐぬっちゃ、ちゅっこ、にっちゃああああ――。
「ああ……ああうう……」
引き抜いた鍵は長い糸を引いて、その糸に乗った水玉がぽたりとテーブルに落ちた。
互いの尾を飲む2匹の蛇が象られた鍵穴から、透明の粘液が垂れている。
「エロくない?」
「エロい………」
鍵穴を見て感心したように呟く姉とビン底さん。
そして、杏子の腕の中でぐったりしている俺を、スケッチしている巻き毛さんに、デジカメで撮影しまくるオールバックさん。
「半泣きで抱かれてるミミコちゃんとかヤバすぎ……!」
「これは誘拐モンやでぇ………」
スケッチブックとデジカメを持ってにじり寄る変態ども。
しかしテーブルの上から聞こえる金属音に気が付き、その足を止めた。
かたかた――かたかたかたかたかた―――。
「……………」
金属音が止まった途端、爆竹の破裂するような音とともに錠の掛け金が外れた。留められていた革帯が鞭のようにテーブルを打ち、ティーカップが跳ねる。
重厚な表紙が、ゆっくりと持ち上がり、開いた。風も無いのに、角の欠けた厚いページが次々とめくれてゆき、真ん中あたりのページで止まった。
「………………」
おそるおそるページをのぞき込む。
見たことも無い太い文字がびっしりと、おたまじゃくしの鹿鳴館といった風情で絡み合い、ひしめき合っている。その文字が、わさわさと震え始めた。
文字の縁に光が見えて思わず飛び退くと、本から剥がれた文字の大群が、青い光を纏って天井の辺りまで昇り、渦を描く。
蛍光灯が明滅して消え、カーテンの閉じられた部屋は青い光に満たされた。本の奥底――奇妙な話だが、そのページに覗く深い深い光の底から、胸底を震わす悪魔的な声が響いてきた。
「我が名はネクロノミコン……
隠者アブドゥル・アルハザードによって著されし魔導書なり………
古の業をもて、汝を助くものなり………」
轟くように低い声でもなく、耳を貫くような高い声でもない。誠意を見下し良心をあざ笑う実利的悪意を、傲慢の鍋で煮詰めたというような、それは確かに悪魔の声だった。静まりかえったその場に、渦を巻き踊り狂う文字たちが、変形し、重なり合い……ひとつの文章を織りなす。
『 ネクロノミコンver10.0343を起動しています……
しばらくお待ちください □□■■■■■■■■■■■
アーカムソフト 』
「古の業!? ただのプロジェクターじゃねえか!!」
「しかも進捗バーが全然進まない……」
ビン底さんは、そのビン底メガネにプロジェクターの光を映している。
文章と一緒に現れた進捗バーは、2コマ目に進んだところから微動だにしなかった。そのうちに消えていた蛍光灯が点り、リビングにはホームパーティ的な和やかな雰囲気がよみがえってきた。
「……あの、少し時間がかかりそうだから、お茶のおかわり淹れて来ましょうか?」
杏子がおずおずと手を挙げる。
「あ、悪いわねー、杏子ちゃん。じゃあ、お願いね」
杏子はお盆を手に取ると、テーブルを廻ってティーカップを回収し始めた。本から飛び出た魔法的画面はこの明るい部屋の中で、とりあえずテレビつけたらやってたけど誰も見る気がない2時間ドラマ並に、その存在感を失っている。俺も杏子を手伝うために、ソファから立ち上がった。
1枚のお盆に全部は載らないから、俺は下に重ねてあった2枚目のお盆にみんなのソーサーを重ねると、自分と姉のカップ、ミルクポットもそこに載せてキッチンに向かう。茶葉がキッチンのどこにあるかなんて杏子は知らないはずだから、俺がこうやってついてくることを見込んで姉に紅茶の用意を申し出たのだ。
そんなふうな呼吸が、学校が離れた今でも通じるのが、俺はちょっと嬉しかった。
お盆をシンクの台に置いてから、杏子がカップを軽く洗っている間に、俺はお茶を用意する。思った通り電気ポットにはもう新しいお湯が沸いているから、茶葉を入れた紅茶のポットにお湯を注ぐ。残ったお湯はボウルに張ってテーブルに置くと、杏子はそこに洗ったカップをそっと浸けた。お湯の量は、カップが半分顔を出すくらい。
「はい、食器用のふきん」
杏子はソーサーの、俺はボウルに浸けたカップの水気をぬぐって、ティーセットの用意ができた頃には、ポットの紅茶もちょうど良い頃合い。並べたカップに注いでみると、きれいに赤みがかった琥珀色。ストレートでもミルクを入れても美味しい。お客さんに出すのなら、これくらいが一番良い。順に順に注いでいくと、紅茶で満たされたカップの数だけ、甘い香りがキッチンに広がっていく。
そんなふうにお茶を淹れていると、杏子は洗ったふきんをふきん掛けに干しながらじっと俺の顔を見ていた。
「なに、どうしたの?」
ふりむくと、杏子はあきれたような、困ったような顔をしながら言った。
「ハルカ、そうやってるとホントに女の子よね」
「……るっせーよ」
俺はお盆にティーセットを載せて、リビングに運んだ。
カップ3脚と、新しく用意したミルクポット。残りは杏子が持ってくる。
リビングに戻ると、オールバックさんと巻き毛さんも今は現実に戻ってきていて、持ってきたお菓子を開けたりしていた。
「これねー、もらい物なんだけどすごく美味しいんだよー。
開けさしだけどごめんねー」
巻き毛さんが紙箱を開いた。
「レーズンバターサンドでーす。ひとりで食べたら太っちゃうからおすそわけー。 みんな代わりに太ってー」
「えー、それひっどー、でももらうー」
「私ももらうー、んで明日後悔するー」
「ウフフ……フフ……私はレーズン苦手………」
「あたしもいただきまーす」
紅茶を出し終えると、お盆を重ねてソファに戻った。
杏子は巻き毛さんのお菓子の箱から2つ取って、俺に1つ渡した。
「ありがと、じゃ、いただきまーす」
銀色の包装を開いて、レーズンバターサンドに歯を立てた。
しっとりと柔らかいクッキーがほぐれる。
くちびるで挟んで歯を沈めていくと、ちゃくっ、とレーズンのつぶれる感触。
欠片をこぼさないように、奥歯に歯ごたえを感じながらくちびるを閉じる。
バタークリームの濃厚な甘みと、それをしつこく感じさせないレーズンの酸味。
飲み込んでから、淹れたての紅茶をひとくち。
すると、舌に残ったラム酒の香りが立ち上がって、すうっと鼻筋を抜けていく。
「あ、ほんとに美味しい」
杏子も、頬に中指を当てて笑顔を見せた。
「でもカロリーすごいのよコレ。まあ、杏子ちゃんならスポーツで燃焼させちゃうから大丈夫か」
オールバックさんの言葉に、杏子が照れたように笑う。
「あ、紅茶2杯目もおいしい。これ、杏子ちゃんが淹れたの?」
巻き毛さんが尋ねた。
「いえ、ハルカなんです」
「そうなんだー。ハルカちゃん、いいお嫁さんになれるね」
「俺は男です!」
俺がムスッとして答えると、その場のみんなが笑った。和やかな雰囲気に、思わず俺が諦め気味の笑みを浮かべたとき、突然テーブルの端に置いた本が飛び跳ねて、思わず紅茶を吹き出した。
「なんなんだ和気藹々としたホームパーティは!」
みんなが本の上に目をやると、その上に浮かぶ画面の文字は『ようこそ』に変わっていた。魔導書はばたばた暴れながら続ける。
「君たちは邪悪な伝説的魔導書を起動したんだぞ。今君たちが行ったのは人道をはずれた外法、悪魔的儀式だ。もっと緊張感を持ちたまえ。部屋も明るすぎ」
ばったばったとページを閉じたり開いたりしながら憤慨している。
「いや、魔導書っていうか、お前どっちかって言うとウィンド○ズ95みたいな感じだったし」
「だぁまらっしゃい!」
飛び跳ねながら怒鳴る魔導書。
「いいから、私を呼びだした理由を聞かせたまえ。もし興味本位で開けちゃいましたー、てへっとか言ってみろ? ここにいる君たち全員まとめて冥界行きだ。おぞましい深き者共専用の売春宿にブチ込んで、触手にまみれでヨガりながら精神崩壊するアヘ顔を撮影してネットに流してやる」
「確かに邪悪だわ……」
オールバックさんが呟いた。
「それよりも、生け贄はきちんと用意したんだろうねえ? まず最初に相談料、それから着手金に成功報酬すべて頂く。外法も法だ、そういうことはキッチリしてるからね私は」
「生け贄……?」
姉は元オカ研メンバーと目配せをする。
「じゃあ、とりあえずこれで……」
巻き毛さんが、魔導書に何かを差し出した。
すると、パチッと静電気が弾けるような音とともに、魔導書のページの隙間が小さくめくれあがった。そのわずかな隙間から、太いタコのような赤黒い触手が生え出てくる。先端をくねらせながら、1、2、3本と。
「うっわあ……なんかエグい……」
俺は思わず杏子の袖を握る。
「フハハ、我が名状しがたき能力のその一端だ」
濡れた触手はうねうねと宙をもがくと、テーブルに落ちて蛇行しながら這い進み、生け贄に絡みついて持ち上げた。
「って、これレーズンバターサンドじゃないかッ!」
銀色の包装紙を、ぱぁんとテーブルに叩きつける。
「ふざけているのか君たちは? なぜ悪魔的存在を私用のために呼び起こすその対価がちょっと小洒落たお菓子なんだ、お歳暮じゃないんだぞしかも1個! 私は生け贄と言ったんだ。見ればわかるだろう、生きてないだろこれは!」
「いやほら、レーズンの風味が生きてる! っていう」
「通るわけないだろそんな詭弁が!」
魔導書は触手で器用に包装紙を開けると、中身をページの隙間に放り込んだ。
「あ、でも食べるんだ」
「もらえるモノは病気以外ならすべて頂くのが信条だ」
イヤな魔導書だなあ……。
「じゃあ、何がどのくらい必要なの?」
姉はメモを片手に魔導書に尋ねた。
生け贄の準備に積極的な姉も、ものすごくイヤだ。
「これはあるオカ研部員が、南米で行われた探索合宿で発見したものよ。彼女はこれをオカ研にもたらした後『私はすべてを理解した』という置き手紙を残して失踪……未だにその行方は知れない。かつてはナチスドイツの手に渡り、その執政を助けたとも言われているわ。しかし彼らの末路を見れば分かるように、これは書物のもたらす無限の知識と引き替えに、使用者を例外なく不幸に陥れるという呪われた品よ………」
「当時のオカ研……最強のマジックアイテム………」
「家のリビングに何持ち込んでくれちゃってんの!?」
「大丈夫よ。不幸をもたらすなんていうのはただの噂だし、
ほら、ちょっと古いア○パッドみたいなもんだと思えば」
「思えねえよ! こんな禍々しいア○パッド見たことないわ!」
姉は黒装束の懐から、真鍮の鍵を取り出した。
鍵は本と同じでよほど古いものらしく、ところどころ欠けていて、蛇の絡まるような飾り彫りのくぼみに、干しブドウをなすったような黒い汚れが溜まっている。
「ほら、ハルカは男に戻りたいんでしょ? なら、手段は選んでられないんじゃない? かわいいかわいいミミコちゃんのままでいたいんだったら、お姉ちゃんはぜんっぜんかまわないんだけどなー」
姉は俺に鍵を突きつけながらそう言った。
「うぐっ………」
確かに。
このままじゃたぶん、一生女の体のままだ。手段は選んでいられない。
変態どもの邪法に手を染めるのも仕方ない……!
俺は姉から受け取った鍵を指先でつまむと、本の背表紙にある鍵穴におそるおそる差し込んだ。
ぬちゅっ。
「おわぁっ!!」
俺は思わず鍵を引っこ抜いて放り投げた。
「いや、なんかこれ中が濡れてるんだけど! にちゃあって……!」
杏子は素早く腕を伸ばして、俺が放り投げた鍵をつかみ取った。
「……ハルカってさ、実はめちゃくちゃ怖がりだよね」
腕にしがみついた俺を見下ろして、杏子はあきれたように言った。
「こ、怖がり? 俺が? ハン!」
俺は杏子から離れてふんぞり返った。体を反らせると、いっしょに胸がムヨンと揺れた。
「何を言うかと思えば、俺が怖がりだって? 小学校のときに学校の物置にできた蜂の巣を駆除した勇者はこの俺だぜ」
「ハルカは蜂の巣に石投げてただけでしょ。で、泣きながら逃げてきたから、あたしが下で煙花火焚いてから叩き落としたんじゃない」
「そ、それじゃほら、杏子をいじめて泣かせた上級生に果敢に立ち向かって、池に放り投げたの俺だし」
「それ、いじめられてたのハルカ。投げ飛ばしたのがあたし」
「校舎の2階から飛び降りるという離れ業を………」
「それはただのアホだし、結局できなくて泣いてたでしょ。で、代わりに飛んだ津山くん骨折したし」
「うわーん杏子のアホーっ!」
「いいから、さっさと鍵開けなさいよっ」
杏子は俺に無理矢理鍵を握らせると、その手を持って本の鍵穴につっこんだ。
ぐぬちょっ。
「あやんっ!」
「あやんじゃない!」
杏子はそのまま俺の手首ごと鍵を回した。
ごりゅごりゅごりゅ――ごぬちょっ。
おぞけに身震いして、二の腕に鳥肌が立った。
粘液たっぷりの肉と骨の感触が、真鍮の鍵を通して背筋にまで沁み通ってくる。
鍵を1回転させて、再び引き抜く。
ぐぬっちゃ、ちゅっこ、にっちゃああああ――。
「ああ……ああうう……」
引き抜いた鍵は長い糸を引いて、その糸に乗った水玉がぽたりとテーブルに落ちた。
互いの尾を飲む2匹の蛇が象られた鍵穴から、透明の粘液が垂れている。
「エロくない?」
「エロい………」
鍵穴を見て感心したように呟く姉とビン底さん。
そして、杏子の腕の中でぐったりしている俺を、スケッチしている巻き毛さんに、デジカメで撮影しまくるオールバックさん。
「半泣きで抱かれてるミミコちゃんとかヤバすぎ……!」
「これは誘拐モンやでぇ………」
スケッチブックとデジカメを持ってにじり寄る変態ども。
しかしテーブルの上から聞こえる金属音に気が付き、その足を止めた。
かたかた――かたかたかたかたかた―――。
「……………」
金属音が止まった途端、爆竹の破裂するような音とともに錠の掛け金が外れた。留められていた革帯が鞭のようにテーブルを打ち、ティーカップが跳ねる。
重厚な表紙が、ゆっくりと持ち上がり、開いた。風も無いのに、角の欠けた厚いページが次々とめくれてゆき、真ん中あたりのページで止まった。
「………………」
おそるおそるページをのぞき込む。
見たことも無い太い文字がびっしりと、おたまじゃくしの鹿鳴館といった風情で絡み合い、ひしめき合っている。その文字が、わさわさと震え始めた。
文字の縁に光が見えて思わず飛び退くと、本から剥がれた文字の大群が、青い光を纏って天井の辺りまで昇り、渦を描く。
蛍光灯が明滅して消え、カーテンの閉じられた部屋は青い光に満たされた。本の奥底――奇妙な話だが、そのページに覗く深い深い光の底から、胸底を震わす悪魔的な声が響いてきた。
「我が名はネクロノミコン……
隠者アブドゥル・アルハザードによって著されし魔導書なり………
古の業をもて、汝を助くものなり………」
轟くように低い声でもなく、耳を貫くような高い声でもない。誠意を見下し良心をあざ笑う実利的悪意を、傲慢の鍋で煮詰めたというような、それは確かに悪魔の声だった。静まりかえったその場に、渦を巻き踊り狂う文字たちが、変形し、重なり合い……ひとつの文章を織りなす。
『 ネクロノミコンver10.0343を起動しています……
しばらくお待ちください □□■■■■■■■■■■■
アーカムソフト 』
「古の業!? ただのプロジェクターじゃねえか!!」
「しかも進捗バーが全然進まない……」
ビン底さんは、そのビン底メガネにプロジェクターの光を映している。
文章と一緒に現れた進捗バーは、2コマ目に進んだところから微動だにしなかった。そのうちに消えていた蛍光灯が点り、リビングにはホームパーティ的な和やかな雰囲気がよみがえってきた。
「……あの、少し時間がかかりそうだから、お茶のおかわり淹れて来ましょうか?」
杏子がおずおずと手を挙げる。
「あ、悪いわねー、杏子ちゃん。じゃあ、お願いね」
杏子はお盆を手に取ると、テーブルを廻ってティーカップを回収し始めた。本から飛び出た魔法的画面はこの明るい部屋の中で、とりあえずテレビつけたらやってたけど誰も見る気がない2時間ドラマ並に、その存在感を失っている。俺も杏子を手伝うために、ソファから立ち上がった。
1枚のお盆に全部は載らないから、俺は下に重ねてあった2枚目のお盆にみんなのソーサーを重ねると、自分と姉のカップ、ミルクポットもそこに載せてキッチンに向かう。茶葉がキッチンのどこにあるかなんて杏子は知らないはずだから、俺がこうやってついてくることを見込んで姉に紅茶の用意を申し出たのだ。
そんなふうな呼吸が、学校が離れた今でも通じるのが、俺はちょっと嬉しかった。
お盆をシンクの台に置いてから、杏子がカップを軽く洗っている間に、俺はお茶を用意する。思った通り電気ポットにはもう新しいお湯が沸いているから、茶葉を入れた紅茶のポットにお湯を注ぐ。残ったお湯はボウルに張ってテーブルに置くと、杏子はそこに洗ったカップをそっと浸けた。お湯の量は、カップが半分顔を出すくらい。
「はい、食器用のふきん」
杏子はソーサーの、俺はボウルに浸けたカップの水気をぬぐって、ティーセットの用意ができた頃には、ポットの紅茶もちょうど良い頃合い。並べたカップに注いでみると、きれいに赤みがかった琥珀色。ストレートでもミルクを入れても美味しい。お客さんに出すのなら、これくらいが一番良い。順に順に注いでいくと、紅茶で満たされたカップの数だけ、甘い香りがキッチンに広がっていく。
そんなふうにお茶を淹れていると、杏子は洗ったふきんをふきん掛けに干しながらじっと俺の顔を見ていた。
「なに、どうしたの?」
ふりむくと、杏子はあきれたような、困ったような顔をしながら言った。
「ハルカ、そうやってるとホントに女の子よね」
「……るっせーよ」
俺はお盆にティーセットを載せて、リビングに運んだ。
カップ3脚と、新しく用意したミルクポット。残りは杏子が持ってくる。
リビングに戻ると、オールバックさんと巻き毛さんも今は現実に戻ってきていて、持ってきたお菓子を開けたりしていた。
「これねー、もらい物なんだけどすごく美味しいんだよー。
開けさしだけどごめんねー」
巻き毛さんが紙箱を開いた。
「レーズンバターサンドでーす。ひとりで食べたら太っちゃうからおすそわけー。 みんな代わりに太ってー」
「えー、それひっどー、でももらうー」
「私ももらうー、んで明日後悔するー」
「ウフフ……フフ……私はレーズン苦手………」
「あたしもいただきまーす」
紅茶を出し終えると、お盆を重ねてソファに戻った。
杏子は巻き毛さんのお菓子の箱から2つ取って、俺に1つ渡した。
「ありがと、じゃ、いただきまーす」
銀色の包装を開いて、レーズンバターサンドに歯を立てた。
しっとりと柔らかいクッキーがほぐれる。
くちびるで挟んで歯を沈めていくと、ちゃくっ、とレーズンのつぶれる感触。
欠片をこぼさないように、奥歯に歯ごたえを感じながらくちびるを閉じる。
バタークリームの濃厚な甘みと、それをしつこく感じさせないレーズンの酸味。
飲み込んでから、淹れたての紅茶をひとくち。
すると、舌に残ったラム酒の香りが立ち上がって、すうっと鼻筋を抜けていく。
「あ、ほんとに美味しい」
杏子も、頬に中指を当てて笑顔を見せた。
「でもカロリーすごいのよコレ。まあ、杏子ちゃんならスポーツで燃焼させちゃうから大丈夫か」
オールバックさんの言葉に、杏子が照れたように笑う。
「あ、紅茶2杯目もおいしい。これ、杏子ちゃんが淹れたの?」
巻き毛さんが尋ねた。
「いえ、ハルカなんです」
「そうなんだー。ハルカちゃん、いいお嫁さんになれるね」
「俺は男です!」
俺がムスッとして答えると、その場のみんなが笑った。和やかな雰囲気に、思わず俺が諦め気味の笑みを浮かべたとき、突然テーブルの端に置いた本が飛び跳ねて、思わず紅茶を吹き出した。
「なんなんだ和気藹々としたホームパーティは!」
みんなが本の上に目をやると、その上に浮かぶ画面の文字は『ようこそ』に変わっていた。魔導書はばたばた暴れながら続ける。
「君たちは邪悪な伝説的魔導書を起動したんだぞ。今君たちが行ったのは人道をはずれた外法、悪魔的儀式だ。もっと緊張感を持ちたまえ。部屋も明るすぎ」
ばったばったとページを閉じたり開いたりしながら憤慨している。
「いや、魔導書っていうか、お前どっちかって言うとウィンド○ズ95みたいな感じだったし」
「だぁまらっしゃい!」
飛び跳ねながら怒鳴る魔導書。
「いいから、私を呼びだした理由を聞かせたまえ。もし興味本位で開けちゃいましたー、てへっとか言ってみろ? ここにいる君たち全員まとめて冥界行きだ。おぞましい深き者共専用の売春宿にブチ込んで、触手にまみれでヨガりながら精神崩壊するアヘ顔を撮影してネットに流してやる」
「確かに邪悪だわ……」
オールバックさんが呟いた。
「それよりも、生け贄はきちんと用意したんだろうねえ? まず最初に相談料、それから着手金に成功報酬すべて頂く。外法も法だ、そういうことはキッチリしてるからね私は」
「生け贄……?」
姉は元オカ研メンバーと目配せをする。
「じゃあ、とりあえずこれで……」
巻き毛さんが、魔導書に何かを差し出した。
すると、パチッと静電気が弾けるような音とともに、魔導書のページの隙間が小さくめくれあがった。そのわずかな隙間から、太いタコのような赤黒い触手が生え出てくる。先端をくねらせながら、1、2、3本と。
「うっわあ……なんかエグい……」
俺は思わず杏子の袖を握る。
「フハハ、我が名状しがたき能力のその一端だ」
濡れた触手はうねうねと宙をもがくと、テーブルに落ちて蛇行しながら這い進み、生け贄に絡みついて持ち上げた。
「って、これレーズンバターサンドじゃないかッ!」
銀色の包装紙を、ぱぁんとテーブルに叩きつける。
「ふざけているのか君たちは? なぜ悪魔的存在を私用のために呼び起こすその対価がちょっと小洒落たお菓子なんだ、お歳暮じゃないんだぞしかも1個! 私は生け贄と言ったんだ。見ればわかるだろう、生きてないだろこれは!」
「いやほら、レーズンの風味が生きてる! っていう」
「通るわけないだろそんな詭弁が!」
魔導書は触手で器用に包装紙を開けると、中身をページの隙間に放り込んだ。
「あ、でも食べるんだ」
「もらえるモノは病気以外ならすべて頂くのが信条だ」
イヤな魔導書だなあ……。
「じゃあ、何がどのくらい必要なの?」
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生け贄の準備に積極的な姉も、ものすごくイヤだ。
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