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3章 藤枝宮子(ふじえだみやこ)
第22話 あなたにくびったけ
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「ハルカ! ハルカ!」
目を開くと、鼻の先をアスファルトの地面が走っていた。
鋭い風が顔に当たる。
俺は風の中を泳いでいた。
その体を支えているのは、ブレザーの首をつかんだ1本の腕だ。
ハリウッドスターのたくましい腕が、暗闇を走るバイクの上で俺の命を支えていた。
鞄の取っ手は、未だ俺の手に握られていた。
「早く持ち上げろ早く! 鞄が地面で削れてる削れてる削れてる!!」
ネクロが悲鳴を上げると、杏子が言った。
「持ち上げるわよ! よいしょっ」
腕にぐっと力が込められると、杏子のブラウスが力こぶで裂けた。
俺は杏子に支えられながら、バイクのシートに掴まってよじ登る。
バランスを崩しそうになりながらも、なんとかシートの上に尻を乗せて、俺は杏子の分厚い体にしがみついた。
「あんなんアカンって! 怖すぎやろ! アカンアカン、あんなもんアカン!
あんな女子高生おらへん!!」
助かった命を噛みしめると同時に、フラッシュバックする恐怖が、俺の言語中枢を遥か西へと吹き飛ばす。
「んなもんあっかいや!」(そんなことは、とても認められません)
「ハルカ落ち着いて!」
「私こそ危うく死ぬところだった! 人間なんか70億もいるんだから君ひとり死んだところで大したことないだろう! 私が死んだらネクロノミコンは絶版だ! 世界の損失なんだよ!」
「あんたも落ち着きなさい。何百年も前に絶版してるでしょ」
「私は著者の筆によって書かれた書物だ。活版印刷などという画一的な手段で生み出されたインクのシミどもと同じように扱うのはやめたまえ。写本はあれど私は唯一無二の原本だ。よって絶版などはあり得ない」
「あんたが言ったんでしょ絶版って」
「もののたとえだ! 君は葡萄の枝で地の塩かね?」
「それ、どっかで聞いた」
俺はやかましい鞄を持ち上げて、首にひっかけた。
汗だくの体に、夜風が吹き抜ける。
俺は杏子の大きな背中に額を当てて、大きく深呼吸した。
もう、大丈夫だ。
杏子はギアをひとつ落とした。
エンジン音が変わる。
ここは長い1本道で、クリスチナ女学園の敷地内だから、こんな時間に人は通らない。
けれどもカーブが多いので、あんまり飛ばすと危なそうだ。
杏子は慣れた様子で、180cmを超える体でがっしりバイクを掴んでいる。
腹の下に響く4ストロークのエンジンが、俺たちを安全な場所まで届けてくれる。
4ストロークのエンジンが。
遠くで、かすかに重なる――。
「杏子! 後ろから来てるッ!!」
俺が叫んだその瞬間、ハイビームが俺たちのバイクを照らした。
予想以上に近い。
敵はライトを消したまま、ギリギリまで距離をつめていたのだ。
外灯もまばらな闇の中を、その闇の中でしかできない方法で奴は俺たちを追ってきた。
杏子は慌ててスロットルを開く。
しかしすでに十分加速していた相手のバイクは、瞬く間に俺たちに追いついた。
ハイビームが俺たちを追い越すと、その光の反射を受けた白いホッケーマスクが闇の中に浮かび上がる。
感情を乗せない殺意の結晶が、俺たちを見据えた。
翻るブレザーの中から、得物が再び取り出される。
通り過ぎた外灯の光を受けて、それは一瞬キラリと光った。
――ぴんっ。
それは併走する2つのエンジンの間にあって、ほんの小さな音に過ぎなかった。
ひゅっと空気を裂く音。
その直後に嫌な衝撃音があって、すぐ横を通り過ぎていく木立がわずかに揺れた。
――ぴんっ。
杏子の握るハンドルが、小さな火花を散らした。
横を見ると、ホッケーマスクはバイクを操縦しながら、器用に次の矢を装填している。
通り過ぎる外灯に、彼女の得物が光る。
「マジかよボウガンだ!」
「なにそれ!」
「矢が飛んでくるの! 矢が!」
「違法でしょあんなの!」
「っていうかアイスホッケーも日曜大工研究会も関係ねえ!」
「ボウガンは銃刀法で規制されるような武器ではない。狩猟用やスポーツ用として認められているのだ。だから私を盾にするのをやめろと言ってるだろーッ!」
――ぴんっ。
金属の矢が、バイクのフロントライトを粉砕した。
道の先が闇に消える。
その場を照らすのは、左右に揺れる相手のバイクのライトだけだ。
杏子は再びギアを落として、ブレーキを握った。
このまま進むのも危険だが、停車すれば命を刈られるのを待つばかりだ。
バイクは大きく速度を落とした。
杏子はバイクを大きく左に傾けると、舗装されていない山道につっこみ、木の階段を駆け上った。
木の陰から灯りが漏れる。
小さな丘の上には広場があって、ちょっとした催しなんかで使うらしい。
今見えているのは、その広場を照らす外灯の光だ。
真っ暗な道で逃げ切ることが難しい今、俺たちは明るい場所を目指す他はない。
俺は振り落とされないように、杏子の腰にしがみついた。
段差を超える度に、シートが跳ねて腰を叩く。
うっかり口を開けば、舌を噛みそうだ。
杏子は暴れ馬のように跳ねるバイクを操りながら、後ろを振り向いてホッケーマスクとの距離を測る。
俺は叫んだ。
「前! 前!」
その言葉に反応して杏子が首を戻すその直前、杏子の額を木の枝が強かに打ち据えた。
俺はとっさに、仰向けに倒れそうになった杏子の体に覆い被さる。
力の抜けた手の下のグリップを握った。
その姿はさながら馬上の二人羽織――もはや曲芸だ。
後ろを向くような余裕はないが、殺意を乗せたプレッシャーが背中を焦がずほどビリビリと伝わってくる。
俺はヤケクソになってグリップをひねる。
山道から吐き出されるようにして、バイクは広場に飛び出した。
地面を削りながら、今来た道に腹を向ける。
そこに飛来するボウガンの矢が、杏子のお腹のすぐ下に突き刺さった。
「ギリギリセーフ…………じゃねえ!!」
ガソリンタンクだ。
ごぽごぽと漏れる燃料が、外灯に照らされて煌めく。
降りないと。
逃げないと。
降りないと。
いや、逃げないと――。
山道から上空へと飛び出した禍々しいバイクの影が、俺の一瞬の迷いを断ち切った。
俺はグリップを引き絞る。
バイクはウィリーしながら加速した。
ホッケーマスクの殺意と狂気のスピード。
後方の死と、前方に待ち受ける危険に背筋がヒリついた。
「うおおおおおおおおおおおおお!!!!」
バイクはフェンスを突き破って、崖から飛び出した。
無重力の星空の下に、バイクが身を踊らせる。
そこを狙って放たれたボウガンの矢が、俺のわき腹を掠め、ガソリンタンクを削った。
火花が走る――。
俺は杏子の大きな背中を強く抱いて、空中でバイクのシートを蹴り飛ばした。
その直後、火花はガソリンに引火。
爆発したバイクは、炎の塊になって弧を描く。
炎の舌に煽られながら、俺たち2人は今来た道路を越えて、クリスチナ女学園の高い塀を越え――その先の川に叩き込まれた。
――どっぱぁああああああああああん!!
水面に顔を上げて、杏子の姿を探す。
「杏子! 杏子ーっ!」
「ハルカ!」
すぐに返事があった。
水に叩きつけられた衝撃で目を覚ましたらしい。
「濡れる! 水に濡れちゃう! 水はダメ!」
首にかけた鞄の中から、ネクロが叫んだ。
俺たちは必死に泳いで、向こう岸にたどり着いた。
「はあっ、はあっ、はあっ…………」
地面に手をついて荒い息を吐く。
全身びしょぬれの、女子の制服を着た男が2人。
だいぶヤバめの構図ではある。
それでも、俺たちは生きていた。
岸には物置小屋があって、俺は息を整えるとその壁に背を預けた。
錆びたトタン板がバランと鳴った。
「逃げ切った……逃げ切ったぞあの化け物から……!」
「ハルカ、あたしたちちゃんと生きてる!」
スカートを履いた男が、涙を流しながら抱きついてくる。
上を見れば、この季節には珍しい満点の星空だ。
俺たちが生の実感を噛みしめていると、傍らに置いた学生鞄から赤黒い鞠のようなものが転がり出てきた。
その結び目がくぱぁと開くと、中から出てきたのはネクロだった。
「本が濡れたらどうなるのか分からないのか君たちは! この触手ロールに身を包んでいなければ、今頃インクが全部流れ落ちていたところだ! 君たちのようなおおざっぱな生き物と違って、私は繊細なんだよ! 本来ならば名士の書斎の本棚で静かに収まっているべきこの私を、あっちこっちへ連れ回した挙げ句、川に流すとは君たちそれでも文明人のつもりかね!?」
ぷりぷり怒っているネクロを杏子が宥める。
「いいじゃない、生きてるんだから」
「そういう問題じゃあない! 私は本に向き合う姿勢の問題を言ってるんだ!」
濡れた鞄に放り込んだらもっと怒るだろうから、しばらく言わせておくほかなさそうだ。
俺はギャーギャーわめくネクロを後目に、杏子の首にしがみついた手をほどいた。
「俺、ほんとにちゃんと男に戻ったらさ……」
杏子は、女の子座りで俺の言葉を待っている。
筋張ったふとももに広がるえんじ色のスカートは、悪夢以外のなにものでもないのだが、やっぱりその中身は杏子なのだ。
俺は、少しばかり大胆なことを言おうとしたのかもしれない。
夜の闇に聞こえるのは、静かに流れる川の音。
風に物置のトタンが揺れた。
――カタン、カタン。
俺はなんだか照れくさくなって、言葉に詰まってしまう。
急に周りの音が、大きくなった気がする。
トタンが風を切る音だろうか。
何かが、聞こえた。
――コホォー……コホォー…………コホォー………。
俺は目を見開いた。
全身が総毛立つ。
脳裏に蘇るのは、外灯に浮かび上がる傷だらけのホッケーマスク。
俺は辺りを見渡した。
しかしその場には、世界を何度も救った男と、川の流れがあるばかり。
それでも、聞こえるのだ。
命に飢えた獣の、絞り出すような熱い吐息が。
すぐそばに。
――コホォー……
―――コホォー…………
――コホォー………
―――――コホォ…………
ドバァアアアアアアアアアアアアアン!!
頭が破裂するような金属音とともに、俺の背後のトタン板が弾ける。
そこから飛び出した2本の腕の、片方が俺の胸を押さえつけ、もう片方が首に掛かった。
死の影に、抱かれた。
俺の首が、すさまじい膂力で締め上げられる。
背中のトタン板が、メリメリと音を立てながらその形を変えた。
「コホォー……コホォー……コホォー……」
温度のない息が、耳にかかって鼓膜を震わす。
俺は夢中で手足をばたつかせて暴れたが、鋼のような腕はぴくりとも動かない。
トタン板の穴がバリバリと縦に裂かれ、俺の体が持ち上げられた。
はだしの足が宙に浮く。
血流が止まると、視界が狭まって暗闇に虹色の星が散った。
薄れゆく意識の奥底で、不意におじいちゃんの言葉が蘇る。
――いいかい遥。自分たちは逃げ切った、と安心しているときが一番危ない。
敵が灰になるまで油断しちゃあいけないよ。
おじいちゃんは、将来俺の身に何が起こると思っていたのだろう。
なんにせよ、俺の人生はここで終わる。
大きな手のひらに締め上げられた首の動脈が、不規則に跳ねるのを感じる。
全身がガクガクと揺れた。
体を揺さぶられているわけではない。
俺を締め上げる彼女の腕は、凍っているかのように中空に静止している。
俺の体が断末魔のけいれんを始めたのだ。
「そこまでよ、筮村さん!」
川岸に、拡声器を通した声が響き渡った。
会長の声だ。
川向こうを見ると、俺たちが飛び出した広場に小さな影が見えた。
「そこはクリスチナ女学園の敷地外です。警察の方にお任せしなさい」
「……………」
大きな手のひらから力が抜け、俺は河原に仰向けに投げ出された。
俺は地面に背中を叩きつけられて、激しくせき込む。
押しつぶされた気管を、新鮮な空気が巡る。
バクバクと破裂しそうに跳ねる心臓から、自由になった首を通して血が通い始めた。
いちどきに血液が送り込まれたことで、視界の端が赤く染まった。
せきはやがて収まって、俺は気管をひゅうひゅう鳴らしながら膝立ちになる。
必死で肺に酸素を送り込んだ。
黙って立っていた筮村さんは、俺と杏子に一瞥をくれると、のっしのっしと俺たちを横切り、岸の階段を昇っていった。
山の上の広場を見上げると、会長の姿はもう消えていた。
「た……たす……か………」
再び力を失い、倒れそうになった俺を、杏子の太い腕が抱き留める。
やがて、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「ハルカ……もう動ける?」
心配そうに俺の顔をのぞき込む、制服姿のマ○レーン警部。
俺は黙って頷くと、杏子の胸から身を起こし、震える体で立ち上がった。
肩を貸してもらいながら、川岸の階段を昇り、なんとか警察に見つからず俺の家までたどり着いた。
本当なら久しぶりに会った息子に、ベッドの下の絵本の読み聞かせなどしてやりたい所だったが、一晩のうちに何度も殺されかけた俺の疲労はピークに達していた。
俺はずぶ濡れの服を脱ぐと、そのまま寝床に倒れ込んだ。
――翌日。
目が覚めると、やっぱり女に戻っていた。
男の俺が、女に戻るってのも変な話だけど。
体を起こしてみると、思った以上に軽い。
昨日の晩に受けたダメージは残っていないようだった。
さすがミミコちゃんの体。
週間連載で活躍しているだけあって、凄まじい回復力だ。
寝床から起きあがって鏡を見ると、首にも締め痕は残っていない。
ふとももをくっつけても、わずかに向こうが覗いてしまう股間の涼しさは、こぼれ落ちそうな胸のボリュームによって補完されていた。
――あ、ばっちり見ちゃった。
思わず鏡から目をそらしたところで、ドアが開いた。
「あ゛ー! ミミコきゅん元に戻ってるー!
朝になっても汚いオスガキのままだったらどうしようかと思ってた!!」
「悪かったなオスガキで!」
抱きつこうとするスーツ姿の姉を足で止めながら、俺は体にシーツを巻き付けた。
その後ろから、乾いた制服に着替えた杏子が顔を覗かせる。
姉から借りたらしい乾いた制服は、少し大きいようだった。
「まだそんな格好してるの? 早く行かないと置いてくわよ」
杏子も元に戻ってる――ホントに良かった。
ハリウッドスターのジョウロを握った件は、一刻も早く忘れよう。
登校すると、教室がちょっとした騒ぎになっていた。
「ねえ、今朝のニュース見た?」
クラスの子が、スマホで新聞記事を見せてくれた。
『
大物ハリウッド俳優、日本の高校の女子寮で大暴れ
ロサンゼルスで緊急逮捕
日米往復のミステリー 2時間の空白
本人は容疑を否定
』
「これ、うちの薫風寮らしいのよ。監視カメラに映ってたんだって」
「へえ~、そうなんだ~、ふう~ん」
ごめん!!
ウィ○スさん、ほんっとごめん……!!
俺はクラスメイトの話に相槌を打ちながら、心の中でハリウッドスターに深く深く頭を下げる。
アリバイが証明されて、無事誤解が解けることを祈るしかなかった。
いやもう、ほんっとごめんなさい。
目を開くと、鼻の先をアスファルトの地面が走っていた。
鋭い風が顔に当たる。
俺は風の中を泳いでいた。
その体を支えているのは、ブレザーの首をつかんだ1本の腕だ。
ハリウッドスターのたくましい腕が、暗闇を走るバイクの上で俺の命を支えていた。
鞄の取っ手は、未だ俺の手に握られていた。
「早く持ち上げろ早く! 鞄が地面で削れてる削れてる削れてる!!」
ネクロが悲鳴を上げると、杏子が言った。
「持ち上げるわよ! よいしょっ」
腕にぐっと力が込められると、杏子のブラウスが力こぶで裂けた。
俺は杏子に支えられながら、バイクのシートに掴まってよじ登る。
バランスを崩しそうになりながらも、なんとかシートの上に尻を乗せて、俺は杏子の分厚い体にしがみついた。
「あんなんアカンって! 怖すぎやろ! アカンアカン、あんなもんアカン!
あんな女子高生おらへん!!」
助かった命を噛みしめると同時に、フラッシュバックする恐怖が、俺の言語中枢を遥か西へと吹き飛ばす。
「んなもんあっかいや!」(そんなことは、とても認められません)
「ハルカ落ち着いて!」
「私こそ危うく死ぬところだった! 人間なんか70億もいるんだから君ひとり死んだところで大したことないだろう! 私が死んだらネクロノミコンは絶版だ! 世界の損失なんだよ!」
「あんたも落ち着きなさい。何百年も前に絶版してるでしょ」
「私は著者の筆によって書かれた書物だ。活版印刷などという画一的な手段で生み出されたインクのシミどもと同じように扱うのはやめたまえ。写本はあれど私は唯一無二の原本だ。よって絶版などはあり得ない」
「あんたが言ったんでしょ絶版って」
「もののたとえだ! 君は葡萄の枝で地の塩かね?」
「それ、どっかで聞いた」
俺はやかましい鞄を持ち上げて、首にひっかけた。
汗だくの体に、夜風が吹き抜ける。
俺は杏子の大きな背中に額を当てて、大きく深呼吸した。
もう、大丈夫だ。
杏子はギアをひとつ落とした。
エンジン音が変わる。
ここは長い1本道で、クリスチナ女学園の敷地内だから、こんな時間に人は通らない。
けれどもカーブが多いので、あんまり飛ばすと危なそうだ。
杏子は慣れた様子で、180cmを超える体でがっしりバイクを掴んでいる。
腹の下に響く4ストロークのエンジンが、俺たちを安全な場所まで届けてくれる。
4ストロークのエンジンが。
遠くで、かすかに重なる――。
「杏子! 後ろから来てるッ!!」
俺が叫んだその瞬間、ハイビームが俺たちのバイクを照らした。
予想以上に近い。
敵はライトを消したまま、ギリギリまで距離をつめていたのだ。
外灯もまばらな闇の中を、その闇の中でしかできない方法で奴は俺たちを追ってきた。
杏子は慌ててスロットルを開く。
しかしすでに十分加速していた相手のバイクは、瞬く間に俺たちに追いついた。
ハイビームが俺たちを追い越すと、その光の反射を受けた白いホッケーマスクが闇の中に浮かび上がる。
感情を乗せない殺意の結晶が、俺たちを見据えた。
翻るブレザーの中から、得物が再び取り出される。
通り過ぎた外灯の光を受けて、それは一瞬キラリと光った。
――ぴんっ。
それは併走する2つのエンジンの間にあって、ほんの小さな音に過ぎなかった。
ひゅっと空気を裂く音。
その直後に嫌な衝撃音があって、すぐ横を通り過ぎていく木立がわずかに揺れた。
――ぴんっ。
杏子の握るハンドルが、小さな火花を散らした。
横を見ると、ホッケーマスクはバイクを操縦しながら、器用に次の矢を装填している。
通り過ぎる外灯に、彼女の得物が光る。
「マジかよボウガンだ!」
「なにそれ!」
「矢が飛んでくるの! 矢が!」
「違法でしょあんなの!」
「っていうかアイスホッケーも日曜大工研究会も関係ねえ!」
「ボウガンは銃刀法で規制されるような武器ではない。狩猟用やスポーツ用として認められているのだ。だから私を盾にするのをやめろと言ってるだろーッ!」
――ぴんっ。
金属の矢が、バイクのフロントライトを粉砕した。
道の先が闇に消える。
その場を照らすのは、左右に揺れる相手のバイクのライトだけだ。
杏子は再びギアを落として、ブレーキを握った。
このまま進むのも危険だが、停車すれば命を刈られるのを待つばかりだ。
バイクは大きく速度を落とした。
杏子はバイクを大きく左に傾けると、舗装されていない山道につっこみ、木の階段を駆け上った。
木の陰から灯りが漏れる。
小さな丘の上には広場があって、ちょっとした催しなんかで使うらしい。
今見えているのは、その広場を照らす外灯の光だ。
真っ暗な道で逃げ切ることが難しい今、俺たちは明るい場所を目指す他はない。
俺は振り落とされないように、杏子の腰にしがみついた。
段差を超える度に、シートが跳ねて腰を叩く。
うっかり口を開けば、舌を噛みそうだ。
杏子は暴れ馬のように跳ねるバイクを操りながら、後ろを振り向いてホッケーマスクとの距離を測る。
俺は叫んだ。
「前! 前!」
その言葉に反応して杏子が首を戻すその直前、杏子の額を木の枝が強かに打ち据えた。
俺はとっさに、仰向けに倒れそうになった杏子の体に覆い被さる。
力の抜けた手の下のグリップを握った。
その姿はさながら馬上の二人羽織――もはや曲芸だ。
後ろを向くような余裕はないが、殺意を乗せたプレッシャーが背中を焦がずほどビリビリと伝わってくる。
俺はヤケクソになってグリップをひねる。
山道から吐き出されるようにして、バイクは広場に飛び出した。
地面を削りながら、今来た道に腹を向ける。
そこに飛来するボウガンの矢が、杏子のお腹のすぐ下に突き刺さった。
「ギリギリセーフ…………じゃねえ!!」
ガソリンタンクだ。
ごぽごぽと漏れる燃料が、外灯に照らされて煌めく。
降りないと。
逃げないと。
降りないと。
いや、逃げないと――。
山道から上空へと飛び出した禍々しいバイクの影が、俺の一瞬の迷いを断ち切った。
俺はグリップを引き絞る。
バイクはウィリーしながら加速した。
ホッケーマスクの殺意と狂気のスピード。
後方の死と、前方に待ち受ける危険に背筋がヒリついた。
「うおおおおおおおおおおおおお!!!!」
バイクはフェンスを突き破って、崖から飛び出した。
無重力の星空の下に、バイクが身を踊らせる。
そこを狙って放たれたボウガンの矢が、俺のわき腹を掠め、ガソリンタンクを削った。
火花が走る――。
俺は杏子の大きな背中を強く抱いて、空中でバイクのシートを蹴り飛ばした。
その直後、火花はガソリンに引火。
爆発したバイクは、炎の塊になって弧を描く。
炎の舌に煽られながら、俺たち2人は今来た道路を越えて、クリスチナ女学園の高い塀を越え――その先の川に叩き込まれた。
――どっぱぁああああああああああん!!
水面に顔を上げて、杏子の姿を探す。
「杏子! 杏子ーっ!」
「ハルカ!」
すぐに返事があった。
水に叩きつけられた衝撃で目を覚ましたらしい。
「濡れる! 水に濡れちゃう! 水はダメ!」
首にかけた鞄の中から、ネクロが叫んだ。
俺たちは必死に泳いで、向こう岸にたどり着いた。
「はあっ、はあっ、はあっ…………」
地面に手をついて荒い息を吐く。
全身びしょぬれの、女子の制服を着た男が2人。
だいぶヤバめの構図ではある。
それでも、俺たちは生きていた。
岸には物置小屋があって、俺は息を整えるとその壁に背を預けた。
錆びたトタン板がバランと鳴った。
「逃げ切った……逃げ切ったぞあの化け物から……!」
「ハルカ、あたしたちちゃんと生きてる!」
スカートを履いた男が、涙を流しながら抱きついてくる。
上を見れば、この季節には珍しい満点の星空だ。
俺たちが生の実感を噛みしめていると、傍らに置いた学生鞄から赤黒い鞠のようなものが転がり出てきた。
その結び目がくぱぁと開くと、中から出てきたのはネクロだった。
「本が濡れたらどうなるのか分からないのか君たちは! この触手ロールに身を包んでいなければ、今頃インクが全部流れ落ちていたところだ! 君たちのようなおおざっぱな生き物と違って、私は繊細なんだよ! 本来ならば名士の書斎の本棚で静かに収まっているべきこの私を、あっちこっちへ連れ回した挙げ句、川に流すとは君たちそれでも文明人のつもりかね!?」
ぷりぷり怒っているネクロを杏子が宥める。
「いいじゃない、生きてるんだから」
「そういう問題じゃあない! 私は本に向き合う姿勢の問題を言ってるんだ!」
濡れた鞄に放り込んだらもっと怒るだろうから、しばらく言わせておくほかなさそうだ。
俺はギャーギャーわめくネクロを後目に、杏子の首にしがみついた手をほどいた。
「俺、ほんとにちゃんと男に戻ったらさ……」
杏子は、女の子座りで俺の言葉を待っている。
筋張ったふとももに広がるえんじ色のスカートは、悪夢以外のなにものでもないのだが、やっぱりその中身は杏子なのだ。
俺は、少しばかり大胆なことを言おうとしたのかもしれない。
夜の闇に聞こえるのは、静かに流れる川の音。
風に物置のトタンが揺れた。
――カタン、カタン。
俺はなんだか照れくさくなって、言葉に詰まってしまう。
急に周りの音が、大きくなった気がする。
トタンが風を切る音だろうか。
何かが、聞こえた。
――コホォー……コホォー…………コホォー………。
俺は目を見開いた。
全身が総毛立つ。
脳裏に蘇るのは、外灯に浮かび上がる傷だらけのホッケーマスク。
俺は辺りを見渡した。
しかしその場には、世界を何度も救った男と、川の流れがあるばかり。
それでも、聞こえるのだ。
命に飢えた獣の、絞り出すような熱い吐息が。
すぐそばに。
――コホォー……
―――コホォー…………
――コホォー………
―――――コホォ…………
ドバァアアアアアアアアアアアアアン!!
頭が破裂するような金属音とともに、俺の背後のトタン板が弾ける。
そこから飛び出した2本の腕の、片方が俺の胸を押さえつけ、もう片方が首に掛かった。
死の影に、抱かれた。
俺の首が、すさまじい膂力で締め上げられる。
背中のトタン板が、メリメリと音を立てながらその形を変えた。
「コホォー……コホォー……コホォー……」
温度のない息が、耳にかかって鼓膜を震わす。
俺は夢中で手足をばたつかせて暴れたが、鋼のような腕はぴくりとも動かない。
トタン板の穴がバリバリと縦に裂かれ、俺の体が持ち上げられた。
はだしの足が宙に浮く。
血流が止まると、視界が狭まって暗闇に虹色の星が散った。
薄れゆく意識の奥底で、不意におじいちゃんの言葉が蘇る。
――いいかい遥。自分たちは逃げ切った、と安心しているときが一番危ない。
敵が灰になるまで油断しちゃあいけないよ。
おじいちゃんは、将来俺の身に何が起こると思っていたのだろう。
なんにせよ、俺の人生はここで終わる。
大きな手のひらに締め上げられた首の動脈が、不規則に跳ねるのを感じる。
全身がガクガクと揺れた。
体を揺さぶられているわけではない。
俺を締め上げる彼女の腕は、凍っているかのように中空に静止している。
俺の体が断末魔のけいれんを始めたのだ。
「そこまでよ、筮村さん!」
川岸に、拡声器を通した声が響き渡った。
会長の声だ。
川向こうを見ると、俺たちが飛び出した広場に小さな影が見えた。
「そこはクリスチナ女学園の敷地外です。警察の方にお任せしなさい」
「……………」
大きな手のひらから力が抜け、俺は河原に仰向けに投げ出された。
俺は地面に背中を叩きつけられて、激しくせき込む。
押しつぶされた気管を、新鮮な空気が巡る。
バクバクと破裂しそうに跳ねる心臓から、自由になった首を通して血が通い始めた。
いちどきに血液が送り込まれたことで、視界の端が赤く染まった。
せきはやがて収まって、俺は気管をひゅうひゅう鳴らしながら膝立ちになる。
必死で肺に酸素を送り込んだ。
黙って立っていた筮村さんは、俺と杏子に一瞥をくれると、のっしのっしと俺たちを横切り、岸の階段を昇っていった。
山の上の広場を見上げると、会長の姿はもう消えていた。
「た……たす……か………」
再び力を失い、倒れそうになった俺を、杏子の太い腕が抱き留める。
やがて、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「ハルカ……もう動ける?」
心配そうに俺の顔をのぞき込む、制服姿のマ○レーン警部。
俺は黙って頷くと、杏子の胸から身を起こし、震える体で立ち上がった。
肩を貸してもらいながら、川岸の階段を昇り、なんとか警察に見つからず俺の家までたどり着いた。
本当なら久しぶりに会った息子に、ベッドの下の絵本の読み聞かせなどしてやりたい所だったが、一晩のうちに何度も殺されかけた俺の疲労はピークに達していた。
俺はずぶ濡れの服を脱ぐと、そのまま寝床に倒れ込んだ。
――翌日。
目が覚めると、やっぱり女に戻っていた。
男の俺が、女に戻るってのも変な話だけど。
体を起こしてみると、思った以上に軽い。
昨日の晩に受けたダメージは残っていないようだった。
さすがミミコちゃんの体。
週間連載で活躍しているだけあって、凄まじい回復力だ。
寝床から起きあがって鏡を見ると、首にも締め痕は残っていない。
ふとももをくっつけても、わずかに向こうが覗いてしまう股間の涼しさは、こぼれ落ちそうな胸のボリュームによって補完されていた。
――あ、ばっちり見ちゃった。
思わず鏡から目をそらしたところで、ドアが開いた。
「あ゛ー! ミミコきゅん元に戻ってるー!
朝になっても汚いオスガキのままだったらどうしようかと思ってた!!」
「悪かったなオスガキで!」
抱きつこうとするスーツ姿の姉を足で止めながら、俺は体にシーツを巻き付けた。
その後ろから、乾いた制服に着替えた杏子が顔を覗かせる。
姉から借りたらしい乾いた制服は、少し大きいようだった。
「まだそんな格好してるの? 早く行かないと置いてくわよ」
杏子も元に戻ってる――ホントに良かった。
ハリウッドスターのジョウロを握った件は、一刻も早く忘れよう。
登校すると、教室がちょっとした騒ぎになっていた。
「ねえ、今朝のニュース見た?」
クラスの子が、スマホで新聞記事を見せてくれた。
『
大物ハリウッド俳優、日本の高校の女子寮で大暴れ
ロサンゼルスで緊急逮捕
日米往復のミステリー 2時間の空白
本人は容疑を否定
』
「これ、うちの薫風寮らしいのよ。監視カメラに映ってたんだって」
「へえ~、そうなんだ~、ふう~ん」
ごめん!!
ウィ○スさん、ほんっとごめん……!!
俺はクラスメイトの話に相槌を打ちながら、心の中でハリウッドスターに深く深く頭を下げる。
アリバイが証明されて、無事誤解が解けることを祈るしかなかった。
いやもう、ほんっとごめんなさい。
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