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3章 藤枝宮子(ふじえだみやこ)
第37話 ほんとうの美少女
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「殿方のお声がしたようだけれど……」
会長は不思議そうに病室を見渡した。俺は慌てて誤魔化す。
「気のせいですよ! この病室は男子禁制ですから、アハハハハハ」
すみません、この部屋の患者は100パーセント男です。俺と城ヶ崎は顔を見合わせて苦笑いした。
会長に手を握られて部屋に入ってきたのは里奈さまだった。目を真っ赤に泣き腫らしている。白ネコの祝福に心を狂わされていたとはいえ、俺たちに怪我をさせたのは彼女だ。それでも里奈さまは、逃げずにここへやってきたのだ。
里奈さまは俺たちの前まで来ると、深く頭を下げた。
「ごめんなさい……漣ちゃんも、杏子ちゃんも、ハルカちゃんも……それに宮子も……」
震え始めた手を、会長がぎゅっと握るのが見えた。
「本当に、取り返しのつかないことをしてしまったと思ってる。償えるのならなんでもするわ。もう顔も見たくないって言うのなら、私、学校を出て行くつもり……」
城ヶ崎が慌てて声を上げる。
「やめてください里奈さま、そんな」
「そうですよ、あの白ネコの変な力のせいで、こんなことになったんですから」
杏子もとりなそうとするが、里奈さまは顔を上げようとはしない。
「私はそれだけのことをしたわ。本当にごめんなさい……」
里奈さまは、自責の念で押しつぶされそうになっている。俺は思い切って口を開いた。
「この足がどれだけ痛むか、里奈さまにはわからないでしょうね」
杏子と城ヶ崎が、びっくりしてこちらを振り向いた。杏子があんた殺すわよ的な視線を送ってくるが、俺はかまわず言葉を続ける。
「でも俺だって、里奈さまや会長がどれだけ辛い思いをしてたか、わからなかったんです。それを知らずに、会長にちょっかいかけたりしてたわけで……だから思うんです。これは、お互いよそ見をしながら歩いていって、ぶつかったみたいなものじゃないかって。あ、でも俺が怪我したのは最後だから時系列的に……ちょっと待ってください……」
「ちゃんと考えてからもの言いなさいよ」
杏子がため息をついた。しまった、ちゃんと整理してから口を開くべきだった。何かうまいこと言おうとして、言えなかったときほど恥ずかしいことはない。
でも俺は、里奈さんの落ち込んだ姿を見ていると、どうしても何か言わないわけにはいかないと思ってしまったのだ。
「つまり、事故みたいなものだって、言いたいんです。それで、雨振って地固まるってわけで、大団円……的な………」
最後の方は、殆ど口の中でモゴモゴ言ってただけで、誰も聞き取れなかったんじゃないかと思う。ああもう死にたい、いらんこと言うんじゃなかった。俺が俯いていると、会長がくすりと笑った。
「ハルカもああ言っているのだし、もういいじゃない」
「宮子……でも………」
ゆっくりと顔を上げた里奈さまに、会長はほほえみかける。どんなすさんだ心の持ち主も心から安らぐような女神の微笑に、端から見ているこっちまで心が持って行かれそうになる。
「里奈、あまり意地を張るものじゃなくってよ」
「お邪魔しまーす、ハルカいる?」
会長がまとめようとした良い雰囲気をぶったぎって、姉が病室に入ってきた。しかもオカ研OGの仲間をぞろぞろと引き連れて。
「ミミコちゃん入院着……これは本編ではなかなか見られないレア中のレアカードでござる……」
「誰がカードだ!」
ビン底メガネさんがゾンビのように両手を上げて近づいてくる。オールバックさんがカメラを構え、巻き毛さんはするりと布団の下に手を差し込んだ。
「あのう……この服って……退院の時に貰えるんですかね……」
「入院着の袖……しゃぶってもいいかな……」
「やめさせろ姉ちゃん! この状態じゃ逃げられない!」
「まあ入院してるときくらい、ワガママ聞いて上げてもあげてもいいじゃない。私もおっぱい触っていい?」
「それは入院してる側に言うことだろうが! 触るんじゃねえ! 杏子助けて!」
「はいはい」
もう無茶苦茶だ。迫り来るオカルトゾンビどもに布団を投げつけたりしているうちに、気がつくと会長と里奈さまは帰ってしまっていた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
回復までまだかかると言い張る医者に、なんとか頼み込んでむりやりレントゲンを撮らせると、足首の骨は思った通りすっかり元通りになっていた。ミミコちゃんボディーの回復力はプラナリア並みだ。
「ありえん……こんなことが………」
わなわなと震えるベテランっぽい医者に、俺は適当なことを言ってごまかした。
「ほら、女の子の体って、不思議がいっぱいなので」
「そうなのか山田君!」
医者は隣にいた若い看護師に食ってかかる。
「し、知りません!」
「女の子の体は不思議がいっぱいなのか山田君! 教えてくれ山田君! 私は医者として人体の全てを知らねばならない……!」
取り乱した医者と逃げ回る看護師を後目に、俺は診察室を出た。そのあとなにやらいろいろあって、退院の許可が下りた頃には夕方になっていた。
城ヶ崎の退院も今日だったので、ふたりでさっさと荷物をまとめる。短い入院だから、お互い大した荷物はなかった。
病院の外に出たところで、城ヶ崎が言った。
「僕、飲み物買ってくるよ。たぶんバス停で待つことになるだろうから」
「そういうのはでる前に済ませとけよ。俺はコーラで」
「君も飲むんじゃないか……」
城ヶ崎が購買に行くと、俺は植木の段差に腰掛けた。空は気持ちよく晴れて、澄み渡っている。そろそろ梅雨に入る頃だから、こんな天気も見納めかもしれない。
「そういや、まだ何も解決してないんだよな」
俺は、鞄の中のネクロノミコンに話しかける。
「何がだ? 会長のくちびるは無事頂いたじゃないか。いつの間にかは知らないが」
「ちげえよ、会長の祝福のことだよ。俺たちの問題は解決したけれど、会長はあの祝福に囚われたままだ。あのままだと、普通の学校生活は……」
「そのことか。実は昨日、会長が病室に来たときに観てみたんだが、彼女に滞留していた祝福のエネルギーが大幅に減少していた。もちろん彼女の力が完全になくなるわけではないが、あの日の杏子や里奈のように、心を狂わせることはもうないはずだ」
ネクロノミコンは、なんでもないことのようにあっさり言い放った。
「おそらく君に祝福を分け与えたときに、それが誘い水となってエネルギーの大半が流出したのだろう」
「そう言うことは早く言えよ! ひとりもんもんとしてたのに!」
「聞かれなかったからな」
機嫌良さそうに触手を振り回しながら、ネクロノミコンは言った。筋肉痛はもう治ったらしい。
本当に良かった。会長はこれから普通の学校生活を送れるし、里奈さまはずっと傍にいられるわけだ。そこで俺はあることに気がついた。
「ちょっと待てよ、ということは会長のキスで得た祝福って、何人分になるんだ? 大半が流出ってことは、50人分くらいには……」
そうなれば残りは半分以下だ、男に戻れる日も遠くない! しかしネクロノミコンは、俺の希望を踏みにじるかのようにあざ笑った。
「たとえるなら頭の上で口を開いた牛乳パックを逆さにして、どれくらい中身が飲めるかという話だな。今の君を観る限り、せいぜいひと口。城ヶ崎のときと変わらんようだがね」
「ちくしょう!」
そううまい話はないらしい。俺が腹いせにネクロノミコンの触手の先にデコピンしてやろうとすると、触手はひょいと俺の中指を避ける。しばらく攻防を続けていると、後ろから声がした。
「駄目よハルカ、そんなところに座っては」
驚いて振り向くと、すぐ傍に会長が立っていた。
「制服を着ていなくても、あなたはクリスチナ女学園の生徒なんですからね。節度ある行動をなさい」
「……すみません」
俺は慌てて段差から飛び降りる。するとなんだか、すごく不思議な距離感になったしまった。端的に言うとその、すごく近い。
会長の長い髪が風に揺れると、その先が俺の髪に触れるほどに。
「もう退院なのね、もうギプスを取っても大丈夫なの?」
「はい、丈夫なだけが取り柄ですから」
「良かったわ」
かなり非常識な治療ペースだが、治ってしまったものは仕方がない。
「ふたりがプールに浮いてるのを見たとき、びっくりしたのよ。里奈は気を失っているだけだったけれど、あなたは息をしてなかったもの。きっとあなたが下になって落ちたのね。わたくし、心肺蘇生って初めてやったわ」
そういうことだったのか!
あのとき会長は、気を失っている俺に人工呼吸を施したのだ。そこで会長のくちびるが、俺のくちびるに触れたのだ。
俺は思わず、指の腹で自分のくちびるに触れた。もちろんそこには何の余韻も残ってはいなかった。
「それは……ありがとうございました」
「それは、わたくしが言うことよ」
会長の美しい切れ長の目が、まっすぐに俺を見つめた。そうすると俺は幽霊に背骨を掴まれたみたいに、動けなくなってしまう。会長のくちびるが開いた。
「確認したいのだけれど、わたくしとあなたはもうお友達よね?」
思いがけないことを言われて、俺は面食らった。
「それは……会長が、そう仰っていただけるのでしたら、そうだと思います」
俺が言葉を切りながら辿々しく答えると、
「そう」
会長は、明日は金曜日だったかしら? みたいな軽さで頷いた。相変わらずこの人の考えは読めない。ただ黙って、俺の目を見つめている。
気まずくなって、俺は思わず目を反らしてしまった。よそを向こうとした俺の頬に、冷たい指が触れた。
「え……」
思わず出た俺の声は、会長のくちびるに吸い込まれる。
ふたりの間を、夏の風が吹き抜けた。
「……………!」
薄い赤唇のシャープな印象に反して、ふわりと柔らかいくちびるが、無意識に窄んだ俺のくちびるに押し当てられた。
バラの香りの甘い吐息に、鼻の下辺りが熱くなる。
思わずつぶった目をゆっくり開くと、長い睫毛に縁取られた切れ長の目が俺の顔のどこかをじっと見つめている。
くちびるを合わせたまま見つめ合うなんてなかなかできないのだけれど、会長の美しい刃物のような視線は、俺の心の真ん中を捉えていた。
一瞬だったのか、あるいは1分くらい? こうなると時間なんてあってないようなものだ。
ふたりのくちびるが離れると、再び会長の端正な顔が、額からおとがいまで見えるようになった。
体に力が入らない。俺は植木の段差に半ばお尻を預けて、俺はなんとか倒れずに済んでいた。たった一度のキスで、声だけではなく心まで、あの柔らかいくちびるに吸い取られてしまったみたいだ。
会長は切れ長の目を細めて、濡れたくちびるに笑みを浮かべた。最初に見た冷笑でも、ときどき見せてくれるようになったくすくす笑いでも、病室で里奈さまに見せた聖母のような微笑みでもない。
「あなたの話だと、お友達はこうするものなのでしょう」
それは胸が痛くなるほど妖艶で、それでいて5月の風みたいに爽やかな、いたずらっぽく明け透けな笑顔だった。
「こんどは逃げなかったのね」
風に広がった金属質な黒髪が、陽光を照り返して輝く。その光が、まるでレーザー彫刻みたいに俺の胸に焼き付いた。
では明日学校でね、と会長は踵を返して去っていく。
「……………」
植木の段にひっかけたジーンズのお尻が、地面までずり落ちた。
「どうしたんだハルカ、そんな所に座って」
気がつくと、コーラのボトルを持った城ヶ崎が、腰に手を当てて立っていた。
「地べたに座るなんて、淑女のやる事じゃないぞ。ほら、立つんだ」
「城ヶ崎、手ぇ引っ張って……」
俺は上目遣いに、城ヶ崎を見上げた。
「腰が抜けた」
やっぱり、あの人はただ者じゃない。城ヶ崎に肩を貸してもらいながら、俺は上の空でバス停までの道を歩く。
「まったく、どうしたんだ急に」
「どうしちゃったんだろうな……俺……」
会長の瞳、くちびるの感触、陽光を弾く黒髪。イメージが渦になって俺の頭を駆けめぐる。
何かの間違いだ。全部終わったのに。
ダメだダメだダメだ、惚れるのはダメだ。
俺はあと98人の女の子のことを考えなくちゃいけないのに!
それでも胸の奥の痛みが消えなくて、俺は城ヶ崎の丸い肩に体重を預けた。ウェーブがかった明るい髪が、鼻先をくすぐる。
「何するんだ、そんなにべたべたくっつくな!」
そう言いながら、城ヶ崎は俺の顔をはねのけようとはしない。そこに甘えて、俺はますます小柄な体にもたれ掛かった。
「……もう!」
城ヶ崎の耳が赤く見えるのは、日が西に差し掛かっているからだろうか。
「誰も彼も、自分の胸の置き場所を自分では決められないらしい。つくづく難儀な生き物だ。人間というものは」
鞄の中で、ネクロノミコンが呟いた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ご愛読ありがとうございます。
ここまでで文庫本1巻くらいの分量ですね。
話もそれなりにまとまったのではないかと思います。
皆さんが読んで下さっているのを励みに、毎日更新しています。
もし宜しければ、ほんのひと言でも結構なので、
感想を頂けますと幸いです。
第4章からの更新は、今連載中の異世界モノが終わり次第再開ということで。
すみません、宜しくお願い致します。かしこ
会長は不思議そうに病室を見渡した。俺は慌てて誤魔化す。
「気のせいですよ! この病室は男子禁制ですから、アハハハハハ」
すみません、この部屋の患者は100パーセント男です。俺と城ヶ崎は顔を見合わせて苦笑いした。
会長に手を握られて部屋に入ってきたのは里奈さまだった。目を真っ赤に泣き腫らしている。白ネコの祝福に心を狂わされていたとはいえ、俺たちに怪我をさせたのは彼女だ。それでも里奈さまは、逃げずにここへやってきたのだ。
里奈さまは俺たちの前まで来ると、深く頭を下げた。
「ごめんなさい……漣ちゃんも、杏子ちゃんも、ハルカちゃんも……それに宮子も……」
震え始めた手を、会長がぎゅっと握るのが見えた。
「本当に、取り返しのつかないことをしてしまったと思ってる。償えるのならなんでもするわ。もう顔も見たくないって言うのなら、私、学校を出て行くつもり……」
城ヶ崎が慌てて声を上げる。
「やめてください里奈さま、そんな」
「そうですよ、あの白ネコの変な力のせいで、こんなことになったんですから」
杏子もとりなそうとするが、里奈さまは顔を上げようとはしない。
「私はそれだけのことをしたわ。本当にごめんなさい……」
里奈さまは、自責の念で押しつぶされそうになっている。俺は思い切って口を開いた。
「この足がどれだけ痛むか、里奈さまにはわからないでしょうね」
杏子と城ヶ崎が、びっくりしてこちらを振り向いた。杏子があんた殺すわよ的な視線を送ってくるが、俺はかまわず言葉を続ける。
「でも俺だって、里奈さまや会長がどれだけ辛い思いをしてたか、わからなかったんです。それを知らずに、会長にちょっかいかけたりしてたわけで……だから思うんです。これは、お互いよそ見をしながら歩いていって、ぶつかったみたいなものじゃないかって。あ、でも俺が怪我したのは最後だから時系列的に……ちょっと待ってください……」
「ちゃんと考えてからもの言いなさいよ」
杏子がため息をついた。しまった、ちゃんと整理してから口を開くべきだった。何かうまいこと言おうとして、言えなかったときほど恥ずかしいことはない。
でも俺は、里奈さんの落ち込んだ姿を見ていると、どうしても何か言わないわけにはいかないと思ってしまったのだ。
「つまり、事故みたいなものだって、言いたいんです。それで、雨振って地固まるってわけで、大団円……的な………」
最後の方は、殆ど口の中でモゴモゴ言ってただけで、誰も聞き取れなかったんじゃないかと思う。ああもう死にたい、いらんこと言うんじゃなかった。俺が俯いていると、会長がくすりと笑った。
「ハルカもああ言っているのだし、もういいじゃない」
「宮子……でも………」
ゆっくりと顔を上げた里奈さまに、会長はほほえみかける。どんなすさんだ心の持ち主も心から安らぐような女神の微笑に、端から見ているこっちまで心が持って行かれそうになる。
「里奈、あまり意地を張るものじゃなくってよ」
「お邪魔しまーす、ハルカいる?」
会長がまとめようとした良い雰囲気をぶったぎって、姉が病室に入ってきた。しかもオカ研OGの仲間をぞろぞろと引き連れて。
「ミミコちゃん入院着……これは本編ではなかなか見られないレア中のレアカードでござる……」
「誰がカードだ!」
ビン底メガネさんがゾンビのように両手を上げて近づいてくる。オールバックさんがカメラを構え、巻き毛さんはするりと布団の下に手を差し込んだ。
「あのう……この服って……退院の時に貰えるんですかね……」
「入院着の袖……しゃぶってもいいかな……」
「やめさせろ姉ちゃん! この状態じゃ逃げられない!」
「まあ入院してるときくらい、ワガママ聞いて上げてもあげてもいいじゃない。私もおっぱい触っていい?」
「それは入院してる側に言うことだろうが! 触るんじゃねえ! 杏子助けて!」
「はいはい」
もう無茶苦茶だ。迫り来るオカルトゾンビどもに布団を投げつけたりしているうちに、気がつくと会長と里奈さまは帰ってしまっていた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
回復までまだかかると言い張る医者に、なんとか頼み込んでむりやりレントゲンを撮らせると、足首の骨は思った通りすっかり元通りになっていた。ミミコちゃんボディーの回復力はプラナリア並みだ。
「ありえん……こんなことが………」
わなわなと震えるベテランっぽい医者に、俺は適当なことを言ってごまかした。
「ほら、女の子の体って、不思議がいっぱいなので」
「そうなのか山田君!」
医者は隣にいた若い看護師に食ってかかる。
「し、知りません!」
「女の子の体は不思議がいっぱいなのか山田君! 教えてくれ山田君! 私は医者として人体の全てを知らねばならない……!」
取り乱した医者と逃げ回る看護師を後目に、俺は診察室を出た。そのあとなにやらいろいろあって、退院の許可が下りた頃には夕方になっていた。
城ヶ崎の退院も今日だったので、ふたりでさっさと荷物をまとめる。短い入院だから、お互い大した荷物はなかった。
病院の外に出たところで、城ヶ崎が言った。
「僕、飲み物買ってくるよ。たぶんバス停で待つことになるだろうから」
「そういうのはでる前に済ませとけよ。俺はコーラで」
「君も飲むんじゃないか……」
城ヶ崎が購買に行くと、俺は植木の段差に腰掛けた。空は気持ちよく晴れて、澄み渡っている。そろそろ梅雨に入る頃だから、こんな天気も見納めかもしれない。
「そういや、まだ何も解決してないんだよな」
俺は、鞄の中のネクロノミコンに話しかける。
「何がだ? 会長のくちびるは無事頂いたじゃないか。いつの間にかは知らないが」
「ちげえよ、会長の祝福のことだよ。俺たちの問題は解決したけれど、会長はあの祝福に囚われたままだ。あのままだと、普通の学校生活は……」
「そのことか。実は昨日、会長が病室に来たときに観てみたんだが、彼女に滞留していた祝福のエネルギーが大幅に減少していた。もちろん彼女の力が完全になくなるわけではないが、あの日の杏子や里奈のように、心を狂わせることはもうないはずだ」
ネクロノミコンは、なんでもないことのようにあっさり言い放った。
「おそらく君に祝福を分け与えたときに、それが誘い水となってエネルギーの大半が流出したのだろう」
「そう言うことは早く言えよ! ひとりもんもんとしてたのに!」
「聞かれなかったからな」
機嫌良さそうに触手を振り回しながら、ネクロノミコンは言った。筋肉痛はもう治ったらしい。
本当に良かった。会長はこれから普通の学校生活を送れるし、里奈さまはずっと傍にいられるわけだ。そこで俺はあることに気がついた。
「ちょっと待てよ、ということは会長のキスで得た祝福って、何人分になるんだ? 大半が流出ってことは、50人分くらいには……」
そうなれば残りは半分以下だ、男に戻れる日も遠くない! しかしネクロノミコンは、俺の希望を踏みにじるかのようにあざ笑った。
「たとえるなら頭の上で口を開いた牛乳パックを逆さにして、どれくらい中身が飲めるかという話だな。今の君を観る限り、せいぜいひと口。城ヶ崎のときと変わらんようだがね」
「ちくしょう!」
そううまい話はないらしい。俺が腹いせにネクロノミコンの触手の先にデコピンしてやろうとすると、触手はひょいと俺の中指を避ける。しばらく攻防を続けていると、後ろから声がした。
「駄目よハルカ、そんなところに座っては」
驚いて振り向くと、すぐ傍に会長が立っていた。
「制服を着ていなくても、あなたはクリスチナ女学園の生徒なんですからね。節度ある行動をなさい」
「……すみません」
俺は慌てて段差から飛び降りる。するとなんだか、すごく不思議な距離感になったしまった。端的に言うとその、すごく近い。
会長の長い髪が風に揺れると、その先が俺の髪に触れるほどに。
「もう退院なのね、もうギプスを取っても大丈夫なの?」
「はい、丈夫なだけが取り柄ですから」
「良かったわ」
かなり非常識な治療ペースだが、治ってしまったものは仕方がない。
「ふたりがプールに浮いてるのを見たとき、びっくりしたのよ。里奈は気を失っているだけだったけれど、あなたは息をしてなかったもの。きっとあなたが下になって落ちたのね。わたくし、心肺蘇生って初めてやったわ」
そういうことだったのか!
あのとき会長は、気を失っている俺に人工呼吸を施したのだ。そこで会長のくちびるが、俺のくちびるに触れたのだ。
俺は思わず、指の腹で自分のくちびるに触れた。もちろんそこには何の余韻も残ってはいなかった。
「それは……ありがとうございました」
「それは、わたくしが言うことよ」
会長の美しい切れ長の目が、まっすぐに俺を見つめた。そうすると俺は幽霊に背骨を掴まれたみたいに、動けなくなってしまう。会長のくちびるが開いた。
「確認したいのだけれど、わたくしとあなたはもうお友達よね?」
思いがけないことを言われて、俺は面食らった。
「それは……会長が、そう仰っていただけるのでしたら、そうだと思います」
俺が言葉を切りながら辿々しく答えると、
「そう」
会長は、明日は金曜日だったかしら? みたいな軽さで頷いた。相変わらずこの人の考えは読めない。ただ黙って、俺の目を見つめている。
気まずくなって、俺は思わず目を反らしてしまった。よそを向こうとした俺の頬に、冷たい指が触れた。
「え……」
思わず出た俺の声は、会長のくちびるに吸い込まれる。
ふたりの間を、夏の風が吹き抜けた。
「……………!」
薄い赤唇のシャープな印象に反して、ふわりと柔らかいくちびるが、無意識に窄んだ俺のくちびるに押し当てられた。
バラの香りの甘い吐息に、鼻の下辺りが熱くなる。
思わずつぶった目をゆっくり開くと、長い睫毛に縁取られた切れ長の目が俺の顔のどこかをじっと見つめている。
くちびるを合わせたまま見つめ合うなんてなかなかできないのだけれど、会長の美しい刃物のような視線は、俺の心の真ん中を捉えていた。
一瞬だったのか、あるいは1分くらい? こうなると時間なんてあってないようなものだ。
ふたりのくちびるが離れると、再び会長の端正な顔が、額からおとがいまで見えるようになった。
体に力が入らない。俺は植木の段差に半ばお尻を預けて、俺はなんとか倒れずに済んでいた。たった一度のキスで、声だけではなく心まで、あの柔らかいくちびるに吸い取られてしまったみたいだ。
会長は切れ長の目を細めて、濡れたくちびるに笑みを浮かべた。最初に見た冷笑でも、ときどき見せてくれるようになったくすくす笑いでも、病室で里奈さまに見せた聖母のような微笑みでもない。
「あなたの話だと、お友達はこうするものなのでしょう」
それは胸が痛くなるほど妖艶で、それでいて5月の風みたいに爽やかな、いたずらっぽく明け透けな笑顔だった。
「こんどは逃げなかったのね」
風に広がった金属質な黒髪が、陽光を照り返して輝く。その光が、まるでレーザー彫刻みたいに俺の胸に焼き付いた。
では明日学校でね、と会長は踵を返して去っていく。
「……………」
植木の段にひっかけたジーンズのお尻が、地面までずり落ちた。
「どうしたんだハルカ、そんな所に座って」
気がつくと、コーラのボトルを持った城ヶ崎が、腰に手を当てて立っていた。
「地べたに座るなんて、淑女のやる事じゃないぞ。ほら、立つんだ」
「城ヶ崎、手ぇ引っ張って……」
俺は上目遣いに、城ヶ崎を見上げた。
「腰が抜けた」
やっぱり、あの人はただ者じゃない。城ヶ崎に肩を貸してもらいながら、俺は上の空でバス停までの道を歩く。
「まったく、どうしたんだ急に」
「どうしちゃったんだろうな……俺……」
会長の瞳、くちびるの感触、陽光を弾く黒髪。イメージが渦になって俺の頭を駆けめぐる。
何かの間違いだ。全部終わったのに。
ダメだダメだダメだ、惚れるのはダメだ。
俺はあと98人の女の子のことを考えなくちゃいけないのに!
それでも胸の奥の痛みが消えなくて、俺は城ヶ崎の丸い肩に体重を預けた。ウェーブがかった明るい髪が、鼻先をくすぐる。
「何するんだ、そんなにべたべたくっつくな!」
そう言いながら、城ヶ崎は俺の顔をはねのけようとはしない。そこに甘えて、俺はますます小柄な体にもたれ掛かった。
「……もう!」
城ヶ崎の耳が赤く見えるのは、日が西に差し掛かっているからだろうか。
「誰も彼も、自分の胸の置き場所を自分では決められないらしい。つくづく難儀な生き物だ。人間というものは」
鞄の中で、ネクロノミコンが呟いた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ご愛読ありがとうございます。
ここまでで文庫本1巻くらいの分量ですね。
話もそれなりにまとまったのではないかと思います。
皆さんが読んで下さっているのを励みに、毎日更新しています。
もし宜しければ、ほんのひと言でも結構なので、
感想を頂けますと幸いです。
第4章からの更新は、今連載中の異世界モノが終わり次第再開ということで。
すみません、宜しくお願い致します。かしこ
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