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3章 藤枝宮子(ふじえだみやこ)
第36話 悲しみは夜空を泳ぐ
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里奈さまが俺に向けて引き金を引いた瞬間、ぐうっと世界の密度が増した。
熱いエネルギーの渦が、里奈さまの手元を飛び出して、こちらに伸びてくるのがわかる。回転する弾の軌跡が、はっきりと見えた。
胸元の一点が熱く疼く。弾丸はそこに吸い寄せられる。俺は死の半直線に向けて、弾丸よりも速く手をかざした。
――バチッ、チュイーン
繋ぎ間違えた電線が、ショートする音に似ていた。弾丸は俺のてのひらの肉を叩き、床を抉って跳ねた。
「お……おおおおお………」
コンクリートの床に、白い着弾痕が残っている。俺は弾丸を叩き落としたのか!? 俺はまじまじと自分の手を見つめた。やわらかい手のひらの真ん中が、ちょっとだけ赤くなっている。
すげえ! ミミコちゃんすげえ! 人間じゃねえ!
ミミコちゃんの原作でも(恐らくは)成し遂げていないであろう離れ業への驚きとともに、世界がいつもの密度を取り戻した。冷や汗をかいた横顔に、夜風が吹き抜ける。
俺が顔を上げると――会長と里奈さま体が大きく空へと傾くのが見えた。
「……………!」
俺は何か考えるより先に、コンクリートの床を蹴った。
「ネクロ――――――ッ!!」
俺は脇に抱えた魔導書を放り投げて、自分もその虚空へと飛び込む。ネクロノミコンが走らせた触手の1本が柵を掴み、もう1本が会長の足首へと絡みつく。
先に落ちた里奈さまは――間に合わない!
俺は屋根の縁に手をかけて、ぐるりと下側に回り込む。逆さまになった両足で屋根を蹴って、ロケットのように夜空に躍り出た。
ビルの谷間を吹き上がる風が、俺の体を翻弄する。目に突き刺さる暴風を瞼を細めてやり過ごしながら、里奈さまに向かって手を伸ばした。
自由落下にバタバタとはためくスカートが、明滅しながら過ぎ去るガラス窓が、死の臨界点を巻き取っていく。
水飴の中を泳ぐようなもどかしい接近の果て、とうとう俺の指先は里奈さまのブレザーに触れた。
俺はブレザーを手前に引き寄せて、里奈さまを抱き抱える。その横にはホテルの壁面、全面のガラス窓がおろし金のように視界を削り取っていく。
俺は覚悟を決めて足を振り上げると、そこへ踵を叩き込んだ。
普通の人間なら、膝の関節が逆方向に折れ曲がった上に、ガラスの断面に足首を切断されるだろう。しかし、ミミコちゃんの肉体は弾丸さえも弾き返す。いけるだろう、いけるんじゃないかな、いけてくれ――!
破砕音がビルの谷間に反響し、強化ガラスの粒状の破片が夜空に煌めいた。俺の踵は窓ガラスを粉砕して、アルミサッシを叩き切り、その下の構造部にめり込んで壁面に亀裂を走らせる。
やっぱり痛い! めちゃくちゃ痛い! 肉を抉られるような鈍痛が、背筋から脳まで駆け上がる。
衝突の反作用に弾かれて、ふたりの体は空へと舞い上がった。ホテルからは離れつつも、落下速度は一気に落ちる。
そこへどうにか間に合ったネクロノミコンの触手が、俺の足首にしゅるりと巻き付いた。俺は里奈さまを強く抱きしめ、ふたりの体重と衝撃力が足首を締め上げる。踵の関節がミシリといやな音を立て、ガラスの破片を星屑のように浴びながら、俺たちの落下は地上10メートルあたりで止まった。下はホテルの空中庭園だ。
そこでふたりで逆さ吊りになったいた。屋上の方を見下ろすと、会長の姿は見えない。ネクロノミコンが屋上に助け上げたようだ。
「……助かった、ねえ里奈さま、俺たち助かった!」
今になって体が震え始める。体を密着させた状態だから、それは里奈さまにも伝わっているだろう。でも里奈さまの体も、俺と同じように震えていた。
「宮子は………宮子は……………?」
里奈さまはくちびるを震わせながら、目を見開いて地上を見上げている。
「大丈夫、今屋上にいるから。誰も傷ついてない」
里奈さまの目尻から、涙が逆さに流れた。俺は里奈さまの頬に頬をくっつける。だらりと垂れていた里奈さまの腕が、おそるおそる俺の背中に回された。俺は、里奈さまの耳に囁いた。
「城ヶ崎だって、わかってくれるよ。許してくれる。あいつはそういう不思議な力があることを知ってるから。元通りにならないことなんか何にもない。もう大丈夫だから」
里奈さまが、声をあげて泣き出した。作り物の愛情を、いっぱいにため込んで爆発させてしまった里奈さま。俺なんかが想像できないほど、辛かったに違いない。
「もう、大丈夫だから」
「……ところがどっこい、そうでもない!」
ビルの谷間に響きわたる悪魔的な声。俺はその主、ネクロノミコンに向かって叫んだ。
「いいから、早く引っぱり上げてくれよ!」
「無理なんだよ……!」
「へ?」
いつもは嫌みたっぷりの(自分の危機的状況を除く)ネクロノミコンの声に、余裕が感じられない。
非常に悪い予感がする。
「ふたり分は……無理………!」
「ウソだろおい!?」
気が付けば、俺の足首に巻き付いた触手がプルプルと震えている。ずるり、ずるりと少しずつ吸盤を滑らせながら――。
「待て待て待て! 気合い入れろよ! 根性見せろ!」
「そういう精神論が私は一番嫌いだ! 根性なんて9割が体力だろう!」
「だったら残りの1割で踏ん張れよ!」
「それが精神論だと言っているんだ! 私はインテリなんだよ! 私を鼓舞しようと思うなら、論理的整合性を重視したまえ!」
「わかったわかった! じゃあゆっくり下ろせ、な?」
「それも……難しい……今のやり取りで体力を使い果たした………」
「こんの役立たず!」
俺のそのひとことが合図だったかのように、俺の足首が触手からぬるりとすっぽ抜けた。嘘だろ、ここまで来て――俺たちは、再び虚空に投げ出された。
俺が最後に覚えているのは、大きな満月。
鼻の奥を突き刺すような、背中を叩く衝撃と、空へ跳ね上がる水柱――。
―――――。
―――。
――。
目を開けると、知らない天井があった。
開けられた窓からは、明るい日差しが差し込んでいる。
涼しい風に、白いシーツ。俺は清潔なベッドに寝かされていた。
足にはギプスがしてあって、器具に吊られている。
――朝? 昼?
俺は髪をかきあげながら、最後の記憶を辿った。
会長と里奈さまをなんとか助けて、けれども軟弱者のネクロノミコンがおれと里奈さまの体重を支えきれずに、プールに落ちてしまったのだ。おそらくそこで気を失って――。
待てよ。外が明るいってことは――え?
「えっ!?」
俺は思わず飛び起きた。足を吊り上げる支柱が音を立てた。目に入った掛け時計は4時を示している。
「嘘……そんな………」
間に合わなかった。そんな。俺は一生、この体のままなのか? いや、それよりも杏子だ。杏子もこれから一生男のままで、知事の体で生きなければならない。
俺のせいだ、デートの時に素直にキスしなかった俺が悪いんだ。取れるだけの責任は取らなくてはいけない。でも俺にできることなんて。
そうだ、杏子と結婚しよう。イギリスかどっか、同性婚の認められた国で。いや、俺も女になってるんだった。それなら日本で大丈夫だ。俺は専業主婦なんてぜいたくは言わないで、ちゃんと働くつもりだ。
子供だってちゃんと作る。男になった杏子は子供が産めないんだから、俺がその任を負わなければならない。子供を産むためには、それを前提とした行為が必要なわけで、つまり俺はそびえ立つ知事の抹殺者を甘んじて受け入れなければならないのということか。
いいさ、杏子さえ良ければ俺は受け入れる。責任を取るというのはそういうことだ。でもどうしよう、なんかめっちゃデカそう……。
「どうしたんだ、起きるなり頭を抱えて」
隣を見ると、城ヶ崎がこちらを不思議そうに見ていた。まだ足を吊られている。こいつのきょとんとした大きな瞳を見ていると、涙が出そうになってきた。
「城ヶ崎……俺、間に合わなかった……」
こいつだって協力してくれて、怪我までしたというのに。
「でも杏子さん、さっきまでここにいたぞ。だからてっきり、うまく行ったんじゃないかと思ってたんだけれど……」
俺は思わず、城ヶ崎の手を握った。
「本当か!? 身長190cmくらいの筋肉ムキムキの大男じゃなかったか!?」
「どうやって見間違えるというんだ!」
「じゃあ、股間に何かぶら下がってなかったか!?」
「僕がそんなこと知るはずないだろう!」
「ちゃんと確認しろよ基本だろうが!」
「滅茶苦茶言うんじゃないよ、杏子さんはちゃんと、いつも通り元気な女の子だったよ」
どういうことだろう。ネクロノミコンの計算違いとか? ひょっとするとあと1日残ってたり――そういや、あいつはどこに行ったんだろう。
辺りを見渡すと、頭の上の棚に、俺の鞄があるのに気がついた。それも、やけに膨らんでいる。
「……………」
ちょんとつついてみると、ボタンの隙間からデロリと触手がはみ出た。
「お前、何やってんの?」
いつもネクロノミコンの意思を示して元気にうねり回っている赤黒い触手は、まるで液体のように鞄から流れ出てくる。
「筋肉痛だぁ……触手がページの中に収まらない……」
ネクロノミコンの声も、触手のように弛緩しきっていた。
「情けないなあ」
「命の恩人に対して失敬な、誰のせいだと思ってる」
「それもそうだ……ありがと」
確かに、こいつがいなければ会長も里奈さまもこの世にはいない。俺は素直にお礼を言って、はみ出た触手に手を伸ばし先をフニフニ揉んでやった。
「えらく殊勝じゃないか。これからもそういう態度で……ああそこ……ああ……あああああ………もうちょい上」
「ところで杏子は女のままらしいけど、どういうことなんだ?」
俺は親指に力を入れて、ぬるぬるの触手を揉みしだく。ネクロノミコンはよほど気持ちいいらしく、聞きたくもない喘ぎ声を隠そうともしない。
「ああそこだ……ああ……んん? ハルカ、君は杏子が男になった方が嬉しいのか。確かに肉体美という点では、あの姿の方が遙かに勝っているな。どこまでも貧しい歩くシベリア平原よりも元ボディービルダーを選ぶのは、美的観点からすれば決して間違いではない」
「そういうことじゃねえよ。だって俺その……会長とキスできなかったんだし」
「そんなことは無いはずだぞハルカ、君には新たな祝福を受け入れた痕跡がある……ああ、もうちょい強めに、そう……会長は攻略成功と言うことだ……もっと、もっと上………」
奇妙なことだが、なんにせよ俺と杏子は助かったということらしい。
隣を見ると、城ヶ崎が大きな目を見開いて、俺の手元を凝視していた。可憐な小鼻を膨らませて、鼻息も荒い。
なるほど。触手にマッサージを施している美少女というのは、健康的な高校生男子にとってはなかなかに目に毒なものであるらしい。
城ヶ崎は俺の視線に気がつくと、慌てたように顔を反らした。明るい髪色のゆるふわパーマがふわりと揺れる。入院中にも関わらず、キューティクルの輝きは変わらない。
「そ、それにしても、いったい何があったんだ? 君みたいな丈夫な奴がそんな怪我をするだなんて……足首の骨折だそうだけど……」
誤魔化すようにそんなことを言いながら、赤くした顔を吊られた俺の足に向けた。さすがのミミコちゃんも、屋上から落下しながらビルに踵落としを食らわせると骨が折れるらしい。当たり前か。
「まあ、話すと長いんだけどさ」
俺は一昨日から昨日にかけての出来事を、城ヶ崎に話した。
会長が里奈さまに車で誘拐されたこと。それを追って、カーチェイスを繰り広げたこと。一緒に捕らえられた俺を、C州知事になった杏子が助けに来て大立ち回りを演じたこと。そして屋上での飛び降り騒ぎ。銃弾をはじいて、ビルの谷間へと決死のダイブを――。
「へー、僕がいない間にそんな大捕り物がねえ。へえーっ。よかったじゃないか、丸く収まって。よかったよかった」
そんなことを言いながら、城ヶ崎はちょっと泣きそうになっている。そうだよな、その間こいつはひとりで病院にいたんだもんな。それに将来の夢は警察官とか言ってたっけ。ほんとはついて行って大活躍したかったに違いない。
「それはそうと、お前に言っとかなきゃならないことがある。お前が階段から落ちた理由なんだけど……」
俺はちょっと口ごもった。でもこれは伝えておかなければいけないことだ。俺が再び口を開きかけると、城ヶ崎はそれを制した。
「知ってるよ、里奈さまだろう」
城ヶ崎は気まずそうに笑った。
「背中を押されたのは覚えているし、あの場には会長と里奈さましかいないはずだからね。君たちがお見舞いに来たときにそのことを話していれば、ここまで事が大きくならずに済んだのかもしれない。すまないと思ってる」
俯きながらそう言った。城ヶ崎は、里奈さまのために黙っていたのだ。
「お前は、里奈さまが会長の“祝福”でおかしくなってたってこと、知ってたのか?」
「まさか! でも里奈さまはいつも優しいお方だから、何か理由があるんだとは思ってたよ。だから、黙ってたんだ。すまなかった」
「……お前はなんにも悪くねえよ」
自分を突き落とした相手を庇ったこいつを、誰が責められるだろう。
「君がそう言ってくれるなら。里奈さまだって被害者みたいなものだし、会長だってそうだ。悪い人なんか、誰もいなかった」
城ヶ崎は目を細めて笑った。伏せ気味の長い睫毛を重ねて。見ているだけで、なんだかくすぐったくなってくる。男のくせに。相変わらずムカつくくらいの美少女だ。俺も人のことは言えないが。
「お邪魔しまーす」
風を通すために開かれている扉から、杏子が入ってきた。城ヶ崎の言ったとおり、ちゃんと女の子に戻っている。
「ハルカ、気がついたのね……ていうか、何してるの」
杏子は俺の手元を見て眉を顰める。俺はネクロノミコンのぬるぬるの触手を、根本からしごくようにマッサージしていた。ネクロノミコンは相変わらず不気味な喘ぎ声を上げている。
「ああ……君は将来……触手専門のマッサージ店を開きたまえ………」
「イヤだよそんな生臭い将来。こいつ、筋肉痛なの」
杏子はため息をつくと、俺から触手を取り上げた。
「いいから、こんなのしまっちゃいなさい。会長と里奈さまが来るんだから」
とろけた触手を鞄に押し込もうと杏子が四苦八苦していると、入り口の方から声がした。
「ごきげんよう……」
会長の深い、ふたり部屋の病室に澄み渡るような声だ。杏子はびっくりして鞄を取り落とす。
「ぐふうっ」
ネクロノミコンが呻く。
「しーっ!」
杏子はネクロノミコンの声を制しながら、鞄をベッドの下に蹴り込んだ。
熱いエネルギーの渦が、里奈さまの手元を飛び出して、こちらに伸びてくるのがわかる。回転する弾の軌跡が、はっきりと見えた。
胸元の一点が熱く疼く。弾丸はそこに吸い寄せられる。俺は死の半直線に向けて、弾丸よりも速く手をかざした。
――バチッ、チュイーン
繋ぎ間違えた電線が、ショートする音に似ていた。弾丸は俺のてのひらの肉を叩き、床を抉って跳ねた。
「お……おおおおお………」
コンクリートの床に、白い着弾痕が残っている。俺は弾丸を叩き落としたのか!? 俺はまじまじと自分の手を見つめた。やわらかい手のひらの真ん中が、ちょっとだけ赤くなっている。
すげえ! ミミコちゃんすげえ! 人間じゃねえ!
ミミコちゃんの原作でも(恐らくは)成し遂げていないであろう離れ業への驚きとともに、世界がいつもの密度を取り戻した。冷や汗をかいた横顔に、夜風が吹き抜ける。
俺が顔を上げると――会長と里奈さま体が大きく空へと傾くのが見えた。
「……………!」
俺は何か考えるより先に、コンクリートの床を蹴った。
「ネクロ――――――ッ!!」
俺は脇に抱えた魔導書を放り投げて、自分もその虚空へと飛び込む。ネクロノミコンが走らせた触手の1本が柵を掴み、もう1本が会長の足首へと絡みつく。
先に落ちた里奈さまは――間に合わない!
俺は屋根の縁に手をかけて、ぐるりと下側に回り込む。逆さまになった両足で屋根を蹴って、ロケットのように夜空に躍り出た。
ビルの谷間を吹き上がる風が、俺の体を翻弄する。目に突き刺さる暴風を瞼を細めてやり過ごしながら、里奈さまに向かって手を伸ばした。
自由落下にバタバタとはためくスカートが、明滅しながら過ぎ去るガラス窓が、死の臨界点を巻き取っていく。
水飴の中を泳ぐようなもどかしい接近の果て、とうとう俺の指先は里奈さまのブレザーに触れた。
俺はブレザーを手前に引き寄せて、里奈さまを抱き抱える。その横にはホテルの壁面、全面のガラス窓がおろし金のように視界を削り取っていく。
俺は覚悟を決めて足を振り上げると、そこへ踵を叩き込んだ。
普通の人間なら、膝の関節が逆方向に折れ曲がった上に、ガラスの断面に足首を切断されるだろう。しかし、ミミコちゃんの肉体は弾丸さえも弾き返す。いけるだろう、いけるんじゃないかな、いけてくれ――!
破砕音がビルの谷間に反響し、強化ガラスの粒状の破片が夜空に煌めいた。俺の踵は窓ガラスを粉砕して、アルミサッシを叩き切り、その下の構造部にめり込んで壁面に亀裂を走らせる。
やっぱり痛い! めちゃくちゃ痛い! 肉を抉られるような鈍痛が、背筋から脳まで駆け上がる。
衝突の反作用に弾かれて、ふたりの体は空へと舞い上がった。ホテルからは離れつつも、落下速度は一気に落ちる。
そこへどうにか間に合ったネクロノミコンの触手が、俺の足首にしゅるりと巻き付いた。俺は里奈さまを強く抱きしめ、ふたりの体重と衝撃力が足首を締め上げる。踵の関節がミシリといやな音を立て、ガラスの破片を星屑のように浴びながら、俺たちの落下は地上10メートルあたりで止まった。下はホテルの空中庭園だ。
そこでふたりで逆さ吊りになったいた。屋上の方を見下ろすと、会長の姿は見えない。ネクロノミコンが屋上に助け上げたようだ。
「……助かった、ねえ里奈さま、俺たち助かった!」
今になって体が震え始める。体を密着させた状態だから、それは里奈さまにも伝わっているだろう。でも里奈さまの体も、俺と同じように震えていた。
「宮子は………宮子は……………?」
里奈さまはくちびるを震わせながら、目を見開いて地上を見上げている。
「大丈夫、今屋上にいるから。誰も傷ついてない」
里奈さまの目尻から、涙が逆さに流れた。俺は里奈さまの頬に頬をくっつける。だらりと垂れていた里奈さまの腕が、おそるおそる俺の背中に回された。俺は、里奈さまの耳に囁いた。
「城ヶ崎だって、わかってくれるよ。許してくれる。あいつはそういう不思議な力があることを知ってるから。元通りにならないことなんか何にもない。もう大丈夫だから」
里奈さまが、声をあげて泣き出した。作り物の愛情を、いっぱいにため込んで爆発させてしまった里奈さま。俺なんかが想像できないほど、辛かったに違いない。
「もう、大丈夫だから」
「……ところがどっこい、そうでもない!」
ビルの谷間に響きわたる悪魔的な声。俺はその主、ネクロノミコンに向かって叫んだ。
「いいから、早く引っぱり上げてくれよ!」
「無理なんだよ……!」
「へ?」
いつもは嫌みたっぷりの(自分の危機的状況を除く)ネクロノミコンの声に、余裕が感じられない。
非常に悪い予感がする。
「ふたり分は……無理………!」
「ウソだろおい!?」
気が付けば、俺の足首に巻き付いた触手がプルプルと震えている。ずるり、ずるりと少しずつ吸盤を滑らせながら――。
「待て待て待て! 気合い入れろよ! 根性見せろ!」
「そういう精神論が私は一番嫌いだ! 根性なんて9割が体力だろう!」
「だったら残りの1割で踏ん張れよ!」
「それが精神論だと言っているんだ! 私はインテリなんだよ! 私を鼓舞しようと思うなら、論理的整合性を重視したまえ!」
「わかったわかった! じゃあゆっくり下ろせ、な?」
「それも……難しい……今のやり取りで体力を使い果たした………」
「こんの役立たず!」
俺のそのひとことが合図だったかのように、俺の足首が触手からぬるりとすっぽ抜けた。嘘だろ、ここまで来て――俺たちは、再び虚空に投げ出された。
俺が最後に覚えているのは、大きな満月。
鼻の奥を突き刺すような、背中を叩く衝撃と、空へ跳ね上がる水柱――。
―――――。
―――。
――。
目を開けると、知らない天井があった。
開けられた窓からは、明るい日差しが差し込んでいる。
涼しい風に、白いシーツ。俺は清潔なベッドに寝かされていた。
足にはギプスがしてあって、器具に吊られている。
――朝? 昼?
俺は髪をかきあげながら、最後の記憶を辿った。
会長と里奈さまをなんとか助けて、けれども軟弱者のネクロノミコンがおれと里奈さまの体重を支えきれずに、プールに落ちてしまったのだ。おそらくそこで気を失って――。
待てよ。外が明るいってことは――え?
「えっ!?」
俺は思わず飛び起きた。足を吊り上げる支柱が音を立てた。目に入った掛け時計は4時を示している。
「嘘……そんな………」
間に合わなかった。そんな。俺は一生、この体のままなのか? いや、それよりも杏子だ。杏子もこれから一生男のままで、知事の体で生きなければならない。
俺のせいだ、デートの時に素直にキスしなかった俺が悪いんだ。取れるだけの責任は取らなくてはいけない。でも俺にできることなんて。
そうだ、杏子と結婚しよう。イギリスかどっか、同性婚の認められた国で。いや、俺も女になってるんだった。それなら日本で大丈夫だ。俺は専業主婦なんてぜいたくは言わないで、ちゃんと働くつもりだ。
子供だってちゃんと作る。男になった杏子は子供が産めないんだから、俺がその任を負わなければならない。子供を産むためには、それを前提とした行為が必要なわけで、つまり俺はそびえ立つ知事の抹殺者を甘んじて受け入れなければならないのということか。
いいさ、杏子さえ良ければ俺は受け入れる。責任を取るというのはそういうことだ。でもどうしよう、なんかめっちゃデカそう……。
「どうしたんだ、起きるなり頭を抱えて」
隣を見ると、城ヶ崎がこちらを不思議そうに見ていた。まだ足を吊られている。こいつのきょとんとした大きな瞳を見ていると、涙が出そうになってきた。
「城ヶ崎……俺、間に合わなかった……」
こいつだって協力してくれて、怪我までしたというのに。
「でも杏子さん、さっきまでここにいたぞ。だからてっきり、うまく行ったんじゃないかと思ってたんだけれど……」
俺は思わず、城ヶ崎の手を握った。
「本当か!? 身長190cmくらいの筋肉ムキムキの大男じゃなかったか!?」
「どうやって見間違えるというんだ!」
「じゃあ、股間に何かぶら下がってなかったか!?」
「僕がそんなこと知るはずないだろう!」
「ちゃんと確認しろよ基本だろうが!」
「滅茶苦茶言うんじゃないよ、杏子さんはちゃんと、いつも通り元気な女の子だったよ」
どういうことだろう。ネクロノミコンの計算違いとか? ひょっとするとあと1日残ってたり――そういや、あいつはどこに行ったんだろう。
辺りを見渡すと、頭の上の棚に、俺の鞄があるのに気がついた。それも、やけに膨らんでいる。
「……………」
ちょんとつついてみると、ボタンの隙間からデロリと触手がはみ出た。
「お前、何やってんの?」
いつもネクロノミコンの意思を示して元気にうねり回っている赤黒い触手は、まるで液体のように鞄から流れ出てくる。
「筋肉痛だぁ……触手がページの中に収まらない……」
ネクロノミコンの声も、触手のように弛緩しきっていた。
「情けないなあ」
「命の恩人に対して失敬な、誰のせいだと思ってる」
「それもそうだ……ありがと」
確かに、こいつがいなければ会長も里奈さまもこの世にはいない。俺は素直にお礼を言って、はみ出た触手に手を伸ばし先をフニフニ揉んでやった。
「えらく殊勝じゃないか。これからもそういう態度で……ああそこ……ああ……あああああ………もうちょい上」
「ところで杏子は女のままらしいけど、どういうことなんだ?」
俺は親指に力を入れて、ぬるぬるの触手を揉みしだく。ネクロノミコンはよほど気持ちいいらしく、聞きたくもない喘ぎ声を隠そうともしない。
「ああそこだ……ああ……んん? ハルカ、君は杏子が男になった方が嬉しいのか。確かに肉体美という点では、あの姿の方が遙かに勝っているな。どこまでも貧しい歩くシベリア平原よりも元ボディービルダーを選ぶのは、美的観点からすれば決して間違いではない」
「そういうことじゃねえよ。だって俺その……会長とキスできなかったんだし」
「そんなことは無いはずだぞハルカ、君には新たな祝福を受け入れた痕跡がある……ああ、もうちょい強めに、そう……会長は攻略成功と言うことだ……もっと、もっと上………」
奇妙なことだが、なんにせよ俺と杏子は助かったということらしい。
隣を見ると、城ヶ崎が大きな目を見開いて、俺の手元を凝視していた。可憐な小鼻を膨らませて、鼻息も荒い。
なるほど。触手にマッサージを施している美少女というのは、健康的な高校生男子にとってはなかなかに目に毒なものであるらしい。
城ヶ崎は俺の視線に気がつくと、慌てたように顔を反らした。明るい髪色のゆるふわパーマがふわりと揺れる。入院中にも関わらず、キューティクルの輝きは変わらない。
「そ、それにしても、いったい何があったんだ? 君みたいな丈夫な奴がそんな怪我をするだなんて……足首の骨折だそうだけど……」
誤魔化すようにそんなことを言いながら、赤くした顔を吊られた俺の足に向けた。さすがのミミコちゃんも、屋上から落下しながらビルに踵落としを食らわせると骨が折れるらしい。当たり前か。
「まあ、話すと長いんだけどさ」
俺は一昨日から昨日にかけての出来事を、城ヶ崎に話した。
会長が里奈さまに車で誘拐されたこと。それを追って、カーチェイスを繰り広げたこと。一緒に捕らえられた俺を、C州知事になった杏子が助けに来て大立ち回りを演じたこと。そして屋上での飛び降り騒ぎ。銃弾をはじいて、ビルの谷間へと決死のダイブを――。
「へー、僕がいない間にそんな大捕り物がねえ。へえーっ。よかったじゃないか、丸く収まって。よかったよかった」
そんなことを言いながら、城ヶ崎はちょっと泣きそうになっている。そうだよな、その間こいつはひとりで病院にいたんだもんな。それに将来の夢は警察官とか言ってたっけ。ほんとはついて行って大活躍したかったに違いない。
「それはそうと、お前に言っとかなきゃならないことがある。お前が階段から落ちた理由なんだけど……」
俺はちょっと口ごもった。でもこれは伝えておかなければいけないことだ。俺が再び口を開きかけると、城ヶ崎はそれを制した。
「知ってるよ、里奈さまだろう」
城ヶ崎は気まずそうに笑った。
「背中を押されたのは覚えているし、あの場には会長と里奈さましかいないはずだからね。君たちがお見舞いに来たときにそのことを話していれば、ここまで事が大きくならずに済んだのかもしれない。すまないと思ってる」
俯きながらそう言った。城ヶ崎は、里奈さまのために黙っていたのだ。
「お前は、里奈さまが会長の“祝福”でおかしくなってたってこと、知ってたのか?」
「まさか! でも里奈さまはいつも優しいお方だから、何か理由があるんだとは思ってたよ。だから、黙ってたんだ。すまなかった」
「……お前はなんにも悪くねえよ」
自分を突き落とした相手を庇ったこいつを、誰が責められるだろう。
「君がそう言ってくれるなら。里奈さまだって被害者みたいなものだし、会長だってそうだ。悪い人なんか、誰もいなかった」
城ヶ崎は目を細めて笑った。伏せ気味の長い睫毛を重ねて。見ているだけで、なんだかくすぐったくなってくる。男のくせに。相変わらずムカつくくらいの美少女だ。俺も人のことは言えないが。
「お邪魔しまーす」
風を通すために開かれている扉から、杏子が入ってきた。城ヶ崎の言ったとおり、ちゃんと女の子に戻っている。
「ハルカ、気がついたのね……ていうか、何してるの」
杏子は俺の手元を見て眉を顰める。俺はネクロノミコンのぬるぬるの触手を、根本からしごくようにマッサージしていた。ネクロノミコンは相変わらず不気味な喘ぎ声を上げている。
「ああ……君は将来……触手専門のマッサージ店を開きたまえ………」
「イヤだよそんな生臭い将来。こいつ、筋肉痛なの」
杏子はため息をつくと、俺から触手を取り上げた。
「いいから、こんなのしまっちゃいなさい。会長と里奈さまが来るんだから」
とろけた触手を鞄に押し込もうと杏子が四苦八苦していると、入り口の方から声がした。
「ごきげんよう……」
会長の深い、ふたり部屋の病室に澄み渡るような声だ。杏子はびっくりして鞄を取り落とす。
「ぐふうっ」
ネクロノミコンが呻く。
「しーっ!」
杏子はネクロノミコンの声を制しながら、鞄をベッドの下に蹴り込んだ。
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