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ある男の妄想
しおりを挟む男の妄想
男は曇天の空を見上げながら大きくため息をついた。
「どうやら夕方から降りそうな気配だな・・・今日の帰りは傘がいるかもしれない」
そんな呟きをもらすと、淡々とした足取りでいつものバス停へ向かった。
男の名前は清水安雄。歳は今年で三十五になるがまだ独身だった。
大学を出て都内のIT会社に就職し、これまで十三年も経過していたのに、とし頃からどうにも女性に縁がなく、この歳まで独身を通しつづけていた。
イケメンなんて言葉はまるで別世界のもので、身長は百六十五センチほどで体重は八十キロという体格を自慢げに晒し、一生涯女性とは無縁だと自己嫌悪しつつも、唯一の楽しみは人並みにあったのである。
それは町田恵子という部下に毎日出社して会えることであった。
恵子は贔屓目に見ても並以上の器量だと思っていた。さらに上司である自分に対し好意以上の感情を抱いているに違いない。そう勝手に思い込んでいたのだ。
「よし、今度いつか機会を見て思い切ってデートに誘ってみよう。もうあれこれ悩む必要はない。今年中にはなんとして彼女と結婚したいし、その為にはまず勇気を出してぶつかってみることだからな」
安雄はデートへ誘う口実を日々真剣に考え、いつ口火を切ろうかと悩み始めた。とはいえ、それを言葉に変えて相手に打ち明けるには大変な勇気がいる。ましてや、結婚前提での告白なんて高層ビルからバンジージャンプをするくらいの蛮勇だと思った。
それでも一旦決めた決意は揺るがないほど、頑固な性格だと自負し、将来は庭付き一戸建ての家に住み、青々とした芝生の上でパターの練習をする、さらに愛する妻と三人の子供に囲まれ、週末にはバーベキューを楽しみ、冬には炬燵の中でトランプをして遊ぶ。
見ようによっては小市民的だが、自分を中心とした家族を持つ喜びへの夢はやむことはなかった。
そのイメージを見終えた時、バスはいつもの停留所に留まったが、気を取り直した安雄は表通りから一つ裏にり、太陽ビルディング」と書かれた建物へと向かった。
「お早う!」
大きな声でドアを開け、課の中に入るとまず一番に恵子の姿を探した。
「係長お早うございます、今日も相変わらず元気がいいですね」
「おう、川村君か。君だって出社が早いし、何かと頑張っているじゃないか。ああそうそう、どうだったこの間のゴルフ、また石井課長と一緒だったんだろ?勝ったのか?」
「ええ、課長とは一緒のパーティで回りましたが、生憎途中から突然の雷と雨でさんざんでしたよ。かなりいい線いってたのに、結局はハーフで終わることになってしまったんです。もっとやりたかったんですが、なんとも残念でした」
「そうか、雨だけならまだしも雷じゃさすがに怖いからな。で、結果はどうだった、やはり君の勝ちだったのか?」
「はい、ハーフだけのスコアーでも十分な余裕でしたから。まあ、結果的にはニアピンとドラコンを含めて三千円程頂きましたよ。あははは」
「そりゃいい、昼飯代出してもお釣りがくるな」
「課長はもうハーフやって負けを取り返そうと意気込んだのですが、相手が雷ではどうしようもないですからね。渋々クラブハウスで清算しましたよ」
「なるほどな、石井課長の悔しそうな顔が目に浮かぶようだ。ははは」
そんな話を交わしているうちに始業チャイムが社内に流れ、安雄は鞄から数枚の書類を取り出して貿易収支予定書をデスクの上に広げた。それを午前中に総務課に提出すべく最後の確認作業に取り掛かったが、パソコンでグラフと表を作成した内容を確認すると、右肩上がりの好調な業績に納得し、満面の笑みで何度も頷いた。
「今月もまあまあの数字だ。国内の消費が落ち込んでいると世間では騒いでいるが、新しいOSや機種が続々とメーカーから出たからかも知れんな。パソコンが若者を中心に新たなブームを起こしたみたいだし、我が社の売上グラフにはっきりと出ている。まあ、その恩恵で輸入も好調になっているから、この分なら夏のボーナスも期待出来そうだぞ」
作成したデータファイルを検討しながら安雄は相好を崩したその時だった、「係長お早うございます、早速ですがこの書類に印鑑をお願いします」と、突然聞き覚えのある声が頭上から届いて来た。
「ああ君か思えば、町田君か。印鑑ね・・・。ちょっと待って、いま机から出すから」
目を合わせた瞬間、バスの中で考えていた結婚願望が稲妻のように脳裏を過ぎり、いささか動揺しながらも安雄は平静を装い、机の引き出しを手前に引いた。
「係長さん、昨日のお休みはどうでした。一日家で過ごしたのですか?それともどこかへお出かけでした?」
「えっ!ああ昨日ねぇ。まあ、一日中部屋でゴロゴロしていたよ。なにしろ僕はまだ独身だから、相手がいなくてはこれといってする事もないし」
「いやだぁ係長さんたら、朝から何を言うかと思えば、相手がいないとする事もないだなんて、知らない人が聞いたら変な意味に取りますよ。ふふふ」
「いや、別に変な意味で言ったんじゃないんだよ。困るな、誤解しちゃ。そんなこと言われると僕の方が照れてしまうじゃないか」
「冗談です係長さん、あっ、顔が赤くなってますよ。ふふ」
「はっ?ああ冗談ね。ああ、そうか・・・」
恵子はケラケラと笑いながら答えたが、(相手がいないとする事もない、それってもしかして彼女は男と女の房事でも想像したのかな?年頃だから仕方ないか。しかし、冗談だって人をからかうなんて結構ちゃめっ気があるんだな。誤解を承知の上で俺をからかったのかも・・・)
良い方に解釈することで自分を納得させたが、書類を持って戻る後ろ姿をぼんやり見つめると、まだ見ぬ恵子の裸体に重なる自分の姿をふと想像し、安雄は思わずゴクッと生唾を呑んで乾いた唇を舌で濡らした。
「よし!もうあれこれ考え悩む事はない。金曜なら翌日は休みだし、思い切って彼女にデートの申し込みをしてみよう。応じてくれれば、それだけで未来に大きな希望が湧いてくるからな」
これまでも知人や上司の世話で数回見合いは経験していた。しかしどの相手からもこの話はなかった事にしてほしいと断られ、一度として本格的なデートへは至らなかった。
背が低くて肥満という肉体コンプレックスは常に心のどこかに抱いていたが、やはり結婚願望だけは簡単には捨て難く、自分の思い描く家庭を持つことだけが悲願だった。
田舎には年老いた両親が安雄の結婚を待ち望んでいる。たまに電話をよこした時などやんわりとその話を口にしたが、最近は完全に諦めたのか、その件に一切触れないまま話を終える事が多くなった。
結婚すれば両親を東京に呼び寄せ、自分が死ぬまで面倒見る覚悟なのだ。だからその為に就職してからは酒も絶ち、好きなタバコもきっぱり止めた。ましてや賭事なんて見向きもせずにツコツと貯蓄に勤しみ、今では銀行預金が八百万近くあるのが自慢だった。
「なんとか今年中にはメドを立て、こんな俺の様な男でも立派に結婚出来るという、自信に繋がる証を世間に示したいが・・・」
その願望成就を日々の励みとし、密かに告白のチャンスを焦らず待つ事だと、安雄は自分に言い聞かせて天井を見つめため息を漏らした。
誘い
数日は淡々と何事もなく過ぎ去った。
金曜日の朝を迎えた安雄は、今日こそ恵子に告白するぞと決意も新たにマンションを出たが、やはり張り詰めた緊張心は無意識に動悸を速め、いつものペースでバス停に向かう事が出来なかった。
「何としてでも強い気持ちでぶつかるしかないが、やっぱりいざとなると気後れしてしまうもんだな。まあ、この数日間あらためてじっくり彼女を観察したが、どうも特定の男はいないように思える。ならば、チャンスを活かせば意外に何とかなるかもしれない。まずは俺自身を一人の男性として町田君に認めてもらう。それが大事な一歩になるだろう」
バスの中であれこれ思考を巡らせては時折小さくため息をつき、気を紛らわすように外の景色に視線を這わせた。
もしこの好機を逸したら、この先二度と女性と知り合って結婚へ繋がる希望はてないだろう。そんな悲壮感のまま自分の人生を冷静に見つめ直した時、安雄は恵子に誠意と情熱でぶつかるのが最善のアプローチなんだと心を叱咤した。
容姿に自信を持つ若者も周りには多くいた。彼らは安雄のように風采が上がらず、女に無縁の中年男を陰で蔑視しては男やもめにウジが湧くと陰口を楽しんだ。だが、そんな悪口雑言は耳を素通りさせたし、課内に足を踏み入れると、「おはよう、今日も元気で仕事を頑張ろうな!」と、数人の部下を見ながら声を掛けていつもの虚勢を張った。
「どうも、お早うございます係長。なんだか今日はやけに元気みたいですね。何か良い事でもあったんですか?」
部下の永井武雄が訝しげな表情でそう言った。
「いや、特にこれと云って変わった事はないさ。皆と同じで毎日が単調なる時間の繰り返しだからな。まあ、思うに人生なんてのは、そもそもが味気ないものだろうから」
「そうですか。あっそうそう町田君ですけど、さっき体調が悪いので今日は休ませてほしいと電話がありましたので」
「えっ!町田君が休み?」
それを聞いた安雄は落胆の表情で自分の椅子に腰を落とした。
「あれ、係長どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ。ちょっとバスの中で立ちっ放しだったから、少し疲れたのかもしれないんだ」
「そうですか、それじゃあ無理しないで今日は休みにしたらどうですか?仕事も一段落しましたし、当分荷も動かないようですから」
「いや、大丈夫だよ。少し休めば治るさ」
永井は一礼して自分の席に戻ったが、安雄は気落ちしたまま視点の定まらない目を宙に向け続けた。
数日前から誘うべき言葉を必死に暗記反復して今日に備えたのに、それが予期せぬ出来事で水泡に帰すとは・・・。思っただけでなんとも口惜しかった。
「彼女は休みか。しかし、体調が悪いって一体どうしたのかな?昨日見た限りではそんな風には見えなかったが、家に戻ってから何かあったか、それとも風邪でもひいたか。いずれにしても今日はもう諦めるしかないな。月曜には出て来るだろうから、その様子を見て仕切り直しだ。まず彼女の元気な顔を見てからがスタートになる。よし、ここはひとつ気持ちを切り替えてじっくり待つ事だ」
これといって差し迫った仕事はなかったが、それでも過去半年間の輸入統計のデータを資料化した。次に売上が見込める取引先の業績調査案の作成作業に入り、安雄は目の前のパソコンを立ち上げるとマウスに手を掛けた。
*
週末になると一日中部屋でぼんやり過ごし、日曜には朝から新宿から渋谷と回って、何となく数時間を費した。そして月曜の朝にはいつもの時間に会社で席に座ったが、それを待っていたかのように課長の石井耕三が近寄ると安雄に話し掛けてきた。
「清水さん、今日はまっすぐこのまま帰るのかね?」
「はい、そのつもりですが・・・」
「そうか、だがたまには一杯付き合わんか。むろん僕の奢りでだが、どうかね?」
たまどころか、入社して十数年経つ中で一度としてこんな誘いはなかった。それだけに聞いた安雄は面食らった。
「課長、一体どうしたのですか、わたしみたいな下戸を誘って」
「いやいや、実はぜひ君に聞いてもらいたい話があってね、たまには僕の悩み相談に乗ってもらおうかと、まあ勝手にそう思った上での事なんだよ。それにまるっきり下戸でもないだろう君は、少し位はいけると聞いたけど」
「でも、悩み事なんて課長にあるのですか?僕にはそんな風に見えませんがね」
「きみぃ、朝からそんな皮肉は言わんでくれよ。僕にだって悩みの一つや二つはあるよ、これでも一応は人間だからね」
「いや、決してそんな意味で言ったんじゃないんです、気に障ったら謝ります」
「まあ、そんな事はどうでもいいが、とにかく都合をつけてほしいんだな、ほんの一時間程度でいいし、ピチピチした若い子がいる場所に案内するからさ」
「ええいいですよ、喜んでお付き合いします」
(どうせいつもの時間に帰っても侘びしい独り者だ、本来なら今日の夕方は町田君とお茶していたはずだが、彼女はなぜか月曜になっても出社しない。それなら課長に付き合ってもいいだろう。まあ、どんな相談かは知らないが退屈凌ぎになるかもしれん・・・)
安雄は石井を見ながらそんな事を思い、気持ち良く同行を承諾した。
二人は五時過ぎに会社を出てタクシーに乗り、十分程走ってある駅裏で降りると、石井は【スナックルパン】という看板の前で足を止めた。
「ここだよ、さあ入ってくれ」
店内はそれ程広くなかったが、アンティークな装飾品が多く飾られ、オーナーの趣味の良さを窺わせた。
右側には数人座れるカウンターがあり、反対側の壁際には四人掛けテーブルが三卓置かれている。隅のテーブルではスーツ姿の男二人が若い女性と談笑し、カウンターの中には歳の頃三十代半ばに見える店のママらしき女性が笑顔で客と談笑していた。
「あら、石井課長さん、しばらくですね」
「いらっしゃいませ。石井さん、わたしはアケミですけど覚えてます?」
テーブルから立ち上がった小柄な女が石井の横に立ち、作り笑いをしてそう言った。
「石井さん、今までどうしていたの?最近ちっとも顔を見せないから、何かあったのかしらって心配してましたわ」
「ママ、どうもご無沙汰だったね。いや、仕事が結構忙しくて暇が取れなかったものだから、つい足が遠のいてしまって」
「それは結構なことですわ。で、今日は新しい方とご一緒なのね。ボックスにします、それともカウンターがいいかしら」
「そうだな、今日はちょっと込み入った話があるのでテーブルにするよ。話が終わったらアケミちゃんかマリちゃんに来てもらいたいね。あっ、でも本当はママの方がいいんだけど、あははは」
「まあ、相変わらずお上手ですこと。それじゃアケミちゃん!」
ママはそう言って、アケミというスレンダーな若い女に目で合図した。
石井はテーブルに座ると、横に並ぶアケミがグラスに氷を入れるのを見つめていたが、やがてウィスキーが注がれると安雄を見て口を開いた。
「清水君、話というのは君の部下の町田君の事なんだよ」
「町田君?彼女がどうかしましたか?」
「まあ、これから追々順序立てて話すがね・・・」
意外な話を切り出された安雄は、驚いて石井を見つめ返した。
「君も知っての通り、町田君は会社を休んでいる。それも先週の金曜から今日までだ。土日は会社が休みだから別としても、どうして月曜になっても出社せず休んでいるか、その理由が分かるかね?」
「そうですね、確かに今日は月曜ですから、休みを入れても四日になります。ですが、休みの理由までは僕が知るはずないですよ、ただの部下の一人ですからね」
「ただの部下だって簡単に言うけどね、その部下の最低限の動向くらいは、プライバシーに触れない程度で掴んでおく。それも直属上司として必要な事じゃないのかね?」
「まあ、そう言われれば返す言葉もありません。でも、先日の永井君によれば確か体調が悪いという話でした。女性ですから生理的な面での体調不良とかもあるでしょうし」
「彼女、そんな事を理由にしたのかね。それは完全なる嘘だよ」
「嘘?じゃあ、課長は本当の理由を知っているという訳ですか?」
「ああ、だからその件で君に相談しようと誘ったんだ。実は、町田君は会社を辞めたい意向を示しているんだよ。意思はかなり固いようだが、理由がはっきりしないから実際困っている。僕に直接金曜日の朝電話をよこしてそう言ったから、その訳はと聞いても、ただ一身上の都合ですと言い張るだけで、取り付く島もない有様だからね」
「そうですか、彼女が会社を辞めたいと・・・」
「うん、その理由と今後の対策が、君と話す今夜の主題という事になるんだよ」
安雄はそれを聞いて激しいショックを受けた。これから結婚前提の告白しようという大事な時期に、自分の前から黙って去ろうとする恵子の不可解なる行動。一体何が彼女にそうさせたかなど知る由もなかったが、高ぶっていた愛すべき人への慕情が一気に消滅して絶望へと変わる。そんな失望感に襲われて思わず唇を噛んだ。
「なにしろ、君も承知しているだろうが、わが社はいま経営状態も上向きだ。だから経理担当の彼女に辞められると本当に困るんだよ。町田君は数字に強いし、会社の経理と庶務に精通しているからね。まあ、あれだけ仕事が出来る子はそうそういないだろう。せめて代わりが見つかるまで辞めるのを待ってくれないかって、僕は切々と彼女に頼んだが、どうしても今月いっぱいでと言い張って首を縦に振らないんだ。ああ見えて、結構芯が強いようだしね。僕としても打つ手がなくて困っている」
「でも課長、彼女にはそれなりの訳があるから決断したんでしょう。あれこれ詮索するのは越権行為だし、個人のプライバシーに関する事ですから」
「まあ、確かに彼女のプライバシーは大いに尊重するけど、君までそんな事を言っちゃ困るよ。だって、頼みと云うのは君に町田君を説得して貰いたいんだから」
「僕が彼女を説得ですって?」
安雄は思いも掛けない石井の言葉に面食らった。
「そうだよ、聞けば君は日頃から彼女とは親しいみたいだし、君の言う事ならせめて退社を三月位先に伸ばしてくれるのではないかと思ってね」
「しかし、僕が言ったところで・・・」
「いや大丈夫だよ、とにかく言うだけでも言ってみてくれないか。今は五月だろ、だから夏が終わったらという事でいいんだ。それまでに色々手を尽くして代わりを捜すから」
人の説得なんてこれまで一度だってした事もなく、出来る自信さえなかった。しかし課長のたっての頼みではむげに断る事も出来ず、さてどうしたものかと安雄は困惑して表情を曇らせた。
(だがまてよ、この話を理由にすれば堂々と彼女を誘えるな。話し合って上手く辞める意志を翻す事が出来れば俺の株も上がるはずだ。数ヶ月ほど退社を待ってもらえばいいんだからな。さらに町田君の返事次第で俺があらためて思いを告白すれば、ひょっとして彼女の気持ちは動いて、さらにいい結果を生むかもしれない・・・)
そこまで瞬時に思考を働かせた安雄は、自信に満ちた目で石井を見つめた。
「分かりました、結果はどう出るか自信ないですけど、課長直々の頼みとあっては断れません。僕も男です、やってみましょう」
「そうか、やってくれるかね。いやぁ恩に着るよ、あれだけ優秀な経理と実務の人材はなかなか得難いし、貴重な社員だと上からのお達しでね、ことのほか上層部は彼女がお気に入りらしいんだ。いや本当に助かる。残留の成功を祈りたいよ」
「確かに、彼女の経理や総務的な面での事務能力はたいしたものですからね、それは僕も自分の部下として誇りに思ってます。決算がコンピューターでの処理に変わっても、彼女は難なくマスターしましたし、生半可な税理士以上の腕と知識があるから安心して任せられます」
「そうだよ、まさに君の言う通りだ。だからこそ会社も手放したくないんだろう。でも快く君が引き受けてくれて本当に良かった、さあこれからは可愛い子ちゃんでもここに呼んで楽しく飲もうじゃないか。おーいママさん、話は終わったからアケミちゃんかマリちゃんでもよこしてよ!」
安雄の快諾を聞き、一気に憂鬱な気分が吹き飛んだのか、石井は嬉々とした表情でカウンターにいるママにそう叫んだ。
数時間後、課長と別れてマンションの部屋に入った時は午前零時を回っていた。しかしいつになく気持ち良く酔えた安雄は、普段は無縁の若い女に囲まれた喜びと、恵子を誘う口実が思いがけずに向こうから転がり込んで来た嬉しさもあり、鼻歌交じりでスーツを脱ぎパジャマに着替えた。
会社からの要請なら堂々と彼女に電話が出来る。その結果、誰はばかる事なく外で会う事が可能なのだ。そんな願ってもないチャンスを石井の前で認識した瞬間、次第に飲めない酒のペースは上がっていった。そしてほろ酔い気分で部屋に戻ると、心地良き疲労感でベッドの上に転がり、眠気を感じないまま休んでいる恵子の事をあれこれ考え始めた。
「彼女、会社を辞めるのか・・・。その理由って何だろう?結婚かそれとも別な訳があるのか?まあ、いずれにしても今度の日曜辺りに電話してみるか。いや、それとも明日の方がいいかもしれん。こういう事は早いに越した事はないからな」
結婚が理由の退職なら安雄は自分の出番はないと思い、聞き出した結果だけを正直に石井課長に話すつもりでいた。だが、よく考えるとそれが事実ならば寿退社になるはず。ならばわざわざ同僚や上司に隠す事なく、かえって堂々と公言する方が気持ちよく退社出来るのが道理だろう。それをしないという事は、やはり何か別の理由があると考えた方がいいのかもしれん・・・。
恵子の愛くるしい笑顔を思い浮かべながら、あれこれ自分なりに思考を働かせたが、やはりこれだと言う確信は得られなかった。
「ここでいくら俺がしゃかりきになって想像したって、何一つ分かるはずもない事だ。それより思い立ったら吉日と云うから、明日の午前中に電話で会いたいと伝えた方がいいだろうな。よし、そうするか」
気持ちを切り替えた安雄はベッドから起き上がり、汗ばんだ身体をすっきりさせようとバスルームへ向かった。
火曜日の朝を迎えた。
いつもより二時間遅く起き出した安雄は、まずトイレと洗面を済ませてからキッチンの椅子に座った。
「さてと、町田君への電話だがはたして家にいるかどうかが問題だ。おそらく今日は祝日だからいるとは思うが、とにかく十時過ぎまで待ってみよう」
数分前に出来上がったコーヒーをブラックのまま飲み干し、十時を回ったのを知るとおもむろに携帯を開いて恵子の番号を押した。
「はい、町田ですが」
「ああ町田君か、僕の声が分かるかね?」
「えっ!あれ、もしかして係長さんですか?」
「そうだよ、やっぱりすぐ分かったか。あははは」
安雄は照れ隠しのつもりで笑った。
「あらためて、おはよう!」
「あっ、おはようございます」
「もう起きていたんだね。今日は祝日だし、まだ寝ているかなと思っていたんだよ」
「いいえ、これでも結構は早起きなんです。でも、どうしたんですか?わたしの所に電話なんて初めてですし、正直すごく驚いてます」
「そうだよな、確かにそう言われればそうだ。いつも会社で話をしているし、これまで改めて電話する必要なんてなかったからね。もしかして迷惑だったかな?」
「いえ、そんな事はないのですけど。まさか係長から掛かってくるなんて思いもしなかったものですから、驚いて正直慌てました」
答える恵子の口調に嘘はないと感じ、安雄は幾分ほっとした。
「実は君が会社をしばらく休んでいるし、どうしたかと心配になったんだよ。それと、もし良かったら少し個人的に会って話したい事もあったんで、迷惑とは思ったが蛮勇をふるって掛けたんだ」
「会社を休んだ事ですか?それは体調が悪くて・・・。あっ、少し風邪気味なんです。いいえ違います。え~と、風邪気味というより本当は生理的な事が理由です。すいません、あれこれ言い訳して」
「生理的な事?まあ、男の僕には良く分からないが、とにかく身体の事が理由で休みなら仕方ないことだよ。でもどうなの、休んでいて体調はいいのかい?」
「ええ、昨日よりは多少改善してきたみたいですが・・・」
それを聞いた上で安雄は外で会いたいと誘い、承諾を得ると時間と場所を伝えて電話を切った。
*
約束は今日の午後一時。場所は電話をする前から東京プリンセスホテルのロビーと決めていた。
安雄のマンションは、港区の日比谷通りから一つ中に入った閑静な場所にあったが、反対に恵子は江東区にアパートがあることで、芝公園までは電車の利用を強いられた。
ホテルまで多少時間が掛かるので気が引けたが、下手な喫茶店よりホテルの方が洒落ており、ゆっくり会話をするには落ち着くだろうとの思いから納得してもらった。
「しかし、生理的な事ってなんだろう?男の俺には分かるはずもないが、まさか未婚の母って言う訳でもないだろう。あの子に限ってそんな不祥事は考えられないが、人は見かけだけで判断出来ないというのも事実だ。いやいや、町田君はそういうタイプじゃないと信じたい。それに彼女のプライパシーに立ち入るなんてまだ早過ぎるからな」
携帯をテーブルの上にした安雄は、おもむろに新聞を広げて一面から読み始めた。しかしその数秒後には何気なく時計を見つめ、約束まで一時間近く余裕がある事から、久しぶりに田舎の母の声でも聞こうかと再び携帯に手を伸ばした。
「俺の結婚を親父もお袋も随分心配していたが、なぜか三十を過ぎた頃からその話は口に出さなくなった。やっぱり諦めたのだろうな・・・」
結婚ばかりは幾ら自分が切望しても相手がある事なのだ。その厳しい現実に男として多少の焦りは感じていたが、持ち前の楽天的な性格も幸いしてか、それほど深刻に考えなかったのも確かだった。
(男なんて婚期は一生あるし、俺はまだ三十半ばだ。そんなに焦る事ないだろう。これからだって縁があればどうにかなるし、希望は捨てない事だ・・・)
番号を押しながら自分にそう言い聞かせた。
確かに歳から云えば、小学生の高学年か中学生位の子供がいても不なんら思議ではなかった。しかしそれだって単なる一般的な見方に過ぎないはずだと、安雄は意外に醒めた目でこれまでの現実を見て来た。
元旦には同級生から家族で撮った写真入り年賀状が多く届いたりもするが、その他大勢の中には自分と同じように独身を貫き、人生を謳歌していると嘯く輩がいるのも紛れなき事実として認め、それらは同類項だと親しみを感じていた。
結婚なんて所詮は人生の墓場さ・・・と、そんな強がりを言って見栄を張る奴もいるだろう。鎖に繋がれた飼い犬のような生活を嫌い、遊ぶ事に生き甲斐を見出すのも一つの生き方なんだ。だからこそ一生なんて自分流の考えで生き抜けばいいに決まってる。
安雄はあくまで自分流のロジックを押し通して生き抜いてきたとの自負もあった。
(だが、今の俺はこれまでとはちょっと違うんだ。このチャンスだけは何としても確実に活かし、これまでのネガティブな生き方を大転換する決意に心が激しく躍動している。これから過ごす人生の時間をもっとよりポジティブな気持ちで進み、絶対両親に孫を抱かせると決めたんだからな。そうなった一番の理由は、それを可能にしてくれる理想の相手にやっと出会ったからだろう)
恵子と過ごす幸せな時間の流れをイメージし、子供達との楽しい朝の食事風景を瞼の裏に描いては、目を細めて清水家としての家族の在り方を懸命に探り続けた。
「よし、とにかく今は心を落ち着けることが肝要だ。先の事はまったく未定だが、この喜びを両親にもちょっとばかり伝えたい気持ちになった。詳しい事はまだ言えるはずもないが、声の便りだけてもしてみるか」
愛すべき女性との結婚願望を最大の心の支えとし、安雄は久しぶりに両親に元気な声を聞かせようと番号を押した。
「もしもし、清水ですが・・・」
電話に出たのは母の松子だった。
「ああ、おふくろか。俺だよ、安雄だよ」
「あれぇ安雄かい!しばらくだんねぇ、元気にしてるんか?風邪など引いてねぇけえ?食事もちゃんと摂っているんか?」
母はいつもの訛りで立て続けにそんな事を口にした。
「ああ、大丈夫だ。ちゃんと自分の事はしているから心配しねえでいいよ。それよりそっちはどう?変わりはねぇか?親父も元気にしているんか?」
安雄も同じ様な口調で両親の近況を尋ねた。
「うんだ、こっちもみんな元気だ。そうそう、この間なんて父ちゃんと二泊の旅行に行っただよ。それも奥入瀬渓谷だけんどなぁ」
「ほう、そりぁすげえな。まあ、二人で旅行に行く元気があれば心配ねぇさ。俺もぼちぼちと都会生活をエンジョイしてるけど、もしかしたら近い内に驚く様な話を聞かせる事になるかもしんねえぞ」
「えっ!驚くって何だよ。何かそっちでいい事でもあったんか?ええ安雄よ」
「いやいや、たいした事じゃねぇ。でもちょっとだけ教えるけどな、俺もいよいよ結婚出来るかもしんねぇんだ。もっとはっきりしたら詳しく話すけど、今はただの期待だけだから。まあ、一人よがりで終わるかもしんねえし、大きな事は言わねえけど。あははは」
言い訳しながらも、頭では恵子と結婚出来るものと頑なに思い込んでいた。
「ほう、そりゃあすげぇ事だなぁ」
「まあ、とにかくはっきりしたらまた電話すっからよ。そっちも用事があったら留守電にでも入れておいてくれ。そんじゃ今日はこれで切っかんな」
「ああ分かったよ、じゃあおめえも達者でな。とうちゃんと一緒におめえからの、いい便りを首長くして待ってるから」
母との久しぶりの会話は短く終わった。父親が電話に出ないということは恐らく近くにおらず、いつもの様に畑にでも行っているんだろうと察したが、お袋の元気な声を聞くとやはり電話して良かったと安堵した。
本当は結婚する相手がすでにいるんだと切り出したかった。しかし、早まった事を口走って結果的にダメだったらより大きなショックを与えてしまう。そう考えて出し掛けた言葉を呑み込んだ。
「まあ、その話はいつでも言えるから焦りは禁物だ。今は彼女に思い切って告白するのが最優先すべき事だし、それがものの順序というものだろう。結果を見ずに軽はずみな事は口にすべきではない」
自戒すると同時にこれから始まる一世一代の告白を思い、何か軽い物でも食べておこうと冷蔵庫を覗いたが、買い忘れたのか胃の腑を満たす物は何一つ入ってなかった。
*
「そうか、買い置きがなかったか・・・。仕方ないから、数日前コンビニで購入したインスタント麺で済ますか」
麺をすすりながら、安雄はこれから会う恵子の格好をイメージしたが、それだけでプライバシーを覗き見るかの興奮を覚え、一瞬箸を持った手を止めて小さな溜息をついた。
華奢な肢体を鏡に映し、ブラジャーのホックを嵌めながら今まさに外出の為へ着替えに入ろうとしている。そんな裸体を想像しただけで鼓動の高まりを知り、思わずカップ麺の容器をテーブルに戻して窓の外を見た。
(いかん、俺はなんて淫らな事を・・・、もっと真面目に考えねばダメだ。彼女はやはり今風のファッションで来るのかな?それともラフなスタイルだろうか。ある程度の想像は出来ても、センスのない俺には若い女の流行なんて分からん。普段からほとんど関心もないから想像も出来ん。ただ、町田君は普段から意外に地味好みのようだから、渋く落ち着いた恰好で現れるかも)
思いを寄せる人への思考は乱れ飛ぶばかりで一向に定まらなかった。それでも、会う場所がホテルである事を考えてラフな格好はないだろうと察し、やはり少し派手気味な淡い色合いのスーツ姿を想像すると、思いを寄せる女性と話せる喜びに笑みを漏らした。
ならば俺もと、安雄はタンスからストライプの派手目のネクタイを掴み取り、滅多に着ないダークグレイのスーツを着込んで、鏡に映る己の全体像にしばし見とれた。
「うん、これでいい。じゃあ、そろそろ行って先に待つ事にするか」
マンションから出て大通りので立ち止り、信号が青に変わるまでぼんやり車の流れを目で追っていたその時だった、突然ポケットの中の携帯がコール音を響かせ始めた。
「はい、清水です」
「もしもし、わたしです。西島です」
何となく声に聞き覚えはあったものの、すぐに相手は思い出せなかった。
「西島って・・・。はて、誰でしたっけ?すいません、ちょっと思い出せないのです」
「あらいやだわ、清水安雄さんでしょ?わたしです、西島育代です。お店で先日お会いしたじゃありませんか」
「ああ、思い出しました。ルパンのママさんですね。どうも、その折は色々とお世話になりました。いえ、声に覚えはあったのですけど、咄嗟に思い浮かばなくてすいません」
「いいんですよ、お店には初めてでしたから無理もありませんわ。それよりちょっと大事な用件でお電話したのです。ほら、いつか石井課長とおみえになった時、清水さんは飲めないお酒を飲んで大分酔ったようで、お財布を忘れて行った事を覚えていませんか?それが今わたし手元にあるのですよ」
「えっ!財布ですか?」
安雄は答えながら、いい気分に酔って部屋に戻った夜の記憶を辿った。
「そうでしたね、言われてみれば確かに忘れたかもしれません。普通の財布は常にポケットで確認してますが、札入れは滅多に持ち出さないんです。ただ、あの日はたまたま個人的な振込みがあったもので持って出たのは事実ですが。でも、わたしはいま外に出ているのではっきりは確認出来ないんですよ」
「間違いないですわ、たった一枚ですけど清水さんの名刺が入ってましたもの。それに携帯電話の番号が裏に走り書きしてあったので、失礼とは思いましたがお電話したと言う訳です。でも中身は触っていませんからご安心を。ふふふ」
「いやぁ、どうも恥ずかしい限りです。大した金額も入ってないし、あの時課長とわたしが支払いで大人気ない行動を取り、その時無意識にテーブルの上にでも置いてしまったのでしょう。そうだ、明日の夕方にでも取りに行きますので、預かっておいてください」
「ええ、しっかりとわたしが管理しておきますからご安心下さい。いつでも清水さんにお返し致しますわ。それではこれで失礼致しますね、いずれまた・・・」
電話を切った安雄はすぐにスーツの上からポケットをまさぐったが、時計を見ると約束の一時まではあと五分に迫っていた。
(町田君はホテルに来ているかもしれないな。気ばかり焦っていたものだから、普段使う財布さえも忘れてしまったみたいだ。てっきり札入れだけはスーツのポケットにあるとばかり思っていたのに、俺としたことがなんとも迂闊だったな。このまま無一文状態でホテルに行き、恥を偲んで彼女にお茶代を払ってもらうか、それとも少しくらい遅れてもいいから一旦部屋に戻り、いつもの財布を取って来るか・・・、さて困ったぞ)
見知らぬ人が自分を避けて通り過ぎて行く。そんな切迫した状況の中で困惑がしばらくつづいたが、呼び付けておきながら彼女を待たせる訳にはいかないだろう。そう決断した安雄は、後日彼女に返せばそれでいいいだうと自分を納得させ、約束の時間だけは厳守しなければと、脇目も振らずホテル目指して歩調を速めた。
告白
ロビーでは祝日という事もあり様々な人間の動きがあった。本来賑やかな場所は性に合わなかったが、とにかく座って恵子を待たねばと椅子に近寄ったその時、「係長!」と、突然背後からそんな呼び掛けが届いた。
「なんだ、町田君だったか。もう来ていたとは驚いたな。ちょっと遅刻したので心配になって急いだけど、先を越されてしまったね」
「わたし、係長が入って来るのをずっと見てましたから」
「そうなのか・・・。でも良かったよ、何とか約束の時間に間に合ってこうして会えたから、正直ほっとしている」
安雄は恵子と目を合わせ、照れながら答えた。
「じゃあ、立ち話も変だから二階の喫茶コーナーに行こうか」
「はい、どこでも結構です」
二人で店に入るとウェイターの案内で窓側の席へ進んだ。
「でも、係長からの突然の電話は本当に驚きました」
椅子に腰を落とすとすぐ恵子はそんな事を口にした。
「そうだろうね、突然だったし済まなかった。そう言えば君のところに電話なんてこれまで一度もした事がなかったよね。今回が正真正銘初めての電話になる訳だから」
「はい、いつも会社では直に話をしていますし、退社してから改めて話す事なんて、今迄に一度もありませんでしたから」
「そうそう、確かにその通りだよ。まして君はまだ独身だもの、僕みたいな者が電話すれば迷惑だろうから」
安雄は強いてそんな言い方をして恵子の反応を窺った。
「いいえ、そんな事はありません。ただ、なかなかそういう機会がなかっただけの事ですから。でも、思えばこんな形でお会いするのもたまにはいいですね。うふふ」
「まあ、僕はいまだに独身だけど、これでも結婚への夢は捨ててないんだよ。チャンスは自分から掴めってよく聞くが、現実は実にシビアだからね」
「あら、係長みたいに優しい人なら、これから幾らでも好きになってくれる人が現われますわ。わたしはいつもそう思ってますもの。大丈夫ですよ、自信を持って下さい」
「そうかい?まあ、それが実現すれば最高に嬉しいんだが、人生ってなかなか自分の思い通りにはいかないものだからね。世の中は得てして皮肉に出来ているけど、夢だけは持ち続けようって言い聞かせている」
謙遜しつつも、安雄は恵子の表情から自分への好意を感じ取っていた。
やがて注文したコーヒーとココアが二人の前に置かれた。
「ところで係長、わたしに話ってなんでしょうか?」
「ああそうだ、肝心な用件からまず入らなければいけなかったね」
「もしかして、わたしが会社を休んだ事と何か関係があるのですか?」
「いやいや、そんな事じゃない。会社を休むのは誰だってある事だからね。それより君が会社を辞めたいと言う理由だ、それを今日聞きたいと思ってね」
「えっ!なぜそれを・・・。あっ分かった、石井課長から聞いたのですね。まったくあの人はおしゃべりなんだから」
「実はそうなんだよ。先日、初めて頼みがあると仕事帰りに誘われてね。君にいま会社を辞められると経理の面で会社は痛手らしく、どうしてもと言うのなら仕方ないけど、出来る事なら代わりが見つかるまで待ってほしい。そう僕に説得してくれないかと懇願されたんだ。それで君にここまで出張って貰ったというのが正直なところだよ」
「そうですか、でも会社を辞めたいというのは別に仕事が嫌だからじゃないんです。確かに辞めたい意思がない訳じゃないんですけど、そこには厳然とした理由があるのです」
「そうか、仕事じゃなくやはり別の理由があったのか・・・」
安雄の言葉を聞いた瞬間、恵子は表情を歪めてその理由を口にする事を躊躇う様子を見せたが、係長だから本当の事を話しますと、言葉を選びながら事実を語り始めた。
その内容はどうも世間によくある男女の秘密事だった。
恵子は入社してすぐ、経理部の藤田部長から何かと誘いを受けたらしく、それを色々な理由で断り続けたが一向に止む気配がなく、一年前くらいから勤めを辞める方向で気持ちを整理し始め、最近になってやっと決心が固まったので退社する事にしたと話した。
彼女の徹底した拒絶で部長もようやく諦めたらしく、ここ数ヶ月は誘いもなく安心しきって仕事に専念していたが、どういう訳か数週間前からまた以前の様なデートへの誘いが始まり、とうとう我慢の限界を超えた事で断腸の思いで決断した。それが正直な理由ですと恵子は話を締めくくった。
藤田部長の女癖の悪さに怒った奥さんは、別居という形で実家に戻ったとの噂も耳にしたが、その代役をわたしがさせられるなんて冗談じゃないと、憤怒の言葉が憎しみの形相で淡々と吐き出された。
「それって、まるでわたしが藤田部長の奥さんの代役そのものみたいじゃないですか、係長もそう思うでしょ?愛人なんてわたしは絶対嫌なんです。女って男のオモチャじゃありませんもの」
「うん、よく理解出来るよ、君の気持ちは。しかしそんな事が起きていたなんて、直接の上司である僕には全然分からなかったな」
「わたしも周囲に知られぬよう極力努力してましたから。それに、あの人は社内では微塵もそういう素振りは見せないのです。それは本当に用心深いというか、石橋を叩いても渡らないくらい慎重な性格だとの噂もあります」
「しかし君はどうするつもりなの、本当にこのまま辞める意思が固いのかい?」
「ええ、出来ればどこかの税理士事務所にでも再就職したいと思ってます。わたしの自慢出来る事は数字に強く、商業簿記での経理に長けているくらいですから」
「あしかけ三年くらいは勤めた事になるのか。しかし、君がいなくなると我が課も火が消えたようで寂しくなるな」
恵子の顔を正視しながら安雄は思わず本音を吐いた。
「ありがとうございます、係長にはいつも本当に良くして頂きました、わたしは心から感謝しているんです。私に限らず課内の女性に対しても特に優しく接してましたから」
そこまでの賛辞を目の前ではっきりと言われると、安雄は嬉しい反面これまで抱いてきた思いを口にする事への躊躇いを覚えた。そして困惑と戸惑いのまま、(告白はどうするんだ?)と自問し、苦しい迷走に入って少しずつ動悸を高めていった。
ただ、彼女の退社への意思は思った以上に固いなと感じ、その事に関しての説得はこれ以上無意味だろうと理解した。
それだけに、この状況でさらに引き止めを強いれば、逆に自分への印象を悪化させるだけで終わってしまう。そんな想定外の悪い結果を危惧して表情を曇らせた。といって、このまま話を終えれば何の為に彼女に会ったのか?単に会社の用件だけのデートで、自分にとっては爪の先ほどの恩恵もなく終わる事になるだろう。そんな結末だけは絶対に避けねばと戒めて無益な思考回路を遮断した。
もともと石井課長の依頼なんて付録だし、目的は結婚前提での付き合いを承諾してもらうことが主眼なのである。それゆえこのまま別れたら後悔だけが残り、いつまでも激しい自己嫌悪に襲われるのは明らかだろう。そんな思いで恵子を見つめ直した時、安雄はさりげなく深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
*
(どうした、いつまでも弱気のまま躊躇っていると肝心な事が先に進まないぞ。今しか言う時はないんだから、勇気を出してぶっかってみろ・・・!)
もう一人の自分が激しく心の奥で叱咤し始めた。その声なき叫びに強く背中を押された安雄は、目の前にあるグラスの水を一息で飲み干して姿勢を正した。
「町田君、いや町田さん・・・、実は僕の一生の頼みを聞いてくれませんか」
「なんですか係長さん、急に真面目な怖い顔であらたまって、一体どうしたのです?」
いつもとは違う安雄を見ながらも、恵子の顔にはまだ笑みが残っていた。
「石井課長に頼まれた事はもちろん事実だし、それに対する答えは君の口から聞いて十分納得した。しかし、これから話す事は僕自身に関する内容ゆえ真剣に聞いてほしい」
「ええ、それは別にいいですけど」
「僕はこの通り見てくれは悪いし頭もイケメンには程遠い。でも結婚に対する自分の理想はしっかりと持っているつもりだし、その夢と希望はいつの日か必ず実現させる自信もある、だから・・・」
「・・・なんでしょう?」
「良かったら、僕と真面目に付き合ってもらえないだろうか?もちろん結婚を前提としての交際は言うまでもないが」
言い終えた時、安雄の心臓はかつて経験した事もないくらい早鐘を打ち始めた。
「係長、何を言うかと思えば、突然すごい事をおっしゃるのですね。わたしびっくりして返す言葉もありません。それってやはりプロポーズと言う事になるのですか?」
「も、もちろんそうだとも。冗談でこんな大切な事を、軽々しく口に出来ないのが僕の性格だからね。僕は以前から君が好きだった。単に上司と部下という関係だけではなく、一人の男として女性である君を常に見ていたんだ。そして、いつかははっきりと自分の気持ちを伝えねばと思っていたし、今日のこの機会に告白しようと数日前から真剣に考えていたんだ。それだけはどうか分かってほしい」
「でも、わたしとは歳の差がありますし、それに・・・」
「それに、なに?君には好きな人でもいると言うのかい?それならそれできっぱりと男らしく諦める事にするが・・・」
「いいえ、そんな人はいません。でも、こういう大事なお話はやはりこの場で即答出来ませんし、少し考える時間がほしいのです」
安雄は当然だと思った。結婚となればお互いを人生の伴侶と認める事であり、この先の長い道のりを一緒に歩いて行く覚悟がいる。ゆえにそう簡単に返事を貰えるとは露ほども思わず、恵子の自分に対する今の気持ちだけが分かればそれで良かった。
「それはもうじっくり考えた上での返事でいいんだ。僕は腹を決めて待つつもりだし、たとえ結果が不本意なものであったとしても、それはそれで男らしく潔い態度を取る覚悟だから、決して君に迷惑は掛けない」
「分りました、それでは勝手ながらお返事はしばらく保留させて下さい」
それを聞いた安雄は満足した表情で何度も頷いた。それでもこのまますぐ恵子と別れるのはどうしても嫌だった。
用件が済み(じゃあ、これで・・・!)というだけなら、何の為にここまで激しくテンションを高めたのか?課長からの依頼は完璧に成し遂げたし、自分の本心も全て正直に告白したんだ。この清々しい気持のまま終わるなんて絶対納得できないぞと思った。
「そうだ町田君、もし良かったら上のレストランで何か食べないかね?僕はそれほど空腹という訳ではないけど、たまには一流の食事を楽しもうじゃないか」
咄嗟に引き延ばすべく考えを思い付いた安雄は、真剣な眼差しで恵子に迫った。
「そうですね、そういえばわたしもお昼はまだですし、少しお腹が空きました。じゃあ遠慮なくお付き合いしますわ」
「よし、決まりだ」
席を立つと安雄は恵子を従えるような格好で歩き出した。そしてエレベーターの中では後ろに立ち、白く細いうなじを静かに見つめながら、この幸せだけは絶対に逃がしたくないからなと、何度も自分に言い聞かせて生唾を飲み込んだ。
このまま縁あって俺の嫁さんになってくれたら必ず幸せにする。そして心から彼女のすべてを愛しつづけよう。さらに俺に出来る事はなんでもしてあげるぞと、未来の家庭像を頭の中に描き終えると、恵子に分からぬよう小さく微笑んだ。
(思うに、考えさせてほしいと言う事は、裏を返せば期待が持てるとも取れる発言だ。その気がなければ、町田君ははっきりした性格だから、嫌ならせ嫌だと迷わずこの場で断るに違いない。それをしないで考える時間を下さいと言ったのは、やはり女性ならではの結婚願望があり、俺に対して気があると思っていいはずだ。ようし、もしかすると願いどおりOKがもらえるかもしれないぞ・・・)
そう思い込んだ瞬間、嬉しさと喜びが混じりあった妄想が一人歩きしていった。
*
レストランに入った瞬間、フランス料理専門の高級な雰囲気に呑まれそうになり、安雄は後悔に似た戸惑いに襲われた。しかし恵子の手前そんな態度はおくびにも出さず、なんとかなるさと己に檄を飛ばして辺りを見回した。
そこは一流のフランス人シェフがオリジナル料理を提供する、世界的権威ある三ツ星レストランだと聞き及んでいた。それを証明するかのように、広い店内は多くのセレブを自負しそうな客がテーブル席を埋めていたが、そんなムードに臆しまいと安雄は虚勢を張って歩を進め、ボーイの案で展望のよい窓際の席へ座った。
「さて町田君、何にしようかね・・・」
恵子を見ながら安雄はメニューを手にしたが、開いた瞬間から高級料理という証の金額に目を見張った。
この様な場所は普段から疎遠であり、料理自体も理解出来ないのは党是だった。
幾分後悔の念に襲われつつも安雄は恵子を一瞥したが、数秒も経たずしてボーイがゆっくりと近寄ると目の前に立ち、「お決まりでしょうか?」と決めゼリフを口にした。
「すいません、ここのお勧めは何でしょうか?」
返事に窮して戸惑う安雄の態度を素早く読み取ったのか、恵子は気を利かせてボーイにそう訊ねた。
「そうですね、この時間でしたらフルコース等がお勧めですが」
「そうですか、じゃあそのコースとやらをお任せします」
「かしこまりました」
ボーイは慇懃に頭を下げて立ち去った。
「係長、いいんですかコースなんて頼んで?きっと高いお金を取られますよ」
「いいさ、いくら本場の料理と言ってもそれ程のものじゃないだろう。それにフランス料理自体が僕には良く分からないからね。まあ、ちょっと軽い昼食と思ったが、これも人生勉強のひとつと思ってじっくり経験する事にしようじゃないか」
「でも、何か悪いみたいです」
「なぁに、それほど気にする事はないよ。それより君はこれから帰ったとして何をする予定なの?休みなんてどう過ごしているのかなって、さっきからそんな事が気になっていたんだけどね」
「わたしの休みの過ごし方ですか?まあ、色々ですね。買い物に行く事もあれば、一日何もせず部屋で好きな歌手のCDを聴いている事も多いんです、わたしって田舎育ちでのんびりしてますから都会の喧騒は大の苦手で、時には怖いと思う事も多々あります」
「それは言えるな。実を言えば僕もそうなんだ。どうしてもあの混雑した新宿や渋谷の雑踏には性格的に馴染めない。何年経っても好きになれないからね。もともと人前に出るのが嫌いだし、一番苦手な事だと思ってるから」
「あら、係長はそんな風には見えませんわ、腰は低いし人当たりはいいですもの。わたしはいつも課の中でさりげなく観察してましたから、間違いありません。ふふ」
「いやいや、それは僕の仮の姿かもしれないよ。あははは」
「係長の田舎はどこなんですか?」
「僕の田舎?どこだと思う?実は青森の僻地なんだ。冬はとにかく雪が多くて往生するけど、それが子供心に楽しみな部分もあって、良く友達とスキーや雪投げして遊んだよ」
「青森ですか、随分北なんですねぇ・・・。わたしは茨城なんです、同じ田舎者同士でも大分離れてますね。ふふふ」
そんな話を交わしていると、やがて頼んだコースの料理が運ばれて来た。目の前に並んだ料理を見ても特に涎が出るほど美味そうだとの印象も持てず、二人はただ黙って口に運ぶだけだった。ましてや大き目の皿に申し訳程度に盛られた料理は、お世辞にもボリューム充分でなく、これがフランス料理かという程度の認識であっと言うに終わっていた。
最後の料理がウェイターによって下げられた時、安雄はいよいよ現金を持っていない事実を恵子に打ち明けねばと思った。
男としては弁解の余地なき大失態だとあらためて悔やんだが、ここでの代金だけは自分のミスだからと言って済ますわけにはいかないのだ。
こともあろうに食事した後で財布を忘れたなんて男として最大の恥だと思った。それでも現実は言い逃れできない切迫した状況にある。それを認識しながら安雄は恵子がナフキンで口を拭っているのをじっと見つめ、それを口にするタイミングを見計らっていた。
額から油汗が滲みそうな錯覚に慄き、徐々に鼓動の高まりを知って腰が浮きそうな感覚に怯えたが、(大丈夫、ただ一時的に借りるだけだし、明日会社で返せば済む事なんだ。それほどびくびくせず、正直に話せば彼女に分かってもらえる)と静かに深呼吸し、ゴクッと生唾を飲み込んでから口を開いた。
「町田君、実は恥ずかしながら財布を忘れてしまったんだ。いや、弁解になるけど僕自身はそんなだらしない男とは思ってないし、明日会社に行ったら必ず君に返す。だからここの食事代だけど、済まないが一時的に立て替えてもらえないだろうか?」
言いながら安雄は額の汗を手でそっと拭った。
それを聞いた恵子はデザートに伸ばし掛けた手を突然止め、驚愕の面持ちで安雄を見つめ返した。
「ええっ!係長はお金を持ってないのにわたしをこんな場所に誘ったのですか?」
「いや、それはたまたま僕が財布を忘れてしまっただけの事なんだよ。部屋に戻ればちゃんとあるんだから心配しないでほしい。ここに来る途中で忘れた事に気付いたけど、君と約束した時間に遅れてしまうのが心配で戻る時間がないと思い、咄嗟に明日会社で君に返せばいいかなって考えたんだ。とにかくこれは本当の話だから信じてくれないか」
石井課長とルパンに行き、札入れを忘れた事を改めて思い出しながら、安雄は言い訳を口にして恵子に哀願した。
「でも・・・、わたしだってそんなに多くは持って来ませんでしたから、果たして足りるかどうか分かりません。もし足りなかったらどうするんですか?下手をすれば無銭飲食で警察沙汰になる恐れがありますよ」
「嫌だなぁ、脅かさんでくれよ。でも君は幾ら持っているの?それによって考えよう。最悪の場合は責任者を呼んで事情を話せば分かってもらえると思う。それに、ここからなら歩いて数分だから、僕が部屋に戻って取ってくるまで君に残ってもらってもいいしね」
「そう言えば、係長は確か港区にお住まいでしたね。家はこの近くなんですか?」
「家っていうより中古のマンションだけど、ここからなら歩いて十分程度の所だから。緊急の場合は駆けて行けば数分でここに帰って来られるはずだ」
いよいよ窮したらそうすればいいだろう。そう決意して恵子に財布の中身を調べてもらったが、幸いなことに二万以上入っているのを知り、二人で立ち上がると不安な面持ちでレジへ向かった。
「有り難うございました、お会計は消費税込みで一万八千六百三円になります」
それを聞いた安雄はほっとして先に店を出たが、すぐに姿を見せた恵子を見ると、
「ありがとう町田君、感謝するよ。お陰で助かった」と、照れながら礼を述べた。
「はい、わたしもびくびくしてましたが、足りて良かったです」
「本当にありがとう、明日には必ず返すからね。でも、君は出社するだろうね?僕としてはそっちの方が心配だけど」
「ええ、まだ辞表は提出していませんから、明日は出社するつもりです。そして課長に事実は伏せますけど、はっきり辞職の意を伝えようと思ってるんです」
「そうだよね、自分の人生だもの。まして藤田部長のいいなりになるなんて、僕としても絶対反対だ。しっかり意思を通したほうがいいよ」
その言葉に頷いた恵子は、微笑みながら会釈して再び目を合わせた。
「それじゃあ、わたしはこれで失礼致します。それからさっきのお話ですが・・・」
「ああ、僕の事はゆっくり考えてくれればいいんだ。人生における大事な決断だし、返事は急がないから」
聞いた瞬間に恵子は再びペコっと頭を下げ、踵を返して出口へと歩き始めた。
足早に立ち去る後ろ姿を呆然と見送った安雄だが、運が味方すれば結婚までいくかもしれない・・・。そんな淡い希望を抱いて一足遅れでホテルを後にした。
バツイチ
外に出るともう恵子の姿はどこにもなかった。その早さに一瞬唖然となったが、ルパンのママからの電話を思い出し、まずは忘れた財布を取りに行かねばと思った。
付き合い程度の酒は飲めたが、体質的にアルコールは合わず、その手の場所へは自分から進んで行った事は皆無だった。それでも恵子に告白した嬉しさが余韻として残り、いい気分のまま少しくらいは酔ってもいいだろうと足を向けた。
「よし、夕方から飲んで遅くとも十時までに帰れば明日の仕事には影響しまい。どうせいつもの部屋で寂しい時間を持て余すんだ、たまにはハメを外すのもいいだろう。それに今日は町田君に告白した記念すべ日でもある。希望が見える事を祈って酒を楽しもう」
確信はなかったが、何となくいい方向に進むだろうとの感触が気分を高揚させ、これまでのつまらなく味気ない日々が嘘の様に思えたが、告白した事で気持ちの整理もつき、やっと迷路から抜け出たかの喜びで頬を緩めた。
「ついに俺の人生にも春が訪れそうだ。このまま一気に結婚ともなれば、遅ればせながら親孝行も出来るだろう。そして、理想とした家庭を持つ事も夢でなくなるんだ。まだ楽観は禁物だが、町田君の手応えは良かったからな。前向きに返事を待つことにするか」
高ぶった気持ちに酔いながら、安雄は軽快な足取りで地下鉄への階段を下った。
十分ほど乗ると再び地上に出て周りの景色に目をやり、おぼろげな記憶を頼りに店を探し歩いてやっとルパンの看板を見つけた。
「いらっしゃいませ!」
ドアを開けて中に入ると、すぐにカウンターの方からそんな声が届いた。
「どうも・・・」
「あら、誰かと思えば・・。確か清水さんでしたわね」
「はい、先ほどは電話すいませんでした」
「いいえ、どう致しまして。お待ちしていましたわ。でも、今日来るとは思わなかったからちょっと驚きましたけど」
「いや、僕も本当は明日仕事が引けてから寄るつもりでいたんですよ。ママから電話をもらった時はたまたま外に出ていたし、無事に野暮用を済ませたので、そのまま真っ直ぐにここまで来てしまったと言う訳です。でも、本当に助かりました」
「それはどうもご苦労様でした。さあ座って下さい、ちょうど店を開けたばかりでまだ誰もいませんから、時間の許す限りゆっくりしてくださいね」
言われるまま安雄はカウンターの椅子に腰掛けたが、それを見たママは突然腰をかがめて、「はい、お預かり物です」と、黒い札入れを目の前に差し出した。
「どうもすいませんでした、電話をもらうまでは全然気が付かなかったし、札入れなんて滅多に持ち歩かないもんですから、ついうっかりしてしまって・・・」
「そうなんですか?でも、わたしの所に忘れるならちゃんとお預かりいたしますから。ご心配なく。ふふふ」
「すいません、あっ、ビールでもいただこうかな」
言ってから安雄はアケミやマリのいないことに気付き、さりげなくママに訊いた。
「ママ、先日の女の子だけど今日はどうしたの?姿が見えないし、お休みか何か?」
「いいえ、彼女達は六時出勤なのよ。あら、清水さんたらもしかして二人のどっちか気に入ったの、すみにおけないわね。うふ」
「いえいえ、そんなんじゃないですよ。いやだなぁ冷やかして、汗が出ますよ」
腹の内を見透かされた恥ずかしさで安雄は慌てて視線を逸らしたが、ママの目は分かっていると言わんばかりに笑っていた。
「ねえ、こんなこと訊いていいかしら。清水さんって確か独身でしたよね?ごめんなさいね、失礼なことをお聞きして。いえね、もしそうなら誰か意中の女性でもいらっしゃるのかなって思ったものだから」
「ええ、僕はまだ独りなんですよ。なかなか女性に縁がないし、生れつきもてない様に出来てるみたいですから。でも、どうして僕に意中の人がいるのかなんて思ったんですか?その理由が知りたいな」
「理由なんて別にありませんけど、強いて言えば女のカンみたいなものですわ。でも独身の男性って、誰でも一人くらいは密かに思いを寄せる女がいるはずよ。違います?」
「うーん、確かにそれは言えてますね。でも、そんなことよりママこそ若くて綺麗だし、きっとご主人がやきもちをやくんじゃないかって、僕が逆にそう思いますよ」
歳は四十を出たばかりだろうか、きれいに化粧はしていたが、どう見ても肌の色艶は三十代に思えた。
体系だってスレンダーなのに出るべき場所はちゃんと出ており、形のいい鼻や可愛らしい口が女の色香を漂わせている。さらに格好そのものに派手さがなく、それでいて決して地味という訳でもなかった。
スパンコールが店内の照明に煌く洒落た服は、それを身に付ける者のグッセンスさを無言で語り、女性として円熟した好ましさをさりげなく醸し出していたのである。
安雄はママの動きをそれとなく目で追い、服の下に隠された熟れた裸体を可能な限り想像して見た。
(きっと肌はすべすべして手入れが行き届き、むっちりした尻の肉や豊満なバストは、男を虜にする機能を持っているに違いない・・・)
そんなイメージを勝手に膨らませながら、ママの返事を待ち続けた。
「あら、清水さんってお上手ね。でもその質問の答えは残念ながらピンポーンとはいきませんでした。ふふふ」
「えっ!と言うことは・・・」
「そう、わたしはバツイチなんです。結婚という人生の賭けに失敗した女ですから」
「へぇ~そうなんですか、人は見かけでは分からないものですね。僕も今年で三十五になります。でも嬉しいな、今聞いた話が事実なら、僕もママに対してアプローチする権利はある訳ですからね。いやぁ、これは楽しくなってきたぞ」
ママの言ったことは多分嘘じゃない。そう安雄は確信してモチベーションを高めた。
「あら、こんなおばあちゃんより、もっと若くて張りのある女性の方が清水さんはいいんじゃないんですか?中年になるとより若い人が好きになるといいますから」
「いや、それは人によりけりですよ。僕はどっちかというとママの様な熟女がタイプなんです。第一色香が違いますからね、若い女とは比べものにならない」
「あらあら、それじゃあわたしもまだ捨てたものじゃないってことね、ふふふ」
「もちろんですよ、だって本当に綺麗だし、熟年の艶かしい女としての香が充分漂っている感じですから。大抵の男なら誰だってクラクラしゃいます。魅力十分な女性と自信を持って言い切れますよ」
むろんその言葉の裏には安雄なりの期待も含まれていた。
「ねえママ、少し立ち入った質問してもいいかな・・・」
「えっ!いやですよ、あらたまって。何でしょう、怖いわねぇー」
「じゃあ、質問いたします。まずママの歳は幾つなのでしょうか、それと子供さんはいるのか、この二つだけを教えて頂ければ僕としては幸いなんですが」
安雄は照れ隠しのつもりでわざとそんな言い方をしたが、それに対してママは嫌な顔もせず、「年齢は自称四十二よ、ただ数年前別れた前夫との間に中学一年になる男の子が一人いるの」と語った。
むろん、それは当然訊かれた事への答えだったが、安雄はもっとママ自身の事を知りたいと思い、お客がいないのを幸いに頭の中で質問すべき内容を整理し始めたが、その数秒後には突然ドアが開き、数人の男達が大声でわめきながら入ってきた。
それを見た安雄はこれ以上の長居は悪いと立ち上がり、ポケットから出した千円札二枚をカウンターの上に置いた。
「じゃあ、ママ僕はこれで。また近いうちに来ますから・・・」
「あら、清水さんごめんなさいね、いつかまたお話しに来てくださいね。お待ちしてますから・・・。石井課長さんにもよろしくお伝え下さい、ありがとうございました」
それに応えるように右手を挙げて店を出た安雄は、路上で一旦立ち止まって時間を確認し、暗くなった空を見上げながら晴れ晴れとした気持ちで歩き出した。
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