玄洋アヴァンチュリエ

天津石

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Ⅹ 大祭前夜

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 真っ暗な海を、漂っていた。

 冷たい水が、身体を締め付ける。

 なぜ水の中を漂っているのだろう。ほんの僅かに覚醒した自我が、疑念を抱く余力を持たせた。

 足の痛みはない。最後に見た、宝島の石室はどこだろうか。

(凪……)

 声にならない声は水に溶け、泡沫となって消えてゆく。

 暁。

 声が聞こえたような気がした。忘れるはずもない、少年の声だ。

 漂う水の中、ぼんやりとした意識は再び、冥い世界へと溶けていった。

 



「やりたいこと……?」

 朝食の支度をしながら、景子けいこさんは不思議そうに尋ねてきた。

「はい、昨日、宇慶うけいさん――神職のおじいさんから聞いた話なんです」

 景子さんが焼き上げ、包丁で綺麗に切った卵焼きを、大根おろしと一緒に盛り付ける。

「聞くだけ聞くけど……グリル火止めて、ご飯ついで」

「はい。宗像の、お祭りがあるみたいなんですけど……」

 米を茶碗に盛り付け、焼き上がった鮭の切り身を卵焼きの側に添えながら、はしけ祭りのことを話した。

 目的はお祭りを盛り上げることではなく暁を助けることだが、はしけ祭りに協力したいのはその過程であり本心だ。

「良かやなか。暁んこともあるけん、うちもしばらくは店開けられんし」

 景子さんは思ったよりさばさばと答えた。そして洗った糠漬けを切りながら、

「それに、凪くん自身がじっとしていられんっちゃろ」

 包み込むような声で、僕に微笑みかける。

「はい!今日から、協力を呼びかけます!」

 威勢よく返事をする。

「ただし」

 景子さんは釘を刺すように語気を強める。

「毎日ちゃんとうちでご飯食べて、無事に戻ってくること!良かね?」

「はい!」

 三人で囲む食卓で、今日は佐一郎も驚くほどの米を食べた。当然だ。今日から一日歩くんだ。体力をつけないでどうする。

 朝食を済ませ、身だしなみを整えて玄関に向かう。

「無理せんとよ、しっかり毎日帰ってきんしゃい」

「はい!行ってきます!」

 チラシをパンパンに詰めた鞄を手に、勢いよく外に出た。

 あの日を思い出す。暁と競い、あいさつ回りや配達を行ったあの日を。

 今なら分かる。どのように行動するのが最も効率が良いか。

 高く登っていた日はいつの間にか落ちていて、鞄いっぱいに詰めたチラシはあっという間にはけていた。

 一日かけて回った門司港の漁師や荷役たちは、概ね協力してくれるという。しかし船の数は未だ足りない。宇慶は、最低でもあと百五十、出来れば二百隻要ると言っていた。

 多くの協力をもらったと思ったが、現在協力の申し出があるのは、それに対して三十隻。

 絶対的な数が足りなかった。残された数日間で、この数を稼ぐには。

 明くる日、また外に出る。景子さんからもらった会社のリストに片っ端から当たり、協力を募る作戦だ。だが、そう簡単には上手く行かなかった。

 一日が終わってみれば、それはとてつもない徒労だった。そりゃあそうだ。大人が仕事をしている所に子供が訪ねて行って、「祭りのために船を出してください」と言っても十中八九、相手にされない。

 これは僕が大人たちから意地悪をされているのではなく、会社として利益が無いからだ。そんな至極当然のことが理解できてしまったがために、苦しかった。

「佐一郎さん」

「どげんした凪、昨日はあげん威勢良かったんに」

「はは、すみません……」

 どうも眠れず、居間で酒を飲む佐一郎に呼びかけた。

 彼は肩越しにこちらを見て、「まあ座り」と僕を隣に座らせた。

 ぎしぎしときしむ窓とそれにぶつかる雨音が、部屋に響く。

 そんな雨音に任せるように、今日の出来事がぽろぽろとこぼれ出た。

「そうか、うまくいかんか」

 佐一郎は一度、日本酒を流し込んだ。「注ぎます」と僕が酒瓶を手に取ると、「悪いな」と言って嬉しそうにぐい呑みを傾けた。

「まあ仕事なんてそげんもんだ。上手くいくときもありゃあ、いっちょんつまらん日だってあるたい」

 佐一郎から勧められた、鮭とばという鮭を干して作ったつまみは噛めば噛むほど旨味が出てきて絶品だった。

 雨音を聞きながら、すこしだけ沈黙を共有した。

 タキリヒメが消えた日、僕がついていながら娘が行方不明となった時も、佐一郎は僕を責めなかった。でも、思うところが無いわけではないと思う。

 だからこそ、ほんの少しだけ申し訳なかった。それでも僕を家に置いてくれて、自由にやりたいことをやらせてくれる。

 祭りで本当に暁を取り戻すことが出来るなら。

 明日を生きるためには、そんな希望を抱くよりほかなかった。

「まあなんかなし、めげんで続けてみい。仕事でもなんでも、想いが伝わるやつはおるし、結果ば自ずとついてくる」

 佐一郎は僕の頭をわしゃわしゃとかき混ぜるように押さえた。

「大人なんて嫌な事ありゃ酒飲んで寝るだけや。凪、やるだけやってみい。神様は見ようぞ」

 佐一郎が笑う。

 神様。無邪気に笑う、少女の女神が脳裏をよぎった。

 そうだ。こんなところで挫けて居られるか。

「ありがとうございます」

 佐一郎に一礼し、その日は眠りについた。一日中歩き回った疲労はあるが、しっかりと寝て休息に努める。

 結果としては翌日も、良い返事をもらえる会社とは出会えなかった。受付の女性に「担当者へ伝えておきます」と形式上の断り文句を受けたり、「考えてみるよ」と笑ってくれた人は居たが、僕らが友達同士で言うところの「行けたら行く」の領域を超える返事は貰えなかった。

 変化があったのは、三日目の午後。祭りの前日だ。

「……少々お待ち下さい」

 大きなビルの受付でしばし待たされた後に通されたのは、大きな応接室だった。

 沈み込むような座り心地の革製ソファーに腰掛けると、一面ガラス張りの窓からは港湾を行き来する船舶を見下ろせる。

 きっと、空が晴れていれば絶景だっただろう。

相対的に感じる船の小ささが、この場所がいかに高層階に位置しているのかを実感させた。

「おお、君は」

「――社長!」

 開いた扉から現れた、スーツに身を包んだ大男と思わず握手を交わす。競馬場で知り合った、馬主の男だ。たしかに、景子さんから聞いた話だと、大手海運会社の社長だと言っていた。

 これは……行けるかも知れない!

 だが。

「はしけ祭り、ねえ……」

 僕の予想に反して、男の反応は期待したものとは程遠かった。

「君には小倉で助けられた。協力したい気持ちは山々なんだが、会社を動かすとなると話も変わってくる」

「そう、ですか……」

 思わず肩を落とした。

「だが、これは会社所有の船の話だ」

 男は僕を見る。改めて顔をあげると、男はにやりと不敵な笑みを浮かべていた。

「私が個人所有しているクルーザー、貸し出そう。そして、この祭りのことを船主協会に呼びかけて協力を連ねる。私が出来るのは、そこまでだ」

「あ、ありがとうございます!」

 思わず立ち上がり、深く一礼する。

「頑張りなさい。私は君を、個人的に応援しているよ」

「はい!」

 今までの疲れが吹き飛ぶような、嬉しい出来事だった。

 それからというものの、波に乗ったような感覚は談話を加速させ、協力してもらえる会社が少しずつ、指折り数えるほどだが現れた。

 そんな絶頂の最中、訪問した会社を出ると景子さんから不在着信があった。折り返しても出なかったので電話を切ると、すぐに折り返しの電話がかかってきた。

『凪くん!すぐ戻ってきて!』

「な、なんでですか?」

 切迫した声の景子さんの声に、冷たい恐怖を覚える。不穏に鳴る心臓が安寧へと向かったのは、次の言葉を聞いてからだった。

『電話番が足りんの!お祭りの船、集めたいんでしょ!』

 その言葉が、一筋の光芒となって心の暗雲を切り裂いた。気がつけば、人目を気にせず全力で駆けていた。

 息が切れそうだ。それでも走る。一刻も早く、一本でも多く電話を取るんだ。

 景子さんから言われるがままに事務所に戻ると、景子さんと残りのスタッフが鳴り止まない電話を次々と取っていた。

「これは……」

「凪くん!そこの席座って!電話取って協力してくれる人・会社、メモしんしゃい!」

「は、はい!」

 どうやら突っ立っている暇は無さそうだ。協力を申し出てもらえる人がこんなに居るとは。

 時間も忘れて、鳴り響く電話を次々と取った。いくつもの協力の申し出。その反響はすさまじく、電話が鳴り止んで集計を終えると、協力してもらえる船は、ゆうに百隻を超えていた。

「すごい……」

 思わず呟く。後から知ったことだが、馬主の男による呼びかけがまたネットニュースとなって拡散され、結果的に反響が増えたのだという。

 しかし、依然目標の百五十という数字には、数十隻単位での不足があることが明らかだった。

「十分すぎるほど協力はもらえるはずなのに……」

 己の力不足を嘆いた。やはり時間が足りない。はしけ祭りの開催は明日の正午だ。

 もうどうしようもない。自分の至らなさに、思わず頭を抱え込んだ。

「なんば湿気た顔しとる」

 そんな僕の頭をがしっと抑えられた。顔をあげると、佐一郎はにやりと、僕を見つめた。

「目標達成出来んでどげんしよう、なんてことば考えとうっちゃろう」

 図星だった。暁を助けるための努力は精一杯やったつもりだ。だが足りなかった。

 宇慶が言った百五十という数字。あと少しという事実が、さらに苦しさを増していた。

「やるだけやったんやろ、なんば悔いる必要があるとか」

 佐一郎は静かに、この上なく心強い言葉を投げかけた。

「お前はまだやるべきことがあるやろ。顔ば上げんね。前向け、前」

「はい!」

 もう一度佐一郎に背中を押され、家を飛び出す。

 白いバンの扉が、待ち構えていたように開いた。





 宗像大社むなかたたいしゃ辺津宮へつぐう。本土に位置する、宗像大社のもっとも大きな社殿だ。

 社務所の空気は、筆舌に尽くしがたい厳かな雰囲気となっていた。今までに見たことのない数の神職の男や巫女さんたちが祭りの準備を行っている。

 一晩中明かりが消えることのなかった社務所の一角で仮眠から目覚めた僕は、未明より着付けのため、小さな別室へと通された。

「今からこれを着てもらう」

 少し埃っぽさを感じる小さな部屋に置かれていたのは、初めて見る装束だった。

 もちろん僕が神道に明るくないというのもあるが、神主さんや巫女さんがこういったものを着ているのは見たことがない。

 というかこの衣装、露出が多くないか……?

「こ、これを……ですか?」

 思わず呟いた。肩から羽織る上衣は足元まで垂れるほど長いものの、その幅は到底身体を隠せる大きさではなく、はかまも脚全体を覆っていない。しかも股側が不自然に大きく開いている。

 腰に巻かれたしめ縄のような帯が辛うじて神道っぽさを出しているが、全体的に見て、さながら民俗的な要素が多く残っているように感じられた。

「古来より伝わる踊り子の装束さ。女神様のもとへ行くのだ、華やかな格好の方が、女神様も喜ばれる」

 宇慶はそう説明しながら、「ほら、脱げ」と僕に促した。

「ぜ、全部ですか?」

「無論だ。神様の前で服装の乱れがあってはどうする」

 大真面目に言う宇慶の手前だが、恥ずかしいものは恥ずかしい。だがその押し問答が無意味であることを理解してしまった僕が観念したようにその身一つまで脱ぎ去ると、宇慶のしわくちゃな手が着付けのために体中を這い、ぞわぞわとした感覚が駆け巡った。

 ほどなくして、腰のしめ縄がぎゅっと結ばれ、完了だと言わんばかりにぽんぽんと肩を叩かれた。

「これが、僕……」

 大きな鏡の前に立ち、自分の姿を確認する。

 踊り子と言うだけあって華やかなその装束は、肌を多く見せてはいるものの奇妙なまとまりを見せ、最初抱いた印象に反して少しだけ「格好いい」と感じてしまった。

「よく似合っているぞ、凪くん」

「そ、そうですかね……」

 少しだけ気恥ずかしい僕に、宇慶はまた呟いた。

「ああ、後は島にて待つ女神様を呼ばうのみよ」

「呼ば……なんですか?」

 聞き慣れない言葉に思わず聞き返す。

「呼ばい、古い言葉で意味するところ求婚よ。それから……」

 わざとらしく、宇慶は僕に耳打ちした。

「なっ……!」

 思わず声を出した僕に、宇慶はなんだかものすごく性格の悪い表情でこちらを見た。

 このすけべじじいめ。顔が熱い。

「宇慶さん!支度終わりました、いつでも出られます!」

「あいわかった!よし、船を出すぞ!」

 宇慶に鼓舞されるように、神職の男たちも大きく声を上げる。

 数百年ぶりの大祭が、まもなく始まろうとしていた。

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