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乾物屋團十郎 下
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どんどこどんどこどんどんどん
どんどこどんどこどんどんどん
微かに、遠くの方で太鼓を叩いている音がします。今時分に妙なこともあるもんだなと思っていますと徐々にその音が近付いて参ります。
どんどこどんどこどんどんどん
どんどこどんどこどんどんどん
こんな時間にお囃子の練習、なんざあるわけがない。聞き間違いかとも思ったがどうやらそうでもない。あれこれ考えている最中にも音は少しずつ近付いてくる。
と、そのうちに音だけでなく丑寅の方角から真っ赤な光がやって来るのが見えました。まるで、小さな日の入りの様な炎の様に赤い光。それが辺りの暗闇を染めながらゆっくり近寄ってくるのです。
そして、遂に上総屋の裏口の前で止まったかと思うと先ほどから鳴り続いている太鼓の音と共に光がすぅっと敷地内に侵入してきました。
「な、なんだいありゃあ」
菊七郎も驚いて背筋を伸ばしましたが、それ以上にもっと驚いたのはその光の正体でした。
そこには暗闇でも煌々と光る女が一人。異様なのはそもそもとして、何よりも目をひいたのがその容姿でした。歌舞伎の連獅子の如き真っ赤なざんばら髪。目も唇も来ている単の着物も全て真っ赤で、まるで焔そのものの様な悍ましいほどの鮮赤でした。
どんどこどんどこどんどんどん
女は手に持った手太鼓をしきりに叩きながらあちこち様子を伺っております。やがて、蔵の中で肩を震わせながら泣きべそをかいている菊七郎を見つけると、太鼓を叩く手を止め不気味にニタァっと笑ったのでした。
「あなうれしや。ふたたび清太郎の血の者におうたぞ。ここでおうたが百年目。今度こそ必ずその肉を屠ってやるぞえ」
いやその恐ろしいこと。何しろ女がニタリと笑った途端、今までの丹精な顔が歪んだかと思うといきなり夜叉の面のごとき恐ろしいものに変化してしまったのです。牛の様な大きくて真っ黒な角。白く尖った牙。そして真っ赤に燃えたぎる全身。もう菊七郎、生きた心地がしません。
「ひえええええ。なんまんだぶなんまんだぶ」
菊七郎は悲鳴を上げながら湯呑みを握りしめます。全身が震えて上手く持てないので今にも水が溢れてしまいそうですがそこは政五郎の言いつけを守ってしっかりと気を取り直します。
「お、鬼の御方、どうやらお間違いではありませんか?あたしは清太郎なんて人知りません」
ようやっと絞り出した声で菊七郎は鬼に話しかけます。鬼は相変わらず太鼓をどんどんと叩きながら蔵へすり足で近付いていきます。
「ほうかえ。では聞くがな。お前は上総屋の男ではないのかえ?」
鬼の口から上総屋の名が出て驚いた菊七郎。即座に「わたくしは上総屋の菊七郎でございます」と正直に答えてしまいました。
「それよ。やはりお前は清太郎の血の者じゃ。あなうれしや。今日こそ積年の怨みをを晴らす日だぞえ」
鬼が纏う焔はいよいよ激しく燃え盛り辺りには熱気が漂ってまいります。
「我は丙午の鬼。お前の祖であるにっくき上総屋清太郎に騙され、我が宝物を奪われた。以来こうして上総屋の惣領が鞍替えする度に、宝を取り返しに来ているのよ」
「宝なんてあたくしは知りません。どうぞこの蔵にあるものはなんでも持って行っていただいて結構なんで、命ばかりはお助けください!」
「今度の惣領はやけに情けないな。しかしそう言うなら宝は返してもらうぞえ」
「へえ、何でもどうぞ。ついでに二、三個くらいならこっそり持って行ってもバレやしませんよははは。なんたってここの蔵には品物の乾物と他の蔵書なんかずいぶん乱雑に置いてあるんですよ。それと言うのも手代の留吉って奴がいるんですがね、ソイツが生意気なガキで。ここの掃除を頼まれるくせにいつも怠けているんですよ。だから」
「黙れ!そんな話はどうでも良い。さっさとそこを退け」
「はいはいそうでございますね」
鬼が怒鳴るので菊七郎はそそくさと椅子を片付けどうぞと促してやる。
鬼が音もなくすぅっと蔵に入ろうとすると、ばちぃっ!と稲妻が落ちた様な音がして鬼の「ぎゃっ!」という叫び声。
驚いて見やると鬼の髪が一部黒焦げになっている。
「口惜しや。この蔵へは入れぬぞえ。何かが邪魔をしているな」
菊七郎が注意深く入口を見てみるとそこにはか細くて黒いしめ縄が張り巡らされておりました。
「もしかしてコイツでございますかね。この黒いしめ縄」
「それじゃ!嗚呼、口惜しや。それはお前たち上総屋の男の髪で編んだものだろうて。我は中に入れん。さあそれを外してくれりゃ。お前なら触れられる」
変わったものが苦手なんだなと思ってしめ縄に手をかけた時、ふと菊七郎思い立ちます。
「いやあ、コイツは外せませんね」
「なんじゃと!」
「だってそうじゃござんせんか。あなたは最初あたくしをとって食おうとしてた。いくらお宝を返して差し上げても、あたくしを食い殺さないって保証はないでしょうに」
菊七郎の挑発的な態度に鬼は怒ったの怒らないの。もう目を吊り上げ歯をガリガリ軋ませとんでもない形相です。
「ぅおのれぃ上総屋!やはりお前も清太郎と同じよ。大嘘つきの盗っ人よ。口惜しい、この手でくびり殺してやりたい」
「さっきから口惜しい口惜しいとおっしゃいますがねえ。なんだか芸がありませんね。他に言葉は知らないんですか」
「きええええええ」
よせば良いのに煽る煽る。先程までの臆病風はどこへやら。鬼が手出しできないとなると良い気なもんです。しかし鬼も伊達に長生きしてませんからね。そこは考えます。
「おのれにっくき上総屋。かくなるうえはこの蔵ごとお前を焼き殺してやるぞえ」
そう言うやいなや、鬼は口から焔を吐き出して蔵に火を付けました。
「ひゃああ」
さあ菊七郎、驚いたのなんの。元々恐ろしい鬼がヤケになったワケですから更に恐ろしい、三倍いや四倍恐ろしい。もしくは五倍か六倍か、ええい持ってけ七倍!末広がりで八倍だ!
ね、しつこいと笑いもおきません。しょうがないんですよ。あたしはね、アレですけど師匠からこう言えって習ってるんですから。
さてとにかく焦っているのは菊七郎。火事にあってもいいように出来ているのが蔵なんですが何しろ尋常の焔ではない。だんだん蔵全体が熱くなって参ります。
「いやだね。ずいぶんと熱くなってきたよ。いやいや。こりゃ参った」
ひいひい言いながら外へ出ようとする菊七郎。しかししめ縄の外へ顔を出した瞬間、真っ赤な鬼がぬっと通せんぼする。
「でてみろでてみろ。でたらすぐさま、頭からバリバリとくろうてやるぞえ」
ひっひっひと気味の悪い笑い方をする鬼を見て菊七郎は再び芯から震え上がります。身体の方はカッカと熱くなってきているのに冷や汗は止まりません。
あゝ、こんな事なら変に鬼を煽ったりしなきゃ良かった。あのまま黙って座っていれば良かった。お前は調子に乗りすぎる悪い癖がある、と常々父親に言われていた事を思い出したら、なんだか涙が出てきてしまった菊七郎でございます。
涙が流れ出ると余計に身体が熱くなりまして、頭も朦朧としてきます。元々頭の回転が速い方ではありませんのでこうなってしまうともうどうしようもありません。
「ひっひっひっ。焼けろぉ焼けろぉ。よい匂いぞよい匂いぞ」
目の前では恐ろしい鬼が嬉々として小躍りをしている。こんな最期を迎えるなんて自分の人生はなんとも惨めであったな、と菊七郎はただ茫然とそんな事を思いました。
あわや意識を失う手前。なんだか妙に喉が渇いたなと感じ、ふと手に持っていた小汚い湯呑みを思い出します。こんな状況でも父の言いつけを律儀に守り固く握りしめた湯呑み。周りの熱気もあってか不思議とその湯呑みに入った水が何やら美味そうに見える。
どうせ自分はここで死ぬわけだし、今更お父っつあんの言いつけを守ったとて仕方ない。それに、一滴も溢すなとは言われたが飲むなとは言われていない。こんな最期で死ぬならせめて喉の渇きくらいは癒やして死のう。
そう思い菊七郎は持っていた湯呑みをぐいーーーーーーーーっと飲み干した。いやその水の美味かったこと。
するとその刹那、焚き火に小便をかけたようなじゅうううっという音と共に「ぎゃあああああああ」という鬼のけたたましい悲鳴が聞こえ、辺りが突然元の真っ暗闇に戻りました。
鬼の姿も跡形もなく、辺りはしいんと鎮まり後には静寂だけ。それと同時に安心したのか菊七郎は湯呑みを握ったまま気を失ってその場に倒れ込んでしまいました。
「七!菊七郎!おい!しっかりしなさい!」
聞き覚えのある声で意識を取り戻した菊七郎。いつの間にか自分の部屋で床を敷かれて寝ておりました。
「あれお父っつあん。いつの間に」
「ああ良かった。目が覚めた。いやはや、どうなる事かと肝が冷えたよ」
「お父っつあん!鬼は!真っ赤な鬼が出たんです!鬼はどうなりました!?」
「全部分かっているさ。あたしもアレに会った事がある。でももう大丈夫だ。お前は無事にアレに打ち勝った。もう心配ないよ」
「やはりご存知だったんですね。お父っつあんあの湯呑みはなんです?何故水を飲んだら鬼が消えたんです?」
「アレはな。お前のひいひいひいひい祖父さんが博打であの鬼から取り上げた『鬼祓いの湯呑み』という宝物だ」
「なんだか格好の悪い名前ですね」
「宝物にケチをつけるな。あの湯呑みは中に水を注ぎいでひと口飲めばたちどころに邪を祓うというありがたいものだ。そのおかげでお前は見事生き残った」
「でもお父っつあん。あんまり人が悪いですよ。あたしは何ひとつだって教えてもらってませんよ。たまたま水を飲んだからいいものの。一歩間違えたらどうするつもりだったんですか」
「いやなに。最初から鬼祓いの宝物だと教えるとお前のことだからまた調子に乗ると思ってな。しかし飲めと教え忘れたのは私のうっかりだった」
「うっかりって。お父っつあん!うっかりで自分の大事な息子を殺す親がいますか!」
「死んでないだろ?」
「冷たいねこの人は」
「商売人というのは時々冷酷な位がちょうど良いのだよ」
「はあ全く。自分の親ながら恐ろしい人だよ」
「まあとは言え無事に試練が終わったんだ。これでお前も立派な上総屋の男さ。心なしか男っぷりが増した気がするね」
「本当かね。しかしお父っつあん、ひとつ分からない事があるんですが」
「なんだい?」
「いえね。水を飲めと言うのを忘れたというのは分かるんですが、例の鬼祓いの湯呑みは水をひと口飲めばたちどころに効果が出るんですよね」
「その通りだ」
「じゃあなんで、一滴も水をこぼしちゃいけないと。そう仰ったんですか?」
「そりゃあお前そうだろう」
「どうしてです?」
「だってウチは乾物屋だろ?蔵に水をこぼしちゃあ…」
品物が濡れて駄目んなっちまう
日本橋上総屋、江戸の時分のお話です。
了
どんどこどんどこどんどんどん
微かに、遠くの方で太鼓を叩いている音がします。今時分に妙なこともあるもんだなと思っていますと徐々にその音が近付いて参ります。
どんどこどんどこどんどんどん
どんどこどんどこどんどんどん
こんな時間にお囃子の練習、なんざあるわけがない。聞き間違いかとも思ったがどうやらそうでもない。あれこれ考えている最中にも音は少しずつ近付いてくる。
と、そのうちに音だけでなく丑寅の方角から真っ赤な光がやって来るのが見えました。まるで、小さな日の入りの様な炎の様に赤い光。それが辺りの暗闇を染めながらゆっくり近寄ってくるのです。
そして、遂に上総屋の裏口の前で止まったかと思うと先ほどから鳴り続いている太鼓の音と共に光がすぅっと敷地内に侵入してきました。
「な、なんだいありゃあ」
菊七郎も驚いて背筋を伸ばしましたが、それ以上にもっと驚いたのはその光の正体でした。
そこには暗闇でも煌々と光る女が一人。異様なのはそもそもとして、何よりも目をひいたのがその容姿でした。歌舞伎の連獅子の如き真っ赤なざんばら髪。目も唇も来ている単の着物も全て真っ赤で、まるで焔そのものの様な悍ましいほどの鮮赤でした。
どんどこどんどこどんどんどん
女は手に持った手太鼓をしきりに叩きながらあちこち様子を伺っております。やがて、蔵の中で肩を震わせながら泣きべそをかいている菊七郎を見つけると、太鼓を叩く手を止め不気味にニタァっと笑ったのでした。
「あなうれしや。ふたたび清太郎の血の者におうたぞ。ここでおうたが百年目。今度こそ必ずその肉を屠ってやるぞえ」
いやその恐ろしいこと。何しろ女がニタリと笑った途端、今までの丹精な顔が歪んだかと思うといきなり夜叉の面のごとき恐ろしいものに変化してしまったのです。牛の様な大きくて真っ黒な角。白く尖った牙。そして真っ赤に燃えたぎる全身。もう菊七郎、生きた心地がしません。
「ひえええええ。なんまんだぶなんまんだぶ」
菊七郎は悲鳴を上げながら湯呑みを握りしめます。全身が震えて上手く持てないので今にも水が溢れてしまいそうですがそこは政五郎の言いつけを守ってしっかりと気を取り直します。
「お、鬼の御方、どうやらお間違いではありませんか?あたしは清太郎なんて人知りません」
ようやっと絞り出した声で菊七郎は鬼に話しかけます。鬼は相変わらず太鼓をどんどんと叩きながら蔵へすり足で近付いていきます。
「ほうかえ。では聞くがな。お前は上総屋の男ではないのかえ?」
鬼の口から上総屋の名が出て驚いた菊七郎。即座に「わたくしは上総屋の菊七郎でございます」と正直に答えてしまいました。
「それよ。やはりお前は清太郎の血の者じゃ。あなうれしや。今日こそ積年の怨みをを晴らす日だぞえ」
鬼が纏う焔はいよいよ激しく燃え盛り辺りには熱気が漂ってまいります。
「我は丙午の鬼。お前の祖であるにっくき上総屋清太郎に騙され、我が宝物を奪われた。以来こうして上総屋の惣領が鞍替えする度に、宝を取り返しに来ているのよ」
「宝なんてあたくしは知りません。どうぞこの蔵にあるものはなんでも持って行っていただいて結構なんで、命ばかりはお助けください!」
「今度の惣領はやけに情けないな。しかしそう言うなら宝は返してもらうぞえ」
「へえ、何でもどうぞ。ついでに二、三個くらいならこっそり持って行ってもバレやしませんよははは。なんたってここの蔵には品物の乾物と他の蔵書なんかずいぶん乱雑に置いてあるんですよ。それと言うのも手代の留吉って奴がいるんですがね、ソイツが生意気なガキで。ここの掃除を頼まれるくせにいつも怠けているんですよ。だから」
「黙れ!そんな話はどうでも良い。さっさとそこを退け」
「はいはいそうでございますね」
鬼が怒鳴るので菊七郎はそそくさと椅子を片付けどうぞと促してやる。
鬼が音もなくすぅっと蔵に入ろうとすると、ばちぃっ!と稲妻が落ちた様な音がして鬼の「ぎゃっ!」という叫び声。
驚いて見やると鬼の髪が一部黒焦げになっている。
「口惜しや。この蔵へは入れぬぞえ。何かが邪魔をしているな」
菊七郎が注意深く入口を見てみるとそこにはか細くて黒いしめ縄が張り巡らされておりました。
「もしかしてコイツでございますかね。この黒いしめ縄」
「それじゃ!嗚呼、口惜しや。それはお前たち上総屋の男の髪で編んだものだろうて。我は中に入れん。さあそれを外してくれりゃ。お前なら触れられる」
変わったものが苦手なんだなと思ってしめ縄に手をかけた時、ふと菊七郎思い立ちます。
「いやあ、コイツは外せませんね」
「なんじゃと!」
「だってそうじゃござんせんか。あなたは最初あたくしをとって食おうとしてた。いくらお宝を返して差し上げても、あたくしを食い殺さないって保証はないでしょうに」
菊七郎の挑発的な態度に鬼は怒ったの怒らないの。もう目を吊り上げ歯をガリガリ軋ませとんでもない形相です。
「ぅおのれぃ上総屋!やはりお前も清太郎と同じよ。大嘘つきの盗っ人よ。口惜しい、この手でくびり殺してやりたい」
「さっきから口惜しい口惜しいとおっしゃいますがねえ。なんだか芸がありませんね。他に言葉は知らないんですか」
「きええええええ」
よせば良いのに煽る煽る。先程までの臆病風はどこへやら。鬼が手出しできないとなると良い気なもんです。しかし鬼も伊達に長生きしてませんからね。そこは考えます。
「おのれにっくき上総屋。かくなるうえはこの蔵ごとお前を焼き殺してやるぞえ」
そう言うやいなや、鬼は口から焔を吐き出して蔵に火を付けました。
「ひゃああ」
さあ菊七郎、驚いたのなんの。元々恐ろしい鬼がヤケになったワケですから更に恐ろしい、三倍いや四倍恐ろしい。もしくは五倍か六倍か、ええい持ってけ七倍!末広がりで八倍だ!
ね、しつこいと笑いもおきません。しょうがないんですよ。あたしはね、アレですけど師匠からこう言えって習ってるんですから。
さてとにかく焦っているのは菊七郎。火事にあってもいいように出来ているのが蔵なんですが何しろ尋常の焔ではない。だんだん蔵全体が熱くなって参ります。
「いやだね。ずいぶんと熱くなってきたよ。いやいや。こりゃ参った」
ひいひい言いながら外へ出ようとする菊七郎。しかししめ縄の外へ顔を出した瞬間、真っ赤な鬼がぬっと通せんぼする。
「でてみろでてみろ。でたらすぐさま、頭からバリバリとくろうてやるぞえ」
ひっひっひと気味の悪い笑い方をする鬼を見て菊七郎は再び芯から震え上がります。身体の方はカッカと熱くなってきているのに冷や汗は止まりません。
あゝ、こんな事なら変に鬼を煽ったりしなきゃ良かった。あのまま黙って座っていれば良かった。お前は調子に乗りすぎる悪い癖がある、と常々父親に言われていた事を思い出したら、なんだか涙が出てきてしまった菊七郎でございます。
涙が流れ出ると余計に身体が熱くなりまして、頭も朦朧としてきます。元々頭の回転が速い方ではありませんのでこうなってしまうともうどうしようもありません。
「ひっひっひっ。焼けろぉ焼けろぉ。よい匂いぞよい匂いぞ」
目の前では恐ろしい鬼が嬉々として小躍りをしている。こんな最期を迎えるなんて自分の人生はなんとも惨めであったな、と菊七郎はただ茫然とそんな事を思いました。
あわや意識を失う手前。なんだか妙に喉が渇いたなと感じ、ふと手に持っていた小汚い湯呑みを思い出します。こんな状況でも父の言いつけを律儀に守り固く握りしめた湯呑み。周りの熱気もあってか不思議とその湯呑みに入った水が何やら美味そうに見える。
どうせ自分はここで死ぬわけだし、今更お父っつあんの言いつけを守ったとて仕方ない。それに、一滴も溢すなとは言われたが飲むなとは言われていない。こんな最期で死ぬならせめて喉の渇きくらいは癒やして死のう。
そう思い菊七郎は持っていた湯呑みをぐいーーーーーーーーっと飲み干した。いやその水の美味かったこと。
するとその刹那、焚き火に小便をかけたようなじゅうううっという音と共に「ぎゃあああああああ」という鬼のけたたましい悲鳴が聞こえ、辺りが突然元の真っ暗闇に戻りました。
鬼の姿も跡形もなく、辺りはしいんと鎮まり後には静寂だけ。それと同時に安心したのか菊七郎は湯呑みを握ったまま気を失ってその場に倒れ込んでしまいました。
「七!菊七郎!おい!しっかりしなさい!」
聞き覚えのある声で意識を取り戻した菊七郎。いつの間にか自分の部屋で床を敷かれて寝ておりました。
「あれお父っつあん。いつの間に」
「ああ良かった。目が覚めた。いやはや、どうなる事かと肝が冷えたよ」
「お父っつあん!鬼は!真っ赤な鬼が出たんです!鬼はどうなりました!?」
「全部分かっているさ。あたしもアレに会った事がある。でももう大丈夫だ。お前は無事にアレに打ち勝った。もう心配ないよ」
「やはりご存知だったんですね。お父っつあんあの湯呑みはなんです?何故水を飲んだら鬼が消えたんです?」
「アレはな。お前のひいひいひいひい祖父さんが博打であの鬼から取り上げた『鬼祓いの湯呑み』という宝物だ」
「なんだか格好の悪い名前ですね」
「宝物にケチをつけるな。あの湯呑みは中に水を注ぎいでひと口飲めばたちどころに邪を祓うというありがたいものだ。そのおかげでお前は見事生き残った」
「でもお父っつあん。あんまり人が悪いですよ。あたしは何ひとつだって教えてもらってませんよ。たまたま水を飲んだからいいものの。一歩間違えたらどうするつもりだったんですか」
「いやなに。最初から鬼祓いの宝物だと教えるとお前のことだからまた調子に乗ると思ってな。しかし飲めと教え忘れたのは私のうっかりだった」
「うっかりって。お父っつあん!うっかりで自分の大事な息子を殺す親がいますか!」
「死んでないだろ?」
「冷たいねこの人は」
「商売人というのは時々冷酷な位がちょうど良いのだよ」
「はあ全く。自分の親ながら恐ろしい人だよ」
「まあとは言え無事に試練が終わったんだ。これでお前も立派な上総屋の男さ。心なしか男っぷりが増した気がするね」
「本当かね。しかしお父っつあん、ひとつ分からない事があるんですが」
「なんだい?」
「いえね。水を飲めと言うのを忘れたというのは分かるんですが、例の鬼祓いの湯呑みは水をひと口飲めばたちどころに効果が出るんですよね」
「その通りだ」
「じゃあなんで、一滴も水をこぼしちゃいけないと。そう仰ったんですか?」
「そりゃあお前そうだろう」
「どうしてです?」
「だってウチは乾物屋だろ?蔵に水をこぼしちゃあ…」
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