煙十朗奇譚

三文士

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烏の濡れ羽編 その2

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 最初に怪異が起きたのは十日ほど前だった。屋敷に勤める若い女中のおきぬが、妙なことに行き当たった。

 いつものように屋敷の中を掃除していたおきぬは、何処かの部屋からカラスの鳴き声を聞いたというのだ。とはいえ、最初はさほど驚かなかった。何しろ広い屋敷なので、窓を開け放したすきにいたずらな烏が侵入してきたのだろう、とでも思ったらしい。

 田舎育ちのおきぬは烏なんてへいちゃらだったから、早いところ見つけて、棒でツッ殺してやろうと思ったそうだ。

 しかし不思議なことに、屋敷の部屋を隅から隅まで見ても烏は見つからない。鳴き声だけが不気味に響くのである。

「カァー、カァー」と。

 にわかに恐ろしくなったおきぬは捜索をやめて女中頭のおせんに泣きついた。おせんは執事に、執事は執事頭、執事頭は主人の妻である、八重子夫人に泣きついた。

 八重子も主人も、肝の小さいごく臆病な気質の持ち主だったので、その日からしばらく夫婦揃って寝られない晩が続いたという。

 そして遂に事件は起きた。

 今から二日ほど前。浅い夢の中にいた主人の枕元に、身の丈が人間ほどもある烏が立っていたというのだ。

 にわかに起きた主人と目が合った烏は「カァー」と不気味にひと鳴きしたかと思うと、その鋭いクチバシで主人の喉元をえぐろうしたのだ。

 すんでのところでそれをかわし、隠して置いた猟銃を構えた時には、すっかり烏は姿を消していたという。

 そうして、半ば半狂乱になった主人から人を伝い、こたびの霧ヶ峰煙十朗きりがみねえんじゅうろうに話がいったのだった。

「もうほとほと困り果てましてね。何しろ私はこう見えて肝の小さな人間なのです。怖くて夜も眠れんのです」

 主人の話を聞く最中も、終始煙十朗は敷島しきしまの紫煙を弄んでいた。

「なんとか、一日も早い解決をお願い致します」

「ふむ。なるほど。ではすぐにでも取り掛かろうじゃないか」

「ありがたや霧ヶ峰先生。では早速明日から屋敷の中を捜索して……」

 はやる主人を手で制し、煙十朗は落ち着きを払った声と一緒に煙を吐き出した。

「いや、今夜からだ。まずは二、三質問に答えてもらう」

「な、なんなりと!」

 煙十朗は主人を椅子に座らせて酒をすすめた。

「まずひとつ。烏以外に鳥の鳴き声は聞こえたかい?」

「いいえ」

「そうかい」

 煙十朗はぽりぽりと脇腹をかきながら首を傾げている。

「ご主人は狩りなんかをやるかい?鴨だの兎だのを撃ったりするアレだよ」

「いいえ!とんでもない。私は気の弱いタチですから。血を見るのが苦手で」

「なるほど。では最近なにか、誤って動物を殺してしまったようなことはなかったかな?」

「それもありません」

「ふうむ。ま、いいだろ」

 主人は怪訝な顔つきで猪口ちょこをテエブルに置く。

「これで何か分かるんですか?」

「まあ色々さ。で、最後に聞きたいんだがご主人」

「はい」

 主人の太った額に汗が滴り、ゴクリ、と生唾を飲み込む音が響く。

「先ほどのかわい子ちゃんはなんて名前で歳はいくつ?いつからここで働いているんだい?」

「アチャー」

 主人は盛大にズッコケた後、本当にこの人で大丈夫なんだろうか、と露骨に心配そうな顔をした。

「ええっと、アレは烏森天音からすもりあまねといいまして。歳は十六かそこらです。ウチで働きだしたのは確か……」

 主人は宙を見上げてあるかなしかの顎をポリポリとかいてみせた。

「そうだ。アレがきたのも十日ほど前です。いや、可哀想な奴です。新しい生活でただでさえ忙しないのに、こんな状態ですから」

「怪異が起きてる最中で天音くんはどんな様子だったか憶えてるかい?」

「天音が?うーん……これと言ってはないですね。落ち着いているふうでした」

「なるほどね」

 煙十朗はもう一本敷島を取り出して口に咥えた。しかし、主人がマッチを擦ろうとするのを手で制したのであった。

「遠慮しようご主人。どうせ火を点けてもらうなら、可愛い子にお願いしたいね」

 主人はああなるほどという顔をして声を上げた。

「おい。天音や!入りなさい」

 その声がかかるとほぼ同時に、烏森天音は部屋に入ってきた。まるで扉の向こうで聞き耳を立てていたような速さだ。

「まるで聞き耳を立ててたような速さじゃないか」

 煙十朗が意地悪くへらへらと笑う。

 天音はまたも頬を紅潮させ、もじもじと黙ってしまった。その姿がまた愛らしく、可憐な少女のようでもある。

「ウヰスキーはどうしたんだ。まったく。何故手ぶらなんだ」

「申し訳ありません」

「まったくお前という奴は。愚図だな」

 主人はそうしてまた、天音の尻を軽く叩いた。

「もういいから。先生の煙草に火を点けて差し上げろ」

 主人からマッチを手渡され、天音はおずおずと煙十朗の寝そべっているソファに近付いていく。

 そしてマッチを擦り、小さな火種を煙十朗の敷島に点けようしたその刹那。煙十朗の手が、天音の両の腕を掴んだ。

 火種はじゅっと音を立てて床に落ちて消えた。


 続く
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