2 / 23
烏の濡れ羽編 その2
しおりを挟む
最初に怪異が起きたのは十日ほど前だった。屋敷に勤める若い女中のおきぬが、妙なことに行き当たった。
いつものように屋敷の中を掃除していたおきぬは、何処かの部屋から烏の鳴き声を聞いたというのだ。とはいえ、最初はさほど驚かなかった。何しろ広い屋敷なので、窓を開け放したすきにいたずらな烏が侵入してきたのだろう、とでも思ったらしい。
田舎育ちのおきぬは烏なんてへいちゃらだったから、早いところ見つけて、棒でツッ殺してやろうと思ったそうだ。
しかし不思議なことに、屋敷の部屋を隅から隅まで見ても烏は見つからない。鳴き声だけが不気味に響くのである。
「カァー、カァー」と。
にわかに恐ろしくなったおきぬは捜索をやめて女中頭のおせんに泣きついた。おせんは執事に、執事は執事頭、執事頭は主人の妻である、八重子夫人に泣きついた。
八重子も主人も、肝の小さいごく臆病な気質の持ち主だったので、その日からしばらく夫婦揃って寝られない晩が続いたという。
そして遂に事件は起きた。
今から二日ほど前。浅い夢の中にいた主人の枕元に、身の丈が人間ほどもある烏が立っていたというのだ。
にわかに起きた主人と目が合った烏は「カァー」と不気味にひと鳴きしたかと思うと、その鋭いクチバシで主人の喉元をえぐろうしたのだ。
すんでのところでそれをかわし、隠して置いた猟銃を構えた時には、すっかり烏は姿を消していたという。
そうして、半ば半狂乱になった主人から人を伝い、こたびの霧ヶ峰煙十朗に話がいったのだった。
「もうほとほと困り果てましてね。何しろ私はこう見えて肝の小さな人間なのです。怖くて夜も眠れんのです」
主人の話を聞く最中も、終始煙十朗は敷島の紫煙を弄んでいた。
「なんとか、一日も早い解決をお願い致します」
「ふむ。なるほど。ではすぐにでも取り掛かろうじゃないか」
「ありがたや霧ヶ峰先生。では早速明日から屋敷の中を捜索して……」
はやる主人を手で制し、煙十朗は落ち着きを払った声と一緒に煙を吐き出した。
「いや、今夜からだ。まずは二、三質問に答えてもらう」
「な、なんなりと!」
煙十朗は主人を椅子に座らせて酒をすすめた。
「まずひとつ。烏以外に鳥の鳴き声は聞こえたかい?」
「いいえ」
「そうかい」
煙十朗はぽりぽりと脇腹をかきながら首を傾げている。
「ご主人は狩りなんかをやるかい?鴨だの兎だのを撃ったりするアレだよ」
「いいえ!とんでもない。私は気の弱いタチですから。血を見るのが苦手で」
「なるほど。では最近なにか、誤って動物を殺してしまったようなことはなかったかな?」
「それもありません」
「ふうむ。ま、いいだろ」
主人は怪訝な顔つきで猪口をテエブルに置く。
「これで何か分かるんですか?」
「まあ色々さ。で、最後に聞きたいんだがご主人」
「はい」
主人の太った額に汗が滴り、ゴクリ、と生唾を飲み込む音が響く。
「先ほどのかわい子ちゃんはなんて名前で歳はいくつ?いつからここで働いているんだい?」
「アチャー」
主人は盛大にズッコケた後、本当にこの人で大丈夫なんだろうか、と露骨に心配そうな顔をした。
「ええっと、アレは烏森天音といいまして。歳は十六かそこらです。ウチで働きだしたのは確か……」
主人は宙を見上げてあるかなしかの顎をポリポリとかいてみせた。
「そうだ。アレがきたのも十日ほど前です。いや、可哀想な奴です。新しい生活でただでさえ忙しないのに、こんな状態ですから」
「怪異が起きてる最中で天音くんはどんな様子だったか憶えてるかい?」
「天音が?うーん……これと言ってはないですね。落ち着いているふうでした」
「なるほどね」
煙十朗はもう一本敷島を取り出して口に咥えた。しかし、主人がマッチを擦ろうとするのを手で制したのであった。
「遠慮しようご主人。どうせ火を点けてもらうなら、可愛い子にお願いしたいね」
主人はああなるほどという顔をして声を上げた。
「おい。天音や!入りなさい」
その声がかかるとほぼ同時に、烏森天音は部屋に入ってきた。まるで扉の向こうで聞き耳を立てていたような速さだ。
「まるで聞き耳を立ててたような速さじゃないか」
煙十朗が意地悪くへらへらと笑う。
天音はまたも頬を紅潮させ、もじもじと黙ってしまった。その姿がまた愛らしく、可憐な少女のようでもある。
「ウヰスキーはどうしたんだ。まったく。何故手ぶらなんだ」
「申し訳ありません」
「まったくお前という奴は。愚図だな」
主人はそうしてまた、天音の尻を軽く叩いた。
「もういいから。先生の煙草に火を点けて差し上げろ」
主人からマッチを手渡され、天音はおずおずと煙十朗の寝そべっているソファに近付いていく。
そしてマッチを擦り、小さな火種を煙十朗の敷島に点けようしたその刹那。煙十朗の手が、天音の両の腕を掴んだ。
火種はじゅっと音を立てて床に落ちて消えた。
続く
いつものように屋敷の中を掃除していたおきぬは、何処かの部屋から烏の鳴き声を聞いたというのだ。とはいえ、最初はさほど驚かなかった。何しろ広い屋敷なので、窓を開け放したすきにいたずらな烏が侵入してきたのだろう、とでも思ったらしい。
田舎育ちのおきぬは烏なんてへいちゃらだったから、早いところ見つけて、棒でツッ殺してやろうと思ったそうだ。
しかし不思議なことに、屋敷の部屋を隅から隅まで見ても烏は見つからない。鳴き声だけが不気味に響くのである。
「カァー、カァー」と。
にわかに恐ろしくなったおきぬは捜索をやめて女中頭のおせんに泣きついた。おせんは執事に、執事は執事頭、執事頭は主人の妻である、八重子夫人に泣きついた。
八重子も主人も、肝の小さいごく臆病な気質の持ち主だったので、その日からしばらく夫婦揃って寝られない晩が続いたという。
そして遂に事件は起きた。
今から二日ほど前。浅い夢の中にいた主人の枕元に、身の丈が人間ほどもある烏が立っていたというのだ。
にわかに起きた主人と目が合った烏は「カァー」と不気味にひと鳴きしたかと思うと、その鋭いクチバシで主人の喉元をえぐろうしたのだ。
すんでのところでそれをかわし、隠して置いた猟銃を構えた時には、すっかり烏は姿を消していたという。
そうして、半ば半狂乱になった主人から人を伝い、こたびの霧ヶ峰煙十朗に話がいったのだった。
「もうほとほと困り果てましてね。何しろ私はこう見えて肝の小さな人間なのです。怖くて夜も眠れんのです」
主人の話を聞く最中も、終始煙十朗は敷島の紫煙を弄んでいた。
「なんとか、一日も早い解決をお願い致します」
「ふむ。なるほど。ではすぐにでも取り掛かろうじゃないか」
「ありがたや霧ヶ峰先生。では早速明日から屋敷の中を捜索して……」
はやる主人を手で制し、煙十朗は落ち着きを払った声と一緒に煙を吐き出した。
「いや、今夜からだ。まずは二、三質問に答えてもらう」
「な、なんなりと!」
煙十朗は主人を椅子に座らせて酒をすすめた。
「まずひとつ。烏以外に鳥の鳴き声は聞こえたかい?」
「いいえ」
「そうかい」
煙十朗はぽりぽりと脇腹をかきながら首を傾げている。
「ご主人は狩りなんかをやるかい?鴨だの兎だのを撃ったりするアレだよ」
「いいえ!とんでもない。私は気の弱いタチですから。血を見るのが苦手で」
「なるほど。では最近なにか、誤って動物を殺してしまったようなことはなかったかな?」
「それもありません」
「ふうむ。ま、いいだろ」
主人は怪訝な顔つきで猪口をテエブルに置く。
「これで何か分かるんですか?」
「まあ色々さ。で、最後に聞きたいんだがご主人」
「はい」
主人の太った額に汗が滴り、ゴクリ、と生唾を飲み込む音が響く。
「先ほどのかわい子ちゃんはなんて名前で歳はいくつ?いつからここで働いているんだい?」
「アチャー」
主人は盛大にズッコケた後、本当にこの人で大丈夫なんだろうか、と露骨に心配そうな顔をした。
「ええっと、アレは烏森天音といいまして。歳は十六かそこらです。ウチで働きだしたのは確か……」
主人は宙を見上げてあるかなしかの顎をポリポリとかいてみせた。
「そうだ。アレがきたのも十日ほど前です。いや、可哀想な奴です。新しい生活でただでさえ忙しないのに、こんな状態ですから」
「怪異が起きてる最中で天音くんはどんな様子だったか憶えてるかい?」
「天音が?うーん……これと言ってはないですね。落ち着いているふうでした」
「なるほどね」
煙十朗はもう一本敷島を取り出して口に咥えた。しかし、主人がマッチを擦ろうとするのを手で制したのであった。
「遠慮しようご主人。どうせ火を点けてもらうなら、可愛い子にお願いしたいね」
主人はああなるほどという顔をして声を上げた。
「おい。天音や!入りなさい」
その声がかかるとほぼ同時に、烏森天音は部屋に入ってきた。まるで扉の向こうで聞き耳を立てていたような速さだ。
「まるで聞き耳を立ててたような速さじゃないか」
煙十朗が意地悪くへらへらと笑う。
天音はまたも頬を紅潮させ、もじもじと黙ってしまった。その姿がまた愛らしく、可憐な少女のようでもある。
「ウヰスキーはどうしたんだ。まったく。何故手ぶらなんだ」
「申し訳ありません」
「まったくお前という奴は。愚図だな」
主人はそうしてまた、天音の尻を軽く叩いた。
「もういいから。先生の煙草に火を点けて差し上げろ」
主人からマッチを手渡され、天音はおずおずと煙十朗の寝そべっているソファに近付いていく。
そしてマッチを擦り、小さな火種を煙十朗の敷島に点けようしたその刹那。煙十朗の手が、天音の両の腕を掴んだ。
火種はじゅっと音を立てて床に落ちて消えた。
続く
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる