その香り。その瞳。

京 みやこ

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(80)SIDE:奏太

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 結局斗輝に抱き上げられた状態で、お風呂場に向かうことになった。
 彼に全身を洗ってもらい、湯船に浸かってのぼせない程度に温まり、脱衣所で髪も体も拭いてもらった頃には、ようやく蕩けた頭の芯が元に戻りつつあった。
 そんな僕の様子の変化を察した斗輝は、たびたび深いキスを仕掛けてきて、僕のことをふたたびグズグズに蕩けさせようとしている。
 舌を絡ませ合うと、ベッドの上で過ごした時のような艶っぽい気分になるけれど、お風呂に入ったことでさっぱりしたため、それほど意識は混濁しない。
 幸せそうな微笑みを浮かべて僕を見つめている彼の視線が照れくさくて、僕はお揃いの部屋着に着替えた斗輝の胸に顔を埋めた。
「……もう、恥ずかしいです」
 モゴモゴと小さな声で伝えたら、僕を正面から抱き締めている彼はフフッと吐息だけで笑う。
「正気に戻ってしまったか。でも、恥かしがり屋の奏太も可愛いから、問題ないけどな」
 そう言って僕の額にチュッとキスをしてから、彼は来た時と同じように僕を横抱きにした。
「あの、もう自分で歩けますよ」
 意識はもちろん、足の筋力も戻ってきたので、普通に歩くくらいなら問題ない。
 それでも、彼は僕を下ろそうとはしなかった。
「奏太が歩けたとしても、俺が抱き上げてはいけないということはないだろ?」
「そうですけど……」
 どうあっても下ろそうとはしないことを理解した僕は、照れくさいながらも彼の首に腕を回してしがみつく。
 このほうが僕の体勢が安定するので、斗輝の負担も軽減されるはずだ。
 しかしながら、彼にとっては腕にかかる負担よりも密着できることのほうが嬉しいらしい。
「こうされると、奏太に頼られているみたいで嬉しいよ」
 ニコニコと笑いながら、斗輝はロビングへと向かった。
 ソファにやってくると、慎重な仕草で彼は僕を座面に下ろす。
「今、飲み物を持ってくる」
「そのくらい、自分で……」
 立ち上がろうとした瞬間、斗輝の右手が僕の髪を優しく撫でる。
「奏太は、大人しく俺に甘やかされていろ。これは命令だぞ、いいな?」
 そう言って、彼は優雅な足取りでリビング出ていった。
「なに、あの命令は……」
 僕は照れくさくなって、ボフンとソファの座面に倒れ込む。
『俺に甘えるな』とか、『もっと俺を甘やかせ』という命令なら分かるけれど、甘えることを強要されるって、今までにされたことがなかった。
 両親や兄姉に甘えるのは家族だから当たり前のことで、僕が疑問に思う前に、皆が先を争うようにして甘やかしてくれていた。
 こんな風に言葉にしてきたのは、彼が初めてのことだ。
「家族以外の、しかもまったくの他人に甘やかされるって、あらためて考えると不思議だなぁ」
 ポツリと呟いたところで、グラスを手にした斗輝がリビングに戻ってきた。
「なんだ?」
 ソファ前に置かれているローテーブルにグラスを置いた彼は、ごく自然な仕草で僕の左隣に腰を下ろす。 
 そして、これまた自然な仕草で僕の腰に右腕を回してソッと引き寄せた。  
「斗輝と僕は、出逢うまで他人だったじゃないですか。それなのに、こうして一緒にいて、目いっぱい甘やかされているのは不思議だなって感じたんです」
 僕の言葉に、彼は切れ長の目をフッと細める。
「たしかに、人の縁というのは不思議なものだ。なにか一つボタンを掛け違えただけで、奏太と俺は出逢うことができなかったかもしれないしな」
「それは番であっても……、なんですよね」
 彼がゆっくりと深く頷く。
「ああ、そうだ。お互いの存在を知らないまま、一生を終えるアルファやオメガは少なくない。だからこそ、番のオメガと出逢ったアルファは、全身全霊で愛情を注ぐんだ。奇跡の出逢いに感謝して」
 斗輝が僕の腰を強く抱き寄せ、僕の左こめかみにキスをした。
「何度も言っているが、奏太への愛情はなにがあっても薄れることはないんだ。安心して、俺の傍にいてほしい」
 その言葉は、僕の心の奥底に潜んでいる不安を感じとってのことではないかと、相変らず勘のいい彼に僕はピクンと肩を震わせる。
 いや、彼は確実に僕の心内を読み取ったのだ。
 だから、念を押すようにそう言ってきたのだろう。
 僕は黙ったまま、彼の胸に寄りかかった。
 彼に愛されていることはちゃんと理解しているのに、時々、言いようのない不安に襲われてしまう。
 さっき、わがままな自分は嫌われてしまうのではないかということが気になってしかたがなかったけれど、今はすぐ不安がってしまうことに、斗輝が呆れてしまうのではないかと気になってしまう。
「ごめんなさい。こんなにも愛されているのに、自分でも、どうして不安になるのか分からなくて……。本当にごめんなさい」
 ポツリ、ポツリと小さな声で心内を吐露したら、また左こめかみにキスをされた。
「奏太。お前が謝ることはなにもないと、何度も言っているだろ」
 僕は、どうしたいのだろう。
 泣き言を口にしたら斗輝が慰めてくれるのを分かっているから、それで安心を得たいのだろうか。
 そんなずるい自分が番で、彼は本当に満足しているのだろうか。
 頭の芯がすっかり冷静さを取り戻すと、胸の奥に仕舞い込んだはずの不安がふいにこみあげてくる。
「でも、こんな僕をいちいち慰めるなんて、面倒ですよね。この先、僕が些細なことを心配していても、放っておいてかまいませんから」
 斗輝と離れられないことは、この数日間で十分すぎるほどに理解していた。
 僕のこれからの人生において、彼の存在は必要不可欠だ。
 しかしながら僕の性格上、何度も何度も同じことで不安を抱くはず。
 現に、さっきからずっとこのことが胸でくすぶっていて、事あるごとにその不安を彼に訴えているのだ。
 そんな僕を間近で目にして『面倒だ、鬱陶しい』と思って遠ざけられるくらいなら、僕が不安から立ち直れるまで距離をおいて構わない。
「だから、僕のこと、嫌いにならないでください」
 彼の広い胸に縋りつきながら黒曜石の瞳を見つめたら、彼は両腕で僕を抱き締めてくる。
「奏太は、まだアルファの本質を分かってないな。それこそ、奏太がうんざりするほどの執着振りだぞ」
 口調は優しいのに、彼の瞳に浮かぶ光がどこか野性味を帯びていた。
 それは、『支配する者』である強さが滲み出ている。改めて斗輝が人々の上に立つ存在なのだと感じた。
 それもあってか、抱き締められていると思った彼の腕は、僕を閉じ込めているようにも感じる。
 ほんの少しだけ威圧的な空気を放つ彼を、僕は大人しく見つめていた。
 斗輝は顔を寄せ、鼻先が触れるほど近くで僕の瞳を覗き込む。
「番であるオメガのことを、いつだって独占したいと本気で思っている。それは奏太という存在だけではなく、奏太が抱く感情さえも把握しておきたいんだ。プラスの感情もマイナスの感情も、ひとつ残らずだ」
 これまでの彼の様子は、不安を感じる僕のことを優しく穏やかに包み込んでくれていた。
 ところが今は、不安ごとあらゆる感情を引きずり出して、僕を頭の先から足の先まで支配してやるという感じだった。
 これまでにない斗輝の様子に、僕は無意識のうちに体を委縮させる
 ただしそれは恐怖心ではないけれど、『上に立つべき絶対的存在』という空気感に圧倒されていた。
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